忘羨・缶バッジAU/探偵AU■一日目
その日、ある邸宅が宿泊施設としてはじめての客を迎えた。
邸宅は中国内陸部、陸の孤島ともいえる場所に建っていた。
■二日目
「へえ、立派なもんだな」
車の運転席から降りた魏嬰は、建物を見上げて言った。
黒い瓦の大きな屋根、左右対称に並んだ柱、白亜の壁。邸宅は、伝統的な中国の建築にモダンな様式を取り入れたデザインで、洒落たホテルのようにも見えた。
藍湛も、車の助手席から降りてあたりを見回した。
「まわりに人家も店も何もない」
「ああ。庭の植え込みも、植樹したばっかりって感じだし。駐車場ってどうなってるんだろ。まさか藍家の高級車を、そのへんの空き地に停めろなんて言わないよな」
空は白々と明けたばかりで、しんと静まり返っている。だからか、遠くからエンジン音が聞こえてくることに気がついた。二人の車が来たのとは逆の方向からだ。
エンジン音は徐々に近づいてきて、やがて大型バイクが車のそばにつけた。ヘルメットを脱いだドライバーは、快活な印象の若い男だった。
「どうも。あんたたちも、ここへ?」ドライバーが尋ねた。
「ああ」と魏嬰が答える。
「中に入らないのか?」と若者。
「その前に、どこかに車を停めたくて」
「ああ、駐車場なら裏にあるよ」
「よく知ってるな」
魏嬰が驚いたふうに尋ねる。
「ここ、メールで予約したんだけど、バイクで行くって書いたら、メールで教えてくれたよ」
若者は言葉遣いこそフランクだが、さわやかな外見と笑顔のためか、さほど悪い印象は受けない。彼は魏嬰の車を先導するように、バイクで邸宅の裏手へと向かった。
そのあと、三人は宿泊のための荷物を手に、そろって邸宅の玄関に立った。重厚な扉の横には、ドアフォンと共に、テンキーがあった。魏嬰は招待状を取り出すと、そこにある六桁の数字を入力した。扉が開き、三人で中へ入る。扉を閉めると、自動で鍵が掛かった。
二階まで吹き抜けになった玄関ホールには、香ばしいコーヒーの匂いが漂っていた。匂いにつられるように、三人はまず左手のラウンジへ向かった。
カフェのような洒落たラウンジに入り、魏嬰は丸テーブルの一つに見知った顔を見つけるなり、明るく声をかけた。
「よう、江澄!」
一方の江澄は寝起きだからか、不機嫌な声で言った。
「遅いぞ、魏無羨。俺は昨日から来ている」
「私の仕事のために遅くなった」
藍湛が口をはさむと、江澄はふんと鼻を鳴らしただけだった。
「へえ、ほかにも知り合いがいたんだ」
顔を合わせたばかりの青年が、魏嬰に尋ねた。
「ああ、こいつと俺は古い仲なんだ」
魏嬰が笑顔で答えると、青年が三人に向かって挨拶をした。
「どうも、俺は薛洋。今日からここに泊まるから、世話になるかもな」
「こんにちは。今朝着いたお客様ですね」
エプロンをした男が、おだやかな微笑を浮かべて魏嬰たちに近づいてきたので、四人の会話が遮られた。ラウンジの奥のオープンキッチンで、コーヒーを淹れていた男だ。
「管理人の宗嵐です。遠いところをいらして、お腹がすているでしょう。朝食をご用意しますよ」
「おお、頼むよ!」薛洋がうれしそうに返事をした。「甘いものがいいな。なんかある?」
「カフェラテにハチミツはいかがでしょう」
「そいつはいい」
薛洋が朝食の相談をしながらキッチンのカウンターのほうへ行ったのを見届けてから、魏嬰は小声で江澄に耳打ちした。
「どうだ? おまえに脅迫状を送ってきたヤツは、誰かわかったか?」
江澄は眉をしかめただけだった。まだわからないという事だ。
ラウンジには薄型の大きなテレビがあり、今はリラクゼーションを意図してか、森林の映像を無音で流していた。魏嬰と藍湛が二人で丸テーブルにつき、コーヒーを飲んでいると、宗嵐が朝食を運んできた。
「今日から、しばらくよろしくな」と魏嬰が挨拶をした。「ここに勤めて長いのか?」
「いえ、最近雇われたばかりです」
