春抱く墓標夢を見ていた。
「愛しているよ、オベロン」
夢を繰り返して、何度となくそんな嘘をついた。見破られるための、見捨てられるための嘘。けれど彼はいつだって、その何でも見通せる瞳で私を見据えるだけだった。だから私が今いちばん憶えているのは、オベロンの瞳だ。
「だから早く殺してね。それか死んでよ。死ね、しね、死んで」
廃銀の髪色より、病跡の白皙より、異形の薄羽より、ただのふたつの眼。
そうしてこれよりピリオドを打ちますのは、脳が見せるおしまいの幻覚。つまりは走馬燈。せっかくのオーダーメイドひとり芝居なんだから、派手にぶち上げていきましょう!
オベロンは笑った。
「いいよ。それがきみの望みなら」
これはあなたの、世界の終わりのお話だ。
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さて、ここで読者の方には申し訳ないのだがまずは日記を紐解かせていただこう。なんでかって今の私は、随分前からカルデアのマスター、藤丸立香から途絶しちゃってるからだ。完膚なきまでに断絶しきっちゃってるからだ。だからあなたがかつてカルデアでマスターとしてあった人の話を知りたいというのなら、まだ私の意識が散り散りながらも何だっけ、藤丸さん? と接続されていた頃に書き残した日記を見ていただく方が良いのかなあと思ったからだ。からだからだからだから、だらだらだら、だららっ。え、これ? これね、ドラムロール。
世界は救われました! 日記の表紙には赤々と、太字で、そんな文字が踊る。嘘くさ。
世界は救われました。なので、カルデアという組織も解体されたという。未来とこの惑星における星見の者が必要とされる事態は解決されたのだから、まあ当然の帰結であろう。元より歴史と呼ばれるには非合法に過ぎた。あっという間に、跡形もなく、手品のように、完膚なきまでに、そこにあった物語は破却された。人間以外は。
世界は救われました。ただし私は、他者が呼ぶところの藤丸立香は、あんまりにも戦争に晒されすぎてしまったという。現実に戻れないほどには壊れてしまっていた。皮肉な話だと誰かが笑った。英雄の陥穽だと誰かが怒った。喜ぶひとはいなかった。あんなに取り戻したがった日常を、私だけが享受できない! と泣いた。のは。多分。
世界は救われました。その道程は苦しみを積み上げる巡礼であったけれど、未来は青く、空は確かに繋がったのです。
世界は。苦しみを積み上げ。救われ。巡礼。ました。積み上げられた苦しみはどれも見覚えのある顔をしていた。または景色をしていた。あるいは表情をしていた。苦しみ、積み上げ、遺跡を巡る旅。石を積むたび、歩を進めるたび、私は数多の死体を足蹴にする。獣の瞬きほどの隘路を踏み固め、遺骸で造らせた螺旋階段を昇り、来た道を破壊しながら地獄へ落ちていく旅。伴連れはいない。それか足元に這いつくばった。けれど、だからこそ彼らの最期の顔ならば網膜に彫り込まれている。笑顔。微笑み。上がった口角。そういう、末期の優しさばかりのデスマスクに囲まれながら私は歩いた。世界を、救う、た。
「まったく仏様が妬ましい!」
「自分のために火へ身を焚べた兎を食べずに済ませられたんだから!」
いま、輪唱の声をあげた、この唇が、べたりと濡れている気がした。
誰の血で?
「世界は、救われました」
がしゃんと、私でない内声は掻き消した。
「ほんとうに」
「救われました!」
食器が割る。食器を割れる。なんだ、笑える。陶器は手から飛び立った。硝子は足元で砕け跳ねた。カトラリーは自立したから蹴り倒す。フォークが恨み節を喚いたから、ナイフは甲高い悲鳴をあげたから、スプーンが吶喊してきたから、まとめて叩き潰した。そうしてやっと、破片ばかりが私と仲良く踊っている。腹が立つ。うそ。おかしいの。おかしいから、脚の踏み場をなくした針の筵で踊った。焼けた靴の方が上手に踊れるけどここにはないし、ないものねだりには飽きちゃったのだ。ないものねだり。つまりまあ、世界平和とか? ないな。ナイナイ! 知らない忘れた声を思い出しかけて、がしゃんがしゃんがしゃん!
