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    ホリバ後モクチェズ+ナデらくがき「12/22の夕方と23の夜のこと」

    #モクチェズ
    moctez

    !ちょ~落書きなんですけどめっちゃ長いです
    !タイトル通りでホリバの合間を埋める話です。めちゃくちゃ自分解釈。チェズレイ弱めなのでご注意ください。
    !3/4くらいチェ+ナデの飲み、さいご1/4がモクチェズ。ヴ愛後付き合いルートでその後オフィスナデシコでやる流れなので地雷のひとは逃げてくれ
    !あとナデシコちゃんチェズレイのこと「君」呼びであってる…?間違ってたらすいません…


    「……まだ晩酌にはお早い時間かと思いますが」
     背後から聞こえた声は、まるで子を嗜める母のような響きをしていた。
     「見つかったか」と答えながら振り向くと、相も変わらず眩暈のするような美貌の男は、けれど出会った時は常に纏っていた隙の無いオーラの輪郭をだいぶゆるめて、困ったように眉を下げて微笑んでいた。この顔を見るのは、空港のバーで愉快愉快と肩を抱き寄せた時以来だ。
     とはいえ、彼が苦言を呈したくなるのも無理はなかった。なにせ開け放たれたカーテンからは、西日が差し込まれて部屋全体がまばゆく照らされている。赤道から近いこの国では十二月だろうと日の入りが早まるようなことはないけれど、とはいえ、まあ、夕方にようやく差し掛かろうとする時分なのは間違いなかった。
    「ちょうど良かった。こっちに来て少し話さないか、チェズレイ」
    「……、ええ」
     とはいえそれで大人しく盃を置く警視総監でもない。悪びれもせずにちょいちょい手招きすると、ほんの少しだけためらいの気配が揺れて、けれど結局かつての仮初めの部下は、期待通りにこちらに歩いてきた。
     足音一つ立てずにフローリングを滑るように進むその背筋だけは、上から糸で吊られているよう、ぴんと真っ直ぐなのは変わらないな、と、ナデシコは思った。

     オフィス・ナデシコのリビングに置かれたソファは大きい。腰をずらして隣を開ければ、チェズレイは大人しくそこに収まった。
     が、素早く目がテーブルを走って、中身を半分に減らしたウイスキーの瓶(これは言い訳だがハーフボトルだ)とほとんど溶けてもいないアイスペールの中の氷を交互に眺めて、飲むペースを悟ったのかはあ、とため息を吐かれてしまった。
     そのまま黙って立ち上がって、呆れられたかと危惧する間もなく戻ってきた白い手袋は腹をいっぱいにした水差しを抱えていた。同じ位置に戻って、グラスに注いで渡してくる。チェイサーのつもりなのだろう。キンと冷えた水の気配が触れるだけでも感じ取れて――確かに日差しで少し暑かったのだ、とはいえカーテンを閉めることすら横着していたのだが――、クッと煽ると冷気だけではなく、喉にわずかな刺激と、同時に鼻を通り抜ける爽やかな香り。
    「これは……、炭酸水……に、レモンか?」
    「ええ。せっかくの酒の香りを邪魔しないよう、少量ではありますが。水の方が宜しかったでしょうか」
    「いいや。さっぱりしていい口直しになるな。これなら交互に飲むのも悪くない。ありがとう。まったく気が利く男だな」
     褒めながら豪快に背を叩くと、チェズレイは目を丸めて、けれど何も言わずにやっぱり眉を下げるばかりだった。
    「酒飲みの相手をする機会が増えましたので。それよりも、今日はずいぶんとお早いお帰りのようだ」
    「珍しく仕事が早く片付いてな。なかなかないことだからはしゃいでしまって」
    「その結果こんな時間からお一人で晩酌を? 根を詰めすぎるのは身体に良くないですが、お酒もどうぞ、楽しむ程度に」
     まるで台本を読むかのように淀みないチェズレイの声は、さきほどからずっとロックグラスの中の氷みたいな丸さである。ウイスキーを舐めながら、ナデシコの目が緩む。
    「モクマが羨ましいな。そんな風に心配してくれる相棒がいて」
    「……」
     モクマ。その名を出した瞬間、唇がひたりと固まった。
     ……予想していなかったわけではない、気づいていないふりでそのまま続ける。
    「実際いつもは忙しくてロクに飲んでいる時間はないし、最近は優秀な部下が増えたおかげで残業も減る一方だ。シキなんか勤怠管理にうるさいのなんの……、お陰様できっと来年の健康診断の結果は上々だ。心配をありがとう、チェズレイ。だが……」
    「……だが?」
    「久々の懐かしい面々との再会、ホリデーに浮かれた街の空気、さらには、窓の外には燃えるような太陽……、こんな日は、放っておくといくらでも飲んでしまいそうだ。
     なあ、チェズレイ。もしもこの後予定がないなら、ストッパー役になってくれないか? こんなきれいな男を肴にして飲めることもそうない」
     健康の為と、それから彼でなくてはならぬ理由。
     確信犯的に重ねながらにっと笑って誘いを掛けると、いよいよ夕焼けに燃え上がる太陽の光を浴びてなお輝きをまったく失わぬ男は、長い睫毛をぱたぱたとはためかせて、それから申し訳なさそうに、
    「構いませんが……、私はウイスキーでなくとも良いでしょうか?」
     ふ、と笑みが零れる。モクマの言う通り、本当に義理堅い男だ。
     もちろん、同じ酒を飲まないといけないなんて、そんな心の狭いことを言うつもりはなかった。

    「モクマさんに付き合っている内に少しずつは飲めるようになってきたのですが……」
    「構わんさ、あいつは濁り酒派だからな。ウイスキーと割ることはないだろうし」
     その後チェズレイが持ってきたのは、シキと空けたという白ワインの残りだった。ウイスキーとは比べ物にならないにせよワインもそう度数は低くないはずだが、と忠告する間もなく、グラスにそろそろと注がれたのはほんの四分の一ほどの量で、その上から容赦なくオレンジジュースが重ねられていく。
     結局なみなみと飲み口近くまで埋められたものはたぶん、大体がオレンジ味だろう。それでもチェズレイはちょっと得意げに「お待たせしました」と微笑んで、優雅にグラスを掲げてきた。
    「いいや。付き合ってくれて感謝するよ。再会に感謝を。――乾杯」
     薄いグラスの縁がキスをして、静かな部屋に涼やかな音が響き渡る。
