お前がいないと情けない。「魈」
小さく呟いてみたが、彼の姿は目の前には現れなかった。それもそのはずだ。何せ鍾離は魔神ではないし、魈も仙人ではない。
特別重いものを持った訳ではない。ただ朝目が覚めて起き上がり、いつも通りベッドから足を下ろし、一歩踏み出した途端に腰に激痛が走った。痛みに膝をつくと、その場から動けなくなってしまったのである。
「鍾離様、もう朝ですが……鍾離様!?」
魈も起きたようで、ドアを開けて直ぐ様駆け寄ってくれた。俺はと言うと情けないことに、どうしたら良いかわからず腰に激痛が入った時の体勢のままであった。
「魈……おはよう」
「お、おはようございます」
魈は膝をつき、俺の顔を見たり床を見たりとそわそわしている。一体どのような状況なのかと、魈の中で理解が追いついていないようだった。
「腰が、その……痛くてな」
「腰……ですか……我の肩に掴まれますか?」
魈は俺の身体の下に入り込み、抱きつくような体勢を取った。俺はなんとか床についていた手を魈の肩へ乗せ体重を掛ける。なるべく魈へ負担を掛けないようにと思うのだが、腰に力が入らないせいで全く気遣うことができなかった。
「……っ」
「痛みますか? 少し我慢してください」
魈は小柄ではあるが、非力ではない。俺の体重を支えながら、ゆっくりベッドまで運んでくれた。
「所謂、ぎっくり腰というものなのでしょう」
「そうか、ぎっくり腰とは辛いものだと民に聞いたことがあったが、確かにこれは辛いな。情けないが、全く動くことができない」
「あまり動かない方が良いかと……」
「お前がたまに翌日動けないとしばらく横になっている時があるが、このような気持ちとはな……俺もお前のことをもっと労わってやらねばと反省した」
「我はそこまで痛みがある訳ではございませんので、その……お気になさらず……」
俺の言わんとすることが理解できているようで、魈は瞬時に顔を真っ赤にさせたが、ふるふると首を振った。
「何か治療をした方が良いと思いますが……我はそこまで詳しい訳ではありません。白朮に連絡してみましょう。ひとまず今日は仕事を休み、ゆっくりお休みください。我も学校を休みますので、傍におります」
「ううむ……お前に学校を休ませることになるとは……しかし、何もできないのは確かだ。すまない」
「鍾離様の方が心配ですので。朝ごはんを用意いたします」
魈は一旦部屋を出て行き、しばらくすると朝食をお盆に乗せ戻ってきた。首くらいしか動かすことはできないが、それだけでも腰に痛みが走る。魈は俺の職場にも休みの連絡を既に入れたと言ってくれていて、改めて共に暮らしていることに感謝の念を抱いた。
「少し起きあがれますか……?」
魈が家中にあるクッションをかき集めてくれ、それを背中の下に入れながら更に手を貸してもらい、なんとか起き上がることができた。まるで介護だ。
「口を開けてください」
魈がパンを小さくちぎって口に入れてくれる。正直手は動くので自ら食事をすることは可能なのだが、甲斐甲斐しく世話をしてくれる魈があまりに可愛らしいのでそのまま甘えてしまった。
「白朮はとりあえず冷やして湿布を貼ると良いと言っていました。明日鍼を打ちに家に来てくれるそうです。なので鍾離様の食事の後、我は湿布を買いに行って参ります」
「ああ、すまない」
飲み物まで懸命に魈が飲ませてくれたお陰で、俺は微動だにすることもなく食事を終えてしまった。そういえば魈も起き上がれそうにないと言っている時に、自分も同じことを魈にやっていたことに気付いた。そう思うと愛しくなって笑みが溢れるのだが、ふふ、と腹を震わせた所で、また腰にズキリと痛みが走り、俺は部屋で一人痛みに悶絶していた。
「鍾離様!? な、何を……」
湿布を買いに行った魈が戻ってきて思わず安堵した。俺はと言うと、なんとかトイレに行ったものの、廊下の床に手をつきながら、四つん這いになって亀よりも遅い歩みで部屋へ戻ろうとしている所だった。
「鍾離様、掴まってください」
魈が即座に肩を貸してくれたおかげで、壁に手をつきながら部屋へ戻る。なんとも情けない姿だ。例え魈に幻滅されてしまってもなんの弁解もできない程に、魈がいないと何もできない身体になっている。
「魈、迷惑を掛けてすまない」
「大丈夫です。湿布を貼るのでそのまま立っててください」
無事に部屋まで戻ると、魈が湿布を貼ってくれ、その後も幻滅して去ることもなくずっと部屋の中にいてくれていた。トイレ、風呂、全て魈が介助してくれたお陰で、比較的安静に過ごすことができたと思う。
次の日には白朮が治療をしてくれ、三日目くらいになると、何とか私生活を送れる程にはなっていた。しかし、少しでも動こうとすると魈が全てを片付けてしまい「鍾離様を病院へ連れて行く為に、やはり我も車の免許を取るべきなのだと思いました」と呟いたと思えばすぐに教習所に通い出してしまったので、健康には気をつけばならないと実感した、俺であった。