きっと一生忘れない「灰原、誰か…いや、五条さんへ連絡を!」
山の傾斜の中、道の無い木々の間を逃げながら、一瞬思案した七海が灰原に向かって指示を出す。
「わかった!」
夏油さんは今日は任務が入っていると言っていたが、五条さんは久しぶりに休みだと言っていた気がする。確かに七海の言うとおり、助けを求めるならすぐに動ける可能性のある五条さんへ連絡してみる方がいいだろう。
灰原はそう七海の言葉から察して携帯を操作する。
アンテナはかろうじて圏外にはなっていないが一本しか立っていない。さもありなん。近くの集落だった場所は人は居らず、その隣の集落とて人は減る一方だという話だった。
山自体は季節によっては山の幸を穫りに人が入る事はあるという。そうやって入山した人間が無惨な姿で見つかる事件が起こり、窓が残穢を観測して呪霊の仕業と発覚した。
二級呪霊討伐の任務だと補助監督に送り出されて山中に分け入ったはいいが、取りあえず見つけた消えかけた道を辿れば寂れた社に行き当たり、七海が顔色を変えた。
「産土神…?」
「…ってことは神様の成れの果て?」
七海の言葉に灰原も事の重大さを悟る。かつて信仰されていたもの。祝いが転じた呪いは強大な呪霊になると教わった。気付けばいつの間にか鳥の声も聞こえない。知らず二人、息を潜める。
「…七海、山を降りよう」
「…ああ」
この時ばかりは灰原も声量を落とした。静かに踵を返し、とにかく山を降りる。社の近くに巨石、巨木の類いは無いし、沢も無い。ならば恐らく寂れた社の主は山の神だろう。山の内はかの者の庭だ。ならばとにかく麓まで逃げ切るしか手は無い。
静かにしかし急いで下山しながら七海は携帯から補助監督に電話を掛けたが、一向に出ないと言う。
「…圏外とかじゃなくて?」
「一応呼び出し音はしてる」
七海が諦めて携帯を畳んだ瞬間、背後から山そのものとも思える程の、恐ろしく悍ましい気配が立ち上った。
「走れ!」
どちらともなく声を掛け、走り出す。
追ってきているのは確実であった。完全に捕捉されている。圧として感知できるような視線を常に感じている。道は疾うの昔に見失っていた。二人が逸(はぐ)れないでいるだけで精一杯だ。時折、七海がナマクラで木を倒して移動を阻害しようとしたが、それがどれくらい役に立っているのかもわからない。
武器を手に持っている七海が携帯を操作しようとすれば両手が塞がる。
よって七海は灰原に電話を掛けるように言ったのだ。
灰原は旨く繋がってくれと祈りながら、途切れ途切れの呼び出し音を聞く。
(早く!早く!早く!)
追いかけてくる呪霊から逃げながら、出てくれと念じる。回避する意識が散漫になりかけ、諦めて一旦携帯をしまおうと切ろうとした所で、やっと回線が繋がった。
『あー…なんだよ、土産なら甘い物一択…』
「五条さん!!」
何か言っている事をぶった切って呼びかけた。繋がった事に意識を取られ、灰原の回避が甘くなる。
「灰原!!」
七海の声に注意を戻したが一瞬遅かった。腕をかするように視界の下方から、すくい上げる形で振られた呪霊の腕。わずかに避けきれず、灰原が持っていた携帯は弾き飛ばされた。
七海がその振り切って伸びた呪霊の腕を、術式で攻撃したが切断までは行かなかった。逆に千切れかけの腕は、思わぬ方向に変に跳ね返り、七海を吹き飛ばす。
「七海!!」
灰原は飛ばされた七海を追って走りながら、弾かれてしまった携帯を目で捜す。
あ。と見つけた瞬間、めしゃり、とちょうど呪霊の足のような物に踏み潰される所だった。ぐっと歯を食い縛り、視線を切って諦める。
会話はほとんど出来なかった。あのアンテナ具合でちゃんと音声が通っていたかも怪しいところだが、五条に救援要請だと通じていればいいと願う。
飛ばされた七海が起き上がるところへ駆け込んで、腕を引いて動きを助ける。
「…っ痛」
立ち上がった七海は、すぐにガクリと膝を崩した。
「七海!?」
即座に足をやられたのだと見て取って、痛めた足の方の肩を腕に回させて走り出す。
速度は格段に落ちた。これではそう長くは走り続けられない事は二人とも分かっていた。それでも二人で走って走って走って。
突然足が止まる。切り立ったとは言いがたいが、崖と言って遜色の無い急斜面が目の前に現れたからだ。
通常ならばこの程度の木も生え、藪もある崖など足場がある以上、勢いを殺しながら降りる事に躊躇などしない。だが今の七海の足の状態を考えれば、無謀だとしか思えなかった。
「灰原」
「絶対、ヤだね!」
七海が何を言おうとしているか察して、先回りしてぶった切る。
ふぅっといつもの七海の呆れたような溜息を聞きながら、安全を度外視して急斜面を降りるかと少しでもマシな侵入箇所を懸命に捜す。呪霊はもうすぐそこまで迫っている。
意識をそちらへ割いた瞬間を見計らったのか、ぐいと七海を支える両腕を外された。
「え」
次の瞬間にはドンと胸元を押されて、浮遊感の中、気付けば七海を下から見上げていた。
灰原が咄嗟に伸ばした手は空を切り、身体は崖を落ちる。
「灰原、後は頼んだ」
そう告げる七海のすぐ背後には、呪霊の大きな口が広がっているのが見える。幾重にも連なった歯並びさえも鮮明に。
「あ、」
七海は崖上から薄く微笑みを残して、
「な、」
ばくり、と
口が、閉じられた。
「七海ぃぃぃいいいい!!」
残った七海の下半身は、一瞬だけ直立を保ち、次の瞬間には血をまき散らしながらグラリと崖下へ崩れ落ちるのが、やけにゆっくり見えた。
伸ばしても届かない手を憎んだ
喉からほとばしる悲嘆の叫びと
最期の微笑みと
呪われた言葉と
全部全部全部
きっと一生忘れない。
ひゅっ、と止まっていた呼吸を再開した衝撃で灰原は目を見開いた。
ゴホゴホッとむせてベッドで身体を丸める。咳が治まるまでしばらくかかった。
はぁ、と汗ばむ身体から力を抜き、汗で張り付いた前髪を気怠く掻き上げる。
(久しぶりに見たな)
ここのところの忙しさに夢を見る余裕も無かったのだが、繁忙期を超えて多少余裕ができたということだろうか。あまり歓迎できる事では無いが、彼の姿を見る事が出来るのだから、一概に見たくない夢とも言えなかった。悪夢ではあるのだけれど。
「もう十年も経つのか…」
あの高専での短いけれど輝いていた時間。
もうあの日々は、手が届かないほど、遠い。
2007年3月■日
東京呪術高等専門学校 1年教室
「…と言う事で、姿を変える呪霊で危険なのは、一人で任務に行った場合よりも同行者がいる場合だ。同行の呪術師に化けて近付かれて攻撃されると、かなり危険な状況になる。お前達も二年になって、等級が上がればそういう任務に当たる事もあるだろう」
教壇で話すのはベテランの域に入る二級術師だ。呪術の座学は弁の立つ説明の上手い呪術師が外部講師として招かれている。一級術師は忙しいので大概は二級術師である事が多い。
はい、と軽く挙手して七海が質問する。
「呪力を見れば、呪霊か呪術師か見分けが付くのでは?」
「基本はそれでもいいが、物理的に姿を変えるのでは無く、感覚そのものを誤認させるタイプだとその呪力の感知自体がごまかされる場合があるからな、過信は禁物だ」
なるほどと、七海はペンを取りノートに書き込む。
「えー…そしたら、どうすればいいんですか?」
途方に暮れた顔で灰原が質問する。
「合言葉だ」
「え?」「は?」
意表を突かれた答えに学生二人は一音で驚きを表す。
「古典的手段だが、これが意外と有効だ」
「おもしろいですね!」
「面白がるな」
本気で面白がっている灰原に、七海が椅子の脚を軽く蹴って突っ込む。
そこで、七海はふと、前回教えられた呪霊タイプを思いだし、疑問を覚えて投げかけるる。記憶を読み取ってそれに化ける呪霊も例に出ていた筈だ。
「記憶を読み取れるタイプだと合言葉自体を読まれないですか?」
「あのなあ、七海。同行者に化けて、記憶を読み取り、呪力感知をごまかせる様な呪霊は、もう一級以上だ。おそらく特級に区分されるような相手の場合はもうその時点で我々にはお手上げだよ」逃げられれば御の字だと両の手を上げる。
そのレベルだと現場ではすでにどうにもならない。だから事前の調査が大切なのだと締め括られた丁度でチャイムが鳴る。
起立礼などの掛け声はないが、敬意を払う為に起立してありがとうございましたと二人で礼をする。
お前ら真面目だなーと、呆れたように笑って気楽に去って行く呪術師を見送り、腰を下ろした途端に灰原が目を輝かせて隣席に向かう。
「ねえねえ七海!合言葉決めとこうよ!」
「言うと思った」
七海は呆れたような溜息を付きながら、それでも拒否の言葉はないので了承ととって灰原は笑う。
「合言葉かぁ…ちょっとワクワクするよね!」
「ワクワクする意味が分からない」
そんな二人の温度差すら気にせずに灰原はんーっと思案しながらも七海を正面から見つめる。
「…何だ?」
居心地が悪そうに視線を流して避ける七海を気にしないで尚も灰原は考える。
「えーっと、うん!…海!」
それが合言葉を指すのだと気付いて、これに返すのかと七海も思案する。「海」と言えば普通「山」と返すのが定番だろうが、それでは意味が無い。二人だけで通じて、かつ忘れない様な。
「…原」