     それからしばらくは、ぽつぽつとした会話が繰り返されるばかりだった。
     もともと二人とも多弁な方ではないから、それがかえって心地よかった。酒を飲む合間合間にミカグラの近況について話して、尋ねられればチェズレイもほうぼうの国の思い出話を零し、時にはすこし込み入った薄暗い方向に足を踏み入れそうになって、けれどこんな燃えるように明るいリビングではそれもどうにも場違いに思えて、深刻になりすぎることなく会話は軌道修正された。
     チェズレイはナデシコのペースに合わせ、よくグラスを傾けていた。あまりのオレンジジュースの量にさきほどは驚かされたが、なるほど未だ下戸に近い彼が同じだけ飲もうとすると、チェイサーでは到底足りないのだろう。さすがの気遣いだ。それにしてもあの比率ときたら、仮面の詐欺師のイメージとはかけ離れた、なんとも可愛らしいものだったけれど。
     いつも、モクマと飲むときも、彼はそうやっているのだろうか。酒はやはり飲めば慣れてくるものだ、最近ではどぶろくを豆乳を割る時の割合も少しずつ変わってきたのだと、語る目は既に酔いですこし蕩けて、そのせいでゆるむ声のうちには、誇らしげというか、そんな色が確かに滲んでいた。
     噴水の下で再会した時からわかっていたけれど、ふたりの顔が、交わす視線が、他愛ない会話のひとつひとつが、なにより雄弁に語っていたけれど――、変わらず仲良くやっているようだ。
     ウイスキーを一口。日差しのせいで氷の溶けるスピードは増していき、だいぶ水割りに近くなってきた。笊のナデシコはこれくらいでは酔えないが、そろそろ頃合いだろうか。
     グラスを置いて、背に夕陽を浴びながら、すみれの目を見つめて口を開く。
    「チェズレイ。ずっと、君に聴きたいことがあったんだ」
    「……私にお答えできることであれば、なんでも」
     思ったよりも、重い声が出てしまった。
     けれどチェズレイは真正面から受け止めて、まるで予感していたかのように、穏やかに頷いて見せた。
    「ありがとう。なかなか二人きりになる機会もなかったからな」
    「そうですねェ……、と、グラスが空ですよ」
    「ああ、ありがとう」
     ロックグラスに氷を置き直そうとして、アイスペールの中身まですっかり小さくなってしまっていることに気付いて、抱えてキッチンまで歩いて行く。本当、よく気の利く男だ。ついでにカーテンも閉められて、部屋が一気に夜の気配を帯びる。
     今度こそ十分な大きさの氷を置いて、琥珀色の液体を静かに注ぐ。その横顔は真剣そのもので、まったく、こんなこといつもさせているんじゃないだろうな、あの男は。
     グラスを受け取ったところで、口を開く。
    「……身体は、大丈夫なのか」
    「ええ。お陰様で。……モクマさんから聞きましたか?」
     頷く。世界規模の犯罪シンジケートには、警視総監のナデシコだって当然手を焼いていた。それが一夜にして彼の故郷であるヴィンウェイ警察により摘発、その切っ掛けにあの怪盗の名前があって、かつエリントンの国家警察によるレニー・エレクトロニクスの贈賄容疑を暴くニュースとくれば、チームBONDを知るものならば誰だってその糸の先にあの頭の切れる詐欺師を想像するだろう。
     だけど、それだけではなかった。ナデシコはそれよりも前から、チェズレイの置かれた状況を知っていた。なぜならば、彼の指摘した通り――、
    「……実は、あの世界を揺るがせたヴィンウェイでの大捕り物の数日前――、モクマから電話がかかってきてね。
     チェズレイの傷がひどいと。応急処置だけはされているが、患部が熱を持っている。合わせて雪の中に倒れていたから末端は冷え切って、このままでは凍傷になってしまいそうだと……、ずいぶんと動転していた」
    「……、」
     しずかに秘密を明かすと、一貫して平静を保っていたチェズレイの瞳が、はっと見開かれたのがわかった。やはりこれは知らなかったようだ。
     白い手袋が両手で持つグラスの中の明るいイエローが、ゆらゆらと揺れている。
     ふう……と、鼻に抜けるような、長いため息の音がして、それからぽつりと、声。
    「……あァ……、やはり、そうか、こういう時に、頼るのは、あなたなのですね……」
    「……チェズレイ……」
     ……なんとも、言えない声だった。そこから感情を読み解くのは、とても難しかった。
     失望とも、落胆とも、ましてや嫉妬でもなく、ただ、静かに、事実をなぞるような声。
     その身の内に渦巻く感情の正体は、わからない。でもそれは当然のことだった。彼のように心が読めるわけでもなければ、モクマと違って、四六時中一緒にいるわけでもないのだ。
    「チェズレイ。……勘違いするな」
     だから、これはエゴだ。言いたいから言う。それだけ。
    「お前の身体は刺し傷、銃創、打撲痕でそりゃあボロボロだったそうじゃないか。私は仕事柄、仲間がそういった傷を受けることがある。そんな傷を受けた悪党を、情報を得るために生かさなきゃならないことがある。医者の伝手があるなら別だが、掛ける相手としては妥当だろう」
    「……」
     強い口調で一息に言っても、チェズレイはこちらを見つめるばかりだ。
     その瞳はやっぱり、このロックグラスのように透き通って美しい。
    「ほら、グラスが空だぞ」
    「……ありがとうございます」
     ふっと唇を緩めて、ナデシコは明るい声に戻ってワインボトルを掴んだ。
     コルクを引き抜いて、さっきの量を思い出しながら注ぐけれど、こちらも少しは酔ってきたのか、さきほどよりは割合が多くなってしまった。が、気にした風もなくチェズレイは今度は隣のジンジャーエールで割って、マドラーで混ぜて、一口飲んで、それからまた、こちらを見て、ぽつり。
    「……聞きたいこととは、今のこと、でしょうか」
    「いやな、実は違う」
     じっと、透明な瞳を見返す。光量の落ちた部屋の中で、チェズレイのまぶたを縁どる宝石だけが、きらきらと輝いている。
     それを口にするのは、ナデシコにも勇気の要ることだった。
     ふう、溜息を吐いて、濃さを戻したオン・ザ・ロックを呷って、それから。
    「私が聞きたかったのは、君が如何にしてモクマを立ち直らせたのかだ」
