いちご リズミカルな鼻歌が台所から聞こえてくる。最近エマがよく聞いている曲だ。歌詞のここが好きだとか声がいいだとか。それは何度も何度も聞かされた。気にいった同じ部分を繰り返し耳にしているうちにいつの間にか覚えてしまっていたけれど、万次郎が知っているのはエマによって切り取られたその部分だけ。そういえばそれが誰のなんという曲なのかさえ知らないことに気がついた。
鼻をくすぐる甘い匂いに誘われて万次郎は台所を覗き込む。流し台に立つエマの後ろ姿は変わらず同じフレーズを繰り返す。リズムに合わせて手慣れた手つきで調理するエマは様子を伺う万次郎に気づかない。
食卓には大ぶりなボウルを真ん中に幾つか皿が置かれている。1番大きいものには砂糖をまぶした大量の苺。万次郎も昨晩ヘタを取るのを手伝わされた。潰さないで、傷つけないで、とうるさく言われながら手伝って、ぽいと口にほおりこんだたったひとつにこっぴどく叱られた。水にさらしただけの苺をサクリと噛めば口の中は初夏の味がする。
まだ舌が覚えている味を追ってボウルを覗くと一晩寝かされた苺たちは昨日のみずみずしさから様変わりして、砂糖にまみれて汁が染み出し、しっとりとした甘たるさを漂わせていた。
流しに立つ後ろ姿は万次郎に気づく素振りはない。なのにそぉっとつまむ指を伸ばしたところで「駄目!」と容赦のない声が飛ぶ。絶妙なタイミングに思わず万次郎はびくりとして手を止める。背を向けていたはずのエマはしっかりと万次郎に向いている。
「もぉ~、マイキーはぁ!」
「なんだよ。気がついてたんなら言えばいいじゃん」
百戦錬磨、天下無敵のマイキーにも勝てないものがある。けれどエマだってマイキーには甘いのだからオアイコだ。しぶしぶ手を引っこめる万次郎にエマは楽しそうに笑う。
「だってこっそりつまもうとしてるの、かわいんだもん」
かわいい。まるきりの子供扱いに万次郎は口を尖らせる。もしかすると万次郎を年上の弟とでも思っているフシさえある。そう思えるぐらい、仮にも東京卍會総長して無敵のマイキーに向かって容赦がない。
「そんなこと言うの、エマだけ」
「えーそうかな。ケンちゃんだってそう思ってるよー」
言ってエマはボウルごと万次郎の目の前から取り上げる。
「苺、煮るやつ?」
「そう。だから待ってて」
しっかりとボウルを両手で抱えてエマはまた背を向ける。
苺を煮たそれには覚えがある。堅が物珍しそうに口にしてあの切れ長の目を輝かせた。
甘さと酸味の混じるとろりとした汁に漬かった苺にくんと鼻を寄せ、したしたの苺をぎこちなくも物珍しそうに掬う顔がおかしくて。おそるおそる口を開け、わずかに見えた尖った舌さきが妙に目についた。ぱくりと含んだ瞬間、堅の目はぱっと見開き、旨いと漏らして目を丸くした。
そんな堅の横顔がなんだかかわいくて。「ただの苺ジャムじゃん」と言った万次郎はエマに早口に怒られた。
「それ、ケンチン旨いって言ってたヤツ」
独り言のような小さなそれに、エマは後ろ姿のまま弾む声で返事を返す。
エマの作る料理はなんでも旨いし、堅もきっとそう思ってる。けれど1番好きなのはカレーだと思うけど。とは言わず。
エマの機嫌が良いことは、良いことだ。そう思うことに嘘は無い。
□
砂糖にまみれしっとりとした苺を鍋に入れて火にかける。艶やかな赤い色の苺が鍋の中で煮える。ぶくぶくと煮汁の染み出る赤い花托に息を潜めて鍋を覗く。煮すぎて焦げてしまわないように、時間と温度の見極めが勝負だ。煮だしすぎてはせっかくの酸味が消えてしまうから、熱して煮つめるのは息を潜めるほんの少しの間だけでいい。煮過ぎてしまえばその鮮やかな色は失われ、どろりと苦い塊になる。潤う甘みを生かすなら煮える汁がぶくりと小さく泡立つぐらいで十分だ。
