夕飯時の一幕(仮題)とある夕暮れ時の秋の里。
その日もカグヤは居酒屋「ヤチヨ」にいた。カグヤは店のカウンターに……いない。彼女は厨房に立っており、その両手にはネギの束を抱えている。そう、このネギは、この居酒屋の女将であるヤチヨに頼まれていたおつかいだ。
「よいしょ、っと。ヤチヨさん、ここでいいですか?」
「えぇ、そこでお願いするわ」
場所を確認して、厨房の一角にネギの束を降ろす。これ一つでも十分に重労働だ。
ヤチヨは頼んでいたネギの数量に問題ないか、数を数える。
「……うん、これで全部ね。いつも助かるわ。ありがとう、カグヤちゃん」
無事に数量の確認が終わり、一仕事が終わったことを実感すると、安堵感がカグヤの胸中を支配する。その上、ヤチヨから感謝の言葉を頂いて、自然と頬が緩む。
人から感謝されるのは、何よりも嬉しい。カグヤは心がぽかぽかと温かくなった。
ヤチヨの店はいつも繁盛しており、「猫の手も借りたいほど」だと彼女が独りごちるほどに、ここは仕事で溢れている。そんなヤチヨを手伝うのは、いつしかカグヤの習慣になっていたのだ。
「また、困っていたら言ってください。いつでも力になりますので」
「あら、そう言ってくれると嬉しいわ。また頼りにするわね」
そう言いあって談笑していた頃合いに、一人の客が居酒屋に訪れた。
誰だろう、と思って厨房からちらりと見ると目が合った。
真っ白な軍服を崩すことなくきっちりと着こなすその姿。見間違えようがない。彼の名は、イカルガだ。
「おや、舞手。貴方もここにいたのですか」
都からやってきて、冬の里に住むイカルガがどうしてわざわざ秋の里へ、という疑問は持たない。
美食家の彼は、きっと今日の夕飯をこの居酒屋にしようと決めてここへ来たのだろう。肥えた舌を持つイカルガを唸らせるほど、この店の食事は美味いから。
「今日も居酒屋の手伝いですか?」
「えぇ、そうですね」
「そうですか……」
貴方のお節介はいつも通りですね。
どことなく棘のある彼の言葉は、厨房に届くか届かないかのぎりぎりの声量でカグヤの耳に入った。
(何か、イカルガさんの気に障ったところがあったでしょうか……)
少し空気が重く、気まずい。カグヤは努めて明るい声色で話題を変えた。
「え、ええと。イカルガさんは、これから夕飯ですか?」
「えぇ、そうですね。そうだ、舞手。もし……」
カグヤからの質問に軽く回答すると、イカルガが突然口を閉じた。視線を落として逡巡しているようだ。
「イカルガさん?」
どうしたのだろうか。
カグヤが不思議そうに首を傾げていると、イカルガが慌てたように言葉を続けた。
「あ、いえ、失礼。そうだ、舞手はこの後も忙しいですか?」
唐突に彼からそう問われて、カグヤは考える。
ヤチヨからのおつかいは終わった。そして、仕事はまだまだ山積みではあるが、『今日やるべき仕事』はもうない。だから、今日はもう大丈夫だ。
「いいえ。今日やるべき仕事はこれで終わりましたので、空いてますよ」
カグヤの軽い返答に、イカルガの纏う空気が心なしか軽くなった。
「そうですか。もし良ければ、夕飯ご一緒にいかがです?」
その言葉に、カグヤは内心で納得した。なるほど、きっと口籠ったのは、自分に気を遣ってくれたからなのだろう、と。
そしてイカルガからの予想外の申し出だ。素直に誘って貰えるのは嬉しい。カグヤはぱっと顔を明るくした。
「えぇ、喜んで!是非ともご一緒させてください!ヤチヨさん、いいですか?」
「ふふ、むしろ、こちらこそ喜んで。腕によりをかけて作るから、食べていって頂戴な」
ヤチヨからの快諾を得られたカグヤは、厨房を出て店先へ回る。
「ではここで。イカルガさん、いいでしょうか」
「えぇ、構いません」
一緒に食べるのだから、とイカルガの隣に座る。詰めて座るから肩が触れてしまいそうだ。
密着とは言わないが、離れているとも言えない距離感。
そんな距離感にカグヤは少し心臓が高鳴るが、対するイカルガは涼し気な顔だ。彼は人に慣れているのか、そもそも自分は恋愛の対象外でそもそも眼中にないのか。
カグヤは何とも言えない心地のまま、今日のお品書きに目を通す。
「イカルガさん、今日は何にしましょうか」
「そ、そうですね……。わ、私は、肉じゃがと冷奴と天ぷらにします」
既に頼むものを決めていたイカルガの、上擦った声が響く。――どことなくイカルガの声が硬い気がするが、気のせいだろうか?