七海がそう返せば、そう来たか!と灰原が笑う。
「パン!」
「…米」
「金!」
「黒」
合言葉とはこういうものだっただろうか。流されるまま付き合っていた七海がそろそろ疑問を抱く。
「カスクート!」
「…天むす。連想ゲームじゃないんだぞ」
それでも真面目に言われた単語に返してから、やっと突っ込みを入れる。
名字二文字目、好きな食、髪の色、好きな食べ物。お互いの。
「間違わなくていいんじゃない?」
「数が多すぎても意味が無いからここまでだな」
「あ、ここまでは入れていいんだ?…七海は律儀だなぁ」
七海は黙って灰原の背中を平手でバシンと叩く。
「いっだぁ!!」
七海が灰原を睨む顔が、心なしか赤みを帯びて見える。
「いきなり叩かないでよー」
「それでは今度から予告します」
「どうして敬語!?照れ隠し酷くない?」
「引っぱたきますよ」
“ひ”の時点ですでに動き出した七海の手を、予告すると予告されたので予告と同時に灰原も回避に動いた。
「なんのぉ!」
なんとか背中ターゲットの平手はかわしたものの、椅子の上でのことである。結局バランスを崩して、椅子ごと豪快な音を立ててひっくり返る羽目になった。
「だぁ……っ!!」
無理な姿勢でぶつけたのか、頭を抱えて唸る灰原。
「なんで避けようとするんだ」
「そりゃするでしょ!?」
「いや、完全回避じゃなくて腕で防御とか受け流すとかあるでしょう?」
体勢の不自由な椅子に座った状態で、完全に避けようとすれば転ぶのも当然だ。
「そっか!七海、頭いいね!」
言われて灰原もなるほどとポンと手を打ち嫌みも無く笑う。
「灰原はもうちょっと頭を使え」
呆れたようないつもの溜息をついて、七海が転がったままの灰原に手を差し出す。
灰原は苦笑しながら七海の手を取り引き起こされた。
「まだまだ頑張んなきゃね!」
あの時、もう少し、頭を使えていたならば、七海が不意を突いて灰原だけを突き落とすのを予測出来ていたら、あんな結末は無かったのだろうか。
2007年8月■日
■■県■■山
任務概要
山菜採りの入山者が失踪、変死し、窓により残穢が確認された為、呪霊が原因と判断。
原因と思われる呪霊の祓除。
任務報告
担当者(高専2年 七海建人)(高専2年 灰原雄)派遣
■■山は山岳信仰があり、それに由来する推定産土神が祓除対象である事が後に判明した。
これにより当初派遣していた2級術師は1名死亡、残る1名も負傷した。
等級を1級呪霊へ引き上げ昇級。担当者には祓除不可能とされ特級術師に任務が引き継がれ祓除完了。
死亡者:七海建人
安置室は白くて眩しいけれど、昏くて冷たい。
外の蝉の絶叫が嘘のようにここは静かだ。
椅子に座り、膝に腕を置き、床に向かって頭を垂れる。
灰原はただ、下を向いていた。
もう涙を拭う事すら億劫になった為だ。
床に垂れ流せば顔を拭う必要も無い。
流れ続ける涙でまばたきすら必要ない。
茫然自失して、目は見開いて視線は床に。けれど何も見てはいなかった。
目前の床には水が溜まっていく。
あれは産土神だって七海が言っていた。
神様の成れの果てが、2級で済む訳がない。
「なんてことはない2級呪霊の討伐任務だったハズなのに…!」
そう、補助監督が言っていたはずなのに。
七海が言っていた事を思い出す。
「産土神信仰…アレは土地神だって…そんなの1級案件だ!」
七海に会いに来た夏油と目を合わせずに、自分の嘆きだけをただこぼす。
「今はとにかく休め灰原。任務は悟が引き継いだ」
「なんで最初から…。なんで僕らだったんでしょう」
その時の夏油さんの表情を僕は知らない。
2007年9月■日
■■県■■市(旧■■村)
任務概要
村落内での神隠し、変死、その原因と思われる呪霊の祓除。
特級術師と補佐として2級術師を派遣。
「ほんとに来るのかい?灰原」
「…はい、傷は家入さんに治して貰ったし、肩慣らしで補佐に入れて貰ってありがたいです。…正直動いていた方が楽なので…。でも夏油さんと任務に行くのも久しぶりですね!」
いつもより力の抜けた笑顔に、無理に笑っているのを感じて、灰原を見ていられずに夏油は目をそらす。
「いや、肩慣らしに付き合うのは良いけど、ほんとに…無理はするなよ」
「……はい」
灰原はいつもの勢いなく、少しだけ笑った。
旧■■村に到着するや、あまり見かけた事が無い補助監督は終わった頃に迎えに来ると言い、他の呪術師の任務も掛け持っているからとさっさとその場を去ってしまった。
呪霊の祓除自体は問題なく終わった。
特級が派遣されるくらいであるから、それなりの強さと数のある呪霊だったが、元々夏油の術式も手持ちが間に合えば対多数に向いている事もあって、相性が良かったと言える。 住民に事件の原因を取り除くと説明してある、と補助監督は言っていた通り、二人の行動は妨げられることもなく、灰原がサポートについてもいたおかげで被害を出さず、無事に祓除は完了した。
問題はその後だった。
「これはなんですか?」
まさか時代錯誤な座敷牢などというものを目の当たりにするとは思わなかった。
中には幼い子供が傷だらけで入れられている。灰原も絶句している。
「■■…?■■■■!?」
「違います」
「■■■■!!」
「事件の原因はもう私が取り除きました」
「■■■!!」
「それはあっちが―――」
「■■■!!」
「■■!!■■■!!」
夏油はもう目の前の存在の、猿の、言葉を理解できない。理解したくない。
非術師を見下す自分。
それを否定する自分。
どちらを本音にするのかは―――
面の皮一枚は笑みを浮かべているのを自覚する。
反面、呪霊の選択を始めた。大喰いの、例えばこの集落の住民全員を喰らい尽くせるような。流石に子供の前で鏖殺ショーはいただけないかと、外に出させようと口を開いた。
声を発する前に、夏油の横を風が走り、目の前でわめいていた猿が吹っ飛んだ。
「こんな子供にあんた達は、何をしてるんだ!?」
常にない怒りの声で、灰原が拳を振り抜いた体勢で怒鳴っていた。
ここまで声を荒げて怒りを表す灰原は、夏油も初めて見たかもしれない。
「■■■■!?」
「子供を虐待した言い訳なんていらない!あんた達のしたことは村ぐるみの児童虐待だ!!」
「■■■!!」
ひときわ大きな声で灰原に掴み掛かるように詰め寄った男も、灰原は殴りつけた。
「夏油さん!警察へ通報を!」
あっけにとられていた夏油へ、灰原が声を張り上げる
気圧されるように、言われるまま携帯を取り出す。本来なら高専へ連絡して相談するのが筋だっただろう。だが子供が虐待され座敷牢に入れられているのを見て、集落の猿共を鏖殺しようとまでして、けれど灰原が乱闘を起こして。怒濤の展開に夏油も冷静な判断が出来ないまま、流されて灰原に言われるまま110番を押した。
あとは警察が来るまで猿共と乱闘だ。子供達はむしろ中に居た方が安全なのであえて座敷牢の外へ出さずに二人で暴れる。所詮、戦闘慣れしていない一般人だ。痛い思いをすれば向かってくる者も減っていく。座敷牢の建屋の中で戦闘したのも功を奏して、数で押し切られる事も無く。警察が来た時には集落の人間は夏油や灰原の暴力行為を訴え、警察官もそんな二人に険しい目を向けて入ってきたが、二人が背後に庇っていた座敷牢の中を見て顔色を変えた。
むしろ通報者が若い二人の方で、集落の外の人間で未成年者と分かると、警察官の険しい目は和らぐ。むしろ口汚く罵り続ける住民達に厳しい目が向けられた。
座敷牢に入れられていた子供達をそこから出して保護しようとしていたが、体格の良い警察官に怯え、夏油と灰原の方へ逃げるように駆け寄ってきた。
「あ、あの、あの…」「あの、助けてくれて、ありがとう…」
涙ぐみながら、小さなかすれた声で訴える少女達に、まず灰原がしゃがんで対応した。そこで随分と高い場所から見下ろしている事に気付き、夏油も続いて座り込む。
「出られて、良かったね」
猿共を相手とは言え、怒鳴りながら暴れていたから、怖がられるかと思っていたが、後から聞いた話だと、アイツらから守ってくれる大きな背中を見て、神様かと思ったと言われた。
上から頭をなでるのは怖がられるかもしれないから、下からそっとすくい上げるように手を握る。傷だらけの小さな手に、夏油は再び湧き上がるふがいなさを必死に噛み殺す。
警察官に応援の婦警が来るまで、子供達と一緒に居てくれないかと言われ、住民を遠ざけたパトカーの外で、話をしながら待機した。
その合間にやっと思いついて夜蛾へ連絡を入れる。子供達は見えている上に呪力がある。どうも集落の呪霊を祓っていたようだ。聞いた感じ術式も持っているかもしれない。高専で保護するのが最善かもしれないと思ったからだ。
応援の警察官達が到着して、婦人警官の手に双子を託した。虐待を受けた子供ということで専門の人員が来たようだ。年配の丸い気配の女性は子供達の警戒を少し緩められたようで安心した。そのうち高専手配の補助監督も追って到着するだろう。
子供達と別れ、パトカーの中で待機していてと言われ、灰原と後部座席に並び座っている。こんなことになるのならこんな任務に灰原を同行させるのじゃ無かったと後悔する。
だが。
灰原が乱闘を開始しなければ、自分はどうしていたのだった?
