それは歴史の中に埋もれていった、ありふれた話 隣村に一揆の、謀反の疑いがかかったんが始まりじゃった。
あそこの領主様は元々は好いお人でなぁ。無理な年貢の取り立てはせんし、何ぞ困ってることはないかと、いつも声をかけてくれるような出来た方じゃったんが、一昨年の暮に流行り病でぽっくり逝ってしまってなぁ。
跡を継いだのがぼんくらのドラ息子だったんがよくなかった。
種蒔きや収穫の頃に普請をする言うて男手を取ろうとするわ、年貢が足らんと言うてはあれこれ取り立てようとするわ、あまりにも無茶を言われる。
いくら今までが良くても……いや、今までが良かったからこそ、反発は大きくなるもんじゃろう。
あっという間に関係が悪くなっちまってなぁ。そこに誰ぞ、要らん事を吹き込んだ奴がおったのか、とうとう村一つ取り潰すところまでいっちまった。
なまじっか仙台様が優れたお方じゃったから、それなりの武器だの兵力だのと持っとったのが災いした。
前触れもなく、大げさなくらいの軍勢を引き連れて突然襲ってきたみたいでな、そりゃあもう酷い有様じゃったよ。
男衆のみならず、女子供も年寄りも、片っ端から乱暴されて捕まって、話を聞きつけて様子を見に来た連中まで仲間と疑われて、巻き添えになっちまって。
あそこで揃って首を切られちまった。
死臭の漂う河原を指さして、老人はやりきれないと言った様子で嘆息した。隣村での出来事で、犠牲になった人々の中にはこの老人と親しく言葉を交わした者もいたのだろう。
「それでこんなに酷い事になってしまったんですね……」
老人の痩せた肩に按摩を施しながら、伊作もまたやりきれないと嘆息する。
「弔ってやりたい気持ちはやまやまなんだが、下手に手を出すとご領主様がまた怒るでなぁ」
何もしてやれんのは歯がゆい、とぽつりとこぼす老人の曲がった背を、伊作はただ労わるようにゆっくり撫でた。
伊作がこの村へ来たのは、ここから更に一里ほど東へ行った先にある山に自生する薬草が目当てだった。条件が良いのか、他の場所で採集するよりも質の良いものが採れるので、近くへ来た際には出来るだけ立ち寄るようにしている。
いつもは川のせせらぎが心地よい穏やかな山間の村で、この場所へ来ると凪いで落ち着いた気持ちになれる。大事にしていた場所だった。
ところが、今日はいつもと様子が違う。
陽の光を浴びてきらきらと澄んだ水が流れているはずの川は濁り、腐敗臭が何処からとも無く漂ってくるのだ。
近くで野良仕事をしていた老人に声をかけて聞いてみれば、河原が見渡せる開けた場所へ案内されて、折り重なり野晒しにされた人間だったものの残骸を見せられた。
処刑があってから既に十日ほどが過ぎており、蛆が湧き、死肉をついばむ鳥に荒らされ、腐敗もずいぶん進んでしまっている。
人の命も尊厳も塵芥のごとく軽いのだと、嫌でも思い知らされる光景だった。
「……そういや、うちの村の若ぇのがあそこで化生の類を見たって騒いでたなぁ」
処刑のあった数日後の夜のことだ。
火事場泥棒宜しく、何かしら小遣い稼ぎの出来るものはないかと、死体を漁りに行った馬鹿な男がいたらしい。
怖い物知らずと言えばまだ聞こえは良いかもしれないが、要は馬鹿で無鉄砲の罰当たりな男は、青白い月明かりを頼りに河原へ下りたそうだ。
その日の夜は雲がなく、青白い月明かりは煌々と地上を照らしていた。
暫くは処刑場になった河原の周りを見張り役が行き来していたが、三日も経って遺体に痛みが見え始めた頃にはそれもなくなった。
だから、その夜が好機とばかりに男は出かけていったのだそうだ。
ところが河原へ着いてみると、どうにも濃い霧がかかっている。視界の悪さに舌を打ちつつ、それでも男は首無し死体が折り重なっている場所へ向かおうとした。
それなりに裕福な村だったから、乙名やその家族の着物なら、状態が良ければ幾許かの小遣いにはなろう。他の奴等に先を越されぬうちに、死体の腐敗が進んで汚れがひどくなってしまう前に回収しなければ。
腐敗の始まった死体からは、鼻が曲がりそうな臭いがする。近づくにつれ濃厚になる死臭を少しでも誤魔化そうとして、腰紐に下げた手ぬぐいで鼻と口を覆おうとしたときだった。
川の下流の方からやって来る人影を見たのだ。
被衣のせいで顔は見えないが、どうやら女のように見える。ふらりふらりと何処か頼りない足取りで死体の積み重なる方へ進んでいく。
まさか同じ目的かと慌てたが、人影は首無しの死体ではなく、首の方に用があったらしい。
