夢魔と香水とままならない感情と。例のラブ飲みドリンク騒動から一週間が経過したある日。事件によってざわついていた周囲はすっかり落ち着いて、日常が戻ってきた頃。
その日の「レストラン・気の向くままに」はいつもと空気が違っていた。
深刻な顔をするアリスと、彼女の女友達が一つのテーブルを囲んでいる。
「あのね、皆にじゃないと相談できないことなの」
一度言葉を切って、息を整える。
「リュカさんに、避けられている気がするの」
「ガウガガウ??(避けられてる?)」
トーンの重さが、アリスの切実さを表していた。
しかし、俄には信じがたい。
「うーん……リュカ君が避けること、あるかなぁ」
「そこよね。ねぇアリス、どうして『避けられてる』なんて思うの?」
「……分かった、そう思う理由をまずは話すね」
一つ頷いて、アリスは事の顛末を語り始めた。
***
それは、昨日まで遡る。その日のアリスは一人、悩んでいた。
(最近……。リュカさんに、避けられている気がする……)
リュカの様子がおかしい。話し掛けても視線は合わないし、用事をお願いしようとしても「予定が合わない」と言われて断られてしまう。
これが一日〜二日程度であれば、「たまにはそういう日もある」と納得しただろう。しかし、それが一週間続くとなったら、流石に疑問が浮かんでくるのだ。
一体どうしてなのか、アリスにはさっぱり分からない。
(何か嫌われることをしたのでしょうか……)
ここ最近、彼に嫌われることをしただろうか。心当たりは――
(麻痺解除薬を切らして、別の薬を飲んだこと、でしょうか)
あれは確かに良くなかった。未知なる薬品を口にして、リュカに大変な迷惑をかけた、らしい。『らしい』なのは薬を飲んだあとの記憶が飛んでしまって、殆ど覚えてないからだ。こってりシモーヌに絞られて反省したので、あれはもう二度とやらない。
きっとリュカにもかなり迷惑を掛けたことだろう。その中で嫌なことをしてしまったのだろうか。
(具体的に何をしたのか分かってないけども……でも、ぎくしゃくしたままなのは嫌だ)
まずは謝ろう。このまま何もしない訳にはいかない。そう決意して、アリスはパトロールへと向かった。
***
いつもの日課をこなし、いつものパトロール巡回も終わりつつある頃。
遠くにパルモ工房が見える。いつもは心が弾むのだが、今日は気分が重い。
(……駄目駄目、しっかりしないと)
今日は外でリュカが仕事をしている。弱気な自分を叱責しながらリュカへ声をかけた。
「リュカさん、おはようござ――」
逸る気持ちが前のめりにさせてしまったのだろうか。足がもつれてバランスを崩してしまった。
それと同時に、がらがらがら、と大きな音が響いた。
「ひゃあぁっっ」
転んで倒れた上に、木材が崩れて散乱する。
「うお、アリス!?」
大きな音に驚いたリュカが慌てて走り寄る。そこにはアリスと、彼女の脚に引っ掛かったロープ、そしてそのロープが縛っていただろう木材が散らかった状態だ。
リュカは慌ててアリスに手を差し出す。
「大丈夫か?ほら、手を貸せ」
転んだ己の手を引いて、リュカが立ち上がらせる。
しかし、こちらと視線を合わせるどころか、何故かぶんぶんと頭を横に振っている。
「こ、これで大丈夫だな?」
挙動不審なリュカ。一体何かあっただろうか。勇気を振り絞って、アリスが思い切って問いかける。
「あの、リュカさん」
「おおお、おう、なんだ?」
リュカの目が泳いでいる。こちらを見てくれないという事実は、地味にダメージを受けるものだとアリスは知った。
それでも、ここに来た時に「やろう」と思ったことを成し遂げないといけない。後回しにすればするほど、辛くなるだろうから。
「先日は、ごめんなさい」
アリスは重たい空気の中、何とか口を開いて謝罪した。
「あの時のことを怒ってるかと思いまして……。私……リュカさんに何かしちゃいましたか?」
言いながら胸に痛みが走る。泣かないように堪えるのに必死で、声の震えを止めることが出来ない。
これではリュカに迷惑をかけてしまうだろう。実際、リュカは戸惑っているように見えた。
「あの後から、あまり会えなかったので」
「ア、アリスが悪いと言うわけでは……」
そう言いながらもリュカの目が泳いでいる。こちらに視線を合わせてもらえないことに、悲しい気持ちが溢れ出す。なんとかこちらを見てほしくて一歩近づいてみたが。
リュカが思わず一歩後ずさったのだ。
「あ……」
「………」
明確な拒絶。
明らかな反応で決壊しそうな感情に慌てて蓋をして、無理矢理に笑顔を作った。
「す、すみません……ありがとう、ございました!」
そしてそのまま走り去ってしまった。
「あ、ちょっ……」
リュカが最後に何か言っていたようだが、その場を離れるのに精一杯となっていたアリスに届くことはなかった。
***
「…………なるほど」
一通りの話を聞いた女性陣が思い浮かべたのは、先日の『ラブ飲みドリンク一気飲み事件』。
詳細はリュカが黙秘しているので不明なのだが、あの時何か起きたのではないか?
