ふかしぎせいかつよく晴れて寒い日だった。
玄武は寒い手をこすりながら、外で落ち葉掃きをしている雨彦のために茶を淹れた。夫婦湯呑みに湯気と香り立つ緑茶を淹れると茶柱が立ったので嬉しくてそれを早く伝えるために駆け足で外に出た。生垣の向こうに二つの耳を見つけ玄武は胸が弾む。
「アニさん、茶が…」
そこまで言いかけて玄武は一歩出た足を引っ込め、さっと身を生垣に隠す。雨彦の前には見たこともない黒い耳の兎の娘が立っている。雨彦と何か一言二言話すと彼女はふっと笑ったのが見えた。そして、雨彦もそれに釣られて気が緩んだのかぽんぽんと優しく彼女の頭を叩くように撫でた。
ふわっと花が色づいたように彼女は頬を赤らめる。それを見た玄武は耐えられなくなってしまい家に戻った。
廊下を走りながら思うのは悔しさだ。
雨彦と結婚したのは自分なのに、自分が雨彦の奥さんなのに!悔しいのに子供の自分では彼女に勝てる気がしない。そして悔しさはそのまま、彼女の頭を撫でた雨彦に怒りとなって向く。
アニさんもアニさんだ!いつも俺に「俺の嫁さんは良い嫁さんだな」って言う癖に、娘にデレデレしやがって。俺というモノがありながら!
予期せぬ訪問者である「彼女」を迎えにきた別次元の「自分」と共に帰って行くのを見送り、雨彦も自分の細君に会いたくなった。
鼻歌混じりに居間に戻ると、何やら玄武は風呂敷にあれやこれと荷物を詰めていた。
「おや、どこかに出かけるのか?」
声をかけるとじとっとした目をこちらに向けて黙って浴衣を畳んでいる。自分が忘れているだけで出かける約束をしていたのかと昨日を思い返すもやはりそんな記憶はない。
「黒野、教えてくれないか」
玄武はきゅっと風呂敷の両端を結んで包み終えるとそれを抱えて、こう言った。
「雨彦アニさんの浮気者」
浮気?
全く心当たりのない単語を叩きつけられて雨彦は首を傾げる。それがいけなかったのか玄武はますますムスッとしてしまう。
「俺に隠れて若い黒兎にデレデレしやがって…」
そう呟いた声で雨彦はようやく勘違いをされているのだと理解した。
「黒野、誤解だ。あれはな」
「浮気者は皆そう言って言い訳するって本に書いてあったぞ」
「あのなぁ。そもそもお前さんそんな荷物持ってどこに行くんだ」
これは少々意地悪な質問だが、現に玄武には実家という帰る場所は無いし、そもそも血の繋がりがある家族はいない。
「どこでも良いだろ」
先程の「彼女」に明らかに嫉妬している玄武に思わず頬が緩んでしまいそうになる。まだまだ子供だと思っていたが、ちゃんと焼きもちを焼くということが出来るようになっていたとは。荷物を纏めて出ていくと言うのも本で読んだそういう一幕の真似事なのだろう。
「俺は怒ってるんだ。だから、出て行くぞ」
「ならもう一度聞くが、行く当てはあるのかい?」
「朱雀の所で世話になる」
先程教えるつもりは無いと言ったのを忘れて、素直に答えてしまう玄武に雨彦は笑いを噛み殺すのに必死だ。引き留めても良いが、焼きもちを焼いている玄武が可愛らしいし、仲良しの猫又見習いの所に行くのだから実質お泊まり会で危険はない。なので、雨彦は素直に行かせてやることにした。
「じゃあな、アニさん。頭を冷やすんだな」
「ああ、気をつけて行っておいで」
玄関先まで見送られていることに微塵も疑問に思わず雨彦に反省を促した玄武は風呂敷を抱くようにして持ってステステと小走りに出て行った。残された雨彦はとりあえず猫又の親分に玄武が世話になることを伝え、玄武が帰ってくるまでの間、自堕落的に過ごそうとひとまず横になった。
暇だ。退屈だ。
務めが終わったら毎日こうして横になって煎餅を齧ったりしているのだが、今日はやけに暇だ。玄武の夕食を作る足音が聞こえないからなのだろう。
自分も随分と孤独に弱くなったな、と思いつつ天井のシミを数える。しかし、それもすぐに飽きて今頃玄武は何をしているのだろうかと思いを馳せた。
一方その頃の玄武は、雨彦が早くも寂しがっていることなど知らず、自分の作った夕食をかき込む朱雀をニコニコとして眺めていた。
