人魚と紫陽花 人魚の呪霊が流す涙を体内に取り込むと、長生きが出来る。
そんな噂が非合法の骨董マーケットの間で立ったのは、俺たちがまだ高専一年の夏に差しかかった頃のことだった。古式ゆかしい八百比丘尼が現代に現れたのなら、伝承通り肉を食えばいい。でも何故今回は肉でなく涙なのか。俺にはそれが分からず、傑も不思議そうな顔をしていたように思う。
「それで今回の俺たちの任務は?」
「八百比丘尼の保護」
「あぁ、面倒臭そうだなぁ……」
そんなこんなで、俺は傑と二人で八百比丘尼を探す羽目になったのだった。
でも、八百比丘尼は、人魚はすぐに見つかった。彼女が自分から、俺たちが学ぶ高専に近づいてきたからだ。彼女は教室で多分涙なのだろう、透明な液体が入った瓶を下げた胸元にナイフを置いて、生霊みたいな顔をして、「もう、私を殺してください」と言った。いや、俺たちが命じられたのはあんたの保護でそういう物理的な殺害じゃない。というか不老不死なのにナイフで刺せば死ぬのか。俺はそれを疑問に思ったが、教室にいる誰もがそれを尋ねなかった。
しかし、そう言っても八百比丘尼は聞かなかった。けれどもう何百年も生きているんだろう? 自分の人生に諦めもつく頃合いじゃないか。長く生きたらいいこともあるだろう? 日本各地に散らばる伝承には、世話になった若様に命を差し出して死んだというのもあるじゃないか。そう言うと、彼女は「恋をしてしまったんです」と言った。「あの人と私、来週結婚するんです。幸せなまま死にたいんです」待て待て待て待て、新婦を殺せっていうのかこの高専生に。いくら相手が呪霊だって結婚できるなら戸籍がある、ならそいつを消すのは法律違反だ、犯罪だ、何より任務違反なんだぞ。
「いつ死にたいんです?」
「は? お前何言ってるんだよ傑!」
「出来たら幸せなうちに」
「結婚したら嫁姑問題もありますもんねぇ……」
「傑! 昼ドラみたいなことを言うな!」
俺たちがいる教室には、硝子もいて、彼女は煙草を吸いながら「私なら出来るよ」とこともなげに言ってみせた。は? この教室には頭が沸いている生徒しかいないのか。いや、硝子は反転術式が使える。それを反対に使ったら? そうしたら人を殺せるのではないか。いや、でも相手は長年日本を翻弄してきた呪霊八百比丘尼だ。人魚の肉を食って、不老不死になった八百比丘尼。
「そうか、硝子なら」
傑が言う。俺は一体傑が何に気付いたのか分からない。ただなんとなく、解決策が見つかった気がした。硝子の手には現代医学の小難しい本がある。そうだ、呪霊を呪術で解消しようとするからまずいのだ。だったら現代医術を使えばいい。
「テロメア……」
俺がそうつぶやくと、硝子はにやりと笑って、煙草を美味そうに飲んだ。
「そう、それ。人間の不死の問題点。人間にはテロメラーゼがないから、テロメアが短くなると細胞が老化して死んでしまう」
「じゃあ……」
「あんたのテロメアを短くすればいい。やったことがないから出来るかどうか分からないけどね。なぁ、人魚さん。いつ死にたい?」
硝子が言う。八百比丘尼は戸惑った顔をして、さっきまで胸元に置いていたナイフを落とした。「分からない、分からないんです……さっきまで今一番幸せだったのに、もう分からない」
俺はそんな彼女を見て、案外自死の決意も軽いものなのだと思った。とはいえ、この調子じゃあ八百比丘尼を保護するのは簡単そうだ。それが彼女を結婚から遠ざけるかどうかは知らないが、とにかく、八百比丘尼を欲しがる人々から守ることは出来る。
「よく分からないけれど、ありがとうございます。私が差し出せるのは肉か涙ですがどうしますか? 食べます?」
「いや、いいです。多分夜蛾先生があなたをそういう価値観から解き放ってくれますよ」
傑はそう言うと、その夜蛾先生に電話をして、全てが終わったことを伝えた。俺はそれを聞いて、驚くほど簡単に終わった今回の任務について思っていた。
その夜、季節がら長雨となることになる雨の中傑の部屋に行くと、そこには八百比丘尼が持っていた瓶を持つ傑がいて、あぁ、これが不老不死の涙の瓶、と俺は思った。飲むつもりなんだろうか? 長生きしたいもんな、誰だってさ。
「傑、それが欲しかったの? 欲しけりゃ買ってやったのに」
「いや、悪いことに使う誰かが出ないためにね」
傑は笑って、そして窓を開けた。窓の向こう側にはいつの間にか降り出した雨にけぶる大きな紫陽花があって、それは美しく咲いていた。俺はそれに彼の意図を見た気になって、ロマンチストな傑を愛おしく思った。優しい恋人。何もかもを俺のためにする恋人。けれどそれは時に俺を苦しめることとなる。
傑が瓶の蓋を開ける。それは雨の合間に雫となって紫陽花にかかった。全て、空になるまで傑はそれを振った。
「人間だけじゃなく、植物に効くのかどうかは分からないけど、私がもしいなくなったらあれを見て思い出してよ。きっと紫陽花はずっと咲いてるから」
傑はそう微笑んで、傍に立っていた俺の頬をなぞった。俺はそんなロマンチストな彼に少し苛立って、ずっと一緒にいるのは決まってるだろうと、彼にキスをしたのだった。
それは少ししょっぱかった。まるで人魚の涙みたいに。