    「――、」
     今度も予想外だったのか、どうなのか。
     かすかに息を飲むような声が、静かな部屋だから響いてしまう。だけどそれで止めてやるほど、ナデシコは優しい女ではなかった。
    「若い私にはどうしてもできなかったことを、君はやってのけた。ずいぶん今更になってしまったが、教えてほしかったんだ」
    「……。それは、構いませんが、それならば私よりもモク――」
    「モクマではなく、君の口から。聞きたかったんだ。本当は空港で聞きたかったのに、さっさといなくなってしまって」
     続く言葉を遮って、つれないじゃないか、とわざとらしく唇を尖らせてみせれば、「酔っておいでしたので」と返す声には覇気が足りなかった。
     ……素直に応じてくれるかは、五分五分だと踏んでいた。
     大切な記憶だ、はぐらかされても仕方ないと思っていた。
     これは警視総監としてではなく一人の人間としての興味本位でしかなく、しかも他人の、ごくプライベートな部分に土足で踏み込むような要求なのだから。
    「……そう、面白い話ではありませんよ」
     だけど。さきほどよりは幾分濃いめのオペレーターを呷って、そう切り出すチェズレイは、やっぱり律義者でもあるようだった。

    「……と、いうような流れで」
     出会いから最悪だったこと。総ての計画を台無しにされたこと。仇に重なる部分があり、そんな風に感じる自分が許せなくて、八つ当たりと分かりながら抉っていくうちに、その強情さに目が離せなくなってしまったこと。掛けられた言葉に、激しく心が揺さぶられたこと。そして果ての、鍾乳洞での、あの対決――、
     微に入り細を穿つ、随分と長い話を、けれどさすがチェズレイの語り口調は軽妙で、ついつい夢中で聞き入ってしまった。どれくらい白熱したかと言えば、ウイスキーのボトルが遂に一本空いてしまったくらいには。
     でも、それは、傷ついた男の心に寄り添って献身と真心で引っ張り上げるというような、そんな感動巨編というよりは――、
     ひく、とナデシコの口端が片側だけ持ち上がった。
    「それは、なんというか……、激しいな」
    「お褒めにあずかり光栄です。ついこの間も、彼には未だ思い返すと臓腑が震えると賛辞をいただきまして」
     鍾乳洞での怒りの再現ときたら、きっと本物と比べたら焚き火くらいの小ささで、所詮真似事で、大いにデフォルメも入っていたろうに、それでも背に冷たいものが流れた。
     そうか、ここまでやっていたのか、この男は。
    ――ここまでやらないと、あの男は。
    「……君は、怖くなかったのか?」
    「と、おっしゃいますと?」
     一度チェイサーで喉を潤して。ふう、と胸の空気を吐き出して、気を取り直して尋ねれば、チェズレイはすっかり雰囲気を元のまるみに戻して問い返してきた。
     そのまっすぐな視線がいたたまれなくて、そっと目を閉じる。
     今だって、鮮明に思い出せる。傷ついた目をした、無口で聡明な、あの真っ黒の男のこと。
    「……私には、どうしてもできなかった。許すことはできた。何も口にせず消えていきそうな男を、抱きしめることも。生きろと叱咤することも。あの山に縛られて、自ら鳥籠の中で罪の重さに息絶えようとするのを、扉を開けて無理やり空に放つことも。激情をぶつけられようと、この身はどうなったって構わなかった。だが……、
     結局、ヤツの心の最後の一線には踏み込めなかった。優しいからじゃない。きっと、向き合って、直視して、その末に、拒絶されるのが怖かった。それはすなわち、私の心を拒絶されるのと同じだから」
    「……あなたほどの正義感と強さを持った女性でも、恋の前には臆病になるのですねェ」
    「可笑しいだろう? 私も若かった」
    「私からすればナデシコ嬢は今だって十分お可愛らしいですが……、そう、ですね……」
     一瞬の沈黙の後、ポン、と小気味いい音が聞こえて、瞼を開くと、チェズレイは新たなボトルの栓を抜いて、ナデシコのグラスを満たしているところだった。そろそろロックはやめましょう、と上からチェイサーの炭酸水を注がれて、淡い黄金の海を泳ぐ氷がカラン、と音を立てる。
     それをじっと見つめながら、彼の瞳もまた、深い記憶の底に沈んでいくようで……、
     答えは、間を置いて返された。
    「――拒絶が、怖くなかったからでしょう」
    「……怖く、なかった?」
    「ええ。かつて、私の情念とは、ぶつけるばかりのものでした。命を燃やすべき目的は他にあるのにどうしても目を奪われ、それが苛立たしく、ひとの精神を散々掻き乱しておいて本人は隠し事に終始して……、罪に苦しむ善人なのか、人を利用する下衆なのか、途中からは、掘り返して突きつけることばかりしか考えていませんでした。
     ……その行く末に、相手が私に対してどう思うかなど、考えもしなかった。それでいいと、思っていた……」
     抑揚に乏しい、静かな声だった。いつもの語り口調とは違う、身の内をひっくり返して、散らばった言葉を拾い集めながらのような。
     ナデシコもそのテンポに合わせて、言葉をゆっくり噛み砕く。
     身を焦がすほどに執着はしているのに、常人なら考えられぬような途方もない労力を掛けているのに、相手に対して行う行動のあとにどういう感情を返されるか、それをまったく考慮に入れない、というより期待しない……、と、いうのは……、
    「……献身、だな」
    「どう、でしょうかねェ……、私はあの頃、きっと今もでしょうが……自分の痛みにも、他人の痛みにも疎かったので」
     グラスを傾けるうすい唇に、自嘲めいた笑みが乗る。カーテンの隙間から漏れ出す光がついに閉じて、いよいよ本物の夜がやってきたことを知る。それを目の端で捉えながら、ぴん、とナデシコは理解した。
    「ああ、だから――、あいつはあんなしょぼくれた声をしていたんだな」
    「しょぼくれた? ……モクマさんが?」
    「ああ。電話を掛けてきた、と言ったろう。やっと容体が安定して、君の身体が適正な体温に保たれるようになって……、どうしてみすみす見逃したんだと聞いたら、そんなつもりはなかった、あいつは律儀者だから約束をしたら離れないと、あいつも俺も望み合って同じ道を歩んでいると、その心を当然分かち合っているのだと、疑ってもいなかったって、そう返してきたんだ。重い風邪を引いたみたいに掠れた、弱々しい酷い声だったよ」
