ある人のために 深夜、カサ、と耳元で音が鳴った。
その時俺は傑の部屋の大きなベッドに彼とともにいて、ささやかな音に気づいたのは奇跡と言っても良かった。正しくはわずかに残穢を感じたからだったが、そこに悪意はなかった。
傑もすぐに起きた。冷えていた足元は絡まってあたたまり、俺たちはぬくもりを求め合って触れ合っていたのを思い出す。もう冬だった。そろそろ来年の進級が決まる頃だ。俺たちにも後輩が出来て、二年生になる。
「なぁ、傑これってさ」
「……うん」
残穢じゃないか?
俺たちは眠い目をこすって、密やかに言葉を交わした。あたりはまだ暗いが、目が慣れているせいでお互いの表情は見えた。傑はほどいた長い髪をまとめて、ヘアゴムでくくった。俺は一応サングラスを探してみたけれど、どこかに落としたのか見つからなかった。その代わりにベッドサイドの棚に右手で触れると、カサ、と音が鳴った。それはさっき聞いた音だった。かすかに残穢を感じる、そんな紙の音だった。
「なんか見つけたかも」
俺がそう言うと、傑は部屋の電気をつけた。あたりがまぶしい、俺には何もかもがまぶしすぎる。それでも指に触れた紙は離さずに、俺は傑がそれを取り上げるのを待ち、右手を差し出した。
「あぁ、千羽鶴だ……」
傑はそう言って、俺の手を握った。まばたきをする。確かに彼の言う通り、俺の手には千羽鶴があった。昨日はなかったものだ。そして傑がその千羽鶴をつまみ上げた頃、俺はようやく棚の上からサングラスを見つけて、それをいつものようにかけた。まだ夜は深く朝方とも言えなかったけれど、つけていないと落ち着かないのだ。夜にサングラスなんて、少々馬鹿げているけれども。
「千羽鶴? 敵の吹き矢じゃなくて?」
俺は堅苦しい雰囲気を変えたくて、適当にそんなことを言った。そして俺の願い通り、傑は馬鹿な言葉に笑っている。しかし、彼はすぐに表情を固くして、千羽鶴の端を触った。その千羽鶴は赤い色をしていたけれど、傑が触った場所だけ小さく焦げていた。俺はもしかして飛んでる最中に速度を出しすぎて燃えたんだろうかと馬鹿なことを思って、それでも窓が一ミリも開いていないことを不思議に思った。別に、場所を移動させる方法が呪法にないわけではない。だがただの端が燃えた千羽鶴を送るなんて、俺にはその理由が分からなかった。それともここは傑の部屋だから、これは彼に向けたメッセージなんだろうか? 呪術高専には結界が張られている。それを飛び越えて送られたものならば、端が焼けていたって不思議ではなかった。
「吹き矢か……。そんな物騒なものじゃないよ。多分、私に向けた手紙かな。明日あたりお通夜に行かなきゃならないかもね」
そう言った傑の顔があまりにも寂しそうだったので、俺は彼がいつの間にか広げていた赤い折り紙を手に取った。傑はそれには文句をつけなかった。彼が手紙と言った通り、そこには文字が書き込まれていた。
『またみんなで映画を見よう。元気になる日を願って。3C、夏油傑』
それは傑の筆跡だった。だったらこれはきっと、彼が誰かに贈ったものなのだろう。
千羽鶴は今では多くは病人の快癒を願うものとして扱われるが、古くは瑞祥を願って神社に奉納されていたもので、広い意味では呪術にあたる。これもきっと、そのために作られたものなのだろう。傑はこの千羽鶴を贈った誰かのために呪力を込めたのに違いない。それが彼の元に返ってきた理由は知らないが、もしかしたら故人の意志で、友人に礼を言いたかったのかもしれない。
傑は俺がその折り紙を返すと、愛おしげに自分の文字をなぞった。いい友人だったのだろう。俺の知らない友人関係は、きっと良好なものだったのだろう。傑は優しいから、きっとこの千羽鶴を贈られた人もまたいいやつだったのだろう。俺はそう思って、なのに上手くいかなかった、傑の願いを思った。
「なぁ、それ返してきたのって同じクラスの女?」
俺は傑があまりにもセンチメンタルな顔をするので、それをからかいたくて彼に尋ねた。すると傑はうなずいて、「そうだよ」と言う。俺はそれに「やっぱり」と答えた。わずかに彼に対する恋慕の情を、千羽鶴に感じた気がしたのだ。また、みんなで映画を見よう。そんな簡単な言葉を、心の底から希い求めた少女がいたと思うと、どうしてか胸が痛んだ。
「俺もお通夜に行ってもいい?」
「私はいいけど、それは私が決めることじゃないよ」
でも、また何か起こるかもしれないね、そう傑は言った。
俺はサングラスを取って、傑は千羽鶴だった折り紙を丁寧にたたんで机の引き出しに入れて、その後また電気を消して、何も言わずにベッドに潜り込んだ。神経は昂っていたけれど、俺たちはほとんど何も語らなかった。
傑と同じクラスだった女の子は、どうして死んだんだろう。俺はその理由も知らない。けれど、こうやって静かに夜を過ごすのは、彼女のためである気もした。誰かを思って眠る、それは黙祷にも似た行為だった。
「その子のために、お通夜の後映画館に行こうぜ」
その子が好きだった映画を見ようぜ、俺がそう言うと、傑は俺の手のひらを握って、「そうだね」と言った。果たしてそれが少女のためになるのかは分からない。でもあの千羽鶴を飛ばした女の子なら、傑が映画を見てくれたら喜ぶ気がした。俺はお邪魔虫かもしれないけれど。
俺はまぶたを閉じる。傑のことを好いていただろう女の子のことを思う。そうして、優しい傑が、その女の子のために映画を見る姿を想像する。薄暗い狭い一室、映写機の音、俺たちはそこで手も繋がず、ただ映画を見る。それは亡くなった少女のための行為だった。今の俺たちが出来る、たった一つのことだった。