There will never be another you「外はやっぱり寒いね」
何もない駅のベンチで蹲っていると、頭上から声が降って来た。今もっとも聞きたくなかったような、それなのに聞きたくて仕方がなかったような声だ。
けれど顔を上げる気にはなれず、俯いたままそれに答える。
「……出てこなければ良かったのでは?」
もともと出不精な人だから、輪をかけて寒い今日などは世界が終わっても部屋を出てこないと思っていた。そういえば今朝はこの冬一番の冷え込みになるとラジオでは言っていたっけ。
それも含めて皮肉を言うと、その人は困ったようにため息をついた。
「君ねぇ……」
彼は何か言いかけて、しかし止めた。そして着ていた外套を脱ぐと、私の肩に掛けて羽織らせた。冷えた身体に、そのあたたかさは染み入っていくようだ。
その外套の裾を見て気が付く。これは……。
「これ、コートじゃなくて白衣……?」
「あー、急いで出てきたから」
ところどころ薬品やら何やらの染みがついて擦り切れた白衣だった。この人の普段着でもある。急いでやって来たというのは嘘ではないらしい。その必死さに僅かながら救われたようにも感じたけれど、期待してはいけないとその気持ちを押し殺す。勘違いしてはいけないのだから。
「こんな気遣い、できたんですね」
「君、拙者のことを心のない奴だと思ってない?流石にこの状況を放っておくほど非情にはなれないよ」
その人──イデア先輩は私とは一つ席を空けて、私と同じベンチに腰掛けた。
田舎の無人駅にはなかなか列車は来ないし、それを利用する人の訪れも無い。しかし先輩は、冬の空気の中から音もなく突然姿を現した。
「で。どうして逃げたのか、そろそろ教えてくれてもいいんじゃない」
その言い方はまるで、理由によっては私を咎めないとでもいうようなものだった。その声は平坦だし、特に怒っている素振りも見せない先輩に、私は僅かな絶望を感じた。
どうしよう、何を話そう。口を閉ざした私に、先輩は小さな子を諭すように私に問いかけた。
「別にだんまりでも良いけどさ、あとで困ることになるのは君なんだからね」
畳みかけられれば畳みかけられるほど、私の心は焦っていく。喋れなくなってしまった私の代わりに、先輩は饒舌だった。
「拙者のことが嫌になった?そりゃそうでしょうね……こんな根暗で陰キャなキモオタ、好きになるほうがどうかしてるよ」
いつも通り卑屈で皮肉っぽいその言葉に、私は背筋が冷えた。そんなことはない、先輩はもっと……何か言おうとして顔を上げたけれど、口から出てきたのは何てことのない言葉だった。
「先輩、隈が酷い……」
それに何だかやつれている。もともと食べるのも眠るのも疎かにしがちな人だったけれど、何かに夢中になると度を越してなおざりにしてしまう。
そう言えばいつかこんなことを話してくれたっけ。
『大切な人が食べることも眠ることも出来ないって言うのに、僕一人が呑気でいられるわけないって』
その時に言っていた「大切な人」は、オルト君のことだったに違いない。先輩の開発によって経口補給型アタッチメントは整備されていたし、もともとスリープ機能は備わっていたけれど、それでも生身の人間とは訳が違う。先輩は一人でその罪を贖うように、眠らない日々を過ごしていた。
私の不意の呟きに、目の前の先輩は恥ずかしそうに答える。先ほどの冷たい態度は、いつの間にか霧散していた。
「君を探していたから……」
「ちゃんと寝てくださいね」
今回に限ってその隈の原因は私にあるということくらい、よく分かっている。それでも、今はそう言わなくてはいけない気がした。
すると先輩はムッとした口調で言い返した。機嫌を損ねてしまったらしい。男の人の不機嫌な態度は少し苦手だけれど、この先輩の怒りはどこか調子外れなことが多かった。
「君の考えてることって、僕には理解不能。いつだってそう。僕の心を引っ掻き回すくせに、君は僕に本心を打ち明けてくれたことが一度でもあった?」
