ひまわりの笑顔(迷路) ひまわりの迷路に行った時、母の手は汗ばんでいた。母は笑っていた。彼女の背丈以上に大きなひまわりを背景に、お父さんはどこかしらねぇとにこにこと。俺はこのまま迷路から出られないような気がして泣いてしまって母を困らせた。ねぇ、お母さん、大丈夫なの、僕たちちゃんとここから出られるの、お父さんと会えるの。俺は泣いて泣いて泣きながら母にしがみついた。母は困った顔もせず、大丈夫よ、絶対にお父さんに会えるからね、のぶちかは心配性ね、と笑った。結局俺たちは仕事場から遅れてやって来た父と迷路の近所のラムネ売りの店で再会して、でも俺は迷路の中に助けて来てくれなかった父を恨んだ。父さんのこと、ヒーローだと思ってたのに違ったんだ。それは初めての彼が全能でないと知った時のことだった。
これを思い出す時、俺は父が普通の男だったことを知る。普通に妻を娶って、子供を作った、仕事は出来たが平凡な男。あのまま父と暮らしていたらどうだっただろうと思う。癇癪を起こして喧嘩をすることもあっただろうか? 子どもらしく人間関係の相談をすることもあっただろうか? でもそれは全部空想で、どうなっていたかは分からない。父は突然俺の前から消えてしまって、戻ることはなかったから。
「これ、全部処分しちゃうんですか?」
父の執行官宿舎の一室を引き継いだ時、俺は部屋を片付けるために父が手慰みに書いていた油絵や本を捨てることにした。これはその時一緒にいた上司の言葉なのだが、彼女は、常守朱は、未練がましく油絵の表面を愛おしげになぞっていた。彼女と父の間に何があったのかは知らない。父は女には甘いところがあったから、いい思い出として残っているのかもしれない。
「一枚、もらえませんか、記念に」
そう言って彼女が指さしたのは、ひまわりの絵だった。俺はそれにあの夏を思い出して動揺した。でも明日が知れない俺よりも監視官が持っている方がいいと思って、俺は言葉を飲み込んだ。
「いい絵ですね。夏の匂いがしそう……」
夏の風の香り、ラムネの匂い。そんなものを閉じ込めたことをこの人は知らない。でもそれでいいのだと思う。父が覚えていてくれたことが嬉しかったから、俺はそれでよかった。
「夏の匂いか……」
夏の匂い、砂利道を歩く足の感触、父親はいつ来るかと泣いて聞いた思い出。そんな夏は、誰かのものにもならずずっと俺の中にある。