京園② 実家の旅館を手伝うという行動が、子供のお使いから労働という戦力として計算されるようになったのは小学校高学年になってからだろうと京極は推察する。空手を幼い時分より続けていた為か親の手助けをしなければならないという長男気質由来の使命感からか、成長する身体は歳を追う毎に強くなる事に最適化されていった。畳に擦れる皮膚は硬くなり筋肉はしなやかに肉体を形成して堅牢性を顕した体格は、同じ歳の頃の青少年達と比べても抜きん出ていた。
別格、桁違い、高次元……等々の賞賛は初めのうちこそ身に余る過分な賞賛と恐縮していたが、大人の枠組みの中に自身が分類されるような年齢に差し掛かる頃にはもうその言葉の裏側にどういった意味合いが込められているのかを、面と向かって言われなくても悟る事が出来るようになってしまった。誰が呼んだか、マスメディアが囃す。蹴撃の貴公子。近寄りがたいバケモノに名前を付けるような行動に、ただ京極は眉を顰めるだけだった。薄ら冷えた嘲り笑いの仕方を学ぶような環境にいなかった事が何よりの救いであった。
勝負事の世界の中にいると日常との均衡が崩れてゆく。一着の空手着を闘う者の生命に纏わせて対峙し、己のすべての力を差し出し合う。神聖な遣り取りだからこそ感覚は鋭悧に研がれる。頭で考える理屈と体で解釈する勘が時差なく表出させられる事の純粋な達成感。
其処の境地で京極は漸く自覚する。此処まで至らなければ、まともに感情さえ動かない。
その人に出会うまで、間違いなく自分は死んでいるようなものだった。
いつかの夏に負った右腕の刺傷痕を思うと、少しだけ人間味のある心持ちでいられるような気がして京極は目を伏せた。眠りから覚める頃には、その人の住む国へのフライトが終わっているだろう。
***
じ、と見つめてくる目が据わっている。頬は不服そうに引き締まり唇もへの字に曲げられている。
荷物だけなら格闘家というよりはツーリストのそれのような京極のバックパックを見た園子が、見てるだけで腰が痛くなるわ、と再会の挨拶も早々にホテルへのチェックインを勧めた。その気遣いに素直に頷いて部屋に入り、最低限の荷物だけを外出用のボディバッグに詰め直している時に彼女の手が横から伸びてきて京極の手を取った。
「どうかしましたか?」
そして、決定的に顔を顰められて京極は背筋に冷や汗をかいた。何か彼女の機嫌を損ねるような事を自分はしたのだろうか。空港からホテルまでの道中の記憶を遡ってみる。思い当たる事物がない。
園子は京極の手を掴んだまま、黙って室内の一人掛けソファに座らせた。その勢いに逆らわず、しかし困惑しながら腰掛けて彼女を見上げると、不意に表情が曇った。
「この手首のサポーターと指先の絆創膏、なに?」
「え?」
言われて手元を見る。トレーニングと組み手稽古をしていて、そういえば左手首を捻ってしまい更に爪も割れてしまっていたのだと思い出した。帰国前は何かと細かい作業をするにも絆創膏が邪魔をして思うように動かせずに煩わしく感じていたのにすっかり忘れていた。
忘れていたというより、そもそも怪我をした瞬間から大して気にしていなかった。多少血が出ても空手をやっているのだから当然であるし些細な事だとすら考えていたのだが、彼女から見ると結構な負傷に見えるらしい。
「どうしていつも教えてくれないの……」
両手で京極の左手を包む園子の口調は詰問めいてはいるが、表情も声も弱々しい。俯き加減になった顔には陰が落ちている。
「この程度、問題ありません」
「そんな訳ないでしょ!?」
顔を上げた園子と視線がぶつかる。空いた右手を彼女の手の上に載せて見つめ返すだけで精一杯だった。京極が一瞬怯んだように息を吸ってしまったのは、眼前の彼女が今にも泣き出してしまいそうな程に悲壮感を漂わせていたからだ。息を呑む、など競技生活をしていて咄嗟に行動に表れた事があったかどうか。少し、互いの指先が冷えている。
目頭に皺を寄せて目を瞑り、彼女がゆっくりと息を吐く。息を吸う。再びゆっくりと吐いて、それから漸く目を開いた。
「えっと……ごめんなさい。ムキになっちゃって」
「いいえ」