しかしその言葉には閉口せざるを得ない。黙ったままの私を詰るように、先輩は言葉を続ける。
「ようやく自分から行動してくれたと思ったら、こんなことになるなんて。ご丁寧に手紙まで置いてってさぁ」
ここまで来る前に、先輩には手紙を残してきた。メールやアプリでのメッセージという方法もあるけれど、少しでも時間を稼ぐことができるようにアナログな方法を取ったのだ。電子機器を携帯していると分かれば、忽ちこの人に居場所を特定されてしまう。念には念を入れて、自分のスマホは置いてきた。
手紙にはもう傍には居られないということを書いた。手紙なんてこれまでの人生の中で殆ど書いたことがなく、真っ白な便箋はいつまでも埋まらなかったけれど。自分勝手で申し訳ないと言う自己嫌悪を感じていたせいもあるのかもしれない。
昨夜は窓から入る夜風に目を細めながら、学園にいた頃のことを思い出していた。初対面はタブレット越しだったし、生身でも当初は挙動不審な先輩だと思っていた。
その感情が変わったのは一体いつからだっただろう。本人の意思とは正反対に煌めくその髪に自分が見惚れていると気が付いたのは、そんなに最近のことではなかったはずだ。
この人との再会は、陳腐な表現だけれど運命の悪戯と言うべきだったのかもしれない。意外にもあの学園で、私はこの人に再び会うことが叶ったのだった。
〇〇
卒業後、オンボロ寮は出て別の国の街で暮らすようになった。けれど唯一の身内となってくれた学園長には「定期的に顔を出しなさい」と言い含められていたので、その日は懐かしい学び舎に足を踏み入れたのだった。
定期報告という名のお茶会を終えて帰路に就こうとしたとき、視界の端に青い光が揺らいだ気がした。追いかけると、仄かな光は鏡の間へと入っていく。今日は誰かが使う予定なのか、鍵は掛かっていなかった。
青い光は見間違いではなかった。思わず声を掛けると、その人影はゆっくりと此方へ振り向く。
「──え、」
口をぽかんと開き、此方を凝視しているのは見間違えようもない、イデア先輩その人だった。最後に会った時よりは幾分か大人びた窮屈そうな格好で、鏡の前に佇んでいる。
「……君、何しに来たわけ?」
「学園長のところに用が。先輩こそどうしたんです?」
「見れば分かるでしょ。仕事」
先輩のご実家の「お仕事」については私も聞くところではあった。僅かに眉を顰めたのを悟られてしまったのか、先輩は心外そうな顔で「……今日は別に、誰かを連れて行くわけじゃないし」と呟いた。
先輩は私を見て、その後にきょろきょろと辺りを見回した。人がいないか確認しているらしい。そして次の瞬間には、あまりにも予想外なことを提案したのだった。
「……時間ある?」
〇〇
連れて来られたのは賢者の島の海岸だった。陽は既に水平線の向こうに沈み、辺りは薄暗い。そんなロケーションで、先輩は石の階段に座って私に何かを差し出した。私も隣に腰掛けながらそれを受け取る。
「……お酒?」
それは冷たい飲み物の缶だった。側面に掛かれているのはアルコール度数。私が戸惑っていれば、ぷしゅ、と間抜けな音が聞こえてきた。そちらを見れば先輩が既にプルタブを開けてその中身を呷っているところだった。
こくりと嚥下して、先輩が呟く。
「あーっ……ストレス解消になる、気がする」
「……なぜ」
こんな外で安い酒を飲む趣味があったのだろうか。私が本気で訝しがると、先輩は「それが何か?」とふてぶてしい態度で答えた。
「実家じゃこんなチープなの飲めないし。あと外で一人で飲んでると通報されるから」
「切実な問題ですねぇ」
そこで店に入るという発想がないのがこの先輩らしい。ふふ、と微笑むと先輩は妙に真剣な顔つきで私に言った。
「……元の世界とやらに帰ったと思ってた」
その言葉には顔に貼り付けていた笑顔を凍らせざるを得ない。引き攣った私の顔を見て、先輩は何故だか決まりの悪そうな表情を浮かべた。