「へえ、いつから?」
「実際にこの邸宅に来たのは一週間前ですね。お客様をお迎えしたのは昨日からです」
「かなり最近だな」
驚く魏嬰に、宗嵐がおだやかな笑顔で返した。
「別のコテージなんかで働いた経験はありますから、きっとお役に立てますよ」
そういうするうちに、ほかの招待客が起きた出してきた。魏嬰たちと管理人の宗嵐を含めて十一人そろったところで、これ見よがしに宝石が入った腕時計をつけた男が言った。
「あれ、嬌嬌はまだ起きてきてないの?」
「昨日ご一緒にいらした女性ですね。まだ寝ているんでしょう。朝食を取っておいてあげましょう」
宗嵐が答え、パンケーキやソーセージをまとめて皿に盛った。
魏嬰と藍湛がそれぞれの部屋に荷物を運びこんだあと、邸内の施設を見たり、江澄と話したりするうち、すぐに昼になった。
魏嬰が藍湛と連れ立ってキッチンを通ると、その朝、料理を盛ってラップをかけた皿が、まだそのまま置かれていた。スープの鍋をかき混ぜている管理人へ声を掛ける。
「例の女の子って、まだ起きてこないの?」
宗嵐が顔だけ振り向いて答えた。
「ええ、そうなんです。みなさんへ昼食をお出ししたら、お部屋を見てくるつもりです」
「十二人分も飯を作って、お兄さんも忙しいだろ。よかったら俺が見てくるよ」
「しかし、女性の方なので……」
と宗嵐がしぶると、魏嬰は納得したようにうなずいた。
「それもそうか。じゃあ、こっちを手伝うよ。こう見えても、レストランでキッチンしたことあるんだ」
魏嬰はオープンキッチンへ入って手を洗うと、盛り付けを始めた。
宗嵐は礼を言うと、ゲストルームのほうへ向かった。だが五分と経たないうちに、顔中にびっしょりと汗を浮かべて戻ってきた。
魏嬰は目をすがめ、藍湛と目配せすると宗嵐に言った。
「その女の子の部屋になにかあったんだな。一緒に行くよ」
女性の宿泊する部屋は二階にあった。
ほかの宿泊たちも何人かラウンジに集まっていたが、ただならぬ様子を察してか、数人が魏嬰たちに付いて二階に上がってきた。
扉はカードキーで開閉する方式だが、今はロックが掛かっていなかった。魏嬰がドアノブに手を伸ばすと、藍湛がさっと前に出て替わりにドアを開いた。
瞬間、鼻をついたのは生臭い臭気だった。
魏嬰たちの背後から、ほかの宿泊客の短い悲鳴が聞こえた。
床のカーペットが赤黒く染まり、その上に鎮座するベッドには、女が仰向けに寝そべっていた。喉に斧を突き立てられて。
「私が確認してくる」
藍湛の言葉に魏嬰はうなずき、彼を一人で中へ入らせると、現場の保存のためにほかの宿泊客たちには廊下に留まるよう告げた。
藍湛はカーペットの血溜まりを踏まないよう女性に近づき、チノパンのポケットから取り出したペンライトで瞳孔を調べると、そっとまぶたを閉じさせた。扉を開いたときから、もちろん彼女が生きているようには見えなかったが、それを見た魏嬰はため息をついた。
魏嬰は救急への通報をほかの宿泊客に頼んでおいて、自分は宗嵐におだやかに声を掛け、落ち着かせながら話を聞くことにした。
殺された女性客は王霊嬌というそうだ。
「ドアをノックしたのですが、あまりに静かで……」
宗嵐が言葉を詰まらせながら言った。
声を掛け、ブザーを慣らし、ノックをして数分経ったが、室内から物音一つしないので、申し訳ないと思ったがマスターキーでドアを開いたという。魏嬰たちが到着したとき、ドアがロックされていなかったのはそのためだった。
「あの、お話の途中ですみません。携帯電話が繋がらないのですが……」
端正な顔立ちの男が、魏嬰たちに話しかけた。スマートフォンを片手に困惑した表情を浮かべていた。
<1日目の被害者 王霊嬌/凶器 斧>
■3日目
魏嬰が到着した日の夜――つまりその邸宅が客を迎えてから二日目の夜から、「どの人も信用ならない。自分の身は自分で守る」と部屋に引きこもった者がいた。そんなクローズドサークル名物は常慈安だった。
