昔から誰とも長く続いた試しがなかった。好きだと言われたから付き合った。せがまれたからキスをした。愛していると言われて頷いた。泣かれたこともあった。思い切り頬をたたかれたこともあった。気が付くと罵られて呆れられて離れていって、いつのまにかひとりになった。けれどひっかき傷にもならない程度のことだった。
それは終電を逃した夜。酔った頭が重たくて胃が重くて手足も重石のようにずしんと重い。なにもかもが重たくて立ち上がれない。もういいか、なにをあきらめたのかわからずに、シャッターの下りた店先に腰を下ろして蹲っていたところをふたまわりも年上の女に声をかけられた。
大きく開いた首元に浮き上がる鎖骨の山がきれいだと思った。色素の抜けたきんいろの髪が皺のよった長い首にまとわりついて鉄条網を思わせる。守ってあげると鋭いカミソリを張り巡らせて逃げようとすれば電流を流して感電させる。いちどでも味わったら脳に髄に痛みと恐怖が刻まれて逃げられない。あの突き抜けるような痛みと恍惚が五感を縛る。
記憶の向こうで突然にちらついた痛みに胸の奥がざわりと騒ぐ。深く沈めたはずの知り得ないはずの痛みが込み上げて手のひらをじわりと灼く。この痛みはなんだ?この、込み上げるような警鐘じみた震えはなんだ?耳の奥にうわんうわんと響く金属音がうるさくて、女の声が聴きとれない。眼球の裏側を撫でる残像が砂嵐のようにがさついて目が眩む。女の腕力とは思えないちからで腕を取られて引きずられるように小さな部屋に投げ込まれ、靴を奪われ、シャツを開かれ、するりとベルトを開かれた。女の首に手を回した時には意識は朦朧として、目の前にある鎖骨のくぼみが妙に目について、悪くはないかと意識を手放した。
薄くあばらの浮いた胸に顔を埋めてゴム毬のような胸に舌を這わせて吸った。女は胸に抱いた男の髪をつつくように弄び、赤い口の端を緩めて笑う。不思議と嫌悪はなかった。女のくしゃりと歪ませた目が自傷じみていたからだろうか。薄い唇をじっと見詰める男に向かって女は乾いた声で囁いた。
「かわいそうにね、」
ごめん、だけどアンタじゃなきゃダメなんだ
アンタじゃないとアイツに行き着かない
女にしては酷く低い、切なげに乞うような声だった。それは女の声などでなく、けれど耳障りでもなく、聞き覚えのあるような懐かしくさえあるような不可思議さ。
女は占い師なのだと言った。これは種あかしなのだから、そう嗤ってみせたけれど、男にはその意味がわからずに、仕組まれたようにその夜のことも女のことも忘れていった。
ふらふらと過ごした街に住み着いて夜を真ん中に過ごす生活が染みついて、気が付いたらあーだのうーだのしか言えない子供を拾ったあげく、真っ暗な部屋でそいつの骨と向き合う羽目になった。
事務机には灰皿と飲みかけのグラスと整理の途中の伝票と畏まった白い箱。そろそろ備品の買い足しをしなきゃなんねぇな、なんてことを机の伝票の上っ面を眺めてぼんやりと考える。
これからまた面倒なこまごまとした管理やら発注やらも、自分でやらなくちゃならねぇか。子供のくせして店の備品の管理やら数字の足し引きに興味を示していつの間にか一端の口をきくようになった。 店に出入りするオンナノコだけじゃなく、裏から出入りするヤツラとも抜け目なく立ち回り、見様見真似で案外うまくこなしてたもんだと思う。
アイツは言葉を覚えるより先にひとの顔色を見分ける敏さを身に着けて、ガキはガキなりの生きる方法ってヤツを身につけていた。そうさせちまったのはオレなのか。正道はふうっと肺の奥から重たい煙を吐き出した。
どさくさに紛れて10年ちょっと、面倒を見てきたヤツの成れの果て。白い箱に向かい合い、ずっと忘れていた、たった1回限りの夜のことを思い出したのはなぜなのか。白い箱を覆う上等な白い織模様に祝いの産着でも思いついたのか、そんなこともしてやれなかったなと柄にもなく思う。
女の顔も思い出さないくせに、苦しそうに吐いたその声は妙に鮮明に浮かんでくる。
どこかの誰かと連れ添うだのを通りこして、成り行きで親と子の真似事をした。いっそ足腰も立たない爺イになったらヤツに面倒を見させるかと算段をする間もなくこっちが看取る羽目になった。なんてこった。なんてザマだ。かわいそうに。あの女の吐いた声が妙に浮かぶ。
カタンと背後の扉が開く。開けたまま閉じないのはすぐに出ていくという意味なのか。逃げ道は開けておいてやるという意味か。
「迎えにきたのか」
気配もなく背後に立つ男に振かえらずに正道は言う。顔を見る必要はなかった。それが誰なのかなんてわかっている。箱の中に小さく収まって、そうしてまでも、堅がたったひとつ追いかけた相手。