寒い。寝れない。駄目だ。
雨彦は暗闇の中で目を開けたまま布団に入っている。読みでは恐らく明日には玄武は帰ってくるだろうし、そうでなくとも自分が迎えに行くつもりだった。しかし、明日になるために超える夜が長すぎる。
もう無理だ。黒野を迎えに行こう。
雨彦はがばりと布団から跳ね起きると、いそいそと外套を羽織り外に出た。
猫又の親分の屋敷に行くと、見覚えのある草履がきちんと揃えて置かれており、安心感を覚えた。
「なんだい。お前の方が耐えられなかったのか。玄武も世話の焼ける旦那のところに嫁いだもんだな」
夜更けに訪ねてきた雨彦を晩酌中の親分は豪快に笑い飛ばした。恥ずかしい気持ちはあれど早く玄武に会いたい雨彦に親分は奥の部屋で寝てるよと教えてくれた。
言われた通り廊下を早足で歩き奥の部屋の襖を開けると、行燈の光に包まれた部屋で、朱雀に寄り添うように玄武が眠っている。
「世話になるからって夕食作って風呂焚きまでしてくれたんだ。働き者の嫁さんだね」
親分の玄武を褒める声を聞きつつ、雨彦は玄武を優しくゆする。
「黒野」
名前を呼ぶと、耳が片方だけピンと立って雨彦の声を拾う。むにゃむにゃと口を動かすとぼんやりと目を開いた。
「アニさん…?」
「迎えに来たぞ。帰ろう」
「ん〜…」
あれだけ怒っていたのが嘘のように、小さな腕が雨彦の首に伸ばされた。もう昼間のことなど覚えていないに等しいのだろう。雨彦は玄武を抱き上げ、親分から玄武が持ってきた荷物を受け取った。
寝ぼけたままの朱雀と玄武がふにゃふにゃのままで「じゃあな…」「おぅ…」ととりあえず挨拶するのを見守り、雨彦は可愛いお嫁さんを無事に家に連れ帰った。
朝いつも通り鶏の声を聞いて起きた玄武は眠い目を擦りながら、台所に行く。雨彦のために白湯を作り、青菜と油揚げを切って味噌汁に入れる。いつも通りの朝だ。昨日なんで怒ったのかも覚えていない。
出来た朝食を居間に運び、雨彦を起こしに床の間に戻る。
床の間では朝日を嫌うように顔まで布団に被った雨彦が寝ている。
「アニさん起きろ。朝だ」
いつも通り強く体を揺すって起こす。やっぱり中々起きないので、尻尾でも引っ張ろうかと思案していると、ふいにごめんください、という女の声が聞こえた。
こんな朝に誰だろうかと、玄武は疑問に思いながら玄関を開けると、なんとそこには昨日生垣に隠れてこっそりと見た兎の少女が立っている。
「お、おはようございます…」
どうしたら良いのか分からずとりあえず挨拶すると、少女はにこりと微笑み玄武の目の高さに合わせて屈んだ。
「お前がこの世界の俺なんだな」
少女は不思議なことを口走った。どういうことだと思っていると、前触れもなく彼女の後ろに狐面を被った男が現れる。
面を被っていて顔は分からないが、玄武は何故かこれが雨彦であると直感的に理解した。
「アニさん、この子」
「ほぉ、面白い。この世界だと少年なのか」
仮面を被った雨彦はひょいと玄武を抱き上げ、耳を触ったり頬を人差し指で突いてその柔らかさに頷いたりとつぶさに玄武を楽しんでいる。
「やめろ、離せ!」
「そら、くすぐったいだろ」
毛繕いするかのように雨彦の爪の伸びた指が玄武の顎の下や耳の付け根をこしょこしょと意地悪くくすぐって来るので、玄武はむずむずとした感覚が弾けてその気はなくとも生理的に笑いが出てしまう。
「も、アニさ、んぅくっ、やめ、あははは、怒るぞ!ふひひ」
「どうだ、お前さん、俺の所に来るかい?」
「アニさん!何言ってるんだ」
「彼」の提案に驚いた声を出したのは隣の「彼女」の方だ。
「ん?黒野、焼きもちか?なぁに、2人まとめて可愛がってやるさ」
そう言って仮面の雨彦は意地悪に微笑み、片方の腕で「彼女」の腰をそっと抱き寄せる。
「そ、そうじゃなくて…」
真っ赤な顔で否定するが自分から離れたりしないあたりまんざらでもないのだろう。なんだか自分が2人でイチャイチャするためのダシに使われているのではないかと呆れ始めた玄武はタイミング良くぴょいと「彼」ではない、玄武にとっては本物の雨彦に取り返された。