    「……」
    「意外か? 君の前では恰好つけたかったんだろうな。そういうところがあるだろう、あいつは」
    「…………」
     チェズレイは目を開いたまま、どんどんと言葉少なになっていく。言葉を砕くのに時間がかかっているのだろうと、一目でわかるような、まっさらの惚けた表情だった。
    (……なるほど)
     眺めながら、もう一つ、理解が深まった。この、ぞっとするような美貌を持ち、苛烈な愛を持ち、舌を巻くような頭脳と強さすら持った一見無敵のこの男は……、
    「君は、与えることは得意だったが、それしか知らなかった。モクマもまた、普段の言動があれだから、あいつなりに本気で口説いてはいたつもりだろうが、君の心の壁を貫くにはあと一歩足りなかった」
     だが。そっと、グラスを翳す。赤い爪の先で小さな泡が立ち上っては弾け、その向こうのナデシコの目が確信めいた光をたたえた。
    「――もう、違うんだな」
    「……そう、ですね」
     肯定の返事が返ってきたことに安堵して、続ける。
    「モクマのことはずっと調べさせていた。影を抱いて付け込む隙を与えながら拒絶して、そのくせ情に篤く見返りを求めず人に施す。人と深い関係を持つのを怖がり、求められると逃げていく。あいつはいつだって、差し出された手を取らなかった。それが罰だと思い込んでいた。そんな男が、勝手に姿を消した君を追って、なりふり構わず、たった一人でヴィンウェイに飛んで、そして見事、辿り着いて見せた」
     喉に流し込むレモンハイボールは、軽い喉越しで、爽やかで、けれど少しだけほろ苦い。ジュースではなく、きちんと果汁を絞ったのだろう。飲み干して、目を合わせる。
    「よく考えてもみろ、本当に私に信を置いて頼ろうとするならば、犯罪シンジケートに行き当たった時点で声をかけるべきだ。なのに、それもしなかった。それこそ、そんな余裕もなかったのだろう」
    「――、」
    「ありがとう、チェズレイ。私にできなかったことをしてくれて。正直に言えば、マイカに発つ前あんなに揺らぎ、今にも崩れそうになっていたあいつが、戻ってきたら見たことない目をしていた。変わったのだと、一目でわかったよ。そしてその視線の先に、君がいることに気づいた時……、悔しいと、そう感じたよ」
    「…………、」
     もうすっかり物言わぬ人形のようになってしまったきれいな顔が、しゃんと伸びたまま固まっていた肩が、『悔しい』と、そうこぼした途端にぴくりと揺れた。だけど、もう今更止めてはやらない。誤解なんかも、させてやらない。さらに言葉を紡いでいく。
    「先を越されてどう、とかじゃない。もとより私はあいつの優しさに懸けて、利用することしか考えていなかった悪い大人だ。
     そうではなくて……、あの頃、私に君と同じことをする力があれば、あいつに二十年の苦しみを味わわせることもなかった、なんていう自分への後悔は……、まあ、あれだ、先ほどの話を聞いて無理だと悟ったよ。まず女だという時点で、あいつは私に刃を向けはしないだろうからね。抉らせてももらえなかったろうな」
     一息で言って、それからもういちど、空になった透明を顔の前に翳す。
     その向こうで、ゆらゆらと紫の瞳が揺らめいている。
     困惑、逡巡、驚き、それから他にも、きっと、もっと。
    ――ああ、こんな顔を、他人に晒すようになったのだな。
    「……、ナデシコ嬢」
    「うん?」
    「私もあなたに、ずっと、言いたかったことが」
     おずおずと切り出された声はささやくようで、合間にふう、とため息が挟まった。その目尻が、うす紅色に染まっている。さすがにあれだけ割っていても、彼のアルコール許容値に達するくらいにはなってしまったのだろう。
     というか、おそらく、相当酔っている。先のナデシコの言葉に揺さぶられたのもあるのだろう。それでもそれを表に出さないのは、彼なりの意地もあろうが、それを言い訳にしたくはないし、他ならぬ自分とモクマについて話すのに、酔うだなんて礼を失するとでも考えているのだろう。まったく、どこまでも律儀な男だ。
     だけど、こちらは悪い大人なので。彼が酔っているからこそ零す本音があるのであれば、逃さずに聴きたい。
     気が変わらぬよう、ずい、と身を乗り出す。
    「何だ? なんでも答えようじゃないか。この場を設けた甲斐があった。私ばかりに得では申し訳ないからな」
     ずるい言い方をしていると思う。これではモクマのことを責められない。
     だけどチェズレイは目の奥の怜悧な光を今やすっかり鈍らせて、ありがとうございます、とだけ呟いて、
     白い手袋に包まれた細い指がグラスの上で遊ぶ。沈黙を、沈黙で待つ。
     それで、ついに聞こえてきたのは……、
    「……確かに、モクマさんの腹の底を暴いて過去と対面させ、守り手として覚醒させたのは私でしょう。ですが、同時に――、
     世界征服なんて夢に、同道させたのも私です」
    「――」
     予想外の言葉だった。
     更に驚いたのは、チェズレイの声が、まるで、叱られるのを待つ子どものような色をしていたから。
    「……彼が、ACE本社の屋上で、私を庇って銃弾の前に身を投げた後、手術室の前で祈りながら、ああ、駄目だ、と、思ったのです。彼は心底から守り手なのだと。そばで見張らないと、その命を信念のために燃やしてしまうと。覚醒させた責任を取らねばならない、だって、死は終わりなのですから。……もちろん、私の個人的な欲求も大いにありましたが」
     迷い子のような声は、けれどつっかかりなくすらすらと続いていく。きっと、ずっと考えていたことなのだろう。
     顔が上がる。瞳だけはいつでも、危ういほどに真っ直ぐだ。
    「だけど、彼は、そうではなくて……、あの頃にはもう、すっかり生まれ変わっていた。見くびっていたのです。
     彼にはきっと、違う人生もあったろうに、私が梯子を外してしまった。運命の輪郭を変えて――」
    「それは違う」
     食い気味で返す。
     ……なるほど、これはきっと、モクマにも言っていない、酔ってこそ口に出せた、傷に鈍感な彼の内側で爪を立てていた負い目だったのだろう。