(どうしたのでしょうか)
何か引っかかるが、しかし指摘するには理由が足りない。違和感を捨てて、カグヤはヤチヨへ注文する。
「そうですか、では私は鯖の塩焼きにします」
二人を注文を受けて、「はい、ただ今!」と厨房から声が響く。
程なくすると、ヤチヨが小さな小鉢を運んで来てくれた。しかし、これは頼んだ品ではない。カグヤは「あれ?」と首を傾げた。
「あれ、ヤチヨさん。これは?」
「これはお通しよ。試作品だから、後で味の感想をくれると嬉しいわ」
「そうなんですね。ありがとうございます」
カグヤの方にはじゃがいもの煮っころがし、イカルガの方にはイカともずくの酢の物のようだ。品物が違うのは、きっと注文と被らないようにという配慮なのだろう。
「では、いただきます」
「いただきます」
二人の言葉がぴったりと重なる。こんなところで息が合うんだ、とカグヤは小さく微笑みながら、自分の小鉢に箸を伸ばした。
じゃがいもを頬張ると、至福の味が広がった。
「え、これ、とても美味しいです!イカルガさんはどうですか?」
「えぇ、こちらも美味しいですよ」
じゃがいもの美味具合に興奮しながらイカルガの方を見やるとカグヤは息を飲んだ。
ゆっくりと酢の物を口へ運ぶイカルガの箸使いは至極丁寧で無駄が無く、輝いて見える。
あぁ、これが「品がある」ということなのか、と、まざまざと思い知らされた瞬間だった。
(……お箸の使い方、凄いなぁ。こういう使い方をすれば、綺麗に見えるんだ)
普通の里暮らしでは終ぞ無縁な技量かもしれない。ただ、到底無駄だとしても、是非とも会得したい。
その美しさは、彼と共に食卓を囲むなら、身に付けた方が良いものに見えたから。
(……なんて。イカルガさんがいつまでここにいるか分かりませんが)
心の中で苦笑しながら、イカルガの箸さばきを見様見真似でやってみる。
しかし、基本が出来ていないからだろうか。いきなり箸の持ち方や使い方を変えてみようとしても、意外と難しい。
ともすると箸が止まりそうなカグヤの様子に流石に気付いたのか、イカルガから不審そうな視線をもらった。
「……舞手。何をしているのです?」
カグヤの食事が止まっていることに、イカルガが目を鋭く細めた。食事の時間を至福と位置付ける彼にとって、食事に集中していないというのは看過出来ない問題なのだろう。
「あ……。す、すみません」
「回答になってないですよ。どうしたのです?」
言葉こそ丁寧で微笑みを浮かべるイカルガだが、その目は据わったままカグヤを捕らえて離さない。
彼の名と異なり、まるで猛禽類の瞳だ。彼の獲物となったカグヤは、もう彼の望むがままに答えを差し出すしかない。さもなくば、瞬く間に彼に喰われてしまうことを予感させるような、そんな剣呑な空気が場を支配する。
(隠したところで、事態は良い方向にいきませんね……)
仕方ない。観念して、カグヤは胸中を吐露することにした。
「いえ、その……。イカルガさんの食べる仕草が美しいな、と思ったので。どうやったらそうなるのかなぁ、と考えて見てました」
「私の、食べる仕草……?」
きょとん。カグヤの回答が予想外だったらしく、虚を突かれたイカルガは目を丸くした。
「そうですか。舞手は、私の食事作法を綺麗だと思ったのですね」
「はい!」
通じた、と言わんばかりにカグヤは顔を綻ばせる。その言葉に、嘘はない。
そんな、裏表のないカグヤの姿を、イカルガは眩しそうに見つめる。そして何度か頷きながら、段々と笑みを深めていった。まるで、何かを企むかのように。
「なるほど、なるほど。それで、私の真似をしていた、と」
「そうです。私もイカルガさんみたいに綺麗な作法で食べたいな、と思いまして」
カグヤが頷きながら告げた言葉を受けて、イカルガは目を細めた。
「ふむ。それはつまり、私の持つ技術を見て盗もうとしていたと」
「ぬ、盗むと言われると人聞き悪いですが……」
確かに、いいなと思った。しかしそんな言われようをされるなんて。なんとも物騒な物言いに、流石にカグヤは狼狽えた。
そこを好機とみなし、更にイカルガは追い討ちをかける。
「現に、私の許可なく勝手に真似をしていたではないですか」
とどめに胡乱げな眼差しを向けられると、カグヤはたじたじとなってしまった。
(ど、どうしましょうか)
話がおかしな方向に行ってしまった、とカグヤは慌てる。
「え、えぇと、確かにその通りです……」
「認めるのですね」
「だって、そうとしか言えないですから」