「ねぇ、アリス。ケルブ火山のこと、覚えてる?」
「先週、私が失敗して薬を飲んだことですか?うーん、記憶が飛び飛びなんですよね。ふわふわしてて、ちょっと霞んでます」
「そっかー……」
これでは手掛かりにならない。
「リュカさんに……嫌われちゃった、かな」
「そんなことないよ、アリスちゃん!」
「しかし、避けられて落ち込むなんて。それだけ本気で好きなんだね」
プリシラの言葉で、アリスは二つほど瞬きをした。
その観点はなかった。そんな顔で。
「確かに……そうですね。恋をするって、こんなにも苦しくて切ないことだなんて知りませんでした」
「アリス……」
「それでも、私は恋を知れたことが嬉しいです」
えへへ、とふにゃりと笑うアリスは、最初にリグバースへ訪れた時のような薄氷を纏っていなかった。
それだけ、彼女は変わった。……彼との出会いで、変わったのだ。
だったら、一肌脱ぐしかないではないか。アリスの女友達を名乗れる程に仲良くなった女性陣は、安心して欲しいと笑顔を見せた。
「分かった、まずは原因調査からね。アリスは仕事忙しいでしょ?」
本当はこの場にスカーレットも呼びたかったけど、彼女を呼べなかったのは万年人手不足のSeedだからだ。そのSeed隊員のアリスを、あまり拘束出来ない。
「私達に任せて!」
「ありがとう、皆……!」
アリスはぺこりと頭を下げた。
***
【文章厚くする必要あり。】
そしてアリスが帰った後。
「……で、聞いてたんでしょ?」
ルーシーがカウンターに向かって声をかける。そこにはマーティンに羽交い締めにされていたリュカがいた。
「…………」
不貞腐れたリュカが皆を睨む。
「アリス、あんたのことで悩んでるのよ」
「…………」
リュカは黙秘を貫いていた。さて、どうしたものか。
「アリスちゃん、ちょっと目に隈があったね……」
「えっ?」
プリシラの言葉にリュカが反応した。これは北風と太陽のようなものか。
「……分かった、分かったよ。話すから睨まないでくれ」
***
この話の裏側はこうである。
最近、リュカは眠れない日が続いていた。
原因は単純にして明快。
(あれは……生殺しとしか、言えないだろ)
アリスがラブ飲みドリンクを飲み干して、リュカに大胆な色仕掛けを仕掛けてきたから。
あの日以来、アリスの艶やかな姿を思い出して悶々とした日を過ごしていたのだ。
(いい加減寝ないと身体が参っちまうが……寝れねぇ…)
その日も寝不足の眼をこすりながら仕事の準備をしていた。睡眠不足による注意力散漫の状態だったから、平常時ならさっさと片付けるはずのロープ等の仕事道具が床に散っためまになっていた。
そして、いつものように定刻通り、アリスがパトロールでやって来たのだ。
アリスはいつもと変わりなく挨拶をしようと来るが……
「リュカさん、おはようござ――」
アリスが木材を縛るロープに足を取られ、バランスを崩して転んでしまった。
その拍子にロープが解け、がらがらがら、と大きな音が響いて雪崩れ込む。
「ひゃあぁっっ」
「うお、アリス!?」
大きな音に驚いたリュカが慌てて走り寄る。そこには転んで倒れたアリスと、彼女の脚に引っ掛かったロープ、そしてそのロープが縛っていただろう木材の束が散乱していた。
これはよろしくない事故が起きてしまった。リュカは慌ててアリスに手を差し出す。
「大丈夫か?ほら、手を貸せ」
アリスの手が、己のものと重なる。
たおやかな彼女の手を取った時に、ふっと浮かんだのは。
『リュカさんの手……。職人さんの手で、私、好きなんです』
よりによって、先日の事件――前後不覚に陥った時の、アリスの蕩けた声である。
甘い瞳に、心が溶けていく感覚。ほんのりと熱を帯びた手を重ねた時に灯された焔は淡く揺らめいて。このままでいられたら二人は――
(……って、何考えてるんだオレは!)