     どこまで自覚していたかもわからない。彼の心の根は今まで深い雪の中に埋もれて成長を止め、それがやっと先の一件で息を吹き返したのだから。
     だけど、チェズレイは自分にこれを告げたかったと、そう言った。かつて傷ついたモクマに触れ、初恋を捧げ、今だって胸の特別なところにその存在を置いている自分に。
     ……光栄なことだ。ならば、真摯に向き合わなくてはいけない。
     そのばかみたいな勘違いを、なんとしても糺してやらねばならない。
    「じゃあ聞くがね、チェズレイ。君が覚醒させた守り手は、使命のために命をそう易々と投げ出す男ではなくなっていたと、そう言ったな。しかし、事実として君を守った。ならば――それは何より、君こそが特別だったという証左になるのではないか? ならば、仮に君が誘わなくとも、あの語っても語らなくとも折れん男だ、勝手についてきていたと思うぞ」
    「……。もしもの話は、わかりませんが――」
    「見くびるな。あいつは自分で選んで、己の人生を決めたよ。もう、それができる男だ。後悔なんかしているはずもないし、外野がとやかく言うことでもない。ましてや、私に何かを思う必要もない。それこそ、『もしも』なんか無いんだ」
     そう。もしも、なんか無い。あの時のナデシコにできることはあれしかなかった。過去に戻ることはできない。変えられるのは、いつだって未来だけだ。
     いつの間にやら、どちらのグラスも空になっていた。
     手持ち無沙汰になって、その手が迷子の子どものようで。そっと手袋の上から手を重ねると、また肩が震えて、けれどチェズレイはその温もりを受け入れてくれた。
     出会った頃なら、そもそも触れることすら許されなかったはずだ。
    「……それに、ヤツに人生を変えられたのは君もだろう。これまでも、数えきれないほどの人間を揺さぶってきたんだ。たまにはあいつだって、人生を変えられていいはずだ」
    「……、」
     声色を変えて軽口を言えば、困ったように、でも、うすく笑みを浮かべてくれた。ああ、そうだ。そんなに綺麗なんだから、きっと、笑っている方がいい。
    「二十年前より、いや、再会した時よりも――、ずっと、いい目をするようになったよ。迷いがなくなった。前を見られるようになった。
     それはたとえ危険な道を選ぼうとも、死んだように生きるよりも、ずっと嬉しいことだ」
     どれもこれも、本心だった。本心だから、すらすらと口をつく。
     微笑んで言えば、けれど今度はチェズレイはさらに眉を下げて……、続いた声は、触れた指先は、すこしだけ震えていた。
    「……あなたのほうが、よほど献身的だ」
    「どうだろうな。情も擦り切れたら思い出だよ。どちらかというと実家の犬に子どもが出来たのを聞くような気持ちなんだ」
     だが。手を握ってぐい、と詰め寄る。
    「君には拒否権もあることを忘れずにな。
     ……あいつ、年々開き直ると言うか、ふてぶてしくなりすぎじゃないか?」
     声を落として内緒話のように言ってやれば、間近のチェズレイはぱちぱちと瞬きをして、
    「それは……、……そう」
     とぽつりと返した声は、わりと真に迫っていて……、

     それから数分後。
     あっはっは! と、静かなリビングにナデシコの豪快な笑い声がこだました。
    「思った以上だな。いやしかし、幸福って! しかもそれを急に言うって! まったく、タチの悪い男だな……」
     ひいひい、笑いすぎてお腹が痛い。
     親挨拶に行った、というだけならとうとう腹を括ったか、と美談にできたのに。関係の説明はお前のほうがうまいから、なんて丸投げにしたふりをして、いきなりぶっ込むにしては重すぎる宣言である。チェズレイもさぞや、あのポカン顔を披露したことだろう。
    「はー、でも、そうか、……幸福か……、」
     目尻の涙を拭って、じっと、大笑いにすこし気圧され気味の瞳を見つめる。
    「……モクマのもとに、君という名の、鮮烈な、流れ星のような……美学に生き、気高く、賢く、情に篤くて時に愚かなほど無鉄砲の――、幸福が現れたことに感謝するよ」
    「……ナデシコ嬢……」
    「だが、君だって、嬉しかったろう? あいつに、そう言われて」
    「……っ」
     まっすぐに問えば、すみれの目が、今日のうちで一等大きく揺れた。
     みるみるうちにその表面に水が湧いて、たちまち海になって決壊する。目尻からほろりと、一粒溢れたらもうとめどなく、涙はこぼれ落ちていく。
    「……。はい……」
     堪えきれず目を閉じて、人工の明かりにアートメイクをきらめかせて、頷く声が、震えている。
     ……それは、同じ人間かと疑うような、途方もなく、うつくしい光景だった。
    「ああ、すこし妬けてしまうな。
    ――あいつは、君にそんな顔をさせるのか……」
     手を伸びばして、涙を掬う。素肌の触れ合いは不得手だったはずだが、チェズレイはやはり、何も言わずに受け入れてくれた。
    「……泣かせてしまったと知られたら、守り手殿にどやされてしまうな」
    「どうぞ、ご内密に。……調子に乗るので」
     静かな声はばつが悪そうで、でも、照れ隠しというよりはだいぶ本心を感じさせた。モクマの反応を想像して、フ、と、笑いが零れてしまう。
    「……ああ。まったくだ。それじゃあ、二人きりの秘密、だな」
    「ええ……、お心づかいに感謝します」
     チェズレイは静かに泣き続けた。いろいろと溜まっていたものがあったのだろう。
     溢れ続けた涙がやっと途切れて、ふう、と吐いた息は重い荷物を置いたみたいな安堵が滲んでいた。もう酒は十分だなと二人分のチェイサーを注いで、もう一度だけ乾杯をする。
    「……だが、やっと君の素顔に触れられた気がするよ。私と二人きりのときはいつも気を張っていただろう。昔は公安部長の真意を探って、最近では……、なんだろうな、さきほどの、負い目の話かな」
    「……すみません、そういうつもりではなかったのですが」
     心当たりがあるのだろう、声が曇る。ずいぶん、素直に感情を出してくれるようになった。
    「謝ることじゃないさ。だが、モクマが君に惹かれる理由がよりわかった。