「素直ですね。貴方は」
しおらしくなったカグヤの隣で、はぁ、とイカルガが大袈裟に一度溜息を落とす。そして、「仕方ありませんね」とイカルガは言葉を続けた。
「私だって、今の所作を一朝一夕で身に付けた訳ではありません。教えるのは構いませんが、授業料は頂かないと割に合いません」
言質は取った、と言わんばかりに。剣呑な雰囲気を霧散させて、にこり、とイカルガが微笑む。
なんだ、これは。急な態度の変化に、カグヤは嫌な予感を覚えた。
「では、こうしましょう。一つ教える度に、貴方の煮物を一つ頂きます」
「えっ!?」
イカルガは視線でカグヤの煮物を指し示す。小鉢を箸で指さないところが、彼の所作の良さが出るところだ。
「わ、私の、じゃがいもの煮っころがし…!」
「それなら対価として丁度良いでしょう。どうです、やりますか?」
イカルガからの挑戦的な瞳が、カグヤを見つめる。どことなく楽しそうな彼の表情から、何を考えているのか読み取れない。彼が食していない賄いへの探求心なのか、それとも別の何かを期待しているのか。分からない。分からない、が。
――彼にとって、食事の作法を教えなくても、別に困ることはない。カグヤにしか得のない状態だったのだから、彼だって何かしら対価を頂きたい、ということなのだろうか。
(……背に腹は代えられない。これは、受けるしかありませんね)
「わ、分かりました!」
何か意図があるかもしれないが、それは分からない。それに、よくよく考えれば、煮物一つで彼の技術を教えて貰えるということだ。そうであればそれは、とても安いものではないか。
ここまで思考が至った時、カグヤは大きく頷いた。彼女が首肯するのを見て、イカルガは朗らかな笑みを浮かべた。
「交渉成立ですね。では、早速……」
イカルガはカグヤの器をそっと受け取り、優しくじゃがいもを箸で摘んで口へ運ぶ。そうすれば、酒のつまみにしては薄めの味付けをされたじゃがいもの旨味が口の中に広がる。醤油の風味と、じゃがいもの甘みが良い調和を奏でる逸品だ。
食事処としても機能するこの店では、酒ではなく定食を頼む客もいる。濃すぎない味付けは、わざわざヤチヨがご飯とともに食べる客向けに調整しているのだろう。
素晴らしい出来栄えの煮物をじっくりと堪能した後、イカルガは一つの感想を零した。
「……これが、舞手の好みか……」
ぼそり、と口の中に呟いた言葉は聞き取りが難しい程の微かな声量で。
隣に座るカグヤですら拾えないその声に、思わず瞬きを繰り返した。
「イカルガさん?」
「何でもありません」
間髪入れずに返答するイカルガに、カグヤは納得しない顔をした。そんな彼女から意識を逸らすように、イカルガは言葉を重ねる。
「ところで、今ので食べ方が分かりましたか?」
イカルガの言葉に衝撃を受ける。教えるとは一体何だったのか。
「え、えぇっ!?教えてくれるってそういうことですか?」
「そういうことも何も、元々貴方は見て学ぶつもりだったのでしょう?まだでしたら、もう一つ頂きますが」
勝ち誇ったような、悪戯めいた煌めきが橄欖石の色をした瞳に浮かぶ。なんだかんだ、彼もこの煮物が気に入ったのだろうか。ヤチヨの居酒屋を気に入る彼なら、あり得るかもしれない。
しかし、そうやって食べられてしまったら、自分の取り分がなくなってしまうではないか。
きっとイカルガが先に教え方を言わなかったのは、「もう一度」を引き出すためだろう。
イカルガの計算高さには脱帽だ。カグヤは思わず呻いた。
「う、うぅ……。」
では、もう一回お願いします、と肩を落として頼むカグヤと、嬉しそうにもう一つじゃがいもの煮っころがしを口に運ぶイカルガ。
丁寧に頬張るイカルガの所作は美しく、しかしその技術を盗むのは至難の業で……。
――結局、煮っころがしを半分程食べられてしまった上にあまり上達しなかった。それを見透かされて「また知りたければいつでも言ってください」と不敵に笑うイカルガに、カグヤは思わず「してやられた!」という気持ちでいっぱいになった。
カグヤは気付いていない。
イカルガがわざわざ食卓を囲んでも良いと思い誘っているのは、カグヤしかいないことに。
そして、二人は気付いていない。
カグヤが手をつけた小鉢を、イカルガと分け合って食べている様。それは端から見ると仲睦まじい恋人にしか見えないことに。
「……これで付き合ってない、て言うのだもの。凄いわよね」
居酒屋の女将、ヤチヨは虚空に向かって呟いた。