その夜、魏嬰は藍湛の部屋で、温かい体の上に寝そべりながら、「死亡フラグだな」と漏らしたものだった。
招待客には一人一部屋が与えられていた。ビジネスホテルのシングルルームのような簡素な部屋だ。カードキーでドアを施錠することはできるが、ミステリの世界では、カードキーを開錠する小細工はいくつか知られている。その気になれば、他人の部屋のドアを開くことはできるだろう。
次の朝――邸宅が客を迎え入れてから三日目の朝、常慈安は死体で発見された。
一同が常慈安の部屋へ入り、亡骸へ近づこうとしたとき、藍湛が淡々と言った。
「みなさんはそれ以上、近づかないでください。常慈安さんは私が診ましょう。私に怪しい素振りがないか、みなさんにはそこで見張っていただきたい」
その前日、邸宅に閉じ込められたことが判明した際、招待客たち全員で集まり自己紹介を行っていた。みな藍湛が医者だと知っているため、彼の言葉に従った。
魏嬰がキッチンの戸棚から、エプロンと、使い捨てのポリ塩化ビニル手袋を見つけてきたので、藍湛はそれらを身に着けると、常慈安と向き合った。男は床にうつぶせに倒れ、背中には全長二十センチほどのナイフが刺さっていた。
「失血死ですね」藍湛が遺体をしばらく検分したあと、一同に向かって言った。「争ったあとがほとんど見られない。背中に不意打ちを食らい、そのまま絶命したようです」
藍湛の説明を聞いた九人のうちの誰かがつぶやいた。
「凶器が部屋に置きっぱなしか。一日目と同じだな」
魏嬰がそれに答えた。
「ああ、もし犯人が王霊嬌を殺したヤツと同じだとしたら、わざと凶器を部屋に残したのかもな」
二日連続でおぞましいものを見て、残った十人は気が滅入っていたが、脱出のために再度、邸内を見て回ることになった。魏嬰と藍湛は二人組みで、すべての窓に下ろされたシャッターが、どれか一つでも開かないか確認した。
前日と変わらず、すべての窓と扉は固く閉ざされ、携帯電話の電波は繋がらず、閉じ込められたままだ。
その後、魏嬰と藍湛がラウンジでテーブルを囲んでいると、江澄が横を通り掛かった。魏無羨は遅い朝食として、ハムチーズトーストを口へ運ぶところだった。雇われ管理人の宗嵐が作ったものだ。
「魏無羨、おまえよくこの状況で、そんなに食べられるな」江澄は紙のように白い顔をしていた。「さすが医者と元警察官といったところか。人死にに慣れているんだな」
江澄は、宗嵐に淹れてもらったお茶のカップを持ち、自室へ下がっていった。
藍湛はそれにはなんの反応も返さず、淡々とサラダを口へ運んでいた。
魏嬰と藍湛があらかた朝食を片付けたころ、忙しく立ち働いていた宗嵐がテーブルへ近づいてきた。
「藍先生、魏嬰さん、実は雇い主から招待客の皆さんへ言伝てがあるのです。でも昨日から、このようなことになって、言い出せませんで……」
「雇い主からだって!? そいつは重要な脱出のヒントになるかもしれない! なんで早く言わなかったんだ!」
魏嬰が勢いこんで答えると、宗嵐はしどろもどろになって言った。
「内容が……緊急の状況には、ふさわしくないかと思いまして……」
「どんな言伝てなんだ?」
「私と、招待客の全員で、ある映画の上映会をするようにと」
「映画?」
藍湛がコーヒーを飲む手を止め、ラウンジの大きな薄型テレビへ視線を向けた。テレビの横には棚があり、ブルーレイのパッケージが五十枚近くコレクションされている。
「あの中の映画ですか?」
宗嵐は真面目に聞いてもらえたことにややほっとしたらしく、先ほどより落ち着いた声で言った。
「おそらくは。ただ、どの映画かはわからないのです。これを見てください」
宗嵐はエプロンのポケットから、折り畳まれた一枚のコピー用紙を取り出した。雇い主からのメールを印刷しておいたのだという。
<2日目の被害者 常慈安/凶器 ナイフ>