     ……君は、きれいだな。見目の美しさだけじゃない。その心も」
    「光栄ですが……、私は悪党ですよ。立場で言えば、あなたとは相容れぬままだ」
    「それでも、だ。今は立場は関係ない、ただの友人同士の飲み会なんだからな。
     ……闇の中でこそ、輝く光がある。濁っているからこそ見える紋様がある。
     なんにせよ、君の涙は宝石のようだった。どうにも、守りたくなってしまうよ」
     耳元で囁くように言えば、くすぐったかったのか、チェズレイは一瞬目をひらいて、それからくすくすと、それはそれは楽しそうに、子どもみたいに笑って見せた。
    「ナデシコ嬢、あなた……、薄々感じてはいましたが、モクマさんよりさらに人たらしのようだ。あなたに素晴らしい部下のできる理由がよくわかりましたよ。あやかりたいものです」


     ノックに返答する前にドアは開かれた。
    「チェ〜ズレイ、リビングに本忘れてたよ……、」
     親愛なるボスならばこんなマナーのないことはしないし、あの野獣でもそこまでひどくはないはずだ。まあ、代わりに蝶番のほうが悲鳴を上げる羽目になるかもしれないが。
     だけど今日ばかりは、チェズレイは相棒の狼藉に苦言は呈さなかった。
     なぜならば……、
    「って、あれっ、一人で飲んでたの? しかも結構酔っとる?」
    「……ええ。あなたが、立派だったので、祝杯を……」
     とろりと蕩けた瞳。デスクチェアに凭れた身体は流体のように傾いで、動きも言葉も緩慢だ。ゆったりとした返答を聞いて、モクマは「見てたの!?」と目を見開いた。
    「さすがお前さん、目敏いな……。ちゅうか、おじさんの祝杯なら主役を誘ってよ〜」
    「ふふふ……、素直に褒めると、調子に乗りますから……。今日は、この胸のなかで、賛美はとどめておこうかと……」
    「ええー。いつも惜しみなく、大盤振る舞いってくらいくれるくせに」
     かわいこぶった膨れっ面に、チェズレイはフ、と可笑しそうに笑って、また一口、うすい黄金を喉に流す。
    「今回は……事が事、でしたから。あなたの半生を、見知らぬ誰かにあんなふうにのびのびと、胸を張って、笑顔で――、語れる日が来るなんて、出会った頃には夢にも思いませんでしたから。ナデシコ嬢との軽妙なやりとりを聞いているうちに、なんだか胸がいっぱいになってしまって……」
    「チェズレイ……」
    「まァ、ニンジャジャンの入りは0点でしたが」
    「うっ」
     穏やかな語り口調とあたたかな目に感動していたら急にひややかに釘を刺されて、飛び出たつぶれ蛙のうめきがお気に召したのかくすくす肩が震えて、それから「ですが」とつづいた声は、元のトーンに戻っていた。
    「それを差し引いても、百点満点でしたよ。本当は後でお部屋にお邪魔しようと思っていたのです。ただ少し気恥ずかしいので、先にアルコールを入れて弾みをつけようかと」
    「……なるほどね。ま、なんだってお前さんと飲めるなら嬉しいよ。リビング行こっか? 結構酔ってそうだし、一旦お水入れた方がいいよ」
     ……問いかけの形を取ってはいるが、断られても強行するつもりでいた。
     チェズレイは常なら一人で晩酌なぞしないし、モクマと飲むときは常に見張っているので、こんなに酔っているのは珍しかった。理由は可愛らしいものだったが、このままじゃ明日に響くだろう。せっかくの久々のミカグラ島でのホリデーを、二日酔いで潰すのはもったいない。
    「いいえ」
     だけど、チェズレイは頷いてはくれなかった。
     とはいえ、ここがいいと言うわけでもなく――、

    「えーと……随分のびのびしちゃってたんだけどー……」
    「久々の一人部屋ですもんね。ですが掃除はきちんとされているようですし酒瓶が転がってもいない。苦節一年半の教育は功を奏したようだ……」
     かくして酔っ払いの望んだ二次会の場所は、モクマの部屋であった。チェズレイの足取りときたらいかにも頼りなく、モクマはキッチンとを何往復もして水に炭酸水にジュースに……チェイサーと割り材になりそうなソフトドリンクを自室へ運ぶことになった。ベッドに横並びに座って、近くの机を引っ張ってきて並べていく。
     そんな心配をされているのに気づいているのかいないのか、チェズレイはマイペースに感動していて、でもそれはもう完全に事実なので、モクマもあはは、と笑うしかない。
     気を取り直しておちょこをかかげる。中身はおなじみどぶろくで、チェズレイのグラスの方はほとんど豆乳。
    「んじゃ、乾杯」
    「ええ。あなたの素晴らしいスピーチに」
    「ありがとね」
     グラスを合わせてそれからクッと煽ると、喉を焼く深い旨味。
     人間ドックを誕生日に貰ってから休肝日は増やしていたし、チェズレイを追いかけている時も療養中もそれどころじゃなくてほとんど飲んではいなかったが、やっぱり酒は節度を守ればたまらなく美味しい。
    「……実は、昨日、ナデシコ嬢と飲んでいたのですが」
    「ああ、うん、聞いたよ。何話してたんだい? ちゅうても、だいたい想像はできるが……」
    「ではきっと、ご想像の通りに。どうやってあなたを更生させたか、その一部始終をつぶさに……、ね」
    「ははは……びび……りはしないよね、ナデシコちゃんはね」
     節度を守れていないほうの相棒がとろとろ声で言うことは、昨夜に本人から直接聞いたことだった。ナデシコをして『鮮烈』と言わしめた荒療治は……まあ、いまだに夢に見るくらいの劇薬だった。とはいえそれくらいじゃなきゃあの頃のモクマには効かなかったわけだけれど……。
    「ええ。……それよりも」
     しみじみ思い返していると、そんな余韻に浸る暇はないとばかり、ずい、と、チェズレイがこちらを覗き込んできた。
    「……ちゃんと、ナデシコ嬢に会えたからこそ命を繋げられたのだと、感謝をお伝えしましたか?」
    「うん」
    「スピーチの時だけではなく、直接も?」
    「うん」
    「きちんと、伝わった?」
    「……うん、きっとね」
    「ン……そうですか。それなら結構」
     目を見返してすべてに頷いていくと、満足げにチェズレイは微笑んだ。
     ……相棒は、故郷での一件を経て、確かに変わった。想いが、言葉が。相手に伝わったかまでを、気にするようになった。
