キスの日にかこつけたグラエマ 見せたい景色があるんだ。とグランが言うとき、それは間違いなく素敵な場所だとエマは知っている。
エマが確信していた通り、グランに手を引かれて連れ出された場所は住宅街から少し外れた雑木林で、丁度見頃を迎えたリラの低木が群生している場所だった。
「すごい……ここだけ空気に香水の香りが漂っているみたい」
「本当にな。日が暮れる前にエマにも見せたかったんだ」
噎せ返るような花の香りで、景色がリラの花と同じ紫色を帯びているようにさえ見える。四つに分かれた花びらはいつも身に着けているブローチの形に似ていて、そして何より。
「グランの目の色と、似てるね」
リラの木よりずっと背の高い、グランを見上げてエマは微笑む。一歩分距離を詰めて、繋いだ手をどちらともなくほどいて掌を重ね、指を絡めた。
西陽が影を長く伸ばす。木々のものなのかグランのものなのか、境界の曖昧な薄闇の影がエマを覆う。陽のあたらない彼の腕の中ではほのかな頬の熱を隠す事が出来ない。
吐く息さえ花の色に染まりそうな芳香に眩暈を感じて、エマはよろめくようにグランの胸元に額を押し当てた。わざと分かりやすく甘えてみせてもグランは咎めない。小さくわらった唇の形で、髪に触れるだけの口づけが落ちてくる。
手を繋ぐのも、キスをするのも、自然と出来るようになったのはいつからだろう。
エマが顔を上げるとそれが合図になったようで、背を屈めたグランが掌でうなじを支えた。拒んだ事などないのに逃さない、とでも言いたげな掌にやわく髪をかき混ぜられて、指の腹が地肌を掠める感覚にエマは息を震わせた。
その震えた吐息ごと呑み込まれて、隙間なく唇が重なる。目を閉じていても感じる視線の強さ。舌先が触れ合ってしまえばもう言葉なんて要らなくて、角度を変えて何度も啄ばまれるたび、絡まる水音が耳の奥に響く。
忙しい日常の合間ではなかなかキスだけに時間を割く事も難しい。普段は人目を盗んで、或いは時間を見つけて二人きりの時に交わすのみに留めている。触れ合わせ、たまに舌を重ねる程度。深く味わってキスをしたのはいつぶりだろう、と記憶を遡ろうと息継ぎをして、花の香りを感じた瞬間思考は霧散した。
「エマ」
溜息のような声が頬にかかって、エマは瞼を開く。視界を埋めるリラの花と同じ色をした眸に見つめられて動けなくなる。
「なんて顔してるんだ」
紫の眸が細められる。憂えて微かに揺れたグランの声が切なくて、どうしようもない愛しさで息が詰まるほど胸が締め付けられる。西の空は既に藍色が滲んていて、もう帰らないと、と自分から言い出さなければならない事はエマも分かっているのに、いつまでもこうして寄り添い合っていたくて、離れがたくて、苦しい。
「もう少しだけ、このまま……おねがい、グラン」
甘えた声になってしまって、呆れられてしまうのではとエマは不安になったが、グランはもう一度しっかりとエマを抱き寄せた。
リラの花の香りを胸いっぱいに吸い込んでからエマは目を閉じる。語り得なかった続きの言葉よりも、背中を抱く腕の強さが切なくてたまらなかった。
〈了〉