不意に夏油はそんな事に思い至る。
ざわりと、肌が粟立った。その気配を察したように灰原が口を開いた。
「夏油さんが今までしてきた努力を、あんな奴らの為に無駄にするなんて認めませんよ」
いやに静かな強い声だった。
何のことだかと、誤魔化す気にもならなかった。
「こうやって呪術師が非術師に虐げられる、あいつら猿がいるからだ」
夏油は初めてそれを吐露した。
「…じゃあ例えば、あの子たちが非術師だったら夏油さんは何もしませんでしたか?虐待されてるの放っておきましたか?」
「え?」
意外な方向から質問を受けて、感情を振り返りながら返答を考える。
「僕は同じようにあいつら殴りますけど!」
ぐっと拳を握り、それを見下ろして灰原は宣言する。
「そう、だね。…何もする事は変わらない。あんな子供を虐待する事自体が、おかしい」
「そうですよ、ズレてます。この件に限って言えば術師非術師は関係ないです。この集落の連中が腐っているだけです」
たまたま双子が呪術師で、変わった挙動をとっていた為にやり玉に挙げられただけで、非術師でも目立つ様な事をしていれば魔女狩りみたいに虐待されていたんじゃないかと灰原は言う。
確かにそれは夏油にも想像に難くなかった。
非術師だけでなく、呪術師だってどうしようも無い人格破綻者はいるし、むしろ分母を考えれば呪術師のほうがその比率は高い可能性もある。呪詛師に転向する者を考えれば、ひとでなしはきっと多い。
「でも、呪霊を生むのは非術師だ。そして呪霊を倒しても、次から次へと呪いが湧き出して呪霊が生まれる。祓っても祓っても終わりは無い」
そうして命を落とすのだ。七海のように。
「もっと呪術師が居ればいいんですよね。実際捜せば僕らの様に居ると思うんですけど…」
夏油や灰原、七海などのように一般家庭出身者は、窓の観測に引っかかったり、任務中の呪術師や補助監督に捕捉されたりしなければ見つからないし、隠している者がほとんどだから見つけるつもりで捜索しなければ見つからない。
その在野の人材ですら、日々知られずに呪霊や、ことによれば今回のように非術師に害されて減っていく。
「せめて高専あたりが、もう少し積極的に呪力を持つ人間を捜して保護できればいいんだけどね…」
高専がセーフティネットとして機能すればいいのだが、呪術師家系の人間はそれ以外を見下す家が多い。そんな家の出身者ばかりの呪術界の上層部に、一般家庭に生まれた呪術師の保護など期待できようものか。
するなら私達のような一般家庭出身者の立場を理解できる人間が、発言力を高めて色々ひっくり返すしか…そこまで考えて思い至る。
今、この瞬間は無理でも、長いスパンで考えれば可能なのでは?
一般家庭出身の特級の自分、御三家当主であるが同期ゆえこの状況を理解しうる同じく特級の五条悟。外部出力可能な稀有な反転術師の家入硝子。今ですらそこそこの無理は通せるのだ。
もっと呪術師になり得る人材を捜して増やせば。そう健康診断のようなものに組み込んでそれと知られずに捜索するシステムを構築して。
加えて後進育成を世代単位で考え、教育から手を回して次世代を少しでもマシな性根に出来たなら?まともな価値観と倫理観を持たせられたなら?
これはいけるのかもしれない。いまの疲れ切った頭では詳しく詰められないが、同期二人に相談をしたら、一緒に考えてくれないだろうか。
術師という名のマラソンゲーム。その果てはまだ見えないけれど、理想という名の希望の方向だけは見えた気がした。
「よかった」
パチリと瞬きして我に返る。気付けば考え込んでいる間も、灰原に横でずっと見られていたらしい。
「最近ずっと夏油さん、独りきりでいるみたいだったので」
灰原にそう言われて、誰かと話をするという事を忘れている事に気付かされた。相談する事すら思いつかなかった。
「でも、もう独りじゃないですよね?」
「そう、だね。悟も硝子も灰原もいるし、夜蛾先生もいるし、…相談料とられるけど冥さんもいるし、悟が居ない時じゃ無いと駄目そうだけど歌姫さんもいるしね」
言葉にすると、思っている以上に周りに居た人達を、蔑(ないがし)ろにするような事をしていたのだと思い知る。どれだけ視野狭窄になっていたのだろう。
悟に言ったら怒られるだろうか、怒ってくれるといいなと思い、憑きものが落ちたような顔で、夏油は笑った。
任務報告
担当者(高専3年 夏油傑)補佐(高専2年 灰原雄)派遣
原因と思われる呪霊の祓除に成功。
旧■■村住人は原因を二人の児童と見なしていたため、監禁していた児童を祓うように担当者に依頼。そこで集落ぐるみの児童虐待が発覚、監禁されていた児童が呪術師であったこともあり、庇った担当者及び補佐と住人が乱闘、担当者の通報により駆けつけた警察官に担当者と補佐は補導を受け、住人は取り調べ対象になる。
担当者は乱闘の際、呪力、術式の使用は確認されなかった為、呪術規定違反は無かった事を確認。乱闘による警察からの補導の事実を受け、呪術高専から一週間の停学処分とす。
監禁、虐待を受けていた児童は術式が確認された為、高専にて保護予定。
「は?」
「何度も言わせるな。悟が上層部と御三家の会合に乱入し皆殺しにした為、呪詛師認定され、指名手配された」
夏油は停学明けのいきなりの話に、ただ茫然とするしかなかった。
「なん、で…そんな…」
「俺も…何が何だかわからんのだ」
一般の非術師と乱闘になり、一時は暴行罪として警察に補導された夏油と灰原だったが、村ぐるみの凄惨な児童虐待を目撃したショックにより、また虐待されていた子供を庇っていた事などを鑑みて、拘留もされずに事情聴取だけで解放された。流石に高専も実態はどうであれ、表向きの教育機関として、一週間の停学処分とされた。
夜蛾としても少しは心身を休めるべきだと、停学という名目の休暇と思えと二人を実家へ送り出した。特に外出制限は設けないと言い添えて。
五条も同じだけとはいかないが、せめて一日二日でも任務の事を考えずに夏油と会えればいいと、五条の任務を引き取ったり緊急性の低い案件の期日を日延べしたりしてなんとか2日の休みをこじ開けた。
夜蛾としてはあくまでも友人との久しぶりの交流という目的であったのだ。ざっくり言えばたまには休んで遊びに行ってこいという親心のような物だった。
だが。
五条は夏油の元へと向かわなかった。
それが五条の高専に居た最後だなど、誰が想像しようか。
2007年9月■日
呪術高専上層部及び御三家会合(正式名称は秘匿)に於いて、特級術師 五条悟が乱入。
乱心の上、■■名を術式により殺害、逃亡。呪詛師として認定、指名手配される。
非公式記録
殺害された術師は、高専学生が任務を受けた8月、9月の任務内容を故意に人為ミスをするような指示に関わった人員であり、それを知るに至った五条悟がそれを問いただす目的で会合へ参加していた。
尚、呪術規定に呪術師に対して術式を行使しての戦闘に関して禁則事項はなく、呪詛師認定の根拠はない事をここに記す。
夏油と五条はカラオケボックスの一室で対峙していた。
「説明しろ、悟」
やっと硝子ごしに五条から連絡が来て、夏油が呼び出されたのがここだった。
確かに他から話を聞かれない。多少声を荒げても人に聞かれない個室で、高校生が入っていても違和感がない。密談には最高な環境だ。そう教えたのは他ならない夏油であった。
険しい目を向ける夏油に五条は面白くもなさそうな顔で座り心地の悪いソファにだらしなく腰掛けてひらりと手を振って出迎えた。
「夜蛾センがさ、二日も休みをくれて、高専から送り出してくれたけど、俺はそれを傑に会いに行くのには使わなかった。どうしても確認したかった事があった」
「確認したいこと?」
「七海が死んだ任務と、お前らが停学くらった任務の詳細を調べた」
「!」
目を見開く夏油を見ず、五条はそのまま淡々と話し始めた。
「どっちも、内容が曲げられてた。
灰原と七海の行った任務は、簡単に調べるだけで現場が信仰のあった山なのはすぐに分かった。もう、その時点で最低基準が準一級案件だ。二人居るからって経験の浅い二級の学生に振る任務じゃねえよ。補助監督もグルで任務中の七海からの連絡を黙殺してやがった。灰原が俺に直接電話したから、かろうじて灰原は間に合ったんだ。あのままだったら灰原も多分死んでた。
傑の任務だってそうだ。大体さ、おかしいと思わなかったか?