妄想が止まらない。考えないように、と思っているのに、あの時に記憶したアリスの姿が鮮やかに描かれてしまう。
次に浮かび上がるのは、先日うっかり飲んでしまった薬で惑わされた時。上気した頬が艶めかしい、アリスのあられもない姿。油断するとすぐに描かれる邪念を振り払おうと、ぶんぶんと頭を横に振る。
あぁもう忘れろ忘れろ!!
「こ、これで大丈夫だな?」
思わず声が上擦ってしまう。そんな挙動不審なリュカに、アリスがぎこちなく問いかける。
「あの、リュカさん」
遠慮がちな声なのに。リュカはあの時の声を思い出してしまった。
『リュカさん………わたし、リュカさんのことを』
「おおお、おう、なんだ?」
なんとか返事を振り絞ることしか出来ない。様子のおかしいリュカに、アリスは不安気な表情を浮かべる。
「先日は、ごめんなさい。あの時のことを怒ってるかと思いまして……。私……リュカさんに何かしちゃいましたか?」
少し寂しげな瞳。震える声は切なさを帯びている。
「あの後から、あまり会えなかったので」
『あの後』とはラブ飲みドリンクを誤飲した日のことだ。
……会えてないのは当然だ。あの日以降、アリスの妖艶な姿を思い出すからと、リュカが意識して避けていたからである。
アリスはあまり当時のことを覚えていないと言っていた。だからアリスから見たら『心当たりがないのにリュカから避けられている』という状態である。
「ア、アリスが悪いと言うわけでは……」
悪いことをしてしまった。その自覚はある。でもまだ心の整理がついていないのだ。
近づいてくるアリスに、思わず一歩後ずさってしまった。きっとリュカの顔が赤いだろうが、アリスはそれに気付くだろうか。
「あ……」
「………」
残念ながら、アリスは気付くことが出来なかった。だから、無理矢理に笑顔を作った。
「す、すみません……ありがとう、ございました!」
そしてそのまま走り去ってしまった。
「あ、ちょっと待っ……」
リュカの制止の声は届くことなく、かき消えてしまった。
***
事情を聞いた結果、責めるような視線がリュカへ集まる。
「リュカ君……」
「おい、リュカ。流石にそれは無いだろう。アリスが傷付いているぞ」
真っ先に飛んできたのはブーイング。そして叱責の視線。
「しっ、仕方ないだろ!その、前に事故があったってこと知ってるだろう?」
『事故』と言って思い当たるのは、先日シモーヌから発行された注意喚起。アリスの身に起きた問題が回覧板で回ってきたのは記憶に新しい。その時書かれていた、アリスが飲んだ薬品も。
「あの時のアリスの姿を思い出すとどうにもならなくてだな……」
思わず口走った言葉は少ないが。状況や口にしなかった部分も総合すると、要は『アリスのセクシーな姿を思い出して意識してます』と言うことだと理解出来た。その青少年ならではの告白に、主に女性陣からの視線が鋭くなっていく。背中にぐさぐさと刺さって痛い。
「リュカ……スケベ」
ルーシーの絶対零度の声が響く。うぐ、とリュカは声にならない声で呻いた。
「ったく、悪かったって!今からオレが行ってくればいいだろう?」
「いや……リュカはここにいろ」
ずっと様子を窺っていたマーティンから、冷静な抑止がかかる。半ば呆れた視線を投げてはいるが、若干の同情も混じっている。それは、男同士の情けかもしれない。