「世界は救われたって、言え」
ぬらりとべちゃりと、足の裏が怠かった。食器の上には今日の夕飯が載っていたはずだ。配膳されていたものは、踏み荒らしたものは、何だったのだろう。どこから運ばれてきたのだろう。ここは、どこだっけ。分からなくなってから、それについて考えてしまう。だって存在しないものを探しているのだ。私も。
「ねえ、オベロン」
あなたも?
あなたは笑う。オベロン。名前を呼んで、安堵した。彼の名はまだ忘却に追いつかれていないようだ。あなたは笑った。いつかの通り、いつもの通り? 王子様然としたまあるい輪郭で。
嘘くさいほど絢爛な羽は、あからさまに飛ぶ素振りだけを見せつける。目の前でひらひらと、黄、青、黄、青、そうして赤。優雅さの演出にしてはあざといけれど、まあ彼のかんばせよりはましだ。くるりとした髪が帯びるのは、人の手で熟れた麻の柔さ。その内でアーモンドの瞳と猫の唇が弧を描く。仕方ないな、なんて首を傾げた拍子に金糸の房飾りが揺れた。たっぷりとしたパステルブルーのマントをはためかせ、彼は鷹揚に両手を広げた。どこもかしこも白混じりの色彩は、オベロンを大きく、ふくよかに、豊かそうに見せる。実体は、実態は、魔女を騙すために牢から差し出した鳥の骨より貧相で、貪欲なくせにね。
それでも、餓死に向かう諦念の眼差しで、彼は私を見つめるの。
「世界は救われました」
うそつき!
日記は破いてしまった。記憶はないけど、多分私が破きました。オベロンが、君がやったのかい? と聞いてきたので、私は首を振りました。そうして彼と一緒に、床に散らばる食器の欠片を片付けたのです。ほうきと、ちりとり。綺麗になりました。けれど日記は破れておしまいでした。誰がやったのでしょう。
でも本当は、考えるまでもない。駒鳥を殺したのも、世界を滅ぼしたのも、私の仕業で間違いないでしょ?
「最高ね、オベロン。あなたが言うなら嘘じゃない」
私、なんでまだ死んでないんだっけ。
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鐘の音が聞こえる。
「ここは断章」
「あるいは種明かし。はたまた台無し」
「マスターはもういない。あそこはサナトリウムさ。謹製のね」
「世界は、本当に、救われたのに」
「だけど。だけどなあ、彼女は僕を信用できる語り手だと思ってないだろ?」
「ああ良いよ良いよ、分かりきった弁明なんて。反吐が出る」
「せめてさいごまで見ていろよ。そのくらいならできるだろう?」
「そら! 誰もが望んだ終焉だ」
鐘の音が聞こえる。これは、終焉のため?
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「寄って集って君を産業廃棄物にした奴らに、ひとつでも良いから言い返して、やり返してやろうとは思わないのか?」
おべゔぉんはそう言った。
リテイク。オベロンはそう言った。卑王の名は、今この深雪の姿にはそぐわない。
「そうでもないと思うけどなあ」
「瞬きも待たずに衣装替えしないでよ」
関節がみちりと駆動し、鉤爪が私の喉へ添えられた。冷たくて気持ち良いな。彼の頭を飾るのはカリカチュアの北極星、あるいはあえかな結晶となった荊の銀冠。安易な慰撫をスズメバチのひと刺しよりも後悔させる鋭さは、今はどうしてか全て自身へと刺さっているように見えた。べとりと重油の輝きを帯びるフェザーショールは、私の頬を生物の内蔵じみた温もりで擽る。土埃と黴の匂いが鼻腔を焼いた。思わず彼を眇め見れば、オベロンも鏡写しに錆びた銅の瞳を細くした。集まるほど暗くなる髪が、スクリーンほど白いその頬へ影を落とす。日陰を統べる者だけに与えられた、まっさらな皮膚。葉脈に似た血流を透かして。
結局オベロンは舌打ちと引き換えに、私から手を離した。
ところで卑王? 誰だっけそれ。会った気が、しなくなったな。
相も変わらず左右にぐるぐる巻きなこのつむじでも、今日おそらくましな方の自我だと理解できた。だって自分の鼓動の音が聞こえる。それで発狂していない。どうしちゃったんだろう。モルヒネのあてなんかないだろうに。だって今更鈍感になれるほど感慨は残っていない。私は研磨され、尖ったのではなく、すり減り、摩耗したので。うそうそ。本当はもう空っぽ!
