鍵 住宅街を抜けた通り沿いの駐車場の隣には、安いだけが取り柄のアパートが建つ。朝も昼も、夜間でさえも大型車が通り過ぎる特有の騒音と振動が絶えない場所。そこが実家を離れた堅の棲み家だ。
もっとも繁華街育ちの堅にとっては甲高い嬌声も四輪車の騒音も聞きなれた音のひとつであって、今更疎ましいとは思わない。
堅の小さなバイク屋は相変わらずの絵に描いたような自転車操業で、店と質素な部屋との行き来を繰り返す毎日が堅の日常だ。堅実に繰り返される日々の中、店を閉めたそのあとに、息をついて横になる場所があればいい。
その夜、帰宅したのは19時を過ぎてのこと。ガチャリ、と差し込んだ鍵の感触が不自然だ。掛けたはずの鍵は開けられていた。元より簡素な部屋に狙われるような金目の物はない。
もっとも、ごくごく限定された輩にとって、この部屋の主こそが最大級の獲物であることに、とうの本人は自覚の欠片もないのだけれど。
不在中の解錠はこれが初めてのことでなく、犯人の正体なんてわかりすぎている。堅は安売りの惣菜と缶ビールを片手に驚くことも慌てることもなく、むしろ淡い期待さえ浮かぶ。
期待とそれが外れた時への言い訳がまぜこぜに、奇妙な緊張がピリリと走る。フー、とひとつ肩から息を吐き、ままよ、と勢いよくドアを開くと、目の前は板の間の台所。横にスライドさせる扉を間仕切りに、台所の奥は畳敷きの居間兼寝室。居間の突き当りは小さなベランダになっていて、窓ガラスを開ければ目の前は駐車場。
狭い縦型の間取りのドアを開けたとたん、ベランダを背中に座る万次郎がいた。
「お帰り」
「…ただいま」
朝からメンテナンスの予約が2件、飛び込みの新規客の感触は上々、近所の子供の自転車のパンクを直したついでにおすそ分けだと旨い昼めしにありつけた。おまけにいつもは事務処理を遠回しにぎみな同僚がどうしてだか進んで伝票整理をかって出た。
おかげで今日の事務処理はスムーズで、結果早めの帰宅、の末に、万次郎だ。ずっと堅の頭の中を占めていた密かな迷いを吹っ切れとばかりの展開に、もしや今日は大安だったのかと万次郎を目の前にして思う。
力尽くで突き放されて引きはがされて一方的に断ち切られた関係だった。いちどは苦々しい思いで飲み込んで荒れて腐って落ち込んで。断ち切れない思いにひとり往生際の悪さにうなだれた。けれど、それでも。万次郎が堅の中から消え去ることはなかった。
毎日当たり前のようにつるんでいた頃に戻れるとは思わない。あの頃のように一緒にいることが当たり前であるとは思わない。目の前の万次郎はきしむ金色の髪は冷めた月のような色になり、どこか得体の知れない幽霊のよう。
鍵のかかる部屋に入り込むのは万次郎にとって難しいことではない。堅の都合なんてお構いなしに、気の向いたときにふらりと万次郎は現れる。突然に万次郎が現れるたびに堅のちっぽけな平穏は揺さぶられて木端微塵に吹き飛ばされる。なのに抑揚のない「おかえり」のたったひとことで、腹の底がこそばゆい。
ひと様に迷惑をかけるな。学校にはちゃんと行け。それが養い親の言いつけだった。始まりは朝寝坊の万次郎を迎えに行くことから始まった。けれど今思えば万次郎を訪ねる言い訳だったようにも思う。会いたくて毎朝万次郎を訪れた。それだけだ。
堅が万次郎の元を訪れたように、万次郎が堅を訪れる意味が同じだとしたら。それはおごりなんかじゃなくて、うぬぼれてもいいものかと、行ったり来たり迷子のままだ。
「なに、にやけてんの。」
「んー?なんでも?」
のっぺりと感情が抜け落ちた万次郎の底冷えのする瞳の奥で鎮めた激情がチカチカと火を点す。離れ過ぎた時間に万次郎は獰猛な憂いを帯びた。薄く目を細めたまなざしを向け、わずかに唇の端をあげる。ただそれだけで、堅にだけ向かう猛る想いを滲ませる。
