シネマとポーク 中等部のころに何回か家には行った。彼の母親は忙しい人でなかなか会えなかったけれど、会えば優しい声を掛けてくれた。こんなふうに自然と会話ができる親子もいるのだな、と驚いたものだった。
人の家に遊びに行ったり、食事をしたり、というのはしたことがなかったから、もしかしたら自分は常識から外れた振る舞いもしていたかもしれない。だけれどいつも、嫌な顔もせずに迎えてくれていた。
「座って」
「懐かしいな」
親子二人で住んでいるのにどこも片付いていて、さっぱりしている。
「お母さん、忙しいだろうに家もきれいですごいな」
「家事は結構僕がやってるけどね」
「コウジも偉いよ。ありがと」
彼がオレンジジュースを目の前に置く。すっとストローとコースターを置く仕草が慣れている人間のそれで、つい感心してしまう。
「母さん、料理はそんなに得意じゃないし」
「そうなんだ」
「食べるほうが好きだよ。ヒロと一緒だね」
オレンジジュースを一口吸い上げて、少し彼を見る。にこ、と微笑まれて少しだけ胸がざわめいた。彼の家。彼の部屋。ここで今日は時間を過ごす。
また一緒にやっていこう、そう約束した。
最初こそぎこちなかったけれど、少しずつ、少しずつ笑い合うこともできるようになってきた。何気ない会話もできるようになってきた。奇跡だと思う。もう二度と親しく言葉を交わすことはないと思っていた。諦めていた。今も、完全に昔と同じ関係ではない。そしてこれからも昔と同じ関係にはなれないのも分かっている。
久々に訪れる彼の家。やはりうれしくて、でも、それを覆うくらいの緊張がある。彼の家のにおいがする。自分の家では感じられないすっきりとしたにおいだ。彼自身は気づいていないのだろう。自分自身が自宅のにおいを分からないのと同じように。何か、自分が異物になったような落ち着かない気分があって、きょろきょろとしてしまう。
「あれっ」
カウンターに写真があった。声を上げて歩み寄ると、あっ、彼が少しはにかんだような声を出す。
な声を出す。
「これ、昔もあった?」
「どうだろう、もしかしたらなかったかも」
彼と、彼の母親と、それと彼の父親が映っている。彼は4、5歳くらいだろうか。こどもだ。父親にくっついて、恥ずかしそうにこちらを見ている。父親も母親も満面の笑顔だった。
「ちっちゃいころだ。かわいいな、照れてる」
「幼稚園のころかな」
「カヅキと一緒だったんだろ」
「うん。もう記憶、断片的だけどね」
父親。インターネットのぼやけた画像や映像で、過去のアーティストとしての姿は見たことがあるけれども、父親としての写真を見たのは初めてな気がする。こうやって見てみると、ロックバンドで激しい音を奏でていたことが信じられないような柔和な顔立ちだった。見比べようとして、彼をちらりと見たら、目が合って微笑まれる。そっくりな笑顔だった。
もしかしたら彼にもいずれ、このようなシーンが訪れるかもしれないのだな、と思うと、何か少し苦しくなって目をそらす。
「似てるね、お父さんと」
「そうかなあ」
「でも、お母さんにも似てる」
「それはよく言われる。ねえ、ご飯作るから座っててよ」
「え、早くない? まだ……5時前だけど」
驚いて時計を見る。
「ローストポーク。焼くのに時間掛かるからさ。下ごしらえだけしちゃえばオーブン入れて、手空くから」
「ローストポーク。おいしそうだな」
「ばっちりおいしくするよ」
促されて、ソファーに座る。ごめんね、ちょっと手持ち無沙汰にさせちゃう、言うのに首を振る。
スマートフォンを取り出して、ぼんやりとゲームの育成画面なんて眺めながら、キッチンの彼を盗み見る。料理のときには、彼は必ずエプロンを着ける。長身にグレーのエプロンがよく似合っている。近くで見たいな、と思うけれど、集中を妨げてしまいそうで我慢する。軽快な、野菜を切る音。ここからは見えないけれども、包丁がすごい速さで動いているのだろう。
かすかに鼻歌が聞こえてくる。本人は気付いているのだろうか。アパートで料理をしてくれるときも、彼はよく歌っている。聞いたことのないメロディだった。でも、彼の中から湧き出ているものなのだろう、方位磁石が必ず北を向くように、どうしようもなく惹かれる。彼の内にあるメロディを全て知っていたい、と思う。
「脂はねるから来ちゃ駄目だからね」
「俺、子供じゃないんだぞ。そんなことしないよ」
「あはは、ヒロ何するか分かんないんだもん」
じゅううううう。いかにも熱そうな肉の焼ける音と、少し遅れてにおいがしてくる。
「おいしそう。フライパンで焼いてる? こういうのってオーブンに入れるんじゃないの」
「焼き目付けたら入れるんだよ」
「ねえコウジ、やっぱりそっち見に行ってもいい?」
「駄目。映画でも探しといてよ。一緒に観よ」
ふう、と息をつき、テレビをつける。料理をしているときの真剣な顔つきとか、手先とか、腕だとか、そういうのがことさらに、このましいのだけれど、と思う。
「映画さ、血いっぱい出るのでもいい?」
「嫌だよ。そのあとポーク食べるんだからね」
「じゃあ血は出ないけれど心理的に怖いやつ」