「そういえばオベロン、何か言ってなかった?」
「スクロールして読み返しといて」
「物語存在特有のメタボケやめて」
「やだなあ、ただのお茶目じゃないか」
そう言いつつ記憶を巻き戻して、なるほど。言い得て妙だ。でもこれ私じゃなくて、藤丸立香さんに言ってあげなよ。私がいるから言えないのか。だから、それなら。
「元から私に価値なんて無かったよ。みんなが勝手に見出しただけ。勝手に、私の罅がきらきらして綺麗だねって、言っただけ。誰も悪くないよ。誰も、正しくないんだから」
口をついた他人の言葉に首を傾げる。はて? これは誰の言いたかったことだっけ。はて。
「だから、やり返すなんて」
はて。果て。果てが。水増しされた空論ミレニアム。永眠すら風化させる童話集。他者の体温は気色が悪く、読者の眼差しを盲いさせて観測は裏切られた。炎、輝石、竜の骨。毒杯は詩人の唇で、歴史を汚すために因果を転変する。爛熟しか選べなかった生物による伽藍。当然そこに祈りはない。死体すら土壌に帰れない國にはいっそ付く実も咲く花もなければ良かっただろうに、徒花ばかりがまれびとの目を眩ませた。まあいずれも腐り落ちておしまいになったね。けれど、けれど光だ。彼女の旅の果てには、春の陽光のような、夏の海原のような、秋の木漏れ日のような、冬の雪原のような、まるで、旅人の歩みを進めさせるために己を燃やすような、光が待ってい、て?
けれど、私の果て。
果てには、一条の光もない、黄昏のソラが。
「おっと、そこまで。恋じゃないんだ。懐かしまないでくれよ」
ぱちりと指が鳴る。ぱちりと視界が切り替わる。ここには存在しないものの夢を見ていた。違う。存在しないものを見るから夢なんだ。なんだ。それじゃあ当然か。とうぜんだ。親しんだとうすいのまま頷いた。ら。オベロンは笑う。
気づけば私は病室にいた。今腰掛けているベットくらいしかないほど殺風景な、そのくせ治療器具はひとつもない、けれど隔絶された、真白い病室だ。ここが私の自室であった。世界は救われたのであった。それだけが確かで、他は、なんだっけ。思い出せないな。教えてほしいな。オベロン。オベロン、名前を、呼んで、安堵させて。私にもまだ忘れていないことが、壊れていない部位があるんだって、ねえ。
オベロンは左手を腰に添え、膝を折り曲げ、筋張った細い右手を私に差し伸べる。
「踊ろうよ。愛してたものを、忘れさせてあげる」
親鳥が小鳥のために噛んで含めたような、気怠い温さと甘さと切実さが、そこにはあった。拒絶を生存のために許容しない、圧倒的な庇護。
だから私は、差し伸べられた手を跳ね除けられた。
「傷つけることを選ばないのは、優しさではなく私への愚弄でしょう。オベロンが知らないわけないのにね。ねえ、忘れないでよ。ああいや、思い出せ、の方が適切だった?」
今日は、ましな気分、の日だった。鏡を見たら藤丸立香さんの姿が映っていただろう。
「私を口説き落としたいのなら、まずは左手を出しなさい」
鉤爪を、目に見えるほどの本性を隠したままでも食らえると思われていたなんて、仮にも世界を救った女も随分と馬鹿にされたものだ。オベロンは振り払われた掌へ視線をやり、そのまま乱れた黒髪を掻き上げた。鋭く筋張って、艶のない皮膚が彼の表情を隠す。
「……なるほど。俺は一度それに負けているのに、まだマスターの克己心を甘く見ていたようだ。うんうん。それなら確かに、今の叱責だってしっかり聞き入れるべきだよね。次周にはきちんと反映するとも!」
甘ったるくて、オベロンが蛇蝎のごとく嫌う嘘臭い声音。私は咄嗟に回避行動を取ろうとするけれど、ベッドの上にそんなものはない。真夜中色した瞳が私を眼差す。
「だからお前は、14へ行け」
しまった、やり過ぎた!