「全く昨日の今日で何用だ?」
人の家の前で仲睦まじくされて呆れているのは雨彦も同じ様だ。
「お礼を言いに来たまでさ」
「調子はもう良いのか?」
「お陰様で」
昨日何があったかを知らない玄武は同じ顔同士で話し合う雨彦を交互に見ている。すると「彼」と仮面越しに目が合い、何かを思いついた笑顔になった。
「俺のせいでお前さんがとばっちりを受けたみたいだな。その詫びをしたいから手を出してくれないか?」
「彼」に促されるままに両の手を差し出すと、ぶわっと湧き出る様に金平糖が出て来た。
「どうだい。もっと出してやろうか?」
手から溢れて地面に落ちてしまう金平糖にあわあわしている玄武を見て嬉しそうに笑ったが、隣の「彼女」からもったいないから瓶に入れてやれと言われ、玄武本人からも勿体ない、2人ではこんなに食えないと言われ、雨彦は渋々指を鳴らして金平糖をガラス瓶に入れた状態に変化させた。
「これで良いか?」
「ありがとう、アニさん。今日は夕ごろに客人が来るからお茶受けにさせてもらうぜ」
こういうちゃっかりしている所はどの世界の玄武であろうと同じ様だ。自分の玄武も間違いなく沢山あるからと客人や近隣の子供達に振る舞うだろう。
雨彦としては玄武だけに楽しんでもらいたいのだが、分け与えずにはいられないのが黒野玄武という存在なのだから仕方ない。呆れた風を装うが、そこに惹かれているともいう。
「お前さんにあげたものでもあるから、お前さんもしっかり食べてくれよ」
「もちろんだ」
玄武は嬉しそうにガラス瓶をきゅっと抱きしめた。その様子に仮面の雨彦は満足そうに頷き、隣にいる彼女の腰に手を回す。
「さてと、礼もできたことだし俺たちはお暇するか」
「ああ」
「戻ったら嫁さんを抱いて二度寝としけこもうかね」
仮面の雨彦も自分を湯たんぽ代わりにして眠る雨彦と同じ事をするのだろうか。そんなことを思いつつ、そういえば2人はどうやって帰るのだろうと気になり手段を聞こうとした。しかしなんとさっきまで2人は確かにいたはずが、目の前から跡形もなく姿が消えている。
「アニさん、2人が」
驚いて雨彦に聞くと雨彦は笑った。
「向こうの俺はより高位の存在らしいから瞬時にあちらの世界に戻れるんだろう」
「アニさんも頑張ればできるのか?」
雨彦に抱き上げられたまま玄武は屋敷の中に戻り廊下を進む。
「こうやって歩いている俺ができると思うかい?」
「無理そうだな」
「手厳しいな、俺の黒野は」
そう苦笑する雨彦の横顔に昨日のことを思い出して少し向こうの自分に嫉妬した。湧き上がるもやもやとした気持ちの行き場が分からず着物の裾をいじる。
「アニさんも俺じゃなくて、あっちの俺の方が良かったか?」
少し困らせてやろうと思って意図的に意地の悪い質問をした玄武に雨彦は驚いて目を瞬かせるもすぐに笑った。そして玄武の小さい額と自分の額を軽く合わせた。
「そんな事ないさ。俺の黒野は今ここにいてくれるお前さんだけさ」
額から伝わる体温がそれが嘘では無いことを教えてくれる。ほっと胸を撫で下ろした様子の幼妻の頭をひと撫ですると、そのまま布団の中に入った。早起きの玄武の枕は布団と一緒にとうに押し入れにしまわれているので、雨彦は枕の半分に頭を乗せ、もう半分に横たえた玄武の頭を乗せる。
「アニさん、また寝るのか?」
「たまには二度寝も悪くないだろ?」
そう言ってみるも玄武は首を傾げてアニさんは毎日二度寝しているだろ、と納得していないようだ。それでも雨彦は笑って流すと玄武に眠りを促すようにとんとんと背中を叩き優しくさすった。
それにつられて次第にうとうととしてくる瞳はあと数分もしてしまえば本当に眠ってしまいそうだ。
「アニさん…あの2人のこと後で教えろよ…」
眠りにつく前の僅かな瞬間に玄武は雨彦にしっかりと説明するように釘刺したので雨彦は苦笑混じりに分かってるさ、と返事をした。返事は玄武に聞こえたかは分からないが、耳が動いたので起きた時にしらばっくれるのは難しそうだ。