「そんな、頭に血が昇った状態でフォローしに行ったって墓穴を掘るだけだろう」
「そうね、ここはあたし達が良いわね。皆、行こうか」
「ねぇ、ちょっと待ってくれる?」
「え、ルドミラさん?」
ルドミラが静止をかけると、椅子から立ち上がった。
「私が、アリスに『仲直りのきっかけになるおまじない』をかけてあげるわ。そうすれば、気まずさも解消出来るでしょ?」
「それってどうするの?」
「ふふ、簡単よ!こうしてこうやって……」
女性陣が円陣を組み、その中でルドミラがアイデアを伝える。ベアトリスが「まぁ!良いですわね!」と明るく声をあげていたから悪い話ではないのだろう。
「じゃあそれでいきましょ。ルドミラさん、お願いね」
「ええ、任せてちょうだい」
そして男性陣を置き去りにして女性陣は解散した。
呆然と立ち尽くしたまま、事の成り行きを見ているだけのリュカに覇気はない。その消沈して姿へ盛大な溜息を吐くと、マーティンは一つの瓶を取り出した。
「…………これを飲んでおけ。よく効いた」
貰った瓶の中身は……野菜ジュース。
「効くって何にだよ」
「飲めば分かる」
ぐいっと飲むと、野菜の青みが口内を充満させる。一言で言うと…………
「にっっっが!!!」
「そうだ、あまりの苦さで正気に戻るだろう」
マーティンが真面目な顔をして、瓶に半分残ってる野菜ジュースを指差す。
「全部飲め」
「うぐっ……!おい、まさかオマエ、残ってる野菜ジュースを押し付けたって訳じゃ」
そう言われたマーティンは、すいっと目を逸らした。
自分を心配してくれたのか?と一瞬だけ期待したのが恥ずかしい。
「当たりかよ!!ちくしょう、覚えてろよ……!」
まるで悪役のような台詞を吐いて、涙目になりながら野菜ジュースを飲むリュカの姿があった。
***
【香水の紹介。ルンファク3のあれ。】
どうやら、ルドミラのお店で新たに販売する新商品らしい。
「今日の香りは……そう!ミステリアスな香り!」
ちいさな小瓶を持ったルドミラが、意味深に笑う。魔女の出で立ちに合う、彼女らしい笑みだ。
「ミステリアスな雰囲気を持つ人や、謎が好きな人にとって好かれやすくなると思うわ」
(ミステリアス)
そう聞くと真っ先に浮かぶのは、リュカ。
「アリス、顔に出てるわよ?」
「えぇっ!?そ、そうですかっ?」
「もう、分かりやすいわねぇ。そういうところも、好きよ♡」
「きっと、好意的になれる香りを纏えば仲直り出来るわ。或いは……」
少し考えて、ルドミラはアリスに向き直った。
「ちょっと考えがあるの。良いかしら?」
***
あの後、リュカは戻ってきた女性陣に色々ともみくちゃにされた後、大樹の広場のベンチに放り出された。
ベンチに腰掛けて本を読む。が、内容が頭に入らない。
(ねみぃ……)
【アリスに会う。ぎこちない会話。】
どことなく眠りへ導く香りに誘われて、リュカはアリスにお願いをした。
「少し、肩を貸してくれるか?」
「え、えぇ……いいですよ」
承諾を貰ったらすぐさま、肩にぽすんと頭を乗せる。そうすると、不思議な香りがまた漂ってくる。
何となく惹かれる匂いの元は、どこなのか。
(……いつものアリスの香りじゃ、ないが……)
これはいつもアリスが纏う香りではない。彼女はもっと、緑と生命を彷彿とさせる、大地の香りと言って差し支えない――
(って、あぁくそ、何を考えてるんだオレは!)