火にくべられた苺は煮えた匂いをあたりに放つ。ぐちゅりと柔らかくなった赤い花托に種粒が浮き上がる。砂糖をまぶしてぐつぐつと煮て、赤い苺煮はとろりとして甘たるい。けれどそれはすでに苺が持つそれではなく、甘味料の甘さが勝る。
きのう口に放り込んだヘタを取っただけの苺の味は、硬さの残る花托はさくりとして、赤い薄皮を破り滲み出る微かな酸味と仄かな甘さ。
万次郎はその酸味と旨味の溶ける素朴な甘さが好きだった。
□
特徴のあるこめかみとがしりとした長い手足は堅を実年齢より遥かに大人に見せる。それでいて骨格を覆う皮膚は年相応の色をして艶やかだ。そのからだがいまだ発達の途中だと教えるように長い骨をつなぐ関節ばかりが妙に武骨だった。
皮から浮き出た関節を追うように舌で追えば弾力のある肌はかすかに甘い匂いがする。それを知っているのは万次郎だけだ。
細い顎をのけぞらせ喉に突き出るふくらみが、どうしてだか万次郎には扇情的だ。
ぼこりと突き出た形に吸い付いて、唇をとがらせチユと音をたててついばんだ。繰り返しなぶる肉厚な舌にねっとりと追い立てられて、眉を潜め睨む目元が僅かに潤む。皮の薄い首筋を執拗に追うと隠し切れない過敏さがひりつき堅を煽る。じくりと湧く熱にこらえようと息をつめれば逆に煽られ追い詰められる。堪え、飲み込み、抑えるほどに、こみ上げる火照りに焦れるのだとからだをよじる。子猫の戯れのようにかすめてじらし、じわり高まる熱に手を焼く堅にこそ、万次郎は酷くどうしようもなく、どうしてだか疼く。
長い首と肩のくぼみを唇でなぞり、肩の輪郭を舌で追う。肩を押さえつける手を払いのけて力ずくで引きはがすことは容易なはずだ。なのに堅は、覆いかぶさり見下ろす万次郎の髪がくすぐったいのだとうわずる声での抵抗が精いっぱいだ。獲物を前にした肉食獣のごとく好機に目を輝かせる万次郎に、余裕のない顔を隠すように息を潜める。
眉間を寄せて睨みつける堅が好きだ。覆いかぶさる万次郎の髪をつかんで躊躇する指が好きだ。浅くなる呼吸の息苦しさが焦れる期待なのだと自覚のない堅が好きだ。追いつめられてひくつく胸の突起がひどく劣情を誘うことを知らない、堅の純情が、好きだ。
やがて下肢へ延ばすだろう指さきに、熱を孕む堅の淡い欲情が、たまらなく好きだ。
追い込み覗きこんだ堅の瞳の奥に見え隠れする、期待と淫蕩の混濁が、どうしようもなく万次郎の獣慾を掻き立てる。
知ったばかりの肌は万次郎にだけ甘酸っぱい匂いを漂わす。成長過程の中途な骨を匿う肌は未成熟な青い堅を覆い隠す。うすら汗ばむ肌の湿った肌の匂いにくんと鼻先を寄せると堅は眉を寄せて無意識に身を固くする。反射的に逃げ腰になる自分に困惑する顔が楽しくて、肩をつかんで腰を引き寄せて。首元に顔をうずめてしまえばもう堅が逃げられないことを知っている。
万次郎のからだひとつ引きはがすことなんて造作もないくせに、あの大きな手も長い指も、甘えるように潜り込む万次郎を拒むためにはぴくりとも動けない。
追いつめられて熱を帯びた体温がどんなに甘く蠱惑な匂いを放つのか、堅はまだ無自覚なままだ。
堅がどれほどに可愛らしいものかなんて。誰も、きっと堅さえも、知らない。
□
堅を想って楽し気に苺を煮るエマをかわいいと思う。