補助監督がお前ら置いて他に行ったって?いくら学生つったって特級術師が担当する任務だぜ?原因が不明ってんなら現地調査に時間食うかもしれないけど、そんなら尚更補助監督の仕事の範疇だろ?住人に説明済みったってどんな説明したかって話さ。当然住人と話したのなら奴らが元凶だと思っている存在の話にならないわけが無い。
補助監督は座敷牢の事を把握していた。その上で、半端な説明をして座敷牢の中に居る元凶をお前らに引き合わせるように誘導した。それをお前らに祓わせようと集落の人間が動くように。
それに怒りを覚えた特級術師がどう動くか。
腐ったみかん共は、傑が暴走して術式使って暴れてくれれば呪詛師認定で俺の力を削げるし、そうでなくても心的圧迫を与えられるって思ってたんじゃねえの。
…ざっけんな!」
ボソボソと喋っていた最後、罵倒だけ小さく叫んだ。
「それで君は…殺したのか…」
結末を知っていて、それでも夏油は聞かなくてはならなかった。夏油こそが聞かなくてはならないと思った。
「そうだ。それで丁度あった会合に乗り込んださ。あいつら何て言ったと思う? 呪術師家系の出身ではない呪術師など面倒ばかりで価値がないって。特級術師に価値がない? ハッ価値!! あいつらの価値ってなんだよ!? 自分らと同じ思想に染まった使いやすい駒か!?」
もう五条は怒りを隠さなかった。自身の利益と保身しか頭にない呪術界の上層部、御三家の長老共。殺してもなお、肚がおさまらない。
「俺にとって、あいつらの方が面倒ばかりで、価値がない」
うっそりと微笑む。
「だから、いらないよなぁ?」
微塵も後悔のない顔で五条はそこで初めて夏油をまっすぐ見た。
「そんなことをしたって、同じ思想に染まりきった次の世代が台頭するだけだろう?」
何でそんな短気を起こしたのだと、言わずにはいられなかった。
「それでも! 俺が! 傑をそんなに擦り切れるほど追い詰めて、七海を殺したあいつらを殺したいと思った! 傑の言うこともわかってるさ、こんなことしたって嬉々として後継が上にあがるだけだってことも!」
「…だから! 私はやりたいことが見えたから、君にも、硝子にも、夜蛾先生にも相談しようと…」
思っていたのに。
「どういうことだよ?」
そこで夏油は保護した双子や、七海のような犠牲になる呪術師をもう作らないため、まともに反発したって五条の様に腐りきった保身にだけは能力を全振りした老害共にある事無い事塗りつけられて、排除されるに決まっている。それならそんな腐りきった大木に寄りかからずに済むように、新しい芽を育てなければならない。
そう考えて、教育から手を回していきたいと思ったのだと、そう告げた。
「傑のやりたいことは分かった。俺が一緒に居られれば五条家の力も使って上手いこと手伝いが出来たんだろうとは思う」
「いや、…そもそも私がもっと早く誰かを、悟を頼れば、話をもっとしてれば良かったんだ」
しばらくの間、二人の間に沈黙が落ちる。
五条が気を取り直す様に、陽気な声を上げた。
「ま!でも呪詛師認定されたからって、俺が呪詛師にならなきゃいけない訳じゃねえし?これはこれで牽制するネタが出来たと思ってもいいんじゃねえ?」
「…そう、か。もう悟は呪術規定に縛られない。呪術界が呪詛師認定で放逐してしまったから」
「かといって、俺を縛れる人間なんかいやしない。傑を差し向けようとするなら、そいつから真っ先に祓ってやれば良い。すぐにビビって動けなくなる」
「でもそれは常に矢面に立って抑止力で居なければならないってことだよ。いくらなんでも悟の負担が大きすぎる」
「そうは言うけど、命を狙われるのは今とそう変わらねえし、五条の家には六眼と無下限の抱き合わせを神格化してる奴らもいるから、そいつらは使えるし、腐ったみかん共に超過任務を押しつけられないだけ楽かもじゃん?」
むしろ残った特級の傑のほうが大変かもよ?
からかい顔で五条にそう言われて、夏油は想像が容易く付きすぎて眉をしかめた。
「それは出来ればごめんだけど…まあ、しょうがないと甘受するよ」
「まあ、俺たち二人が本気でやれば、出来ないことなんかないって!」
「だって俺らは最強だから!」
二人顔を見合わせて笑う。常に隣には居られないけれど、でも同じ方向を見て進んでいけるのだから大丈夫だと思った。
とりあえず、まあそんな感じになったよ。と、灰原は夏油から連絡を受けた。
ひとまず呪詛師認定されても、五条自身は呪術師を辞めるつもりは無いのだと聞いて安心する。
灰原自身も夏油に協力したいと、高専教師を目指した。とはいえ、呪術高専の講師は実のところ教員免許を持っている人間自体が少ない。だいたいが特別非常勤講師で登録していて、とれる人は特別免許状とってね、だそうだ。
五条が呪詛師認定されて、御三家及び高専の柵から解放されたと捉えれば、上層部の都合で使い捨てられそうになった術師や、御三家基準で使えないと言われ(もちろん一般家庭出身から見ればそんなことはない)虐待を受けている術師などを、攫って保護してしまえるのが利点だ。
何をどれだけ吠えられても、痛くもかゆくも無い。
匿った術師に手を出したら、五条が報復をする。だから敢えてそういうときは派手に周知するように攫っている。報いが返ってくる事を知らしめるように。
五条悟の庇護下に入ったのだと周知するように。
そして逆説的に、何かの罪状が付いていても五条の庇護下にいるということはそれは冤罪なのだと認識されるようになった。
これは思わぬ副産物だと言えた。
五条悟が本当の意味で呪詛師で無い事は、暗黙の了解になっていたし、広く駆け込み寺のように周知されるということは、利用しようとする有象無象が湧いて出るデメリットもあるが、どちらかというと知名度のメリットの方が大きかったのでその辺は飲み下せる許容範囲内で収まった。
また六眼と無下限の組み合わせは、天元様にとって特別であったらしく、水面下で五条の全く隠れる気のない隠れ家は、高専の天元結界の飛び地のような扱いで万全の結界が敷かれる事になった。
もちろん取引として、有事には協力体制を敷くことになっている。であるからして、五条は密かに高専結界に呪力登録されたままだったりするのだ。
結果として、五条悟の呪詛師としての指名手配は有名無実化していたのだった。
あるところに娘がおりました。娘には思い合った男がおりました。ある日、娘の目の前で男が死にました。娘は泣いて泣いて、男から貰った形見の鏡に願い続けました。自分は死んでも良いから男が生きている姿を見たいと。願って願ってそれはいつしか呪いになりました。鏡に生きている男が映るようになり、娘は男の姿を見ることができるようになりました。そこでは自分は生きていないようでしたが、娘は構いませんでした。男の姿を見続ける内に娘はそこへ行って、ひと目、男に会いたいと願うようになりました。娘は鏡を通って男に会いに行きました。男に会うことが出来て娘は幸せでした。男は娘をみてこう言いました。「君は私の目の前で死んだはずなのに」鏡の向こうの世界では娘が死んで男が生きているようでした。娘と会い最初は戸惑っていた男ですが、やがて再会を喜びました。娘はそのまま鏡の向こうの世界の住人に成りました。そうして娘は死にました。何故なら「自分は死んでも良いから男が生きている姿を見たい」と願ったのは娘なのですから。自分の死んでいる世界へ行き、そこの住人に成ったのでそこで死んでいる人間が死ぬのは道理です。娘は世界の道理に殺されたのでした。遺されたのは娘に呪われた鏡ただひとつでした。その後を知っている者は誰もおりません。
―自分の死んだ世界を見られる鏡があるんだって―
―死んだ人に会える鏡があるらしい―
―鏡を通って自分の死んだ世界に行けるって―
