まつり縫いのはなうた ステージ途中、確かに嫌な音と感触がした。その場はなんとか取り繕い、無事に公演が終了したあと楽屋で着替えて確認してみれば、やはり腰の部分に穴の開いた箇所があった。
「あれだけ激しい立ち回りするのに、3日も連続で同じ衣装を着ていれば破けもしますよ」
相手役のアクターが言う。モクマは己のずぼらさを誤魔化すように笑って、明日は予備のを使うよ、とアクターに伝えるが、予備があるなら最初から交互に使えばいいのに、と尤もな苦言を呈されてしまった。
その言い様がどこぞの相棒に少し似ていて、モクマは今度こそ苦笑いを返すことしかできなかった。
元来のずぼらさと、スーツを忘れることを危惧したモクマは、今回のような連続公演の際は楽屋の衣装ラックにスーツを置いていく。連続公演といっても長くて5日程であるし、スーツを来ているのは半日程度。それに素肌のままにスーツを着るわけでもないので、洗い替えするほどではないと思っていたのだ。
今回だって4日間のスケジュールだったので、予備を使うつもりはなかった。ただこうなっては仕方がない。
モクマは、確か今回の拠点に予備が置いてあったはずだと自室の間取りを思い出す。そのまま大き目の鞄に、使用した小道具やタオル類を乱雑に詰め込むと、最後にスーツを手に取って、当社比丁重に丸めてから鞄の一番上に押し込んだのだった。
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拠点に戻ったモクマは、早速自室から予備のスーツを取り出した後、荷物の片付けに取り掛かる。
洗濯物を選り分けて、明日も必要なものと予備のスーツを鞄に仕舞う。
選り分けた洗濯物は直ちに洗濯機へ。そうしないと相棒に大層叱られるし、さすがにスーツ下の肌着などは自分でも顔を顰めてしまう臭いだ。
もう時刻は日の入り程だったが、時分は関係なしに洗濯機を回す。悪党業のついでに行っているヒーローショーの衣装を外に干すわけにもいかず、室内干しなので時間なんていつでもいいのだ。だったら忘れないうちにやってしまう方が、余計な顰蹙を買わずに済む。
洗濯物を放り込み、適当に洗剤を投入する。蓋を閉めようとして、そうだそうだと穴の開いたスーツを取り出した。
以前、このように何も考えず洗濯機で洗って、縫い目がほつれてしまったことがあった。その時「伸縮性のある衣装を適当に洗うからですよ。こういったデリケートなものは洗濯ネットに入れてください」と相棒に言われたことを、モクマは思い出したのだ。
自身が慈善事業の如くやっているニンジャジャンの衣装や道具は自前で揃えなければならない。特にヒーロースーツなんて特殊なもの、そう簡単に手に入らないし、そこそこ値段もする。それでなくとも、モクマ自身、物は大切にする質だ。自身の装束も修繕したことはある。洗って干して、その後穴を塞ごうと、モクマはスーツを入れたネットを洗濯機に戻して、スイッチを押した。
そこから1時間もかからないぐらいで洗濯機は停止し、モクマは室内乾燥機能のついた部屋へ洗濯物を運ぶ。一つ一つハンガーにかけ、部屋内の竿にかけていき、最後に乾燥機能をオンにする。
ゴォォと吹き出した温風は穴の開いたスーツをなびかせ、洗濯のひと段落がついたモクマは休息を取ろうと自室へ戻った。
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やたらと空気が冷たく、なんとなく重たいような気がして目が覚めた。そうしてそこで初めて、あの後寝てしまったのかと気が付いた。掛け布団の上に寝っ転がり、手元にはタブレットが落ちている。時間を確認しようと触ってみても、画面は明るくならない。まさかバッテリー切れか、と部屋の中を見渡して、備え付けの掛け時計を見れば、もうすっかり夜半だった。