誰よりも大切な堅と何よりも大事なエマを想って万次郎の胸がチクリと痛む。痛みはいつか底深く埋もれてしまえばもう手は届かなるだろう。
例えばエマと堅が結ばれるなら似合いのふたりになるに違いない。
万次郎を好いたものと万次郎が好いたものが結ばれて。しあわせな団らんに満面の笑みで万次郎を手招きして迎え入れ、万次郎も応えるように笑ってみせる。きっとふたりは万次郎の自慢になるだろう。
淡氷のしあわせに万次郎は漂い浮かぶ。
「マイキー、それ、取ってくれる?」
エマがさすのはレモンの汁がなみなみとしたカップのことだ。万次郎は酸っぱい色をしたそれをエマに手渡した。
「どれくらい煮るの」
「うーんもう少し…かな。もう少し中に火が通ったほうがいいかも」
「食べなくてもわかんの?」
「わかるよぉ。もしかしてマイキーまた狙ってる?」
また、におかしな抑揚に万次郎はとんだぬれぎぬだと口元を尖らせる。
「でもやっぱり難しいんだよね。実はこの前のやつ、失敗かなーって感じだし」
万次郎の小さな抗議にエマは笑い、ちょっとこげっぽくなっちゃったんだよね、と白状した。
「本当はもっと甘いのと酸っぱいのちょうどよくしたかったの。色もね、もっときれいなイチゴの色のまんまにしたかったの」
「旨かったけど。焦げたのとか全然わかんねかった」
「うーん…少し砂糖も多すぎたかなって気もするんだよね。とろとろだったでしょ?砂糖も多すぎたしぶくぶく泡だっちゃって。ほんとは煮だつ前に火を止めないといけなかったんだけど。ぐつぐつする甘い匂いが甘そうでおいしそうだったから、ついもう少し、もう少しって思っている間に焦げちゃった」
エマはカップを持ち隣に立つ万次郎に鍋を傾けて泡立つ苺を見せた。覗きこんだ鍋にはごろごろとした苺が赤い汁に漬かって煮立ちぶくぶくと泡が立ち始めていた。どうかな、問われても万次郎にはからきしだ。
「止め時を間違えちゃうと焦げついちゃってなんか苦くなっちゃうんだよね」
言ってエマは鍋に浮かぶ薄赤い色のアクを掬う。
苺は鍋の中で赤い汁に漬かってぶくっと煮だつ。ぶくぶくと匂いを漂わせ赤く煮詰められていく鍋は、まるで。赤くどろりと煮だつそれは、まるで。まるで煮えたぎる地獄の火の釜にようだ。
ぐつぐつと煮えたぎる鉄釜で火にかけられて熱される。つつかれこずかれ転がされ、遂にはぼこりと煮だった釜の底へと沈められる。ジュクジュクと熱された釜の中、もがき染み出た煮汁に漬かって泡にまみれて甘く甘く赤くその身を焦がす。
「ちょうどよくできたら、もっとキレイな色のまま甘酸っぱい味になるはずなんだけどな」
エマはカチリ鍋の火を消すと、泡立つ鍋の中は静まり返る。とろりとした赤い実が煮汁にごろりと漬かる。甘いか苦いか、どちらに転ぶのかは煮つめる時間と火加減次第。とろり溶ける赤い花托の味がわかるのは、煮詰めた苺が熱を手放し冷めてからだ。
「おいしといいんだけどな」
エマは鍋の中を覗いて万次郎の目の前に差し出した。鍋の中の苺はてらてらと赤く、ほんの少しだけかすかに焦げた砂糖の匂いがした。
「ケンチンはおいしいって言うと思うよ」
「そうかな」
そうだといいな。言ってエマは万次郎の言葉にほっとする。
赤い苺は熱を冷ましてから小さな器に盛られて出来上がる。甘い匂いに気をよくしたか、エマはまたお気に入りのあの曲を口ずさむ。用意したのは堅と、エマと万次郎の分の3つ。どうかどれも誰の舌にも甘く美味しくありますように。
どうかエマの甘い味に、願ったしあわせがやって来ますように。
どうか。