枝葉は様々、だが鏡を介して別の世界を目にするという共通点のある都市伝説が出回っていた。
その都市伝説は掲示板やSNSで、真偽不明だが“自分が死んでいる世界”に行ったという人間からの実況、死んだはずの人間に会った人物から通話やメッセージ、メールがあった等の情報として広まっていた。
だが、元となった寓話のような話の通り、実際にその世界に行って戻ってきたという情報は無く行方不明のままになっている。都市伝説の通り鏡の向こうの、自分が死んでいる世界で、世界に殺されたのだと噂されていた。
ソレは掲示板やSNSで、真偽不明の都市伝説として広まっていた。
曰く、「今、自分が死んでいるという世界にいるのだが」という掲示板実況。これが今のところ一番情報量が多く、友人に会ったら真っ青な顔で逃げられた。
曰く、「死んだはずの人間に会った」という通信アプリのメッセージ。これは友人とのやりとりで
曰く、「実家に電話したら悪戯電話だってすっごい怒られた」というSNS投稿
オカルト系や噂を扱うニュースサイトが幾つか取り上げてまとめ上げられてしまったその都市伝説は
任務
2018年9月■日
都市伝説より発生したと思われる呪いによる
行方不明者の増加その原因を調査、祓除。
担当者(一級術師 灰原雄)
その都市伝説は掲示板やSNSで、真偽不明の“自分が死んでいる世界”に行ったという人間からの実況、その人物から電話があった、メールがあった等の情報として広まっていた。
だが、実際にその世界に行って戻ってきたという情報は無く、都市伝説の通り鏡の向こうの自分が死んでいる世界で、世界に殺されたのだと言われていた。
都市伝説の通り、近くに人間が通り抜けられるほどの大きさの鏡があるのは共通している。
驚く声がして振り返ったら友人の姿が見えず、近くに鏡があった。鏡の前に失踪者の遺留品があった。試着室に入った人が居なくなってしまった。等々。
というか、鏡の近くだったからこの案件に関係があるのではとピックアップされた、が正しい。失踪者のその他の共通点は今のところ見つからず不明。
実際にネットに流れている実況を追跡して失踪者にたどり着いた件もあり、失踪者からの通話、メールの内容を整理すると、スマホのマップと少しだけ違うところがあったり、和暦年号が違っていたり、それぞれ相違点は色々ではあるが、最大の共通点はそこでは自分が生きている形跡が無い。
単身者は賃貸住居の表札が変わっていた。建物自体が無かった。実家住まいの人間は、家族にあからさまに死んだ人間が帰ってきたと言われた。知人友人家族に「お前は死んだはずなのに」という旨の言葉を向けられたらしい。
“自分の死んでいる世界”に転移した、またはそう見える領域に引き込まれた。というのは、確度が高い情報であると思われた。
そして灰原はここ■■大学構内で、友人が鏡の中に消えた瞬間を見たという、目撃情報のあった現場に来ていた。
目撃者に詳しい話を聞く前に、現場の様子を見ておこうと先にこちらへ向かったのだ。
本当なら一緒に検分して欲しかったが「怖い」という人間に無理強いはできないし、呪いが生まれてしまっても困る。
校舎の主立った場所への移動ルートとは少し外れた場所にある廊下、壁に作り付けられた鏡だ。端に「寄贈」と焼き入れられた文字が見える、学校にはよくあるものだ。
何故こんな外れた場所に鏡などあるのかといえば、その鏡の反対側にある扉、現在は物置だが当初は更衣室兼ロッカーとして使用される予定であったらしい。着替えた後に身だしなみをチェックするため、ということだ。
だが結局それが立ち消えになり、ここもとりあえず雑多なものを入れる物置として利用されているのが現在、ということだそうだ。ちなみに、ここで何事かが起こった曰く謂れは確認できなかった。
「さて…、残穢は…んー…?微妙にうっすらある、かな?」
あからさまな痕跡というレベルにはなく、鏡自体に薄く呪力の気配が残り香のようにある、様な気がする。
多分こうしてわざわざ注意して目を凝らして見なければ、この前を通っても気付きもしなかっただろう。
目の前の腕を組んで仁王立ちする自分の姿をじっと見つめる。
その視界の中に、ふと金髪の細身の制服姿がよぎった。
「え?」
思わずその姿を追うように鏡に向かって手を伸ばす。頭の片隅で、鏡に映ったなら普通背後を確認するんじゃないかと、自分の行動に疑問を持ちながら。
そして伸ばした手はガラスの堅い感触に阻まれず、水面に沈むようにその奥へ向かって入り込んだ。
―――呪力!?
沈み込んだ手から大きな呪力を感じた。身を引いて逃げようとしたが、途端に周りに覆い被さるように鏡が迫ってくる。
それは自分が突っ込んで行っているのか、鏡に包み込まれているのか、判断がつかない。視界がぐにゃりと歪んで見えたからだ。そのままグルグルと目眩のようなものに呑まれて、灰原の意識は途切れた。
◇
「へぇー大学ってこんなに広いんだね」
でも高専の方が広いかなと、周りを見回して制服を着た少年が言う。
「あそこは学校だけの敷地ではないですから、単純に比較はできませんよ」
淡い色のスーツを着た男性が、変わった形のサングラスを直しながら答えた。
「さて虎杖君、今の君の役割と設定は?」
「はい!大学を見学に来た高校生です!ナナミンは俺の保護者役で付き添い!」
「よろしい。ほぼ素でかまいませんが、目的だけは忘れないようにお願いしますよ」
◆
堅い床で目を覚ます。あまり掃除されているとは言えない床が間近に見える。
灰原は身を起こして、目の前の壁に作り付けられた姿見を見て、頭を振った。
「そうか…任務で、■■大学だったっけ」
意識を失う直前の事を思い出し、辺りを改めて見回すが特に変わった様子は見受けられない。むしろそれに違和感すら覚える。
―――確かに鏡の中に呑み込まれたと思ったのに。
一抹の予感はある。
とりあえず、若干ほこりっぽい廊下に寝転がってしまった為、起き上がり身体からホコリを払う。
汚れが残っていないか件の鏡に映して確認しながら観察するが、今度は何も見えないし、微かに感じた気がする呪力も確認できなかった。もちろん金髪の人影も。そっと触ってみたがガラスの冷たい感触を返すのみだった。
時計を確認したが、意識を飛ばした時間は思ったほど長くなかったようだ。
そろそろ目撃者と会う約束の時間が近いので、現場検証を切り上げて校舎の外へ出た。
中の薄暗さとは打って変わって、晴れていて暑い。9月だというのにちっとも涼しくならないのには閉口した。
想像の通りなら、ここは”鏡の向こう側“だ。おそらく目撃者は約束の場所にはいない。こちらが『自分が死んでいる世界』なのだとしたら、ここで生きているのは。それは。
一応、今日は土曜日で学生も平日ほど多くない。
言動が若いと言われる灰原は年齢の割に、学生に混ざっていても違和感が無い。大学構内を探索するなら向いているだろうと今回の聞き取りを割り振られたのだ。
ここから少し離れた食堂で目撃者から話を聞く約束になっていた。居ない事を確認するためにも一応そちらへと向かうことにした。
ゆったりと食堂へ向けて歩き出す。
ふと視界内にひっかかりを覚えて、その感覚の元を捜す。
少し遠くに学生服を着た高校生が居た。私服の大学に制服姿なのが感覚に引っかかったらしい。構内見学かなと微笑ましく見ていたが、灰原の進行方向に居た関係上、歩みを進めれば近付いていく。
「…虎杖君?」
それは両面宿儺の指を取り込み、呪いの王の器として秘匿死刑を言い渡された子だった。
夏油からの緊急連絡で五条が攫って現在は匿っている。今は五条のちっとも隠れていない隠れ家に居るはずだった。
一応あまり目立つような所に行かないようにしていたと思うのだが、よく見れば着ている制服は高専の改造制服のようだ。
まさかこちらでは高専に通っている?