一見感情の薄い万次郎の隠れた昂りは堅だけのものだ。離れがたいと思う分だけ軽口を装って、追いかけてくる悪意から抗っている。
朝から続く小さな幸運に期待をしたわけではなくなかった。けれど堅の手にしたコンビニ袋には缶ビールが2本。そのうちの1本を万次郎に手渡すと、万次郎は素直に受け取った。ホラ、と声をかければ万次郎の返す言葉は「ん、」の短い一言だ。そのなんでもない短いやり取りに万次郎は堅の身辺の気配を探る。堅を囲む日々に変わりはない。今は。
鍵のかかった部屋に入り込み、部屋の主の帰りを待って、当たり前のように出迎えて。無様なままごとのようだと思う。それはかりそめのものでしかないのだとわかっている。それでも。――それでも。
手を伸ばして缶ビールを受け取る指先がわずかに触れる。触れた万次郎の指先が思わずびくりとして密かな緊張が露わになった。それは万次郎の失敗だ。「あ、」と漏らした声音が甘い。はじかれるように互いの顔を見合わせればその瞬間に見せかけの平静は取り払われる。しまったと顔に張り付けた万次郎の戸惑いが引き金になった。
顔を合わせるのはずいぶんと久しぶりだった。会いたい、触れたいと過ごした夜が酷く長く感じていたのはお互い様だ。
逃げ遅れた万次郎の腕をつかめば逃げようとする見せかけの抵抗は消え去った。
つかんだのが先なのか伸ばしたのが先なのかはわからない。抵抗する仕草はあっさりと投げ捨てられて、いつの間にか万次郎の腕は堅の首に絡みつく。噛みつくように呼吸を奪い合って畳の上にドスンと大きな音をたてて転がった。部屋の壁が薄いだとか、床がきしむ音が響くだとか、そんなことは今更だ。
開けた扉を後ろ手に閉め鍵をかけたことだけは上出来だった。堅の頭に角部屋のありがたみがよぎったのは一瞬のこと。ほんの一瞬、けれど気をそらした堅を万次郎が許すはずがない。
相手のいない焼きもちに眉をしかめ、ぐいっと堅の頭を抱きかかえて腕を絡ませて、ぴったりと粘膜を吸い尽くすように唇を塞ぐ。堅の一瞬の不貞を責めるように舌を絡ませ吸い尽くす。堅の肉厚な舌がいやらしい。いっそ噛み切って飲み込んでしまおうか。ぎりっと噛まれた感触にたまらずンッと漏らし逃れる舌を万次郎の舌と歯がしっかりと絡みついて逃さない。
塞いだ唇を離すのは許さない。わずかな呼吸でさえ繋がりを引きはがすのは許さない。チュ、チュ、と音をたて角度を変えて、より深まる唇の粘膜もねちねちと追い立てる舌が吸い付き絡まり離さない。
ン、ン、ンと跳ねる堅の声が悶えて甘いことを逃さない。万次郎の肩を引き寄せる手のひらが熱いことを逃さない。重ねた下腹が疼いて突き上がるのを逃さない。
逃げる堅の舌先がおずおずと万次郎の舌に応える素振りを見せれば万次郎は楽し気に遠のいて、戸惑う堅の舌を突き放す。つい先ほどまで追いつめるほどに吸い付いた唇は遠く離され、舌と舌の先を細い雫が繋ぐ。
上気した頬と恨めし気な目が万次郎を睨み濡れたくちびるをごしっとぬぐう。万次郎はフ、と不敵な笑みを漏らし、堅の両の腕を取り上げて、寝転ぶ頭の上で万歳をするようにひとまとめに押さえつける。両腕の自由を奪われ転がされた姿で堅は目を見開いて、見下ろす万次郎を見返した。押さえつけた腕の力を振りほどくことは、堅には難しいことではない。なのに堅には万次郎の腕を振りほどくことは叶わない。
薄く汗ばむ額と淡い欲の見え隠れする目が万次郎へ晒される。なだらかな喉の小山がひくひくと鳴る。ゆるくほどけた髪が汗ばんだ首筋にまとわりついて、それだけで万次郎には煽情だ。
それがどれほど万次郎を煽るのか、堅にはわからない。万次郎に挑む目を向けるのも煽るのも、世界には堅しかいない。食うも食われるのも、ふたりにとっては些細なことだ。