がりがりと頭を掻き毟りたくなるが、今は肩を借りてるのだ。リュカは衝動をぐっと堪えて悶々とする。
(しかし、そこまで違うと思えるほどに彼女の香りを知ってるなんて……)
オレは変態なのか、とリュカは気落ちしながらアリスに問いかけた。
「…………アリス、香水つけてるのか?」
甘く、それでいて刺激的な、一言で言い表せない魅惑のアロマ。アリスが普段持つ雰囲気からは全くもって想像も付かない、この蠱惑的な芳香をどうして彼女が纏うに至ったのか。
誰かから、香水を貰ったのか?そして何故、そんな香水をつけているのか。
「え、えぇ!そうなんですよ。ルドミラさんから新商品として開発中の香水を分けてもらいまして」
アリスから、朗らかな口調でさっくりと回答を貰う。清涼な声色を受け、疑問に思ってた部分がすっと融解した。
なるほど。所持者がルドミラならば納得だ。あのサキュバスならば、きっと様々な香水の調香にも精通していることだろう。
「なるほどね……」
納得した途端、限界を迎えたリュカの視界がぐらりと揺れる。ちかちかと点滅する光が、星の如く周囲に煌めく。
リュカを支えようとアリスが動く。またあの芳香が揺らめいて、二人の間に流れる空気に混ざり合う。
アリスの肩にもう一度もたれかかると、首に付いた香水を強く肺に吸い込んだ。途端にくっきりと鮮烈な香りが、肺を介して脳に焼き付く。
やはりこれは、猫に対するマタタビのようなものようにしか思えない。嗅ぐたびに心がざわめき、くらくらと酩酊するような感覚に包まれる香料なんて、それくらいしか思いつかない。
アリス自身の気配と混ざり合って漂うこの香りは。例えるならば、闇夜への導きのような、月の誘いのような――
「リュ、リュカさん……!?」
遠くにアリスの声が聴こえる、気がするが。意識はもう闇の底。
彼にとって優しく心地良い芳香に包まれて、リュカは安心したのかもしれない。連日の夜更かしで限界だった彼にとって、警戒の糸がぷつりと切れたのだろう。
そしてそれは、孤独を抱えて常に気を張っている彼にしては珍しいことだった。
「…………んん……」
アリスにもたれかかったリュカが寝息をたてている。あっという間の出来事だ。
(え、えぇ!?ど、どうしよう)
対するアリスは、予想外の事態に狼狽する。彼から「良い香りだな」と感想を貰うとか、ちょっと心を動かすエッセンスになれば良い、という面持ちで付けたのだ。
「……………ぁ」
リュカがバランスを崩して、アリスの膝に頭を落とす。動揺するが、仰向けになった彼の顔を見た途端に、ざっと頭から冷水を浴びたように冷静になった。
(リュカさんの目の下に、隈が………)
そっと彼の目元の皮膚をなぞっても、それは消えずに持ち主の寝不足を主張している。日中、いつも会うたびに気怠げだった様子を思い出すと合点がいく。
(で、あれば)
せっかく眠れたのだ。彼を起こす訳にはいかない。アリスはリュカが起きるまで、なし崩しで膝枕を行うことになった。
「もう、アリスの膝枕なんて贅沢な男ね」
ルドミラがベンチの前に立っている。
「ルドミラさん」
【リュカが寝不足で具合が悪そうなので、ルドミラが診る。まだ文章を再考する必要あり。】
「じゃあ、ちょっと見てみるわね」
ルドミラがリュカの手をそっと握る。そして目を閉じて集中すると、彼の感情がオーラとなって目に映る。
その色は……混沌としか言えなかった。
「ど、どうでしょうか…?」
恐る恐るアリスが尋ねると、ルドミラは少し考えてから言葉を選んだ。
「そうね、感情が暴走してるみたい」
正確には恋情と思春期ならではの邪な感情の暴走だが、それは彼の名誉のために言わないでおくことにした。
「アリスが嫌いになった、と言うよりも、色んな感情が表れすぎちゃって、ぐちゃぐちゃになってるみたい」
