グラエマが初めて大人のキスした話。 音のないキスが前髪越しに、額に降りてくる。前髪をよけた指先がそのまま頬に添えられて、今度は直に唇が額に触れた。唇が完全に離れていってしまう前にこっそり目を開けて、目尻と眉尻と耳とを順番に見た。お互いに、こんなにも近くにいるんだと気付かされて、恥ずかしくて目を逸らしてしまう。
グランの体は大きいから、簡単に完全に抑え込まれてしまうのは分かっている。なのに、怖い、とは、全然思わない。どきどきするのに安心するなんて不思議だな、なんて思いながら彼の胸に寄り掛かった。
こうなる前から距離感はそこそこ近かったように思う。でもだからこそ、適切な間隔がどのくらいのものなのか、初めは掴めないでいた。今はもうだいぶ慣れた方だと思う。肩とか腕とかに手を添えても平気だし、例えば唐突に抱きついてみたりしても、きっとグランは許してくれる。恥ずかしくて今は出来そうにないけれど、そのくらいなら、いつかしてみたいかも、とも思ったりする。
「エマ」
囁き声に顔を上げて、あ、と思った時には口付けが落ちてきた。額でも頬でもなくて、唇に。
(……ぅ、わ)
目を閉じるタイミングを逸してしまったせいで、間近にあるグランの顔の、鼻筋や瞼、実は長い睫毛まではっきりと分かってしまった。
慌てて目を閉じて、いつもよりも少しだけ長く触れ合っていた唇がゆっくりと離れていく気配を感じ取ってから、恐る恐る瞼を持ち上げてみる。さっきよりもずっと近いところにグランの目があって、なんだか胸が痛くなる。きゅうきゅうと締め付けられるようで、呼吸の仕方まで忘れてしまいそうになる。
キスに慣れない、というより、この距離感のグランに慣れてない。戸惑っているのは事実だけれど、それでもやっぱり嬉しいものは嬉しくて。恥ずかしくて照れてしまうけど思わず笑ってしまう。
しあわせ、ってこういう感じなんだと、すんなり分かったような、そんな心地。
「グラン」
「どうした、エマ」
グランの声も柔らかくて優しい。普段はこんな甘い声で名前を呼ばれたりしないから、心臓が跳ねる。こんなにも近くで、彼に触れられている事を改めて実感して、胸がいっぱいになる。
「あのね、好き」
気持ちを言葉にして声に乗せてみると胸があたたかくなるような、体温まで少し上がったような心地がした。
ふにゃりと表情が崩れそうになるのを必死で堪えて、グランの反応を待つ。
彼は一瞬だけ驚いた顔をして、それからすぐに微笑んでくれた。
「俺もだ」
「うん……」
頭を撫でられる。その手が頬に降りてきて、あたたかくて大きな手で頬を包まれるのがとても気持ちいい。
つい、目を閉じた時、グランの気配を感じた。
「エマ。そのまま少し、口を開けててくれるか」
「へ……?」
なんだろうと思いつつも言われた通りにすると、また軽く唇を重ねられた。そのまま覆うように塞がれてしまう。
ぬるりとしたものが入ってきて、それが舌だと分かるまでに数秒かかった。
「ん、ぅ……?」
なんで、と考える間もなく口の中がグランの舌でいっぱいになる。
びっくりして固まってしまったままの私の歯列をなぞって、上顎の裏に触れられて、ぞく、と背筋が震えた。
息継ぎの間合いすら分からずに混乱しているうちに、それはどんどん深くなっていく。自分の舌でも届かないようなところをグランの舌が掠めていく。
「ふぁ、ぅ……ん」
頭の奥が痺れて、ぼうっとする。
グランに背中を撫でられて、唇と舌にも口の中を撫でられて、全身をグランに包まれているみたいだ、とようやく思考能力が戻ってきた。
(そ、っか、これ……キス、されてるんだ、私)
キスするのに、こんな風に舌を使うなんて、そんなの知らない。
舌を絡め取られて、吸われて、こすられて。引っ込めようとしたら逆に捕まって、舐められて、甘噛みされて。自分が何をされているのか理解するのがやっとだった。
「んぅ、は……」
苦しくなって、酸素を求めて口を開こうとする度にグランの舌が深く入ってくる。食べられてるみたいに感じるのはどうしてだろう。
とろとろと唾液も流れてきて、こくり、と喉が鳴った。飲み下したらもっと頭が熱くなった。