こちらの世界で彼がどんな立ち位置に居るのかはわからないが、灰原と面識があるかを確認するためにも声を掛けることにする。
どちらにしろ、彼一人でこんな大学構内に居るわけがない。声を掛ければ誰か同伴者が―呪術関係者の可能性が高いと思われる―出てくるだろうと灰原は踏んだ。
「虎杖君!」
呼びかけるとこちらを振り向いた。かるく駆け寄って話しかける。
「どうしてこんな所に居るの?誰か一緒?」
怪訝そうな顔で見返される。初対面を装うにしてはまるっきり知らない人間を見る目の色だ。そう頻繁に会えるものでもないが、忘れられる程でもない。お互いに根明と言われる呪術師では珍しいタイプだし、話せばすぐに意気投合できた。内面の感情を綺麗に押し隠して演技が出来るほど、彼は器用では無かったように思うので、確信が強まる。
「虎杖君、お知り合いですか?」
やはり同伴者がいたのかと、灰原は声のした方へと振り返った。
今回の任務では七海が虎杖の保護者代わりに、大学の見学に付き添っているという設定で虎杖と共に大学構内を調査している。
補助監督との情報を通話でやりとりしている間に、ぶらぶらと視界内を物珍しそうに見ているのが微笑ましい。通常の調査任務であれば相手方に警戒を抱かせる為、あまり興味津々に見るのは頂けないが、今回は実際に見学に来ている体なので、見逃してあげようと思っている。
丁度通話が終わり、ついでにスマホの画面で時間を確認して顔を上げると虎杖の前に若い男が立っていた。知らない人物にも物怖じしない性格の虎杖がなにか怪訝そうな反応をしている。
「虎杖君、お知り合いですか?」
何か問題があっただろうかと、少し足早に近付くと話しかけていた男性もこちらを見た。
その瞬間の既視感に、一瞬足が止まる。
快活そうな黒目の大きな瞳に、記憶よりも伸びている背、少し短く刈り込まれた髪、厚くなった体つき。共に歳を重ねていれば隣に立っていたかもしれない姿だと思った。
七海はそう思ってしまった自分に怒りを覚える。
その相似形に親族だろうかと思うが、そんな偶然があるものかとも思う。
「あ、ナナミン。…えーと、俺は知らん、と、思うんだけど…」
虎杖が戸惑いながら多分知らない人だと答えるのに、男も困惑しているかと思いきや、視線は七海に向いていて、じっと何かを見極めようと探るように見つめていた。
虎杖は立ち位置が特殊な為、本人が知らなくても一方的に知られている可能性はある。主に呪術関係者、それが呪術師であれ呪詛師であれ。
そこで男が今度は七海に向かって口を開く。
「…えっと、あなた呪術師、でいいんですよね?お名前を伺っても?」
どう答えるか。七海はレンズの奥で目をすがめる。この目の前の嫌に苛立ちを覚える姿を見据えながら。
そこへ七海の内ポケットから着信音が鳴る。男はどうぞと出るように促す。逡巡して取りあえず通話の相手を確認する。
――五条悟
このタイミングで掛けてきたのだから何かあるかもしれないと、通話ボタンをタップした。
『もしもし七海~?今どこにいる』
「■■区の■■大学です」
『やっぱそっちか~、…なにかいる』
「…呪力持ちの人間が…多分呪術師ですが、呪詛師の可能性も否定出来ません」
通話に聞き耳を立てていた男が呪詛師と聞いて、あわてて不本意そうに首を横に振り否定の意を示した。
『多分、とはいえ呪術師って七海が言葉に出して発言するくらいにはそう見えてるのに、』
続く言葉は耳元と背後から合わせて聞こえた。
「『呪詛師の可能性も否定出来ないってどういうことかと思ったら、』こういうことね」
七海の背後に黒の目隠しの白髪を逆立てた長身がぬっと立つ。
「五条センセー!」
「!?」
虎杖が担任教師の突然の登場に驚き、七海は近すぎる距離に反射的に五条から身を離す。
五条は七海が警戒していた男をチラリと見て、それから苛立ちを募らせて珍しく不快感を顕わにしている様子の七海を見た。確かに死んだ同期の姿に化けているのなら、何か良からぬ企みがあるかもしれないと危惧するのも分かる。そんな企みを持つなら呪詛師の可能性も確かにある、が。
この時点で五条には大体の仕組みが視えていた。そもそもこちらに注視したのは近場に居た為、呪力の歪みが視えたからだ。
現状正体不明の男の反応と言えば、一瞬片足を引き腰を落として戦闘態勢に入ったものの五条と確認して力を抜いて重心を元に戻した。
警戒を解いた様に見えるが、さり気なく半身は引いたまま、すぐにどうとでも動ける自然態の体勢だ。
「ナルホドなるほど 君のお名前教えてくれるかな」
「…そちらの方の名前も教えて頂けませんか?フェアじゃ無い」
男が七海を指して名前を尋ねる。
「金髪の彼だけで良いのかな?」
「あなたは“五条先生”なんでしょう?」
先程、現れたときに虎杖が驚いて呼びかけてしまった事で知られてしまったらしい。虎杖がばつの悪い顔をしているのに、問題ないよと頭を軽く叩く。元々”五条悟”は有名人だ。
「…虎杖君の名字は知っているようです」
「…虎杖、知ってる人?」
下の名前の情報を持っているかは分からないという七海の示唆に、五条も名字で虎杖に話しかける。
「いや、俺は知らん、と思うんだけど…」
と言う発言を聞いて、少し思案の表情を浮かべる男。うん、とうなずき一つ。
「わかりました!先に名乗りますね、僕は灰原雄です!」
その名乗りによる反応を見定めるように、男が特に七海を注意深く見ているのが分かる。
多分七海にもそう名乗るであろう事は予測出来ていた。それでも死者を名乗られるのは不愉快で、眉間にしわが寄るのが分かる。湧き上がる怒りを抑えながら、苛立ちをぶつけようと口を開こうとした。それに畳み掛けるように自称灰原雄は言葉を続ける。
「多分、僕が異物なんです。…ここの世界で灰原雄は死亡している。違いますか?」
“ここの世界”という言い方に引っかかりを覚えたが、それを上回っていつになく怒りの感情が高まって抑えられない。
「それがわかっていて、その名を騙(かた)るんですか」
「そりゃあ、自分の名前だからね」
五条はいつもの飄々とした笑顔を崩さずに、そんな二人の遣り取りを口を出さず見守っている。大体の事情はもう察したが、七海の灰原に対しての反応を懐かしく面白がっている。
虎杖は話しかけてきた男は悪い人じゃなさそうだという事と、それなのに何故か七海がとても怒っている事しかわからない。
「それで?あなたの名前は?」
僕が言ったのだから教えてくれますよね?と笑顔で問われる。
「七海建人」
どういう反応をするのかとこちらも灰原を名乗る男を睨むように見つめる。
灰原(仮)は名を聞き、痛みを堪えるようにして無理矢理微笑むような顔をした。それを見ていられない気持ちになって、少しだけ目線をずらす。
「…そう言われても、私達が貴方を灰原だと、どうやって信じろと?」
それもそうだと、灰原(仮)は視線を上げて考え込む。
ああ!と声を上げて、いい事思いついたと言わんばかりの笑顔をこちらへ向ける。既視感に七海の中でも、死者を名乗るこの男に対しての怒りを保つのが難しくなってきた。まだ、その理由を認められずにいるが。
「海!」
突然の言葉に五条と虎杖は何のことだか分からないと言う顔をした。七海も唐突さに一瞬呆けたが、それが何を指すのか理解して、ぐわりと感情が大きく揺れる。ああ、とあえぐように息をして、二人だけが知る言葉を返した。
「………原」
伺うように見つめていた灰原が、得たりと笑う。それすらも既視感しかない。
「パン!」
「米」
「金!」
「黒」
「えーと、なんだっけ…カク、スート?」
ここまでテンポ良く進めてきたのに、締まらない灰原に溜息をついて訂正を入れて、後を続ける。
「カスクート。天むす…『連想ゲームじゃ無いんだぞ』」
懐かしさに目を細める。その眉間からすっかり険は取れていた。
「『間違わなくていいんじゃない?』」
「…間違ってるじゃないか」
もう、疑えなかった。これは灰原だ。過去、学び舎を共にして、二年も満たない間しか共に居られなかった、けれどあれからずっと心に棲み続けた、灰原雄が目の前に居るのだと。疑い続けることが出来なかった。