「なんでそういうのばっかりなの」
「どういうのがいいの」
プログラムを次々と変えながら声をかけていくと彼は笑う。バタン。オーブンを閉める音がした。ピ。ピ。タイマーをセットしているのだろうか。
「オーケー。これで待とうね、2時間くらい」
「あ、ありがと」
手を洗って、エプロンを脱いだ彼が、コーヒーを持って隣に座ってくる。ほんの少しこころがざわめく。彼の体からは微かに玉ねぎと、肉の脂と、シトラスのハンドソープのにおいがする。
「ヒロはどういうのが嫌なの?」
「えー……」
とっさに、ラブストーリーは見たくないと思ってしまった。ハッピーエンドはなおさらだ。映画は終わるものだから、キスをして、スタッフロールが流れれば永遠だ。実際は、それでどうなるっていうんだろう。そのあとも人生は続くのに。
なんでもいいよ、とつぶやいて、リモコンを渡す。
「じゃあこれ見たかったから、これでもいい?」
「ミュージカルか」
「苦手?」
「ううん、そんなことない。普段あまり観ないだけでさ。いいよ、観よ」
「ありがと、あ、もたれちゃっていいんだよ」
前のめりがちになっていた姿勢を指摘される。頷いて、壁面のクッションに体を預けようとしたら、同じように彼が深く座って、体が少し触れる。こころの中のざわめきが強くなる。平静を装って、画面を見つめる。
「劇伴が好きなアーティストでね。いつかこんなふうに映画、携わってみたいな」
「コウジならやれるよ、プロデュースとかもできそうだな」
「そう? ふふ。じゃあヒロも出てね」
「……うん」
触れているところはおかしくないだろうか。彼はまったく気にもしていないようだった。画面に集中し始めている。
コーヒーを一口飲むのに合わせて、少し緊張しながら、不自然にならないように、体重をほんの気持ちだけ彼の体にあずけた。なんにも言われない。さりげなく避けられることもない。安心するのと同時に、どこかで暗く沈むような感覚もある。
映画はとても良くて、オーブンからすごくいい匂いもしてきた。触れ合っているところから、彼のあたたかさを感じる。
映画がクライマックスになったときに、ふと、隣にいる彼の顔を見たら、両方の目から涙が筋となって流れ落ちていった。何か、とてもきれいだけれど見てはいけないものを見てしまった気がして、すぐに目をそらした。
「いい映画だったな」
「ね」
渡された布巾でテーブルを拭きながら言う。彼が持ってきた大きな皿には色とりどりの野菜と、スライスされた薄桃色の肉が載っていて、思わず声を上げる。
「おいしそうだな」
「おいしいよ。スープもあるからちょっと待ってね」
「コウジって本当にすごいな、いろいろできて」
すっかり感心してしまって、あらためて言う。
「ヒロだってなんでもできるじゃない」
「そうかな」
ふわふわと湯気を立てているスープと、それにパンも運ばれてきた。
「えっ、パンも作ったの」
彼は破顔する。
「パンはね、買ったやつだよ。トーストしただけ」
「……びっくりした」
「パンまで作る時間はさすがになかった。でもパン作り、おいしいし楽しいんだよ、粘土みたいだし。今度みんなで寮で作ってみようか」
「面白そう、やりたい」
言うとにっこりとうなずかれる。手洗ってきて、あったかいうちに召し上がれ。言われて、くすぐったいような気持ちになる。
家族って、こんなふうなのだろうか。
「今日楽しかった」
「久しぶりにのんびりしたね」
「明日からはまた忙しいな、でもゆっくりできて良かった、ありがとな」
何をするというわけでもなかったけれど、久しぶりにふたりきりで過ごすことができたのが、結局は、うれしくて仕方がなかった。妙に高揚した気分になっていた。
「映画良かった、ごはんもおいしかった、楽しかった」
「……ふふ、ヒロ、子供みたいだね」
彼はおかしそうに笑う。子供扱いされて、だけれど、そんなに嫌な気持ちではない。
帰るの、嫌だな。
子供のように扱われるなら、それに乗っかって駄々でもこねてみようか。そう思って言いかけた言葉を、すうっと息を吸って、のみ込む。
「じゃ、また明日な」
「うん、気をつけて帰ってね」
「ああ。お休み」
「うん、ヒロ、お休み。明日ね」
自分の顔の筋肉のどこを動かせばどんな表情ができるかなんて熟知している。笑みを作って手を上げた。
夜の南青山の街を歩く。冬の風は冷たくて、街路樹に絡まるイルミネーションはまばゆい光を放っている。あんなにあたたかな空間にいたのに、今は刺すように体が冷たい。
交差点で足を止めた。もし自分がここで急に彼の家に戻ったら、彼はどんな顔をするだろうか。そんな気持ちが一瞬もたげるけれど、すぐに馬鹿なことだと思い直す。
ふいに映画を見ていた彼の静かな涙を思い出した。手を伸ばせば触れられそうなのに、決して届かない、届いてはいけないもの。これからも自分は、この不可思議な感情を彼に抱き続けるのだろうか。
信号が青に変わり、歩き出す。通りを歩く人たちのざわめき、車の短いクラクションの音。ふと、ショーウィンドウに映る自分の姿を見つめる。そこに映っているのは、なんでもない顔をした自分。それがどこか滑稽で、小さく笑ってしまった。