その空気を誤魔化すように、私も缶の蓋を開ける。口に含めば、甘い味が喉まで広がっていった。味の割にアルコール度数は高いようで、不覚にもくらりと来てしまう。もともとお酒にはそれほど強くないのだ。
そのまま光を失いゆく水平線を二人で眺める。この島には長く住んでいたけれど、海まで下りてきたのは初めてだ。何となく寂しい気持ちを抱えつつ、お酒をちびちびと舐めた。
ついに缶の中身が無くなって、私は石段に空き缶を置いた。その瞬間、冷たいものが私の手の甲を覆う。ぎょっとしたけれど、それはすぐに先輩の手だということが分かった。
仄かにお酒の入った脳では、まともに物が考えられない。それはこの傍らにいるこの人も同じだろう。そんな馬鹿な思い込みで、その手を握り返したのだった。
〇〇
連絡先はいつの間にか私のスマホに登録されていた。この人のことだから、私が眠っている間にパスコードを解除することなど、造作もないのだろうけど。
それから不定期に連絡が来る度、どうしようもなく不安になる自分と期待をしてしまう自分がいた。こんなのは間違ってる、確証もなにも無い関係だ、早々と連絡を絶ってしまったほうがいい……。頭の中の理性はそう忠告しているのに、いつも名前を知らない誰かが囁くのだ。元の世界に帰るまでなら良いんじゃないか……先輩も割り切った関係を望んでいるように見えるのだから。
そうして葛藤を抱えて家を出て、結局あの肌の匂いに溺れる頃には、それでも良いかと思ってしまうのだった。
〇〇
ちらちらと雪が舞い始めた。
長い長い沈黙の後、口をついて出てきたのは何とも非難めいた言葉だった。
「私、先輩のために全部捨てたのに」
「は?」
「……最後にこんなものを抱えて逃げるなんて、無理だったのかも」
私はそっとお腹のあたりに自分の手を添えた。この素振りに、流石の先輩も何かに気が付いたようだった。その目がじわじわと見開かれていく。ああ、その綺麗な瞳が零れ落ちてしまいそうだ。
「エッッッそんな素振り、少しも無かったじゃん……!って言うかそんな薄着じゃダメでしょ!えーと温まるもの……上着は掛けてあるし、あとは何、魔法!?大丈夫?フレイムブラスト打つ!?」
「落ち着いて!フレイムブラストは絶対にやめてください」
一頻り騒いだ後、先輩は空いていた一席分の距離を詰めた。触れた肩から温かさが伝わり、私の身体をわずかに弛緩させる。
そして先輩はふう、と息を吐いた。その息は白く、今の気温の低さを如実に示していた。
「……マジか」
「大マジです」
お互い、やっといつもの調子が戻ってきた気がする。けれど二人とも、どことなくギクシャクとしていた。
この気持ちに気づいてほしい。いいや、いつまでも知らないでいて。背反する二つの気持ちはぶつかり合って、いつの間にか申し訳なさに変わってしまった。
「……この子は、私にくれませんか。堕ろしたくないので」
勝手なエゴだということは分かっている。けれどこの子がお腹にいると分かった時、それは私をこの世界に繋ぎとめてくれる存在のような気がした。ずっと怖かった。最初から帰ることを切望していたはずなのに。
思い出の景色も大切な友人も、それにこの人も全て置いて行かなくてはならないことが、いつの間にか恐ろしくなり始めていた。仕方のない理由ができれば、ここに残っていてもいいんじゃないか。そんなことを考えてしまう自分自身が一番の怪物に思えた。
「先輩に迷惑はかけません。このまま遠くでこの子を産んで、一人で育てます。大丈夫、お金は溜めてあるので」
使い道もなく何となく溜めてきた貯金だったけれど、もしかしたらこの時のためだったのかもしれない。足りない分はこれから働いてどうにかしよう。生まれてくる子には不自由をさせるだろうし、甘い考えだと後ろ指を指されるかもしれないけれど、それでも。
