その昔、まだオレたちが仲良しだった頃の話だ。
喧嘩したオレたちが仲直りをする切っ掛けはキスだった。頬へのキス。それを始めたのは弟からだ。母はそれを見て嬉しそうに「可愛い」と言って止めなかったし、オレも弟にそうされるとそれ以上怒ることが出来なくて許してしまう。キスした後に、眉毛を下げて情けない顔でしょんぼりとする弟を見れば、仕方がねぇな、という気になってしまうのだ。
それが途切れたのはオレがアイツらに【躾】をするようになったからだった。母が死んでオレが家長ともなれば、甘やかしてばかりじゃいられない。今まで許していたことも厳しく対応しなくては。そう考えて接しているうちに、いつしか嫌われてしまったらしい。漸くそれを知ったオレはガキの頃の思い出だけを胸に家を出た。きっとアイツらにとってそれが一番いいだろう。そう思っていたから。
だと言うのに、これはどういうことだろう。
「大寿ー、なぁ、まだ構ってくんねぇの?」
そういう弟はオレの背にしがみつくようにして抱き着いてきている。さながら、デカい犬でも飼った時のように懐かしい温かみを背に感じながら、オレはこの状況を振り返ってみて頭を抱えていた。
「構ってくんねぇも何も、いきなりやってきて構ってやる義理はねぇよ」
「事前に言っても構ってくんないじゃん」
「こうやってべたべた付き纏ってくるからだろうが」
指摘するように言えば、それでもめげることは無く、へらりとだらしない笑みを浮かべてみせる弟にオレは頭をわし掴んで押しやったが、それでも八戒の長い腕はオレの腹に回って離れる気配がない。コイツは昔から甘ったれだと思っていたが、ここまでべったり甘えただっただろうか。オレが少し目を離した間に、柚葉や懐いてる兄貴分によってこうなってしまったのか。
柚葉にもこんな甘え方をしているのだとしたら、流石に苦言せねばなるまい、長男として。さすがに柚葉も年頃なのだし、そう心配することでもないかもしれないが。
「オマエ、まさかと思うが…他所でもこうべたべたしてんじゃねぇだろうな?そうならみっともねぇから止めておけよ」
念のために釘をさしておくかと課題をしていた手を止めてそちらを向いてみれば、心外だというように八戒の眉間に皺が寄ったのを見た。
「しねぇよそんな。男同士で。大体、家族でもねぇのにこんなことしないだろ?」
「…柚葉にもだ」
「柚葉ぁ!?無理無理、猶更しねーよ。暫く手だって繋いでねぇのに!」
シスコンじゃねぇし、そう言って思いっきり手を振って否定する八戒に、「そうか」と返事をしながらも、オレは納得出来ずにいた。
家を出た。それきり、オレたちの縁は薄くなっていくものだろうと思っていた。
せいぜい、たまに様子を柚葉から連絡させて金の不便や不都合があるなら手助けすることがあるだろう。何せオレのことを嫌っているのだし、アイツらにとってもそのくらいの関係を保つ方が都合がいいことだろう、と。
一人暮らしを始めて暫く経ったころ、八戒は家を訪ねてきたのだ。
「仲直り、したくて。時間が経つうちに、オレも思うことがあったんだ」
そう言う八戒は相変わらずオレの目を真っすぐに見ずにそう言った。
…昔ならば、こうして向き合うこともしなかっただろう。逃げて隠れてばかりだった弟の成長を垣間見たような気になって、オレは「好きにしろよ」…そう答えた。
好きにしろ、とは言った。しかし、そんなあとに八戒があの時のように頬にキスをするなんざ、思ってもみなかった。
「なにしやがる」
思わず握った拳を下ろすことになったのは、「仲直り、だろ?」という八戒の顔が、母が生きていた時のあの顔に重なったからだ。
嫌われていると思っていた。刺され、殺されかけた。その怒りや悲しみ、家族を守ってきたのにどうして、という蟠りはまだ心に伸し掛かっている。
だが、もし、あの頃のように戻れるなら。
オレの後をいつまでも付いてくる、可愛い弟。決して憎くなりきれるわけではない。切り離せるわけがなかった。ほんの少しの期待がそこにはあったのだ。
「…心の底から許す、とは言えねぇ。オマエは一度でもオレを殺しかけたからな。だが、…聞き入れてやる」
仲直り、だ。
そうしてオレも、オレの応えを窺うように待っている八戒の頬に口づけを返したのだ。
そう言ったからか、八戒は毎週のように家に来た。理由は様々だ。
「柚葉がうっさくて」「兄貴の家のテレビでホラーが見たい。一緒に」
そういう八戒を締め出そうと思えばできた。しかしその度にのらりくらりと躱される。
神経が太いというか、なんというか。かつてはオレを見るだけでビビりあげていたというのに、一度侵入を許されたことで気がデカくなっているのだろうか。
やがて、一緒に過ごすうちにいつの間にか多くなったスキンシップに、漸くオレは事の異常さに気が付いたのだ。
兄弟というものは、こうもべったりとくっつくものだろうか。映画を観るとの名目でやってきた八戒がゼロ距離の位置で肩に寄りかかってくるのを感じて唐突にそう考えた。とは言え、比べるものがいないので普通の家庭というものがオレにはわからない。
唯一交流のある友人、三ツ谷の家は妹だし歳も離れているので仮に抱き着いてきたとしてもまぁ、違和感はないだろう。なので参考にはならない。他の知り合いに聞こうにも「弟がべたべたしてくるんだがこれは普通なのか?」だなんて聞くのも馬鹿馬鹿しい。
そうこうしている間に月日は経ち、こうして八戒が好き勝手するのを止められずにいる。
「でもさぁ」
すっかり課題であるレポートを映した画面を前にして、キーを叩く手を止めてしまっているオレに、相変わらず離れようとしない八戒は間延びした調子で声を掛ける。
「兄貴だって、嫌じゃねーだろ?」
「何?」
「だって、抱き着くな、べたべたすんな、って言うけど離れろ、とは言わねぇし。オレさ、殴ってくる兄貴は嫌いだけど、こうやって背中に背負って帰ってくれる兄貴のこと、大好きだったんだよ」
それはあの日突き立てられたナイフのようにオレの柔らかいところに刃先を突き立てるようだった。喉のぎりぎりの位置まで、その何かは競り上げてくるようで。寸でのところでオレはそれを飲み込むことが出来た。
大好きだという弟が、突然拳を振り上げるようになったオレのことをどんな顔で見上げていたか。網膜に焼き付いているその顔に、罪悪感を持つことは許されないだろう。何より、オレ自身それを認めることは出来ない。
他にやり方を知らなかった。今はそういうことが出来る。だが、すべてがすべて、オレが悪いのだと認めるほど、オレは強くはない。この拳を痛めて心を圧し潰してやってきた行いは間違っていたことになってしまう。
「だからさ、仲直り出来て嬉しいよ」
そう言って、頬に口づけをひとつ。
赦されたような気になってしまうその行為は、求めていたものの欠けた一部のようで手放しがたくなるのだ。それは違和感がある行いだとしても、オレはこの手を振りほどくことが出来ない。
「ね、大寿。構ってくんねーの?もう待ちくたびれたって」
そう言って顎を捉えてこちら側を向かせる八戒のことを、その唇が頬以外に触れようとも、オレは押しのけて逃れようだなんて思えなかった。