「口、開けてよケンチン」
「…マ、イキー?」
「舌、出して」
万次郎のたったひとつの絶対は堅だけだ。組み敷き見下ろす万次郎の情欲に火を点けるのは、世界でひとり、堅だけだ。
例えば。もしも、壊れてしまえと願ったら太陽は沈む。堅が望めば万次郎はきっとなににも代えてそれを叶えてしてしまう。もうけして離れることは許さない、もしもそう願ったら、万次郎が拒むことは叶わない。堅が万次郎の腕を振りほどくことが叶わないのと同じ、万次郎には堅を拒むことは叶わない。
その命を守るためにだけあって。それが万次郎の、変えることのできない、たったひとつ。
それが今、目の前にある。それだけがすべて。なにを恐れることがある。例えばアレがやってくるというのなら、握り潰してしまえばいい。なんどでもなんどでも、なんど繰り返そうとも万次郎の答えはひとつだけだった。
(この「夏」を、超える。超えてみせる)
組み敷いた堅の目を覗き込む。揺れる水面の下で万次郎の清も毒もとろりと溶かす。もう堅の目に映る自分がどんなに醜くく浅ましくてもかまわない。
堅が、生きている。手の届くところで。それが万次郎の手にした答えだ。
「シよーヨ、ケンチン」
言葉とは裏腹に、万次郎の声は波間に浮かぶ泡のように頼りない。渦に飲み込まれてしまえば沈んで消える。
「…なにかあったか」
万次郎の頬に触れた指さきは油が滲み小傷もいくつもあって、けして柔らかくもない粗野な男の指さきだった。なのになだめるように触れる仕草は万次郎のささくれに酷く優しい。
「なんか、あったんだろ?」
誰よりも万次郎を高ぶらせる。誰よりも万次郎を癒す。誰よりも激しく強く万次郎を奮い立たせ、万次郎の細胞にまで巣食い、果てに、救う。触れたさきから解きほぐされて溶かされてほだされる。
「やりたくねーの、ケンチンは」
「…オマエは?オマエ、やりたくて来たわけじゃねぇんだろ?」
伸ばした手は万次郎の頬を包み、なぁ?と小さく問いかけて応えを待つまでもなく寝転がった胸に抱き寄せる。倒れこむように崩れる万次郎を平たい胸の上に頭ごと抱きしめて、ぽんぽん、と子供にいい聞かせるように頭をなでる。
ぎゅうっと抱きしめられた胸元は少し汗ばんだ肌の匂いがした。それは万次郎を酷く安心させる、堅が生きてそこにいる匂いだ。
「ケンチン、…汗くせぇ」
「てめぇ、さっきまで嘗めまわす勢いだった相手に向かって、それ言うか?」
抱えた万次郎のつむじにゴン、と遠慮のないゲンコツが落ちる。いでっと唸れば先ほどまでの濃厚は消え去った。
緩められた腕から逃れ、重ねたからだからのいて、万次郎は肘をついて堅と並んで寝転んだ。首をかしげて伺う堅と、万次郎のまなざしが交差する。
「…会いたかったんだ。会いたくて会いたくて。でも、ちょっと」
我慢をした。堪えようと思った。口にはできず押し黙った、それが答えだ。
堅の日常を浸蝕したくはなかった。堅が小さなころから口にした夢に手が届いたのだ。それをまげてしまいたくはない。
堅が生きている。それだけでいい。そう思いながら欲張りになる。
(生きていて。そばにいて。触れて、触れさせて。離れないで。――どうかオレのものだけでいて)
どこまでだって欲は尽きない。触れることさえ叶う世界を手に入れたのに、もっと、もっと、もっと、どこまでだって底なしだ。万次郎のもっとを堅が拒むことはない。底なしにこれ以上を願ったら、そうしたらまた、壊れてしまう。また、壊れてしまうのにーー。
例えばけして潔白ではない身の上も堅は遠からず理解しているだろう。けれど、時間の歪みを乗り越えて現れる存在を牽制するのは万次郎だけの思惑だ。それでいい。
「ちょっと…面倒ごとが起きそうで」
けして万次郎はそれを口にしない。なのにやんわりと堅に踏み込ませないよう一線を引く。入ってくるな。入ってくれるなと、願いのように。
