たまには甘い息抜きを丁度煙草を吸い終わったところだった。インターホンが鳴って、ドアが開く音がした。アジトに出入りする人間で、そんな律儀なことをするヤツは一人しか心当たりがない。
換気扇から離れてキッチンを出ると、そこには思い浮かべていた人物がちょうど玄関から歩いてきたところだった。
「どうした」
こんな遅くに。そう言外に含ませた言葉の意味は、恐らく正確に伝わったはずだ。終電にはまだ早いが、飲み会ならそろそろお開きしてもいい時間には違いなかった。
「友達と渋谷に来てたんだ。帰るついでにKKの残業を労おうと思って」
ずい、と目の前に突き出された暁人の手には大きめのビニール袋。その中に入っているのは菓子用の化粧箱だ。よく見るとドーナツの写真が印刷された、CMでも見たことがあるドーナツチェーンの箱だった。しかも二箱。恐らく十個以上のドーナツが収められているはずだ。おおかた妹と二人で食べるつもりで買ったのだろうが、明らかに買い過ぎだ。
どう? と暁人が目で訴えてくる。普段なら断るところだが、なんだかそんな気も起きない。たまには甘い息抜きも良いかと、暁人の提案をすんなりと受け入れた。いい加減集中力も切れてきたところだ。
「コーヒー淹れるか?」
「いいよ、ボクがやるから」
KKは座って、少し目を休ませたら。そう言って、ドーナツの化粧箱を渡されたら、特に断る理由もない。
ローテーブルにドーナツの箱を預けて、革張りのソファーに身を沈める。暁人に言われた通り目を瞑ると、酷使した目の奥がじんわりとして涙がにじみ出る。
「今日こそは報告書を仕上げろ」と凛子に詰められ、確かにこれ以上溜め込んだらまずい自覚もあった。観念してデスクに向き合っていたらこんな時間だ。成果としては三つ書き終えたが、まだあと二つ残っている。詰めた本人は絵梨佳が着た途端、仕事を切り上げて帰ってしまって、今のアジトには二人きりだった。
アジトにはインスタントしか置いていないから、コーヒーを淹れるのにそこまで時間はかからない。マグカップを二つ持って来た暁人が、「KKはブラックでいいんだよね」と言いながら隣に座り、カップをローテーブルの上に置く。それからなんだかそわそわした様子でドーナツの化粧箱を開けた。
「どれがいい? フレンチクルーラーにオールドファッション、ハニーチュロにポンデリング、それからエンゼルクリームと…」
つらつらと暁人の口から出てくるのは、ドーナツたちの名前だ。呪文にも聞こえてくるそれらを聞いているだけで、口の中が甘くなるような気がした。
「一番甘くないやつ」
「ならオールドファッションかな。シナモンと普通のがあるけど」
「普通のでいい」
「はいどうぞ」
受け取ったドーナツをまじまじと見つめる。ドーナツを最後に食べたのはいつだったのか、思い出せない。遠慮がちに一口かじりつくと、思い描いていた味と少し違うように感じた。
「……こんなもんだったか?」
「分かるんだ? 少し前にリニューアルしたんだって。ボクは前の方か好きだったかな……あんまり思い出せないけど」
甘いドーナツの味を流し込むように、コーヒーを飲む。やっぱり、もうしばらくはドーナツを食べなくてもいいなと思う。
暁人は手に取ったポンデリングを三口で食べてしまった。次に取ったフレンチクルーラーも二口で消えていく。頬を膨らませてもぐもぐと、美味そうに食べる姿は、いつ見ても、もっと食わせたくなる。いい食べっぷりだ。
二人でドーナツを食べながら、今日の出来事やどうでもいいような事をぽつぽつと話す。暁人が三つ目を食べ終わったところで、オレの手元へ目線を向けた。オールドファッションが三分の一から減っていないことに気付いたのだろう、無理しなくてもいいのにと、笑う。
「KKが全部食べるって言うならいいけど、残りはボクが食べようか?」
「いや、これくらいは食うよ」
そう言って、残ったドーナツを見つめる。ふとした疑問が口をついて出た。
「それにしても、なんでこんなに買ったんだ?」
「どれにしようか悩んで、気づいたら」
その返答に呆れて「そうか」と返すと「うん」と暁人が困ったように笑った。
本当に何の理由もなかったのだろう。店頭に並ぶドーナツを見て、妹や自分の好みを考え、悩んだ挙句に結局たくさん買ってしまった。それだけだ。それで、労いとはいえ一緒に食べる相手に選ばれることは悪くない。
残りのドーナツを口に放り込み、コーヒーで流し込む。口の中には、ドーナツを食べた時特有の甘さと、歯の裏のざらつきが残っている。
「暁人」
「なに、」
クリームを舐めたのか、暁人の唇は濡れている。今キスしたら甘そうだな。そんなことを考えながら、暁人の唇を奪った。