花火の雨 大雨が降って、狡噛が楽しみにしていた花火大会が順延になった。俺は中止になったんじゃない分よかっただろうと思ったのだが、彼はそうではなかったらしく、大きく落ち込んでいた。俺はそれが珍しく、面白く、暗闇の中雨が降りつけるベランダで未練がましくハイネケンの瓶ビールを飲む恋人を見つめながら、さて、どうやって慰めるかなんてことを思っていた。
出島での花火大会は珍しくない。ここでは宗教行事と結び付けられることの多いそれは、クリスマスや新年を祝う時、旧正月を祝う時などに何発も豪華に上がった。思うに狡噛は花火が見たかったのではなく、そういう雑多な行事、東京にいては感じられない移民たちの生の生活が見たくて、それが叶わなくて落ち込んでいるのだろう。
「ほら、もっと飲めよ」
俺はそう言って、煙草を吸い始めた狡噛にビールを手渡す。自分の分も口にする。すると彼はベランダの手すりでキャップを外して、指で煙草をつまんで緑色の瓶ビールに口をつけた。外は雨が降っている。部屋に備え付けのコミッサアバターが明日にかけての豪雨を予報していたから、今日はもう晴れはしないのだろう。でもそれでいいじゃないかと思って、花火の行方はもう来週に決まっているのだからと俺は思って、狡噛にこんな提案をした。
「マーケットに行かないか? そろそろ盆も終わりだろう、何か掘り出し物があるかも」
「……こんな雨なのに?」
こんな時間なのに? 狡噛が言う。俺はその真面目そうな言葉に笑いそうになって、けれどどうにかこらえてそりゃあそうだよな、こんな雨だものなと一人で納得した。
「今日のために用意した料理たちがかわいそうだろ? 安くなってるかもしれないし、見に行こう」
「そりゃあそうだが、意外だな。ギノがそんなことを言うなんて。いつも俺に付き合わせてばかりなのに」
そうだ、俺はいつもお前に付き合っている。だから分かるのだ、ここでだらだらとビールと煙草を楽しんでいるふりをして、本当は街に繰り出したいことくらい。俺は花城に外出申請をする。名目は昨日の任務の続きの聞き込みだ。マフィアの末端に位置する青年が情報提供してくれた武器密輸の取り押さえ。
「何だかサービスが良くてうたがっちまうな」
「帰ってきてからサービスしてくれればいいさ」
俺はそう言ってハイネケンを手にベランダを出た。果物のような味わいに、まろやかな泡、それは口を楽しませてくれたけれど、土砂降りの中で食う料理には負けるだろう。
「外出申請、通ったぞ。さぁ、仕事のふりをして楽しもう」
俺がそう言うと、狡噛は少し複雑そうな顔をして、「仕事ねぇ」とつぶやいた。昨日の仕事がうまく進まなかったことを彼はまだ気にしているのかもしれない。マフィアの青年から情報を得た俺たちは武器の製造工場にまでたどり着いたが、そこはもぬけのからだった。情報が筒抜けだったのだ。これでは情報にならない、もう守れないかもしれないと、足抜けしたそうな青年にそう言うと、確かに昨日まではここに武器はあったのだという。もう売り払われてしまったのだろう、というのが、彼の言い分だった。
「仕事のふりだ、狡噛。仕事は明日からすればいい。今日は充分に走り回ったんだから」
俺はそう言い、傘を二つ取り出した。無言で彼に渡すと、狡噛はしけった煙草を携帯灰皿ににじり消して、それを受け取った。
俺たちはマーケットに行ったけれど、そこには店主たちの姿はあったものの、花火大会目当ての客たちの姿はなく、いつもよりずいぶんさびれて見えた。けれどそれも味がある。俺たちはそんな中、フティウと呼ばれるフォーの亜種を食べた。豚肉、牛肉団子、イカ、エビ、名前も知らない魚、もやしやエシャロットが入った具沢山のスープだ。俺たちは跳ね返る雨で足をびしょびしょにしながらそれを食べ、「今日のために準備してたんだ、たんと食べておくれよ」と言う老いた主人にせかされながら、サクサクのパンケーキも食べた。豚肉やエビ、もやしでいっぱいの黄色の生地だ。
「ここら辺で怪しい人を見たことは?」
狡噛が言う。すると老婆は「あんたらみたいな人かい?」と言い、彼を苦笑させた。狡噛がまとう空気は、彼女にとってはただものではないのだろう。俺だって多分、一般人には見えない。
「……何か取り引きがあるって噂はあったけれど、それだけだね。おおよそ今夜の花火大会目当てに、何かの受け渡しをしようとしたんだろうよ」
老婆はそう言って、氷が入ったビールを俺たちにサービスだと渡した。口をつけたそれはもともと薄かったのか味がほとんどせず、わずかに果物の爽やかな香りがしたくらいだった。ビールが苦手な人間でも飲めそうなそれだが、狡噛は気に入らなかったのか水のようにごくごくと飲んでいた。
「それじゃあ取り引きも順延か」
「いや、案外そうじゃないかもしれないぜ」
俺のつぶやきに、狡噛が反論する。彼はもう仕事の最中の目になっていて、料理を楽しんでいた男はいなくなっていた。
かくして、俺たちは雨の中、マフィアの青年が示したいくつかの場所を回ることとなった。そのうちの魚介類の倉庫では無事武器の受け渡しをとらえることができたのだけれど、ここでは関係のない話だろう。
俺は全てが終わって花城を呼んだ後、煙草を吸う狡噛の側で手持ち花火を売る、幼い少女を見つけた。彼女はびしょびしょになった花火を泣きそうな目で差し出して来て、俺はマネークリップから外したありったけの金を彼女に渡した。少女の顔が明るく輝く。これはお情けじゃない、仕事がうまく行ったお裾分けだ。雨で花火大会が順延しなければ、今回のようなスムーズな逮捕には至らなかった。
「無駄なものを買う趣味があったなんて知らなかった」
狡噛が言う。俺はそれにそうでもないさ、と返して、倉庫の屋根の下で赤い紙に包まれたしけった花火に火をつけた。するとそれは驚くべきことに輝き出して、俺は思わず手から落としそうになった。
「……無駄なものじゃなかったみたいだな」
俺がそう言うと、狡噛は肩をすくめた。俺は一つずつ、買い取った花火に火をつけていった。花城が来てもまだしていたので、ずいぶんなご身分ねと皮肉られてしまったが、まぁ、いい身分だったのは明らかだった。でも、そんな花火も終わってしまう。まだ雨は降っている。ざあざあと、俺たちを閉じ込めるように。美しいだけの刹那的な花火の中に、俺たちを閉じ込めるように。俺はそれを心地よく思って、最後の花火に火をつけて、隣に座る恋人の顔を見つめたのだった。