これは、灰原雄だ。
口を開いても何も言葉は出てこない。胸の奥は感情の波が荒れ狂っているのに、言いたい事は具体的に何も思い浮かばない。口を閉じて思いを噛み締める。肚の中の言葉はただ波の間に千々に散らばるだけで意味のある文章には届かないのがもどかしい。何かを伝えたい、伝えなくてはと思うのだけれど。お互い言葉を失ったまま、黙って見つめ合うばかりだ。
それきり黙り込んだ二人に、五条が引率っぽいわざとらしさで、ぱんぱんと両手を叩く。
「はい!と言うわけで、僕たちにとって久しぶり! 悠仁には初めまして! 七海の同期の灰原雄君でーす」
「こっちだと会ったこと無いもんね!よろしく、虎杖君!」
「あ、よろしくおなしゃーす!」
「じゃ、多分、平行世界辺りを移動してきた灰原の話と、お互いの世界の諸々の相違点とかそういうのは高専でまとめて摺り合わせしようか」
そう言って五条は灰原に確認するように顔を向ける。灰原も概ね同意できたので頷きで返した。
土曜日とは言え、そろそろ目立つ頃合いだ。こんな所で話し込む内容でもないことから、まずは移動という話になった。
「じゃあ僕は先に高専で待ってるから!」
そう言って五条は物陰へ歩いて行く。七海はそれを足早に追って小声で責める。
「あなた、気付いてましたね?灰原が灰原だと」
「そりゃそうだよ、けっこうな歪みが見えたから来たんだもの。それで死んでるはずの人間がひょっこり現れてるなら、どっかから歪みを通って来ちゃったと思うのは必然でしょ?呪いの産物ではなさそうだし、見れば歪みと紐付いてるし?」
睨む七海に五条はしらっと答える。
「それに、七海が自分で気付かないと納得できなかったでしょ?」
五条のその指摘に七海は悔しいが反論は出来なかった。
その様子を見てニヤニヤと笑いながら、まあゆっくり帰ってきなよと言って五条は姿を消した。
「あの人はまったく…」
その気儘さに七海が長い溜息をついて、気持ちを切り替える。
「それでは高専へ向かいましょうか」
二人の元へ戻り、場を移そうと促した。
「あ、じゃあ僕もバイクで行くね!」
「…灰原のバイクあるのか?」
「うん!近場の移動はバイクの方が早いからね」
「いや、そうではなくて」
「え?…ああ!!そっかこっちには無いはずか!」
「一応確認してから行くか。駐車場の方向は同じだろう?」
そんな会話をしながら並んで歩く大人二人の後を、虎杖が付いていく。
いつも学生に対してすら敬語を使う七海が、敬語を外して親しげに会話をしているのを目を丸くしながら見ている。
「…灰原、駆け引きなんて出来る様になったんだな」
さっきの遣り取りの中、腹の探り合いをするような会話をしたのを思いだして七海が呟く。
「七海こそ、子供の面倒見れるようになったんだ?」
まあ子供と行っても虎杖は高校生だが。高専の頃は子供の取り扱いがわからず、もっぱら灰原に対応を押しつけていたのを揶揄されている。
視線を交わしてふっと揃って笑う。
「「…お互い様」」
異口同音の台詞といつになく柔らかい笑みの七海の中に、同期の気安さを見て学生時代を垣間見た気がした。虎杖はここに居ない伏黒と釘崎に急に会いたくなる。
「あ、そういえば虎杖君にナナミンて呼ばれてるんだ!?」
「ひっぱたきますよ」
そう七海が言うのを聞いて、虎杖はうつむいて緩んだ口元をそっと隠した。いつだってそう言うだけで実際にひっぱたかれた事なんか無い。七海の不愉快ですという一種のポーズのような物なのだとそう理解していた。それが。
スパン!という音と、「いだ!」という声にびっくりして顔を上げる。
背中へ手を回して悶える灰原と、振り抜いた手を戻しつつある七海が目に飛び込む。
「痛いよ七海!」「予告はしましたよ」「そういう問題じゃなくない?」「グーじゃ無いだけいいでしょう?」「もー七海はさぁ…」
「…ひっぱたいた…」
思わず声に出てしまった事に咄嗟に口元を抑える。その声に前を歩いていた大人二人がそろって振り向いた。
目が合った灰原は笑いながら「七海ってば手が早いよね!」と言う。虎杖は反射的にぶんぶんと首を横に振り否定を示す。
ソレを見て灰原はアレ?という表情をすると、視線を七海に向ける。七海は素知らぬふりをして視線を避けるように余所を見た。
それだけで灰原は何かを察したように、含みを持たせた笑みを七海に向ける。
「…へえ?」
それ以上の言葉は無く、ただニヤニヤと顔を向けているだけなのに、七海が険しい声を放つ。
「うるさい」
「何も言ってないよ?」
ホールドアップで肘から両手を挙げる仕草をする灰原に、眉根のしわを深くして七海の声が低くなる。
「ひっぱたきますよ」
声と同時に手も出ていた。
だが今回は予想がついていただけに、灰原も同時に回避行動を取っていた為に空振りに終わる。
「七海はその照れ隠し、辞めた方がいいと思う!」
「うるさい」
え、あれって照れ隠しだったの?
そう虎杖が驚いている間に、駐輪場へ到着した。
「ああ!やっぱり無い!!」
「うるさい」
「僕の愛車!!」
などと小さな騒ぎも挿み、むしろ在ったら問題のある灰原の単車も無事に無かったことを確認した。
今回の七海と虎杖の任務の設定に際して、車両だけは高専の車を借りてはいるが、七海が運転していた。保護者と見学者に黒スーツの送迎があったら目立つことこの上ないからだ。
灰原が当然の様に助手席に乗り、虎杖は後部座席に収まった。
「七海、案外安全運転だね」
助手席から灰原が運転手に向かって感心したように言う。
「未成年者が乗ってるし、車は借り物ですから当たり前だろう」
「乗ってなかったら?」
沈黙が流れる。
「乗ってなかったら?」
同じ言葉を繰り返す灰原に虎杖は七海が押されてることに驚いた。今日はこの灰原という人物に会ってから七海の見たことない所ばかりで驚きの連続だ。
じっと助手席から見つめる灰原には引く気配はなくて、それを理解した七海は諦めたようにしぶしぶ口を開いた。
「…捕まるようなヘマはしませんよ」
ふはっ、と灰原が笑った。
要するに自分一人であれば、ヘマをしたら捕まるような運転もするということだ。
虎杖の中で七海と言えば大人オブ大人で、規定側の人で、五条とは別の意味でなんだかとても凄い大人だと思っていたけれど。
照れ隠しに引っ叩くし、普通に笑い合うし、捕まらなきゃいいとか言う。
それを引き出す灰原が凄いのかなと思う。
「そういえば灰原さん、バイクって大型?持ってるんだ?」
虎杖が目をキラキラさせながら灰原へ質問する。
「うん、そうだよ!」
「うわ、免許見たい!」
「…いいけど」
少し、考えるそぶりを見せてポケットからごそごそと免許証を取り出す灰原。
ほらこれと差し出した免許証の写真部分に親指を置いてあからさまに隠している。虎杖が受け取ろうとしたが、ぎっちりと掴んで離さない。女子か。
「…見せてくれんの?」
そう上目遣いに学生に言われてしまえば、溜息をつきながらも手を離すしかなかった。
ただし釘を刺すことだけは忘れない。
「…笑わないでね」
「…? っン」
受け取って、笑うなと言われたから一応こらえた。が、変な声が出るのはしょうがないと思う。
フラッシュが眩しかったのだろうなと言うのが見て取れる写真だった。目をつむってしまえば取り直し出来ただろうに、変に閉じるのを我慢して半ばで眇めたままの写真は非常に残念な感じに映っていた。
「虎杖君」
七海が運転席から右手を肩口から後ろに差し出す。
「え!?駄目だよ虎杖君!!」
灰原が阻止しようとしたが、七海が手を出したのは助手席の反対がわで運転手相手に物理的な干渉はできない。ゆえに現在所持している人間の心情に訴えかけたが、こういう面白いことは往々にして分かち合うものと相場が決まっている。
「ナナミンぱーす」
「ありがとうございます」
あぁー…と言う灰原を置いて、七海が免許証を受け取る。
信号で停車したタイミングで手元に視線を落とす。
んっふ!
