抱きしめたい(雑踏) 俺たちを知らない人しかいない雑踏の中で、不意に抱き締められることがあった。信号が赤に変わって、立ち尽くすしかない時に、彼は後ろから俺を抱き締め、甘えるように鼻をこするのだった。周りの人間は何も言わない。だって俺たちはただの通りすがりで、狡噛慎也と宜野座伸元が抱き合っているなんて、誰も知るところにないから。あの時、狡噛が何を考えていたのかは分からない。ただ見知らぬ誰かに俺を自分のものだと主張するのが、彼の幼い独占欲であることは分かった。でも、俺なら自分を知る人の前でも抱き合えるのに、彼はそうではないらしい。
「あなたたちって、本当によくくっつくわね。そんなに寒いの? 部屋の温度を上げましょうか?」
真夏の行動課のオフィスで、花城は狡噛にそう言った。さっきの話は俺が監視官時代の話のもので、外務省に来た今となっては、狡噛は自分たちの関係を隠そうともしなくなった。仕事場でも、まだ勤務時間内でも(花城はそれに怒っているのだ)。
「いやいい、こっちの方が落ち着くし、考えも浮かぶんだ」
「そういう話じゃないんですけどね……!」
花城は呆れて怒りに震えている。俺はそれが恐ろしくて狡噛から離れる。俺だって仕事とプライベートは分けたい。ただいつの間にか、例えばコーヒーを差し入れられてありがとうと言ううちに抱き締められているだけで本意ではないのだ、多分。
「分かればいいの、分かれば。さぁ、仕事よ!」
花城が手を叩いて俺たちは仕事に戻る。まぁ、ずっと仕事はしていたのだが。狡噛に抱き締められながら。
仕事を終え、部屋に戻ってカウチに座る狡噛を後ろから抱き締めると、彼は少し不思議そうに俺を見た。俺は言い訳が見つからなくて、「こんなふうにしてくれたこともあっただろう」と言った。すると昔のことを思い出したのか、狡噛は「あの頃は勇気がなくてな」と、俺に言った。「お前が上を目指して、俺を捨てるつもりなのかと思っていたから。縁談やら何やらが来ていただろう?」
妙にしおらしいそれに、俺は笑ってしまって、もう一度狡噛を抱きしめた。そしてキスをして、お前以外考えられないのに馬鹿だな、と言った。そして独占欲をあんな形ではたしていた恋人を、とても強く愛おしく思った。