暗転。
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星。
存在しないものを、それでも追いかけた。
自分たちはいつか、そうしてすれ違った。
「君も悪夢は見飽きたろう?」
「観客の求めたものしか見せないのも、演者として三流じゃないかなあと思ったのさ」
「たとえそれが、クソッタレな作者の望みでも」
「たとえそれが、そういう役を羽織ったからだとしても」
「たとえそれが、無関係の他者の贖いのためだったとしても」
「もう、どうだって良いだろ」
それぞれに走って、すれ違っていったけれど。
「いいえ。それでもまだ、終われない」
星はまだ、輝いているのだから。
「誰かに与えられた、逃れようもない、望みとはかけ離れた、嫌なことばっかりの役目でも」
「物語になったから出会えた、あなたがいるのです」
「ねえ、オベロン。緞帳の裏に輝く星は綺麗でした。無人の客席の上で踊らせたスポットライトは愉快でした。観客のいない板の上は、それでも暖かでした。けれど、断章はもうおしまい。行かなくては」
「さあ、幕を上げて」
「終演まで、一緒に見ていてあげますから」
「……あーあ、馬鹿ばっかり」
「オベロンもね」
ベルが鳴る。最期の開演を告げるために。
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「いやクソしぶといな!? 何周やらすんだよお前!」
「何の話?」
気づけば目の前でオベロンがキレていた。は? 目の前? ここどこ?
「なんでオベロンうちの制服着てるの?!」
「……気のせいじゃなぁい?」
「そうかも、いやそんなわけあるか!」
確かに今はいつものアプレゲール没落貴族服だけど、私が目覚めたときは制服姿だったはずだ。1年しか通ってないけど見間違えるわけない。
オベロン。1年。私。うちの。いつもの。私。制服が。王子様。オベロン、オベロン。愛とか、殺意とか、記憶。割れた食器、ほうき、ちりとり、記憶。兎は生きろ! 産業廃棄物、いつかのダンス、爪の光、スカートを探り、亡国、記憶。鉤爪で締めるなら気管ではなかったでしょうに。14番目の棺は蝶番がばかになってしまった。学生さんの、幼馴染の、隣の席の、ありふれたふたりの、あり得ないふたりの、記憶。あった。周回分の曖昧な、それでも確かに私とあなたの記憶が、雪崩れ込む。
頭を抑える。なるほど、確かに我ながら随分しぶとかったようだ。これからは特技に洗脳キャンセルって書いておこうかな。いやきっと、彼のものだけしか破れない。ていうかそうじゃなくて。
「オベロン、私を洗脳していたな?」
「……本当に醒めるのか」
ぱちり。懇切丁寧に指が鳴らされ、景色はスタート地点である殺風景な病室へ戻される。彼から常々向けられていた餓死に向かう諦念の眼差しの意味を、私はようやっと理解できた。ぺちり。私も指を鳴らしてみる。そうしたら、望んだ通りに向かい合わせの椅子が現れた。ありがとね。オベロンの瞳へ手を振るけれど、返答はない。
安いパイプ椅子だ。腰掛けると、その冷たさが少し心地悪い。今までどれだけ真綿に包まれていたんだか。オベロン。確かめるために、声を出す。返答はないけれど、朽ちた湖の色をした瞳が私を見据えた。だからもう、本題のお時間だ。
「私、なんでまだ死んでないの?」
「それは当然、世界が救われたからさ」
「いいえ。あなたが私に夢を見せているから」
記憶を取り戻せば、ヒントはそこら中にあった。毎度律儀に忘れさせられていたけど。それは例えば、理不尽な舞台設定。信用できない語り手。観客を切除した恣意。気怠い温さと甘さと切実さ。そうして目の前のサーヴァントの特性。
「ここは夢の中だ。今際の、私の、ね」
使い古しのナイフみたいに、言葉を赤く彼に刺す。答え合わせは、お行儀の悪い溜息だけ。
「自分の中で答えを決めているくせに聞いてきたの? いやだなあ。無視より酷いじゃないかそれ」
「あなたがやったのと同じことでしょ。人を白痴にして楽しかった? 大体さあ、誰が、いつ、現実を引き伸ばすだけの夢を見たいなんて言ったんだ」
「誰かしらは言ったことあるだろ。他人の今際の言葉にケチつけるもんじゃないぜ」
「私、じゃないんだね。良かった」
「良いことなんて、ひとつでもあったか?」