「オレの事情」
「言いたくねぇってヤツ?」
「ん」
「聞いてもオレじゃ役に立たねぇ?」
「ハハ、こっちが役に勃てばジュ―ブン」
「、バ…っ!」
ぎゅ、と堅の下肢に伸びる手に堅は声を上げて抗議する。万次郎の触れた下肢はまだ充分に熱い。中途半端に熱を持ち中途半端に沈下したそれは、万次郎の手の中でくすぶった。
「なぁーー、ヤる?」
「だから中途半端に煽るなっての。いい加減ガキじゃねーんだから、がっつくばっかりじゃねぇし」
もう堅にその気が失せていることを知りながら、肘をついてちょこんと顔をのせ、意味ありげにやりと笑って覗き込む。その顔に堅は弱い。昔からーー昔から、変わらず。テメェわざとだろ、と笑う堅に、一層万次郎は笑う。
おどけてみせる万次郎に、きゅ、と堅は口元を引き締めて、決めたとばかりに起き上がり、頭の上の棚の引き出しを開ける。引き出した奥から取り出して、手にしたそれを万次郎の目の前に差し出した。
ステンレスの安っぽい鍵には小さなたい焼きのキーホルダーと金色の鈴がついていた。ホラ、と万次郎の目の前につまんでみせると、リン、と軽やかな音がなる。
「鍵?」
「そ。オマエの」
「オレのーー?なに、――ソレ、」
声にした語尾が掠れ万次郎の動揺を隠せない。そんな万次郎の様子に堅の気持ちは少しだけホッとする。そこにあるのは拒絶でも否定なんかでもない、押し殺しても尚隠し通せない、淡く微かな高揚だった。
「なぁ、オレら、一緒に棲まねぇ?」
「――、ハ、」
ハハと笑い飛ばそうとしてしくじった。今日は酷く万次郎の調子が狂う。どこか余裕ありげに目を細めてちっぽけな鍵を差し出す男に見惚れるなんて。少し照れたように子供っぽい顔をして笑う、ずっとずっとずっと、誰よりも好いた男の笑みに、今更に見とれるなんて。
予感めいたものが今日の堅には密かにあった。入手にまごついたパーツの入手にやっとのことで算段がついた。おかげでまごついていた契約もまとまりそうだ。契約がまとまれば月末の支払いにもめどがたつ。続く小さな幸運に少しだけ気分が上向いた。
買ってもらったばかりの自転車がパンクしたと泣きながら店を訪れた女の子がくれた小さなキーホルダーに、ほんの少しだけ期待した。
例えば今日なら、言いあぐねていたひとことが言えるんじゃないか。万が一にも万次郎がやってくるのではないか。かすかな予感と期待すらあった。
店と寝るだけの部屋を往復するだけの毎日に、おぼろげな不安が掻き立てられる。万次郎とのつながりは不確定だ。万次郎の住む場所も語らない素行も堅には知り得ない。もう未成年の暴走では済まされない法の掟の向こうに万次郎が身を置いていることはわかっていた。
万次郎の気持ちひとつでつないだ糸はあっさりと裁ち切れる。それは明日かもしれないし今日なのかもしれない。昨日でさえあったかもしれない。じゃあね、と言って去ることも、堅の眠る間に姿を消すこともある。今度こそ二度と会うことも叶わないことさえあり得るのだと、頭の隅で、いつも悲壮な覚悟があった。
どんなにか強く据えた想いでも、消え去っていく恐ろしさが、常に、あった。女々しいと自嘲しながらも、どうやっても消し去ることのできない魂を擦る「置き去りにされる」ことへの恐怖にも、似たーー
「鍵なんてなくてもオレが簡単に部屋に入れるの、知ってるくせに」
茶化したように口にした顔は不自然にこわばって、無理にたたいた軽口が、眉を潜めて笑う顔が愛しいと、堅は思う。
差し出された鍵を受け取るそぶりのない万次郎に、相変わらず仕方がねぇな、と堅は昔と同じ、困り顔をする。堅を困らせたくて万次郎は子供のようなわがままを口にした。駄々っ子のようなそれに、堅は眉を寄せてため息を漏らしながらも結局最後は許すのだ。万次郎の不器用な駆け引きなんて堅にはお見通しだった。