     それは偏に山小屋で発覚したモクマとの感情の理解の差に起因するものであり、だからこそ、その変化は歓迎すべきものだった。……それにしても、今のはちょっと、あからさますぎだけれど。
     なんでも知ってなんでもできるこの賢く強い男は、ときどきとても不器用な子どものようになり、だけどそこがまた、たまらなく愛おしいと思う。
     もう一口酒を煽ると、チェズレイはまだ、じっとこちらを見つめていた。
    「何かまだ言いたいことがありそうだね。聞いてもいいかい?」
    「ええ。昨日、ナデシコ嬢と飲んでいる間に……嬉しいことがありまして」
    「え、そうなの? 何々、聞きたいなあ」
    「ふふ、いいですよ。実はね……」
     素直に聞けば、素直に返されてほっぺたが緩んでしまう。酔うともともとかわいくなるチェズレイだが、今日の良い方はなかなかストレートだった。
     ……それほど、嬉しいことがあったのかもしれない。
     おとなしく耳を傾けると、まず、ほう……と、深い深いため息が部屋にこぼれて、
    「その、命を繋げてくださったナデシコ嬢に、あらためて、あなたを頼むと任せて頂けたので……」
     続いたのは、ずいぶんと肩の力の抜けた、やわらかで、そよ風のようにゆっくりで、そして、本当に嬉しいのだとわかる声だった。
    「へえ、そりゃあ……嬉しいねえ」
    「ええ……、お母上のときもそうでしたが、私たちの関係を、特に、あなたにとって重要な人物に……、認めてもううのは……、私とあなたの間にある感情は二者だけのもので、そこに理解も肯定も、本来なら不要なのに、けれど……、」
     ……とても、うれしくて。最後の言葉はほとんど吐息めいていた。受けて、その内容も相俟って、モクマの心もぽかぽかと温められる。
    「うん、うん。……そうだね、わかるよ。自分のことってさ、どしても、自分じゃ全部は見えないから。人に言われて分かることってきっとある。
     お前が俺を、もう守り手として生きていると断じてくれたことも――、」
    「あなたが私に、のびのび笑って自由に生きていると認めてくださったように」
     言葉がつながって、ジグソーパズルのようにぴったりはまりあう。そうね、と目を伏せて。
    「自分のことは、自分じゃわからない。認めてもらって初めて、知る輪郭がある。
     それは単位がふたりになったって、おんなじっちゅうことなんだろう」
    「……、……」
     また、長いため息があった。
     よくよく表情筋の動くチェズレイは、心に言葉が響いたときこそ、実は真顔になったりする。
     薄い唇がいちどぽかんと開かれて、それから軽く引き結ばれて、
    「……モクマさん……」
    「おっと」
     グラスを置いたと思ったら、間髪入れずに抱きつかれた。おちょこの中のどぶろくがベッドに溢れなかったのはさすがの守り手の体幹といえよう。なんとか手探りでこちらも置いて、背中を撫でると甘えるように擦り寄ってくる。
    「珍しく甘えん坊だねえ。昂っちゃった? でもさ、おじさんも今日、過去を言葉にしてさ。人に言われて知る自分も居るし、言葉にしてわかる内心も有るよねえ。だけどそれも、聞いてくれる人があるからこそで……」
     ぽん、ぽん、一定のリズムに、チェズレイはなにも言わずモクマの言葉と鼓動に耳を澄ませている。
    「……どうしたって、ひとはひととつながらないと生きられないんだって、痛感したよ。ナデシコちゃんが落っこちそうになる命を掬ってくれて、餓死は殉死にならないと叱られて。無償の優しさに、懸命さに、あの島から距離を置かせてもらったことで、ギリギリのところで糸が繋がった。その後もたくさんの人に支えられて、敷いてくれたレールの上で、その果てに、お前に会えたんだ……」
     抱きしめる腕の力を緩めて、そっと胸を押して、顔を見る。おとなしく従う薄い身体の上の、宝石の瞳のうつくしいこと。
    「そんで、お前がこの間、道を誤りかけた時――、あ、これは、おじさんの主観ね。おじさん的にはお前さんがずーっと俺のそばにいてくれるのが正道なワケで……、夢中で追いかけて、それで、なんとか捕まえられたから、今こうやって、無事に傷も癒えて、俺の胸の中に居てくれる。本当によかった、幸せだなーって、そんなこと思ったら、どうも昂っちゃってさ……」
    「……」
     と、そこまで一息で語って、モクマははっと我に返った。だって、目の前の男はさきほどからひとつも言葉を発していない。
     独りよがりに熱弁を繰り広げてしまったのが照れ臭くて、モクマはあわてて明るい声を出す。
    「あー、やばやば、喋りすぎちゃったね。スピーチの熱がまだ……、んっ!?」
     ……誤魔化すような軽口は、けれど用を成さずに上書きされてしまった。
     首に腕を回されて、ちゅ、ちゅ、間髪入れずに捩じ込まれた舌が、火傷するように熱い。
     いままでで一番じゃないかというくらいの積極的な動き。なのにどこかたどたどしいのは、習得してからまだいくらも経っていないから。
    「んんっ! ん、ん……っ」
     ほら、その証拠にモクマに舌を戻されて、口中を舐め回されてすぐに主導権を奪われてしまった。目がとろけたバターより甘ったるく、酔いよりずっと色っぽく濡れていく。
    「は、あ……っ、は……」
    「っふ……、……あれ、ミカグラ滞在中は禁止令~……じゃ、なかったっけ?」
     さんざ味わって漸く解放すれば、チェズレイは顔を真っ赤にして肩で息をしている。おじさん必死で我慢してたんだけどな~、とか、意地悪く付け足せば、チェズレイはこぼれた唾液を拭いながら、なんとか平静を装って答えた。
    「そう、です。野獣殿の耳はとてもよくて、ボスとハッカー殿に万が一にも変な声を聴かせるのは情操教育に悪い。ナデシコ嬢に知られては末代まで酒の肴にされるでしょう」
     でも。でも、今は……みんな、出払っています。
     ……はりぼての平静は、けれどすぐに瓦解した。
     すぐそばの、声も目も、欲と期待の海水でいっぱいに満ちている。
    ――ああ。いつの間にこの子はこんな、分かりやすくなってしまったのだろう。
     まあ、自分のせいなのだけれど。せいぜい反省して、責任、とらないとね?