折り重なる死体の脇を通り抜けて、こちらもやはり野晒しになって無念の表情を浮かべている首が並ぶ辺りを、ゆらゆらと右へ左へ揺れながら進んでいく。
――あぁ、ようやくみつけた……。
川のせせらぎと、時折ざわめく葉擦れの音の隙間から、囁くような低い声がした。
――もんじろう……わたしのかわいい、いとしいおとこ……。
人影はその場に膝をついて、一つの首を取り上げると、大切な宝物のように胸に抱いて、頬を寄せる。
ざわり、とひときわ大きく葉擦れの音がする。雲のない凪いだ夜には似つかわしくない強い風が吹いて、人影が被衣いた小袖が滑り落ちた。長い髪が風に踊る。
――ばかなやつ……おまえひとりなら、にげおおせることなどたやすかっただろうに……。こどもを、たすけようとしただなんて。
風に押し流された霧の向こう側に見えたそれは、ぞっとするほどに美しい女の姿をしていた。
面立ちはえらく整っているが、月明かりに照らされた肌は青白い。抱きかかえた首を愛おしげに見つめる横顔はただ静かに微笑みを浮かべる。
――だが、わたしはおまえのそういうところが、いっとういとおしいんだ……。
青白い指先が、とうに血の気の失せた首を何度も撫でる。閉じられた瞼の下は特に丹念に、何度も何度も。乱れた髪も撫でつけて、整えて、そうして満足気に月明かりの下へその首を掲げると、青白くなった唇へ唇を重ねた。
――あいしている。じごくでもりんねのさきでも、おまえとならばいくばしょはどこだっていいのだ。かならずおいかけるから、まっていてくれ。
女は再び首を胸に抱き寄せて、うっとりと目を閉じる。その横顔は恋人の胸に寄り添う少女のように、幸せそうな微笑みを浮かべていた。
生首にくちづけるなど気味が悪い女だと思うのに、余りにもその姿が美しくて、身動ぎすら忘れて男は惚けたようにその光景に魅入ってしまったという。
どれだけの時間をそうしていたのか、不意に女と目が合った。じい、と男を見据える女の目からは先程の甘やかな雰囲気は消え失せて、温度も感情も伺えない。それがひどく恐ろしかった。
ヒッ、と喉を引きつらせて、男はその場に尻もちをつく。背筋を脂汗が流れ落ちていった。逃げなければならないと思うのに、竦んだ足は男のいうことを全く聞かず砂利を蹴るばかり。
ざわざわと葉擦れの音がいっそう大きく聞こえる。冷たい風が吹き下ろして、空気が冷えていく。再び霧が視界を霞ませて、月明かりが流れてきた雲に遮られた。
夜の闇のいちばん深い場所へ、瞬間突き落とされたような気分であった。首筋を冷たい何かが撫でたような気がして、今度こそ男はかすれた声で悲鳴をあげた。
雲が流れ去り、再び月明かりに照らし出された河原には、もう女の姿は何処にもなかったそうだ。
俺も本人から聞いたんじゃねぇけどな、とそこまで話して、老人は一つ息を吐く。
意気揚々と出かけていったわりには何も持ち帰れなかったのを誤魔化そうとしてでっち上げた話かもしれんわ、と老人はまた呆れたように言うが、伊作にはその話が全くの嘘とは思えなかった。
脳裏に浮かぶのは、旧友の姿だ。
並び立つ背中が頼もしく、そこには確かに特別な絆があったように思う。彼等はあれからどんな道を歩んできたのだろうか。
「色々聞かせてくれて、ありがとうございます」
「いや、こっちこそつまんねぇ話を聞かせちまった。そのうえ肩までほぐしてもらってなぁ」
すっかり楽になったと、皺だらけの顔を更にくしゃくしゃにして、老人は伊作を振り返った。
「いえ、これくらいお安い御用です。それよりも、」
内心の揺れは表に出さず、伊作は老人へ向けて柔らかく微笑む。
「誰に何を聞かれても、ここで僕に会ったこと、話したことは言わないで頂けますか」
「そりゃあ、かまわねぇが……」
「あれも、いつまでもこのままという訳にはいかないでしょう。よそ者が勝手にしたことなら、お咎めはないでしょうから」
怪訝な顔をする老人に、河原に折り重なる死体を指して言う。伊作がしようとしていることに気付いた老人は、泣き笑いの様な顔をして深々と頭を下げた。
「すまんなぁ」
「いいえ、お気になさらず。さあ、もう行って下さい」
促された老人は、何度も伊作を振り返っては頭を下げながら去っていく。
その背中が見えなくなった頃、伊作は河原へ降りた。
それから季節が一つ過ぎようかと言う頃、伊作は件の領主が暗殺され、城が焼けたことを風の噂に聞いたのだった。