「オレ、オマエに隠してること、たくさんある。言えないことも、知られたくねーことも、山ほど」
「そーだな」
「ケンチンには、知られたくねぇし、言いたくねぇけど、」
「うん」
(ケンチンには誰よりもわかってほしい、ことがある)
「かまわねーよ」
ぎゅ、と結んだ唇が隠した言葉が聞こえているかのように堅は言う。
「オマエの全部をくれなんて言わねぇよ」
穏やかにひとつひとつ言葉を選ぶようにして。万次郎の手を取って、手のひらごと包んで鍵を握らせる。そうしてやっとその小さな鍵は万次郎の手の中に納まった。握った手の中でチャリ、と軽い音がする。
「持っててくれるだけでいい。そしたら、オレの気が済む」
(全部をよこせなんて望まない。――だけど、オレの全部、オマエにやるから)
例えばそれが。甘え方もわがままのすべも知らない、堅のたったひとつの願い。
「オレのわがままってヤツだ」
それだけなのだと、堅は言う。万次郎の好きな、骨の髄から溶かすような、あの声で。あの、顔で。
「……、テメー…」
(オレがその顔に弱いの、知ってて、っ)
「…、クソっ…」
万次郎の手を握るごつりとした大きな手を、万次郎の空いた手が包む。包みこんだ指さきをぎゅうとして、ツンと向いて堅に唇を寄せる。
「チュウしろ。うんといいやつ」
「…いいやつ?」
「そう、チュウだけでいっちゃうぐらいな、いっとう、いいやつ」
「なんだよ、それ」
「このオレにこんなもん渡すんだ。…それぐらいしてみせろ」
言って万次郎の指は、堅の手も鍵もしっかりと握りしめ離すことはない。それはもう、万次郎のものだからだ。
果たして万次郎の難題に堅がクリアーしたのかは、ふたりだけの秘密。
堅の留守の間、部屋を片付け布団を干して寝具を代えて。シャワーをあびて髪を洗い少しばかり準備を施して万次郎は堅の帰りを待っていた。
なにやってんだか、そんな言葉にぐるぐるとしながら待っていた。けれど堅は清潔なシーツの上で、万次郎の隣で寝息をたてていた。しっかりと万次郎の腰に手を回し、逃さないとでもいうように。
信用ねぇなぁと思いつつ、寝息を漏らす堅に、仕方がないとも万次郎は思う。
ずっと堅が忙しくしていたのを知っている。このところ昔の仲間が堅にコンタクトをとっていることも。もちろん、その理由も。アイツが、武道がやってきたのだ。この世界に。
伏せたまつ毛が長い。鋭い切れ長の目は閉じてしまえば観音のような顔をして安らかだ。美しい顔だと思う。美くしくて、強い。万次郎の救いはここにある。
オマエのモノだ。そう告げられた鍵を見つめる。堅がずっとこれを渡そうとしまい込んでいたのかと思えば、万次郎は緩む。目の前につまんで揺らすとチャリチャリと鳴って悪くない。
堅はどこまでも万次郎を許し万次郎に寄り添った末、命を落とす。幾度も、幾度でも、形を変えて、万次郎の手のひらから零れ落ち万次郎を残して逝ってしまうのだ。そのたびに万次郎がどれ程に奈落に突き落とされて枯れて朽ちて、その果てに誓うのだ。
(いつか、かならず。必ずオマエの未来を守るから)
繰り返されるたったひとつの誓いに応えるように、堅は瞼を伏せたまま万次郎を離さない。今度こそ。そういっているかのように。
何度も何度も昔馴染みからの連絡が堅の元にやってきていた。武道が万次郎を探しているのだ。けれど堅は武道に会わせるつもりはない。武道と万次郎の接点を絶たなくてはならない。その防波堤になるのだと、そのためならば仲間との縁も店も、捨て去る覚悟はできていた。
ふたりを会わせてはならない。万次郎の世界を守るために。この世界を守るために。
ただ、万次郎を護るために。堅にはそれだけだった。