(これ、だめ……かも)
このままじゃ本当にどうにかなってしまう。
そう思った瞬間、ようやく唇が解放された。
「っぷぁ、は……ぁ」
新鮮な空気を吸い込むと、一気に涙腺が緩むのを感じた。
首から上がすごく熱くて、グランの顔もぼやけて見える。とても長い時間のように感じたけれど、実際はそうでもないのかもしれない。
それより、私の顔を見つめたまま何も言わないグランが少しだけ、怖い。混乱してよく分からないまま何か変な事をしてしまってたらどうしよう。
「ぐ、グラン……」
名前を呼べば、グランは困ったように眉尻を下げた。
「悪い、その……我慢出来なかった」
瞬きして、よく見るとグランの顔が少し赤くなっている事に気付いた。
「こんな……」
「え?」
「口まで小さいなんて思わなくて」
グランの手が顎に触れる。親指で唇をなぞられながら言われて、カッと体が熱くなったのが分かった。
確かに、実際にキスしてみるまで分からなかった。グランの手や指は触れられた事があるから大きいと分かっていたし、唇は意外と柔らかくて、あたたかくて、ちょっとかさついているのも知っていたけど。
それで、その奥に、私よりもあんなに大きくて長い舌があったなんて。
まだ頭の中がぐるぐるしていて上手く考えられないけど、とにかく恥ずかしくて仕方がない。
「嫌だったか」
「そ、うじゃ、なくて……嫌じゃない、けど……」
恥ずかしくてたまらない。思い出すだけで体がぞわぞわして、また顔が赤くなってしまいそうだ。
「なら、よかった」
「う、うん……」
なんと言えばいいのか分からなくなって俯いて黙っていると、グランが私の手を握った。
「俺はお前の事が好きだ、エマ」
「は、ハイ」
「俺がこういった事をしたいと思うのは、お前だけだ」
「うん」
真剣な表情で言われて、思わず私まで緊張してしまう。勢いに呑まれてこくこく頷くしか出来ない。
「だから」
「うん」
「……嫌いに、ならないでくれ」
急にグランがとても悲しそうな表情でそんな事を言い出すから驚いてしまった。今の流れで、私がグランを嫌いになるような事なんてあったかな、と思いつつ首を傾げる。
そもそもグランの事を、私が嫌いになるような要素なんて、どこにもないのに。不安げに見下ろしてくるグランの目を見て、私は安心させるように笑いかけた。
「嫌いになんかならないよ」
グランが好きだもん。
心の中で付け足した言葉は、声には出さなかったけど、きっと伝わったんだろう。グランの強張っていた顔つきがほっとしたように緩んだ。
グランにもかわいいところがあるなんて、なんだか嬉しくなる。
「今日は初めて知る事たくさんあるなぁ」
衝動的にぎゅっと抱きつくと、グランは私の背中に腕を回して応えてくれた。
「なんだ、初めてって」
「グランが、私に嫌われたくないんだなとか」
「当たり前だろう」
「あと、あんな風にするキスもあるんだ、って」
言い終わるか終わらないくらいにグランがギクリと体を固くした。というより動きが止まった。
「グラン?」
「いや……初めて、というのは」
「さっきみたいなキスの事だけど……?」
「そうか。いや、そうだったな……そうだよな……」
グランは何故か気まずそうに目を逸らしてしまった。難しい顔をして何か考えているようだ。
(やっぱり私、変な事を言っちゃったのかな……?)
グランの服を摘んで軽く引っ張ると、彼はハッとしてこちらを見た。目が合うと何やらバツが悪そうに咳払いをして、それから口を開いた。
「大事にするからな」
「えっ?」
「責任は取る」
「せきにん?」
何の話だろう。きょとんとしていると、グランが私の頭を撫でた。
「なんでもないよ」
そのままグランの胸に抱き込まれて、ぽん、ぽん、と優しく背を叩かれる。まるで子供扱いされているみたいだなとちょっと不満に思ったけれど、まぁいっか、とすぐに考え直した。
だって、グランのそばにいるのが一番安心するから。
――グランの言う『責任』が何をどこまで指しているのか、私が思い知る事になるのはまた別の話。
〈了〉