日没ぐらいに洗濯物をして、それがトータル1時間少しかかったとしても、5時間は経っている。やってしまった、とモクマは慌ててベッドから起き上がり、洗濯物を片付けるべきか、何か食べるべきか、風呂に入るべきか、ぐるぐると思案する。結局喉が渇いたな、とリビングへ向かった。
リビングへ向かうまでに、洗濯物を片付けなかったこと、夕飯を食べなかったこと、風呂に入らず寝入っていたこと、それぞれ全てに小言が言われそうだなあと、律儀で潔癖な相棒のことを思う。それにしても少しだけ休息を取るだけのつもりだったのに、すっかり寝入ってしまうとは。自覚症状がない程疲れていたのか、それとも年のせいか。小言の幻聴と寄る年波の現実に、モクマの足取りは重かった。
とぼとぼとリビングの扉までやってきたモクマは、ふとその奥から物音がすることに気が付いた。こんな夜半に、もしかして相棒がいるのだろうか。であれば幻聴がいよいよ現実になってしまう。モクマは扉を開ける前にそっと近づき、聞き耳を立てた。
漏れ聞こえて来たのは、何かの旋律だった。ということはリビングにいるのは相棒であることは確定なのだが、モクマは彼の演奏は聞いたことはあっても、歌声を聞いたことはなかった(催眠時のドレミは別だが)。しかし、何度聞いてもそれはピアノの旋律ではなく、人の声による歌だった。大きな声で朗々と歌っているわけではない。声は途切れ途切れにしか聞こえないし、歌詞がいきなりハミングに変わったりと、何とも中途半端な歌声だ。
モクマは慎重に取っ手を握り、音を立てないように捻る。数ミリ単位で扉を押して、僅かな隙間から中の様子を窺うと、そこには驚きを禁じ得ない光景があった。
扉の向こうには、ソファに座りながらニンジャジャンのスーツを手に鼻歌を口ずさむ、相棒がいたのだ――。
「とば……、とばない、ふふ…、手裏剣……
ゆけど、ゆかない、ふふん……ジャジャン」
モクマは取っ手を持ったまま固まり、チェズレイの様子を凝視する。
鼻歌といえば、嬉しいことがあった時や、気分がいい時、あるいは浮足立っている時といった、良くも悪くもそのご機嫌さを窺わせる行為だ。いくつもの仮面を持ち、決してその本性を露呈することのないチェズレイとは対極にある。
それに加え歌うのは、かつて不本意に覚えてしまったと言っていた、馴染みのある曲。その手に持つスーツのテーマソングだ。
途中ハミングを挟みながら口ずさむのは、比較的スローなテンポだった。そしてそのテンポは手元の動きとリンクしている。
似たような動きを繰り返す手元からは、細い針とスーツと同じ色の糸が伸びていた。
きっと穴を繕っているのだろうと、モクマは思い至る。
チェズレイは止まることなく手を動かし、それに合わせて何度もサビを繰り返す。
細かく針を動かすときは通常のテンポで、糸を引き抜くときはスローなテンポで。かつての彼ならば絶対に許容のできない、ちぐはぐでおかしなメロディーだ。それでも、チェズレイの動きと声は一体になって、まるでその身体ごとが楽器のように、柔らかな音色を奏でている。楽しんでいるようだった。現に、これほどまでモクマの無遠慮な視線に晒されながらも、チェズレイはそれに気付く気配がない。
モクマはそのまま気付かれぬよう、そっと扉を閉めた。きっとチェズレイだってあの姿を見られるのは不本意だろうし、そもそも自分がチェズレイの前に姿を見せられる状態ではなかった。
音もなく扉から離れて数歩。壁伝いにずるずるとしゃがみ込んで、モクマは顔を覆った。
火が出そうなほど、自身の顔が熱くなっているのが分かった。
あのチェズレイが、こんな夜半に仕事着を繕う姿が。
己の機嫌を隠し立てすることなく、肌が粟立つとまで言っていたメロディーを口ずさむ姿が。
そして何より、あの穏やかな顔が。
モクマの脳裏にいつまでも焼き付いて、離れない。
(反則でしょう、あの顔は……)
明日はどんな顔をして相棒に会えばいいのか頭を抱えながら、それでも明日のステージは穴の塞がったスーツを着ようとモクマは決めたのだった。