うっかりうたた寝「……、……」
名を、呼ばれたのだ。確かに「魈」と。
もしかすると勘違いであったのかもしれない。ならばここを去るまでなのだが、些かそれをすることが出来ず、声の主の前で魈は立ち尽くしていた。
鍾離は邸宅にいた。ソファに寄り掛かり目を閉じている。いつもなら「ああ、呼び出してすまないな」と話し始める彼の唇は固く閉ざされていた。
魈は声を掛けるか悩んでいた。特段急ぎの用事もなく、呼ばれたのであればしばらくここに滞在しても構わない。しかしそれを尋ねることもできず、かと言って「気のせいでしたか。それでは」と言って去ることもできない。
じっと鍾離の様子を観察してみる。座ったまま眠っていらっしゃるようだ。端正な顔立ち、整えられた髪、乱れていない衣服。自分が目の前にいるのにも関わらずその気配で起きるという訳でもないということは……きっと大層疲れていらっしゃるのだ。
ならば起こさずとも良い。鍾離様が目覚めるまでお待ちしよう。
そう思って玄関先まで行き、座してその時を待つことにした。自分は鍾離が目を覚ました気配ですぐに立ち上がり眼前まで行くことは造作もない。そう鷹をくくり、うっかり目を閉じてしまったのである。
「ふむ。これは」
昼からの活動に備えようと少しばかり午睡をし、起きて出掛けようとしたら玄関先に魈がいたのだ。目を閉じ、壁にもたれ掛かるようにして休んでいる。珍しいこともあるものだ。ここへ休みに来たのなら、そんな硬い地面ではなく寝台でもソファでも使えば良いと思うのだが、彼なりに何か理由があるのだろう。見たところ体調の変化は見られない。休んでいるところを起こすのは忍びないが、俺が出掛けている間に目を覚ましてしまった場合、彼はここから居なくなっているだろう。それは何だか、とても惜しいと思った。
「魈」
「……、…………っ? ……!?」
声を掛けられ瞼を開ける。目の前にはぼんやりと鍾離の輪郭が映った。なぜ鍾離が目の前にいて、ここはどこであったかと脳内で逡巡した後に、うっかり眠ってしまっていたことに思い至って瞬時に立ち上がった。
「も、申し訳ございません」
「お前がうたた寝とは珍しいな。それも、俺の家でとは。はは。来てくれたことは嬉しいが、何か用があったのだろうか」
「用は……ありません……」
「ほう? ではわざわざお前は俺の家に休みに来たということか? 喜ばしいが些か驚いた」
「申し訳ございません……」
鍾離様に呼ばれたので馳せ参じました。
そう言えば良かったのだが、名を呼ばれたのは聞き間違いだった可能性も考慮して言えずにいた。
「俺も先程まで少しばかりうたた寝をしていた。気候も丁度良く、少し休むには最適な時分であったな」
「はい……あの、では、我はこれで」
「もう帰るのか?」
「鍾離様の折角のお休みの時間を邪魔する訳にはいきませんので……」
「先程休んだので充分だ。それよりお前の煮え切らない様子が気になる。時間があるのなら茶を淹れよう。少し話を聞かせてくれ」
「話すようなことでも、ないのですが……」
何も話すことなどないのだが、誘われてしまった以上それを無下にすることもできない。座っているよう促されたので、魈は大人しく椅子に座り鍾離が茶を淹れる所作を眺めていた。
「何? 俺に呼ばれた?」
「はい……しかし、鍾離様はお休みであった為、我の聞き違いかもしれません」
「そうか……俺は名を呼んだ覚えはないのだが、それは悪いことをした。俺を起こすか戻るかしても良かったのだぞ」
「すみません」
折角なので淹れてもらった茶を飲み、何故この家に居たのかと再度尋ねられたので魈はしずしずと訳を話した。
「謝る必要はない。次回はそうしてくれ。折角来てもらった仙人様を玄関先で待たせるなど、恐れ多いことをした」
「なっ、いえ、滅相もありません。おそらく我の勘違いだったのでしょう」
また一口と茶を飲む、じんわりと胃が温かくなってきた。鍾離の家の玄関先で眠りこけ更には温かい茶を飲み、魈は充分過ぎる程に休んでしまった。
「鍾離様は、どこかに出掛けようとされていたのでしょうか」
「ああ。新しい茶葉を仕入れに行こうと思ってな。共に行くか? お前の好みも聞きたい」
「我の? ですか」
「そうだ。俺が茶を淹れる相手としてはお前と共に過ごすことが多い。ならばと思ったのだ」
「あっ、え……、……我には、茶の良し悪しはわかりませんが……お供します」
鍾離が茶を淹れてくれることに緊張することも少なくなってきたが、同様に他の仙人にも茶を振る舞っていると思っていたのだ。まさか、自分がより多くその機会を多く与えられていたことは……。初めて知ってしまった。
「璃月港で買い揃えるのも良いが、このまま沈玉の谷の方まで赴くのも良いな。時間はあるか?」
「あの……はい」
「今から出ると沈谷の谷に着く頃には店が閉まっている時間になってしまうな。途中望舒旅館で泊まって明日の朝に出発するのはどうだろか」
「……問題ありません」
「では行くとしよう」
まるで鍾離は始めから魈と出掛けるつもりであったかのように、あれよあれよと沈玉の谷まで鍾離と共に行くことが決まってしまった。元より拒否するつもりはなかったのだが、勘違いで訪れた邸宅から、ただ茶葉を見るためだけに鍾離と長時間出掛けることになるとは思ってもみなかった。
もしや、鍾離様が名を呼んだ覚えがないというのは嘘だったのか……?
そんなことを一瞬だけ思ったが、歩く道すがら覗き見をした鍾離の表情がとても楽しそうであったので、そんなことは、魈はもうどうでも良くなっていた。