世界が終わるとしたら 深夜二時、眠れなくて傑の部屋にゆくと、彼は俺が実家からの土産だと渡したティーカップを片手に、優雅に文芸雑誌を読んでいた。彼の好みは知らないが、そんなに趣味がいいものでないことは察しがつく。いや、今はそんなことどうでもいいな。きっと眠っていると思っていたのに、彼が起きていて、恋人が起きていて、俺はそれが嬉しいのだ。
「なんで起きてんの?」
「それはこっちの台詞。私は今日の仕事で疲れてかえって眠れない、からかな」
傑はそう言って額をかいた。今日の任務は確かに疲れた。精神的にも、肉体的にも。これについては今度話すことにしよう。あまりにもな事件だったから、俺の中でもまだ整理がついていないので。
「俺にもそれちょうだい」
「ティーバッグだけどいい? 今から淹れるよ」
なんでもいい、傑が入れてくれるものなら。俺がそう言うと、傑はキスでもして欲しいの? と、笑って揃いのティーカップにケトルから湯を注いだ。匂いでダージリンってことが分かる。鼻がいいのもあるかもしれないけれど、大きな声では言えないが、それも俺がいらないと贈ったものだったから。俺はここら辺でようやく傑が座っていたローテーブルの向かいにあぐらをかき、深夜のお茶会が始まるのを待った。
「ほら、アップルパイ。これは私が買ってきたものだから口に合わなかったらごめんね」
そう言って傑が差し出したのは、刷毛で塗った卵黄で、きれいに焼き色がついた編み目模様のパイだった。俺はその甘酸っぱさを想像して、じゅるりとよだれを飲み込んだ。紅茶も出される。思ったより本格的なお茶会だ。硝子は煙草が第一だけど、こういう美味しいものに目がないのは知っていたから、二人でつまんでしまって悪いなぁ、そう俺は思った。
「場所、変わる? そっち壁が近くて苦しいでしょ」
「俺は痩せてるから大丈夫」
そんな馬鹿なやりとりをして、俺はアップルパイにフォークを突き刺した。さくさくしたパイ生地が美味しい。シナモンが効いたシャキシャキの林檎煮も最高だ。これに合わせる紅茶もこれもまた美味い。知らなかったけれど、傑は案外美食家なのかもしれない。前に二人で仙台に行った時だって、ずんだ生クリーム餅っていう、胃に重そうな、でもとても美味そうなものを買い占めていたっけ。
「ねぇ、悟気付いてる? 私が今このテーブルを押したら、君は壁に押し付けられるってこと。そしたら私が何をするか知ってる?」
ぼんやり傑の用意してくれたアップルパイを食べていると、少しいたずらっぽく傑が言った。何をしてくれるのかな。俺をいじめるのかな。でも紅茶がこぼれるのはもったいないな。アップルパイが駄目になるのももったいない。そんなことを考えてアップルパイとダージリンにがっついていると、傑は笑って、「そんなことしやしないよ」と笑った。目の下にはくまがあった。今日の任務で疲れているのだろう。俺も疲れた。だから彼の部屋にやって来たのだ。
「窒息死」
「へ?」
「窒息死するほどキスして欲しいかな」
俺はそう言ってぽかんとしている傑のシャツの喉元を引っ張ってキスをした。ティーカップが机の上から落ちる。でも俺は全部飲んでしまったし、傑もそうだったから畳が汚れることはない。アップルパイも同様だ。ただ、強引にしたせいで彼が読んでいた文芸誌にはシワがついてしまったけれど。
「呪術師として死ぬ気はないけど、傑がいるならキスで窒息死がいいよ」
俺はそう言って、彼の薄い唇に自分のそれを押し付けた。舌が絡まる。唾液を飲み込む。ローテーブルが傾いて、俺たちは畳の上に寝転がってキスをする。ダージリンの味、林檎とシナモンの香り、そんなメルヘンなものの中で、俺たちは女の子が憧れるようなキスをする。傑がモテるのは俺は知っている。俺は性格がアレだからみんな去ってゆくけれど、傑だけは多くの人の大切な誰かになる。いつか傑は多くの人を導く誰かになるのかもしれない。それはどんな形か分からないが、いい方向出会ってくれと俺は思う。彼が傷つかないような形がいい。彼が怖がらないような、優しい形がいい。
「それじゃあ、私は殺人者だね」
「俺は自殺志願者かな」
俺は傑の肩に腕を回しそう言う。傑に殺されるのならそれでいいって、そして傑が望むのなら俺は彼を殺すだろうとも。いや、やっぱり嫌だな、傑を殺すのは。大義名分があったって、俺はどうにかして彼を逃そうとするだろう。もしもそうしないとしたら、よっぽどの理由があるか、俺が歳をとったってことだ。愛する人と世界を天秤にかけて、世界を取るってことなんだから。
「私は耐えられないから心中させてよ」
傑が言う。俺はその言葉に何も言えなくなって、またキスをした。傑は優しい。こんな戯言にも本気になる。駄目だよ、俺は傑よりずっと駄目な人間なんだから。俺はお前が好きで、愛していて、それだけで全部が解決すると思っている馬鹿な男なんだから。
「いいよ、うん、いい、いいよ……」
俺は何度か繰り返しそう言って、傑に抱き締められながらベッドに転がされた。彼からは甘いアップルパイの匂いと、香り高い紅茶の匂いがした。そこに混じった傑の体臭は、少し汗臭くて高校生っぽくて、俺はその匂いが大好きだった。彼の匂いを嗅いだら、俺は駄目になってしまうから。
「悟が私を殺してくれてもいいんだよ」
もう駄目だ、という瞬間、傑が言った。けれど俺は快感で何も答えられなかった。そして何もかも終わった後には俺たちは眠ってしまって、それ以上話すことはなかった。これが俺たちが高専一年の頃にあった話だ。その後を知る人なら、きっと笑ってくれるんじゃないだろうか?