……あと5分も待てば列車がやって来る。そうすればお別れだ。それも恐らく永遠に。
私がそう伝えると、先輩は口元を両手で覆ってしまう。そして呻くように呟いた。
「君一人で産んだとして、たぶん髪は燃えてるよ」
先輩の言葉は確信的ではなく、どこか遠回しにそれだけ言った。意図を掴みかねてその横顔を見つめるけれど、どこ吹く風と言った様子で。
私が先輩を不安にさせていたことは先程のやり取りでようやく自覚することができた。けれど先輩だって十分、私を振り回してきたと思う。
いったんそう考えてしまえばどこからか怒りがふつふつと沸いてきた。そんなに怒りっぽいほうではないと自負していたけれど、疲れやら何やらで今は溜飲を下げることができそうにない。
「そういうところ、嫌いです」
「えっ……」
嫌い。これほどシンプルで、相手を傷つける言葉も無いような気がする。言ってしまってから自分の胸が痛んだ。拒絶するような覚悟もないくせに、私はこの人を傷つけてしまう。
案の定、先輩はショックを受けたようで、口元に置いていた手でそのまま顔全体を覆ってしまう。そのうちその指の隙間から呪詛が漏れ聞こえてきた。
「そもそも君、何で拙者のことなんか……」
「せ、先輩……?」
ブツブツと何かを呟くだけで、私の言うことには聞く耳を持たない。しかし暫くして、何かに気が付いたように勢い良く顔を上げた。鋭いイエローアンバーの瞳と目が合い、心臓が大きく跳ねる。
「まさか拙者のカラダ目当て……?」
「そんなわけないでしょ」
その発想には間髪入れずツッコミを入れる他なかった。どうしてそうなった。
頭は良いのに、本当に斜め上の考え方をする人だ。この場にそぐわない掛け合いをしたせいか、私たち二人ともきょとんとして顔を見合わせている。そんな奇妙な時間が続いた後、先に目を逸らしたのは先輩の方だった。もじもじとしながら、小さな声で私に打ち明ける。
「次こそは好きだって、言おうと思ってた。でも会うたびに怖くなって……結局、こうして君に逃げられるまで言えなかった」
何度も逢瀬を重ねるたびに、その感情は私にも芽生えていた。私だって言えなかった。伝えようとするたびに、身体は金属でできているかのように冷たく固まってしまったから。
先輩は黙ったままの私を見て、口元を綻ばせた。その目には僅かに諦観が浮かんでいる。
「君は会うたびに綺麗になるし、きっと本命がいるんだろうなって」
「……先輩の中で私はとんだ悪女だったんですねぇ」
本命がいたなら、先輩には会いに行きませんよ。そう伝える代わりに、先ほどの間違いを訂正することにした。
「先輩のことは嫌いじゃないんです」
「エッッ!?」
掌を返すような言葉に驚く先輩。私は薄く微笑みつつ、自嘲めいた態度で続ける。
「仮初めの好きも言えないくらい、先輩のことが嫌いになれないんです」
嫌いという言葉もそうだけど、好きという言葉を他人に言うことだって軽々しいものではない。例え一時の気休めだとしても、この人にそんな言葉を贈りたくはなかった。それくらいにはこの人のことを大事に思っているつもりだから。いっそ本当に嫌いになってしまえれば良かったのに。
いつまでも纏まらない私の言い分に、先輩はまた優しく反論した。
「お願いだから物分かりの良い子でいないで。君は僕を振り回すくらいでちょうど良いんだから」
先輩はちょっと恥ずかしそうに顔を背ける。その毛先は淡いピンクに染まっていた。しかしその震える手がそっと伸ばされて、私の手を掴んだ。それは私の手とは温度が違っていて、他人というものをまざまざと感じさせる。
「ほんとうに、ばかなひと」
それはイデア先輩ではなく、自分に向けた言葉だったのかもしれない。喉の奥がぎゅうっと絞まるような感覚がした。
汽笛の音がして、そちらを見る。列車が遠くに見えてきたけれど、私はその席から立つことが出来なかった。この駅での停車時間はそう長くはない。さて、どうしたものか──