手も足も目も耳も声も命さえも失って、それでもあの世にも行けないでいる魂がようやっと呼び寄せた、相手。
「墓はたてねぇからよ。そのほうがオマエさんも連れて行きやすいだろ。まぁそんな金もねぇしな」
付け足した最後の言葉は本音だった。なにかの足しにと思って貯めた僅かな金は堅が店を構えるのだと告げてきた日に手渡した。あれでもう放免だと思ったからだ。
それがまんまと畏まった姿で堅は戻ってきた。まだだ、まだなのだというように。
「いいかげんアイツを捉まえておいてやってくんねぇか。それでオレを開放してくれよ」
「…覚えてんの、アンタ」
答える声は僅かに驚きを含んでいた。独り言だと吐いた弱音に思いがけずに返された反応に正道は思わず瞼に手をやり宙を見る。
「これで何度目だ。…せっかくきれいさっぱり忘れて今の今まで呑気に楽しくやってたってのに」
もう何度目なのかはわからない。なのに正道にはわかってしまった。突然に。
けして順調ではなくも平凡の底辺をこするようにして真似事のような親と子のような毎日を過ごし、やっとよちよち歩きの雛が殻を割って自分の足で歩きだしたと思っていた。それがあっさりと命は尽きて、それならもうヒトのからだは不要なのだと棄てて魂未満の姿で正道の元に還ってきた。
もういちど最初からやり直すから、次の命もまたここに還ってくるから、だから、覚えておいて。忘れないで。
この命が行き着く先にたどり着くにはどうしても必要なのだと。行き着くためにこの命を守るのは、正道なのだと告げるように。
なんども、なんども。堅は万次郎を求めて追って、願いのままに尽きて命を終える。けれど願いは消え去らない。また。また次は必ずと願いだけがこの世に残る。そうして次の命では必ずと願ってまた、正道の元へと還ってくる。なんども。なんどでも。
今も。
「オマエさんが迎えにやってきた程度には少しは報われたってことか。コイツの命がけってやつは」
正道は振り返らない。きっと背後の男の顔は、今度もまた、血の気も失せてまっしろで目は窪んで唇は枯れ悪鬼のような姿に違いない。泣いて果てた迷子のような姿のそれは、堅を愛おしいと泣いて果てた堅だけのもの。
ひゅうと鳴いた呼吸はまだ万次郎がこの世に留まっている音だ。はやくこの世を棄てて堅の待つ次の世界へと行きたいのだと願いながら、まだ生きながらえてこの世に留まらなくてはならない苦渋の音だ。この世界を投げ出してしまえたらどんなにかわずかばかりの救いにもなるだろう。
けれどそれではだめなのだ。それでは堅と巡り合う回路から弾かれる。堅の待つ回路にたどりつくために、万次郎にはこの世界で果たさなければならないものがある。向き合えあなければならない男がいる。
この世界で向き合って討ち抜かれるために向き合わなくてはならない相手がいる。
まだ万次郎は堅の待つ世界へ逝くことは許されない。
万次郎を待つ堅の次元は遠く遠い。それはヒトであることを棄てて尚、まだこの世に縛りつけられて心臓を抉り取られて握りつぶされて、赤い血を手放した果てにある。
「結局コイツはオマエさんとこに行きたくてしかたねぇんだから。なんどだってどんな形だって、いつかはきっとオマエさんのところに行きつくんだろ」
だから、せめて。
「アンタがこの世を離れらんねぇ間、連れていってやってくれよ、コイツをよ」
正道はくい、と顎で目の前の箱を煽る。
そこに、堅はいる。オマエだけを求めて欲した堅が、魂が。
「…いい加減、オレのことなんか諦めればいいのに…」
諦めて、オレの手の届かないところでしあわせになってくれればいいのに
そう堅を想う伏せた眼差しに滲む顔を正道は黙り見つめている。まるで昔どこかで見た…あれは聖母の微笑みなんていう、馬鹿な妄想に案外満更的外れではないのだとひとり思う。
:
「ケン、チン…」
差し伸べた先にこつんと当たる手触りを確かめて、指さきで器でしかない堅をなぞる。触れて撫でて、頬を重ねて抱きしめる。
伏せた目元の薄い皮膚は憂いに荒れて、伏せた眼差しはあの夜の女にように美しく、痛々しい。壊れかけて美しい、堅のあいしたものだ。
あの夜の女は占い師なのだと言った。まるで占うように、可哀そうにと正道に囁いた。
かわいそうに あんな稚い生き物に見込まれて
かわいそうに
もうあなた アレがもうすぐあなたのところにやってくる
アレがあなたのところに来たその時からは あなたは もう オトコじゃないの
あなたはアレのゆりかごなのよ
痩せたあの女の胸で髪を撫でられて聞いた、まじないのような予感のような。あれは胎児になる前の堅からの言付けだったのか。