手首に見慣れないアームカバーを着けていたから初めはファッションなのかと思ったという事。しかしよく見れば伸縮性のある素材で、親指まで覆って固定するような形状をしている事に気付いた事。そして指先の絆創膏が少し血が滲んでいたので、間違いなく帰国前のタイミングで怪我をしたのだろうと予想出来たという事。特に痛がっている様子もなかったので治りかけなのかとも思ったが、思い返せば怪我をしたとしても京極はいつも何も言い出さないので、今回もまた心配もさせてくれないのかと悲しくなった事。──言葉を選んで、時折瞼と唇を震わせながら懸命に伝える彼女の姿に胸が詰まった。
前触れもなく感じたのは、胸の痛みだった。外的要因、物理的に傷付けられた訳でもなく、割れた爪よりも手首の筋よりも、これまでに負ったどの怪我よりも恐らく今、痛みを感じている。
真剣であれば尚更、勝負事には怪我はつきものだと昔から当然に思い、疑問に思う時間があれば何故下手を打ってしまったのかと省みて改善策を考えてきた。傷は傷として受け入れる。それは形となった己の至らなさだと気付いたなら正解を求めてまた鍛練を重ねてゆく。強さを証明していけば雑音も静かになるだろうと。
痛みを感じる事それ自体は何もおかしな事ではないのに、自分がそれに戸惑っているという己の状態に京極は動揺した。
「真さんが痛い思いしてたら、私も痛いんだよ。絶対怪我しないでなんて無理だって分かってるけど……痛くないか辛くないかって、怖くて悲しくなっちゃうの」
「はい」
「だから何かあったらちゃんと言って。心配させて。……真さん、強いから、自分で解決出来るのかもしれないけど、全部一人で抱え込んじゃいそうだから、それは嫌なの」
「はい。……すみません」
本当に、と今度は京極が俯いた。園子の白い手の甲に額を載せて、目を伏せたまま細く長い息を吐く。
頼りにしていないという事は絶対にない。寧ろこんなにも支えられているし守られている。彼女を見初めたあの日からずっと執り着いて忘れる事も出来ず、今までがそうであったようにこれからも京極真の中で鈴木園子という存在はその心の大半を占め続けると言い表して差し支えない。
貴女が思い出させてくれる、気付かせてくれる、教えてくれる。本当は自分自身の事さえまともに理解出来ていない事も、痛みは弱さではなく勝ち続ける事だけが強さではない事も、そして自分は人並みの、ただの男だという事も。
「貴女をこんなに心配させたのに、自分は。……すみません、今、ありがたいと思っているのに、何処かで嬉しいと思っているんです。不謹慎ですね……」
「もう、そんな風に言わないでよ」
ぺち、と頬を手挟まれて京極が瞠目する。しっかり握って額を擦り付けていた筈の手によって顔を上げるよう誘導され、今度は額と額とが合わさった。間近で見つめ合う眸にはもう先程までの翳りはない。
「私が心配して真さんが嬉しいって思うって事は、私の気持ちを受け取ってくれてるからそう思うんでしょ? うまく言えないけど、お互い一方的じゃないなら、それでいいの」
手を繋ぐ時のようなほんの少しの自然な緊張感で、京極は彼女の背中側に手を回した。促されるまま彼の膝の上に横座りになった園子が、身体を預けるように肩口に顔を埋めてくる。耳元で小さく笑う声が聞こえてまた胸が詰まる。脈打つように深くあまりにも大きすぎる、愛しい痛み。
「自分には園子さんがいる。と、そう思えるから、また強くなれます」
貴女がいなければまともに世界を感じ取る事さえ出来ない。自分の為に心を痛めてくれるのが貴女でなければどんな同情も慰めも無意味だと、けれどそれを伝えるのは憚られて能動的に京極は口を噤んだ。緩く腕を回した身動ぎの音で彼女も応えるように細腕を彼の首へ回してくる。
「真さんには、貴方の事が心配で大好きでたまらない、頼れる園子ちゃんがついてるからね」
彼が頬に掠めるような柔らかい感触を感じた気がして腕を緩めた時、既に互いの睫毛が触れそうなほど近付いていた距離が更に肉薄した。
ああ生きた心地がする。と、京極は思った。
貴女のいない世界だったなら呼吸をする意味がないと思うほどの幸福を、唇で感じていた。
〈了〉