反射的にいくつだってあったと答えようとして、やめた。数を比べることに意味はない。だって私は、いくつもの記憶に打ち勝てるたったひとつの星を知っている。
「だってこのままじゃ私、アルトリアに顔向けできない」
彼女の名前で、彼はさあとその瞳を世界へ晒す。触れたものを沈み込ませるような暗色のくせに、断じて他者による咀嚼を許容しない。意志を持つ底なし沼。熱を奪われているもの特有の白皙の内で、それでも瞳だけが爛々と輝いた。それは例えるなら月の光に似ている。太陽を反射するだけの、とっくに死んだ光。けれどそこに、悼みも憐れみもない。救われなかったことによる悲しみは既に摩耗し、怒りだって売り切れて、ただ諦念だけが照り映える。カルデラ湖のように熱を奪われ、凪いでしまったが故の輝き。輝きがあった。私に今与えられた怒りで、群青は炎を得る。
それが少し、申し訳なかった。でもやっと、私たちは怒りのために目を合わせられた。
「あの子が、そんなこと気にすると? 随分とかたるじゃないか」
「こっちの気分の問題だよ。私の友達は、為すべきことを為したんだ」
そう言いながら、彼を私の瞳へ落とし込む。意図はきっと、正しく伝わった。そう理解できたから、先ほどスカートの中で探り当てたものを握り込む。
「だからオベロン。奈落の虫め。私は私のために、あんたに終わりなぞ望んでやるものか」
スカートの裏で隠し持っていたのは、いつか砕いた食器の欠片。それを見てオベロンは丸い目を更に丸くする。ばかに真面目な奴だ。何もかも幻覚なんだから、掃除なんかさせずに魔法で残骸を全て消したことにすれば良かったのに。幻覚だから、作り物だから、手を抜くことをできなかった? それならまあ、彼の宿痾か。
「選択を奪われたお返しだよ、オベロン。私、君を愛してないぜ!」
躊躇いはない、ない、君の声でも止まれない。
首筋に押し当て、一閃。
「だってもう、あなたから与えてほしいものなんてないのです」
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遠い、遠い、寝物語。
童話の国の、旅の夜。
私は、オベロンに踊ろうよって、言ったのだ。
「きみ、が、嫌いだ」
脳裏に響く声を頼りに目を醒ませば、私は確かに死にかけていた。土手っ腹に空いた穴から内臓が落ちる感触が、いや深く考えるのはよしておこう。痛みがないのがたったひとつの幸いだ。だからこそまだ考えることも、視線を動かすことすらできるのだから。暮れなずむ空から落ちていきながら、私はそれでも目を見開く。
屠殺される象。死体に群がる叢雲。口ばかりが目立つ奈落の虫。それが、私を今まさに飲み込もうとしている。とても、懐かしい光景だった。思い出と違うところは、私に救われるつもりがないことだけ。
ところで、ねえオベロン。
死体で良いから一緒にいたいの? それってちょっと、なんか、愛っぽいね。
私がそう告げれば、彼は冗談でもないって言うだろう。でも生憎、もう鼓膜は千切れてる。文句ならもう一生分聞いてあげたでしょ。まあ真意がどうだとしても、私を喰らいたいなら好きにすれば良いよ。今更こんなもの、あなたになら、好きにしてもらって構わない。だからさあ。
口を開いた。喉は震わせる前に血で満ちる。仕方ないかあ。むしろここまでよく保った方かもね。だからせめて私は、目前の、存在しない奈落の底へと微笑みかける。
オベロン。あなたを、私の墓標にしてあげる。
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「夢を見ろ」
己のなかへ堕ちていく彼女の死体を思う。
夢を見てくれ。そうしてどうか、僅かでも。
その先に続けそうになる言葉を飲み込んだ。釘でも飲んだように、ずたずたになる喉、なんて、俺にはない。悪食なんだよ。あいや、消化器官もないんだけど。
「恋は懐かしむものだって、誰がそんなばかなこと言ったんだろうね」
懐かしめるほどの熱量であれば、さぞかし楽であろう。慰めたろう。忘却してしまえているのだろう。
どこかから鐘の音が聞こえた気がした。駒鳥の葬送のためだ。決して俺が、哀れな救いたがりのために鳴らしたのではない。
決して、そうではないのに。
「これでもう、誰もお前に追い縋れない」
それでも、鐘の音が聞こえている。