    「だから本なんか忘れたフリしておじさんが来てくれるの待ってたの? お酒まで飲んで? 悪い子だねえ」
    「いちど決めたことを覆すには、弾みが必要なのですよ。リハビリです。……まァ、ウイスキーは少し早かったですが……」
    「え、あれウイスキーだったの? オンザロックで? そりゃ酔うって……」
    「ナデシコ嬢があまり美味しそうに飲むもので……」
    「だからってねえ……」
     渋い顔をして過保護モードに入りかけたモクマに、この話は分がわるいと踏んだのか、「それよりも」とすこし早口の声が挟まって、
     かと思えば眉をへにゃりと下げた、哀れっぽいお決まりの顔に早変わりして、
    「……約束を破る悪い子は、お嫌いですか? モクマさん……」
     尋ねてくる内容が、やっぱりどこまでも律儀で笑ってしまう。
     たぶん、本当は結構、どきどきしていた。だからこそ、モクマが部屋に来るよう仕向けたのだろう。自分から尋ねてさらに誘ったのでは、もう言い訳が立たないから。
     でも、彼なら本気を出せばもっとうまくモクマの欲をくすぐって手を出させることもできたろうに、それはしなかった。義理堅さの表れでもあろうが、きっと、求めれば許してもらえると、理解できたゆえに。
     開かれる心。伸ばされた手。……そんなの、掴まない道理はなく。
    「ううん。知ってる? 下衆はねえ、悪くて可愛い子が大好きなの」
    「おや、では私たち、もしかして……お似合いかもしれませんねェ?」
     細まった目と、嬉しそうな声がかわいくて。そっと体重をかけると、抵抗せずにチェズレイの身体はベッドに沈んだ。追って顔の横に腕を突っ張って、再び唇を啄もうとしてから……、はっと気づく。
    「あー……でも、するならチェズレイの部屋のが良くない? 最低ラインはクリアしてるにせよ、久々の一人部屋だからおじさん、やっぱ好き勝手のびのびしちゃってたワケで……」
     さすがにベッドで晩酌、とかはしてないけれど。シーツは今日替えていないし、たぶんそれに気づかぬ相棒ではない。そんなことで気を散らせるのも勿体無い……、情けないけど……、と言うけれど。
    「いやです」
     チェズレイの返事はにべもなかった。えっと驚く間もなく、頭の上の枕に手を伸ばして、ぎゅっと、宝物のように抱きしめて、
    「……あなただけの香りがするベッド、ひさびさですから。ここがいいです」
    「〜〜、煽るねえ……っ」
     言われたことも、動作も、いたずらっ子のような話し方も、眩暈がするようだった。目もとを押さえて奥歯を噛む。ああもう、こっちはお前さんが思っているよりずっとずっと我慢してたんだからね!!
     ひくい唸り声に、チェズレイはますます上機嫌になって、「もうすっかり、ハグも公共交通機関にも慣らされてしまいましたのでェ……」などと語尾にハートでもくっつくような甘ったるい声を出してみせた。
     はあ。すうはあ。なんとかお腹の中であばれる獣を宥めつつ、二人の間を阻む邪魔者の枕を取り上げて、ちゅ、と口づけを落とす。
    「……じゃあ、背徳の味、覚えちゃおっか」
    「フフ。悪い大人ですねェ、私たち……」
    「そうねえ、これじゃサンタさんは来てくれないかもねえ。でもさ、俺のいちばんほしかったプレゼントは、実はもう、もらっちゃってるんだよね」
    「おや、何でしょうか?」
    「賢いお前さんならわかっとるだろ? 元気になったお前、だよ」
    「フ…… ずいぶんと、甘ったるい口説き文句ですねェ……」
     唇がくっつくような距離で、誰もいないこの場所で、でも、神様にも聖人にも聞かせないくらいの小ささで、くすくす、くすくす。おしゃべりの雪合戦は繰り返される。
     身体の奥にはすっかり火がついているけれど、でもたまらなく楽しくって、もうちょっとだけ、このままで。
    「ありゃ、酔っちゃいそう?」
    「酒というよりは、あまりの糖度に胸焼けがしそうだ……」
    (……ああ)
     たまにチェズレイの丁寧な言葉が崩れるとき。すこしだけ低い、かすれた声が聞こえる時。いつだって、モクマの心に花嵐が吹き荒れる。
     どうしよう、こんなに幸せでいいのだろうか。しかもそれが、これから毎日、ずっとずっと、続いていくなんて。
     この道に辿り着かせてくれたすべてのものに、一生かけて、感謝をしていかなくてはなるまい。
     歳をとるのは悪いことじゃあないが、涙脆くなるのはいけないな。つんと喉に込み上げたものをなんとか押し殺して、もう一度キスを落とす。
    「そりゃ良くない。たくさん食べて慣れてもらわんと。だって、こんなの全然、序の口だからね」
     誤魔化すように唇に乗った軽口は、二十年以上前のあの日、きれいな名前をした恩人にそうあれと祈られたものだった。

    おしまい
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    nochimma

    DONEあのモクチェズJD/JK長編"spring time"(地球未発売)の待望のアフターストーリー!わかりやすいあらすじ付きだから前作をお持ちでなくてもOK!
    幻想ハイスクール無配★これまでのあらすじ
     歴史ある『聖ラモー・エ学園』高等部に潜入したモクマとチェズレイ。その目的は『裏』と繋がっていた学園長が山奥の全寮制の学園であることを利用してあやしげな洗脳装置の開発の片棒を担いでいるらしい……という証拠を掴み、場合によっては破壊するためであった。僻地にあるから移動が大変だねえ、足掛かりになりそうな拠点も辺りになさそうだし、短期決戦狙わないとかなあなどとぼやいたモクマに、チェズレイはこともなげに言い放った。
    『何をおっしゃっているんですか、モクマさん。私とあなた、学生として編入するんですよ。手続きはもう済んでいます。あなたの分の制服はこちら、そしてこれが――、』
     ……というわけで、モクマは写真のように精巧な出来のマスクと黒髪のウィッグを被って、チェズレイは背だけをひくくして――そちらの方がはるかに難易度が高いと思うのだが、できているのは事実だから仕方ない――、実年齢から大幅にサバを読んだハイスクール三年生の二人が誕生したのだった。
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