「ぐ、ぐちゃぐちゃなんですね」
アリスが復唱しながらもう一度リュカに視線を落とす。歪んだ顔が辛そうで、アリスは目を伏せた。
「なんとか、ならないでしょうか……?」
「出来るわ」
「ど、どうすれば……」
「あたしが少し、リュカの感情を『食べる』の」
以前に自らも一度受けたことのある、サキュバスの「食事」。サキュバスは人の感情を喰らう必要がある、と彼女は言っていた。
「勝手にしてしまって良いものでしょうか…?」
「今のリュカには同意が取れないから……仕方ない」
それに、例え意識があっても、これに関しては同意を取る方が恥ずかしいだろう。
だって、これらはアリスへの恋情。『好きになりすぎて苦しくなってるから軽くしてあげる』なんて言われたら、堪ったものではないだろう。
それは流石に、目の前の彼女には告げないけど。
「それに、今のままだと、日常生活に支障が出てるのでしょ?だから、少し頂いちゃう方が良いわ。最悪、あたしが悪かったことにしちゃって良いから」
「そんな、そんなこと言わないで下さい!」
アリスはぶんぶんと首を横に振った。
「私が、責任を取ります。だからルドミラさん、どうか」
どうか、リュカの苦しみを和らげてあげてください。
アリスが頭を下げると、ルドミラは慌てた。
「ま、まってアリス、別にこの事でアリスが頭を下げる必要ないわよ!」
調子が狂う。いつもはサキュバスのせいにされることの多いことなのに。アリスはルドミラにも優しい。
「じゃあ、始めちゃうわね」
ルドミラが、握ったリュカの手を額に当てる。この時点で『食事』は始まっているのだろう、リュカの眉がぴくりと動く。
そしてルドミラが瞳を閉じた途端、「ぐっ」とリュカが空気を漏らした。
「だ、大丈夫ですか……?」
「大丈夫よ。ほら、見て」
リュカの手を元に戻してから一歩離れると、リュカの顔が穏やかになっていた。
「わぁ……!ルドミラさん、ありがとうございます!」
「うふふっ、アリスに喜んで貰えて嬉しいわ!」
「リュカさんもルドミラさんも苦しくないようで良かったです」
治療でルドミラさんが苦しむなんて見たくないですから。
さらっと続ける言葉は、二人を慮った内容なのが、彼女らしい。
なんて健気なのだろう。そして、博愛じみた彼女の言動は、危ういが同時に愛しい。
「やーん!アリスに喜んで貰えて嬉しいわ!本当は抱き着きたいけど、今日はお邪魔虫がいるからまた今度ね」
「お、お邪魔虫だなんて」
「じゃあ、今抱き着いていい?」
「だ、駄目です!また今度、今度にしましょう!」
「照れちゃって可愛い♡そうね、また今度にしましょうね」
ルドミラは左手をぶんぶんと振りながら帰路に着く。まだお店の営業時間内だから、店に戻るのだろう。
むしろ、お店があるのにこちらを心配して来てくれたのだろう。優しい友人を持って、アリスは嬉しかった。
苦しそうな顔から一転、優しい顔で夢を見ているリュカを見て、ほっと安堵のため息をこぼす。
彼の安眠を、せめて守れるように。
夢の世界の番人になったような気がして、アリスは小さく笑った。
***
結局のところ、夕刻まで彼は起きることがなかった。
「…………ん……?」
やっとのことでリュカが夢の世界から現世に戻る。真っ先に、瞳に映るのは、焦がれて止まず、暫くまともに見れないと悩んでいた愛しの女性の顔、そのもの。
「――っ!?」
(あ、あれ)
落ち着いている。さっきまで、過剰な恋慕が溢れて困っていたというのに。
【二人が仲直りをする】
――だがしかし、公衆の場で行われた一連の出来事だから、当然多くの人に目撃されるため。
後日、二人の友人達にからかわれることになるのは言うまでもない。