ボーダーライン ついこの前までは陽射しが強かったのに、ここのところ急激に気温は下がってきていた。極端な季節の移り変わりは、体ばかりではなく心になんとなくざわりとした感覚を呼び起こす。
カラーレンズ越しに見る海は空を侵食しているようにも、空が海を覆い尽くしているようにも見える。境が曖昧で分かりづらい。太陽はまだ低いが、水面には朝の光が跳ねている。
もう記憶はだいぶ薄れているけれど、海の近くで育った。海の匂いはいつまでも、慈しまれた幼いおぼろな記憶と重なる。
昨夜抱かれた体がまだだるい。
いつもと同じくとても丁寧に、かつ、いつもよりももっと獰猛に抱かれた。俺もいつもより強く彼を引き寄せた。普段と違う場所での逢瀬に、妙に気持ちが高揚していたのかもしれない。
マンションで会うことはわりとよくある。冷凍庫の作り置きが終わるタイミングをなんとなく把握している程度には、コウジは俺の家に来ている。
ただ、今回のようにどちらかが地方に出ていて、それに合わせてどこかへ泊まるようなことは初めてだった。たまたまうまく噛み合った。偶然、コウジの打ち合わせの道中に、自分のイベントのある都市があった。秘密のミッションを遂行するように、ホテルの一室を取った。
今は少し早めに起きて、ホテルの近くの海に来ている。
波が泡立っては消えてゆく。水の中で静かに砂があとずさりしてゆく。
「ちょっと寒いね」
コウジが言い、少しだけ体を寄せてきた。深くかぶったハットが蜂蜜色の瞳に影を落としている。
「そうだな」
頷く。風が強かった。波打ち際で半分砂で埋まったビニール袋がかさかさと揺れている。
「ちょうだい」
「ん?」
珍しく、コウジがねだった。自動販売機で買った缶コーヒーを渡す。渡すとマスクを下にずらして口を付けた。喉が上下する。
「ありがと」
コウジから返された缶を受け取って自分も一口飲む。じんわりとした温かさが喉を通って体に広がっていく。すぐにマスクを着け直すと、息が眼鏡のレンズを曇らせた。コウジがそれを見て少し笑う。
ふと、コウジがそのまま、こちらから目を離さずにじっと見つめていることに気づく。意図を察し、ゆっくりと辺りを見回す。誰もいないことを確認して、マスクを取り、目を閉じる。軽い口づけが降ってきた。
「コーヒーの味」
コウジが言って、ふたりでくすくすと笑う。ひときわ高い波がやってきて、また戻っていく。
ポケットの中で携帯が震える。見ると「新幹線 8:40」の通知が表示されていた。時間を確認して、すぐにしまう。
「そろそろ行かないと。コウジ、8時15分だろ」
「そうだね」
立ち上がる。これからまた別々の新幹線に乗り、それぞれの仕事をする。
まだシャッターが下りている商店街を、気持ち遅めに歩く。風がさらに強くなる。壁に貼られたポスターの端がたなびく。前を歩くコウジのジャケットの裾も斜めに煽られていた。ハットを押さえる大きな手。
「じゃ、ここで」
「ああ。頑張って」
「ありがと。ヒロもね」
独り言に聞こえるほどの小さな声でコウジが言い、振り返らずに改札に入っていく。俺も見送らず、駅の中のコンビニに入る。あまり迷わずにのど飴とお茶を買い、ポケットに入れた。
新幹線の車内は思いのほかあたたかかった。
飴を一粒口に含み、頬杖をつき車窓に目を向ける。滑るように新幹線が動き出す。
海が見える。さっきコウジといた辺りだ、と思う。太陽はさっきより上がり、いっそう輝きを放っていた。海と重なるように山が見えてくる。眼鏡を少しずらすと、赤色、茶色、黄色の微妙な色々がぼやけた。もう山が色づいているのだった。これから一気に寒くなるだろう。冬が来る。
木々がすこしずつ流れていく。雲の端が風にちぎられる。海が見えなくなってゆく。少し眠気がきて、目を閉じる。
潮騒が遠くで鳴っているような気がした。