夏空に散る「髪、伸びたね」
フィガロの声に振り向くファウストの、ゆるやかにウェーブを描く髪はひとつに束ねられても彼の背中の中心まであった。それはふわりと夏風に揺れている。
「……伸ばしているんだ」
「なぜ?」
「あなた、何度も聞くけど、飽きないの」
「飽きないね。嬉しいから」
ファウストは呆れたような表情を形作ったけれど、すぐにふっ、と微笑みながら、顎にかかる髪の毛をゆったりと耳に掛けた。それはまさに語り継がれる中央の国の聖人らしいうつくしい所作だった。
「しょうがない人」
まだ夜が明けたばかりだというのに、眩すぎる旭光が嵐の谷に生い茂る芝生の全てを照らしている。いつもはそれを避けるように木陰にて土いじりをするファウストを見守るフィガロだったが、今日は珍しく近くにいた。その理由がわからないファウストではない。
「不届き者からあなたの石を護るために魔力を蓄えているんだ」
ファウストの答えをもう何度も聞いている筈なのに、フィガロの胸には毎回新鮮な喜びが湧き上がる。あと百回聞いても飽きない、フィガロはそう思ったけれど、彼にその時間はもう残されていないのも知っていた。
ファウストは鼻の奥がつん、と痛むのを必死に隠しながらフィガロの側へ近寄る。背中に流していた髪の毛の束を胸の前へ引っ張り出すと、フィガロの手を取って、その指に絡ませた。今の長さならばそろそろ頃合いであるだろう。ファウストの魔力が蓄えられたテールは既に数十本ほどの蓄えがある。そして、これが恐らく最後のストックになるだろう。
「切って、フィガロ」
「うん、いいよ。君に尽くすのは好きなんだ」
フィガロはぱちん、と指を鳴らす。ペンキが塗り立てられたばかりのようなまっさらな木製の椅子と、これまた白が際立つもはやベールのような布が現れる。
ファウストはいつものように椅子に腰掛けると、フィガロがふわりと首元から布をかけてやる。そして、これまた魔法で取り出した銀の鋏でぱちり、とテールを切り落として、少しずつ形を整えていった。フィガロは随分と慣れた手付きだった。
「初めて出会った時の君は髪を伸ばしていたけど、魔法舎で再会したらばっさり切っちゃってたじゃない。俺、あの時結構ショックだったんだ。でも、今じゃ逆に長いと落ち着かなくなっちゃった」
「ふうん」
いつものように饒舌なフィガロに対して、ファウストの口数は少ない。下手に話し始めれば、何かがきっかけになって涙が溢れてしまうのではないかと思ったからだ。
「なんでかなあって考えていたんだけど、初めて共に過ごした修行の日々とは比べものにならないくらい、髪の短い君と一緒にいたからなんだって、最近気付いたんだ」
フィガロとファウストが嵐の谷で共に過ごすようになって、幾度も夏が来た。大いなる厄災の異変が去り、魔法舎での日々が終わりを告げた時から、こうしてふたりは身を寄せ合いあって暮らしている。ファウストはもうあの呪い装束を見に纏う事はなくて、クローゼットの奥深くに眠っている。フィガロも白衣の袖に腕を通すことは無くなった。ふたりはいつも、かつて一時期のファウストが凝って糸から造った麻布のシャツを着ている。それらはもう随分と彼らに馴染んだ。
「もしも今、賢者の魔法使いに選ばれたら東の魔法使いとして喚ばれそう」
「北のフィガロの名前を知らない魔法使いも随分増えたよ」
「それでいいよ。俺はただのフィガロで良かったんだ」
そして、ただのフィガロとして死ぬ。その言葉と共に鋏が噛み合わさる音がファウストの耳にするりと滑り込んだ。ああ、アトロポスの鋏よ。もう少しだけ……。ファウストはそう願ったけれど、どうにもならない。
「出来たよ」
ファウストの髪は短く整えられた。彼が立ち上がると途端に、椅子は兎に、布は鳥に、鋏でさえも蜥蜴に姿を変えて、嵐の谷に放たれる。南の国でまだフローレス兄弟が小さい頃はああしてやると喜んだらしく、それが癖になってしまったのだという。
「ありがとう」
「あとこれもね」
フィガロは切り落されたファウストの髪の束に向かって呪文を唱えた。『ポッシデオ』。既にファウストの魔力が十二分に蓄えられているそれに、さらに重ねられたフィガロの魔力。媒体としてはかなり強力なものになった。ファウストは、過保護と思う反面、これさえあればオズを倒すことも出来るかもしれない、と思わず感じてしまうくらいだった。
「……うん、いいくらいかな」
フィガロは一歩踏み出した。
からりとした空気が、抜けるほどの夏空を演出してみせている。その青に向かって手を伸ばすフィガロの姿はまるで飛び立つ前の鳥を思わせた。ファウストはたまらなくなって駆け出す。フィガロは草木を揺らす彼の足音に気付いて振り向くと、かつて見せたことはない、どこまでも穏やかな表情を浮かべていた。
「ファウスト」
「フィガロ――」
彼の命の灯は、いま、潰える。
ファウストはもうフィガロを縛り付けることはできないとわかっている。それでも、両手を伸ばして彼の身体を抱きとめた。フィガロはそれを受け入れて、ゆっくりとファウストの腰と首筋に手を回した。
「きみはこっちのほうがいい」
「……髪?」
「うん。君はきみさ。中央の聖人のファウストでも、東の呪い屋のファウストでもない」
「じゃあ、なに」
「俺のファウスト……どう?」
フィガロは今際の際になってもファウストを試した。しかし、それについてファウストが苛立ちや虚しさを覚えることはもうない。
「うん。いいよ、それで」
「ふふ、ありがとう」
フィガロは腰に回した手を解き、ファウストの指を探す。彼もそれに応えて、ふたりの指が絡まる。そして確かに在る互いの熱を確かめって、ぱきん、とひび割れる音が世界に、響いた。