ヒトは容易なもんじゃないと正道は思う。けして人並みに穏やかな健やかな育て方は出来はしなかった。堅ははやくから敏く大人びて、大人のような顔と体を手に入れて、そのくせ胸のなかは子供のまんま、こころのなかは赤ん坊のまま、まっしろに奇麗なまんま、いびつなオトコに育ってしまった。
こんな命を張ってでしか愛を全うするすべのない、そんなオトコに育ててしまった。
例えば、もし。自分が堅を拾わずにほかの誰かが育てたなら。そんなことをなんども考えた。もし自分以外が堅を育てられたなら、堅はもっと気ままに巧く生きられたかもしれない。
「子供は子供らしく馬鹿やって巧いこと生きてる未来があったかも知れねぇのに」
なんども思った。
なんども繰り返し堅を失って。もうけして赤ん坊なんて拾わないと決めたのに、また同じように堅はやってくる。断ち切ることは許さないというように、堅は正道の元にやってくる。
堅はなんどでも正道を選ぶ。自分を孕んで生んだ腹を棄て、自我も持たずに小さな手と足で這いずりしながらでも正道の元へやってくる。
:
「どうせケン坊とオマエはどっかで出逢うだろ。オレんとこなんて選ばねぇで自分の母親のところでおとなしく守られて無事におっきくなってからオマエを探せばいいのによ」
「ケンチンはアンタのところにやってくる。ケンチンがケンチンになるためにはアンタが必要だって、ケンチンはわかってる」
呪いのような万次郎の言葉に正道は絶句する。
「言葉もなにひとつ持たない赤ん坊の姿で自分で這い出てアンタのところへ転がり込んで、アンタはまたなにもわかんねぇままケンチンを育てんだ」
オレに会うために、なんどでも。
「そこまでケンチンに見込まれてんだ。いっそアンタがケンチン生んでくれたらいいのに」
「…こえーこと、言うなよ」
:
「それこそオマエがケン坊産んでやれ。そしたら生まれたときからケン坊はオマエのもんだ」
「それは駄目」
万次郎は即座に返す。
「オレはね、ケンチンを愛してんの」
げ、:
「ケンチンの命が続く限りどこまでもずっと愛してんの」
オマエね、オレにそんなこと聞かせんなよ 聞きたくもねぇわ
良いだろ アンタならどうせどこまで行ってもケンチンの見方だろ ケンチンはそう思ってる だからアンタには聞かれてもいいかなって そんで忘れないでてくれよ
…今更だろ オマエがどれだけアイツのこと気にいっててアイツがオマエさんのこと本気かなんてーー今更だ
「ーーうん」
そうだね。たぶん、ひと目出会った時から始まってた。やっと会えた。今度こそ離さないって、歯車が動き出したんだ。
それが愛だとも知らず。わかれてひとりきりになって、堅も万次郎も、それが愛なのだと思い知る。何度でも出逢って藻掻いて行き着く先で、アイツもオレも細胞になってどろどろに溶けていつかひとつになってしまいたいと。
:だから聞かせんなよ、オレに。
「頭おかしくなりそうだわ、オレは」
「でも笑わないんだね、笑わないし、怒らない。なに馬鹿なこと言ってるんだってアンタは言わない」
:
「正道さん」
「次にケンチンがやってきた時はまた、オレとケンチンが出会うまで、ケンチンを守ってくれ」
:
「いい加減オレを巻き込むんじゃねぇよ。勝手にオマエらでやってくれ」
「それを決めるのはオレじゃねぇ、ケンチンだ」
「ケンチンがアンタがいいって言ってんだから、しょうがねぇんだよ」
堅が収まる小さな箱を抱いて立ち上がる。
「…またね」
また、次の世界で。
そう言い残して万次郎は堅を抱いて姿を消した。ひとりうつつに取り残された正道はもやつきを棄てきれない。
「また、だぁ…?」
ひとときのことでしかないのだとわかっていて。それでもいいと抱きしめたいと。
あれは恋だった。ひとめで恋して抱き上げて抱きしめて、ほんのいっときすれ違うだけの恋だと知りながら抱きしめた。あれははじめての恋だった。恋しいと思うことも知らないまま恋をした、瞬くあいだの幻のような出会い。
あの夜は運命だった。あの女は運命だった。
運命が正道を掴まえた夜だった。
やれやれ。それが正道の正直な気持ちだ。とんでもないモンにかかわっちもんだ。面倒なモンにかかわっちまったもんだ。そう頭で思いながら、いつかアイツが思う通りが願う時がやって来るまでは。
ひとりぐらい見届けるヤツがいても良いだろう。それが正道だと堅が言うのなら。
「また、いつか」
万次郎の言葉をツマミに、正道はひとり、堅の去った部屋で飲みかけのグラスに唇を寄せた。
書きたいところだけ書きました…☺️
中途… 楽しかったので ちょっとづつ更新しようかと…🙂