信号が青になり発進してからも、息だけでフスッフスッと肩も動かさず腹筋で笑いを漏らす七海から免許証を差し出され、器用な笑い方するなと呆れながら受け取った。
「あ!五条センセーただいま!!」
お疲れサマンサ~とひらひらと手を振って五条がみんなを出迎える。
「さて悠仁はここで寮へ戻ってもらうね~。”今日のことは僕が良いと言うまで誰にも言わないこと”いいね?」
「…わかった!」
明らかに力を込めた言葉に、虎杖も承知して縛りが結ばれた。
「後で理由も説明するけど、灰原のことはできるだけ人に知られたくない」
本当なら硝子も伊地知も学長も会わせたいとこなんだけどねと五条が苦笑する。
その中に、足りない名前があることに灰原は気付いたが、何も言わずに目を伏せた。
「恵も野薔薇も戻ってるからゆっくりしな」
五条にそう言われて、七海と灰原を見ていて、無性に自分の同級生に会いたくなっていた虎杖には嬉しい言葉だった。
「ナナミンも灰原さんも、んじゃね!」
バイバイと手を振って虎杖の背を見送る。
聞こえないところまで離れたと確認して灰原は口を開く。
「伏黒君も高専に居るんですか?」
「今年の一年は悠仁と恵と野薔薇の三人だよ」
「三人?…そう、ですか」
灰原の知っている高専では今年の一年は高専史上でも珍しく女子ばかり三人である。釘崎野薔薇と、例の村で保護した枷場の双子だ。虎杖と伏黒は五条に匿われている状況で高専にはと言うか学校には通っていない。
「…枷場さんの双子はどうなってます?」
灰原は話の出てこない美々子と奈々子の行方を尋ねる。確か彼女らは虐待の件もあり、本来の学年よりズレていた筈だ。
五条がふむと考えた後に答える。
「…枷場…?聞き覚えないね。知ってる双子といえば禪院とこ位か?」
灰原は双子の不在に、保護のきっかけになった案件を思い出す。その時、共に居た人を。
「あの、こっちの…夏油さん、は?」
五条と七海の空気が固まったようだった。
ちょっと遠方へ出張しててとか、そんな返しを灰原は期待していた。期待はしていたが、恐らく違うのだろうなと言う事も。
夏油の不在を、その理由を。
さっきの会わせたいけど会わせられない面子に入って居なかった時点で何とはなしに、予感はしていた。
けれど、実際は想像よりも過酷な内容だった。想定はいくらでも覆るのだと思い知る。
「最悪の呪詛師?」
夏油さんが?
そんなバナナと言いながら灰原はあの時を思い返す。
双子を保護した任務にあたる事を確認すれば、思いだしてそういえばと納得できてしまう。あの時の夏油は周りの人間が見えて居らず何かを思い詰めた空気があった。灰原が住人を殴って喧嘩を始めなければ呪霊を出そうとする気配があったのを思い出す。あれは牢を壊して逃げるとかではない。
きっと呪霊に喰わせようとしたのだ。
「僕の世界では夏油さんと僕は高専教師をしています。五条さんは、呪詛師として指名手配されていて…」
なんと説明して良いのか灰原は少し悩んで言葉を切る。
「でも呪術師なんです」
「まずは灰原の受けた任務内容について聞こっか」
場を仕切る五条に灰原が答える。
「“自分が死んだ世界が見られる鏡がある”“死んだ人に会える鏡があるらしい”等の都市伝説が起点と思われる行方不明者多発案件の原因調査及び、祓除です」
「ああ、やっぱりソレに繋がるのか…なるほど?」
軽く五条が頷き、続きを促す。灰原は今までの調査で推測できることを上げた。
鏡を媒介にしている可能性。自分が死んでいる世界、もしくは領域のようなものへ移動している可能性。帰還者は今のところ無し。
「今日は、失踪者が鏡に呑まれる所を見た人が居て、話を聞きに来たんです。その前に現場の鏡を見ておこうと思ったんですが…」
「灰原自身が呑まれちゃった、と」
「そうみたいですね!」
あははと笑う灰原に七海がこめかみを揉みながら突っ込む。
「笑い事じゃ無いでしょう」
「それと、この文章見たことありますか?」
スマホの画面に保存されている寓話の文章を表示して渡す。任務に際して補助監督の先行調査で出てきた資料だ。
「ああ、こっちにも在るよ、都市伝説の一部に入ってたり入ってなかったりする奴」
「昔話のようですが、寓話ともとれますね。これだけだと背景の時代も読み取れない」
「そうなんです。ネットの転載やメール等の伝聞で拡がっているようにみえて、この文章部分だけは変異のパターンがないんです。この文章の紹介や説明自体は色々なパターンが生じているんですが、何度もネット上でテキストコピペされているのに、完全にこの文章部分だけは固定されているんです。脚色無し一字一句違わずに」
インターネット・ミームは通常模倣であって完全なコピーにはならない。どんな都市伝説だって細かい変異パターンが存在するのに、これにはそれらが一切見当たらない。
そう言い終えると灰原は、五条からも七海からも驚いたような表情で見られていることに気付く。
「…?何ですか二人とも」
「いやぁ、灰原が賢そうなこと言ってるから」
五条に大変失礼な事を言われた灰原は、否定して欲しくて七海へ視線を向ければ、横で視線を外して、ンんっと咳払いしている。表だって同意はしないが口にしないだけで同じ気持ちらしい。ムッと七海へ反論する。
「えー?何ソレ。僕だって先生やってるんだよ!!五条さんが先生やってる方が驚くじゃん!?」
「そう言われればそうですね」
「七海も大概失礼だな」
「とは言っても僕も夏油さんの受け売りな訳ですが」
灰原はペロリと舌を出して、改めて真面目な顔をして続けた。
「なにか呪術的な作用で、文章の改編がないように縛られている、と見ています」
「なるほど、これを読むことが条件に含まれる?読んだ時に共感するか否かで対象になるのか判定されるのかな?」
五条が推測を口にして、七海が気になる部分を問いかける。
「灰原は…共感、したんですか?」
「うーん。全面的にでは無いけど、部分的には共感してもおかしくないよね。七海も分かるでしょう?」
そう問い返されて七海は口をつぐむ。この灰原の前で口に出して同意するのもどうかと思われたからだ。
そのまま続けて七海からの説明に入る。
「次はこちらですね。…3日前に人通りの多い歩道で突然女性が血まみれになって死亡したと警察に通報がありました。目撃者は多数。」
それだけなら典型的な呪霊が原因の事件だ。普通の人間には見えない呪霊に殺されると突然血を流して死んだように見える。
「通報を受けて警官が駆けつけましたが、其処には遺体も血痕すら無かった」
死亡した瞬間に消え失せてしまったらしい。と七海が続ける。
「警察では集団幻覚として、周辺に薬物が散布された可能性があると捜査していますが、死亡したと思われる女性の同行者から証言が取れました」
「身元は?」
「同行者の証言では数年前に死亡したはずの人物、だそうです」
多くの人目に晒された為、同様の件が続くと呪いの発生を助長する危険がある為、案件の優先順位が上がり、調査にでました。
そこでスマホのバイブ音が生じる。
各々が自分の携帯端末に手をやり確認をする。
「あ、僕ですね!」
灰原がジャケットのポケットからスマホを取り出すと画面を確認する。
「あ、夏油さんだ」
「!?」
五条と七海の呼吸が一瞬止まった。灰原はそれを感じて、やっぱりなとそう思う。気付かない振りをして画面をタップした。
「灰原です!」
『灰原、君どこに居るんだい?目撃者の人が時間過ぎても来ないって連絡来たけど』
「あ、そうだった!すいません、僕、行けなくなっちゃって」
『え、なに、任務?面倒なことになってるのかい?』
「はい!それが…え?…うん、ちょっと待って」
七海の口元が「スピーカー」と形作られてスマホを指さされる。
「すいませんスピーカーにしますね」
そう断ってスピーカーに切り替える。
『なんでスピーカー?』
「…ほんとに傑だ…」
スピーカーから聞こえてきた声に、五条がつぶやく。
「僕いま、高専にいるんですけど」
灰原はスマホを机の上に置きながら会話を続ける。
『え?どこにいるの?そっちに行くかい?』
夏油自身も高専に居るらしい、合流したほうが話が早いと思ったのだろうか。
「それがそこの高専じゃ無くてですね。今、僕の目の前に、七海が居ます」
『は?』
「七海が、います」
冗談でも無い気配を察して夏油は灰原の任務を思い出したようだった。
『まさか灰原、君、“君の死んだ世界”にいるのか』
「さすが傑、理解がはやいね」
『…なんで高専に悟が居るんだい?』
「五条さん、先生だそうですよ」
『…へえ?』
「待ってください、話が進みません」
『…七海か』
息を呑むような間の後、驚きに染まった声がした。
『そうだね…、そっちがどういう状況なのかは取りあえず置いておこうか。灰原の帰還の方法を考える方が先のようだしね。一旦切るよ。伊地知に現状の調査結果をまとめて貰ったらまた連絡する』
「あ、そうだ灰原、飲食物持ってる?」
五条からの問いかけにえーと…と言いながらスリングバッグを探る。
「一応、非常食と水は持ち歩いてます」
「よしよし、極力こっちのものを口にしないように。黄泉竈食になるかもだからね」
「…よもつへぐい、てなんでしたっけ?」
聞き覚えはあるんですよ!と主張する灰原に、覚えてなければ意味が無いでしょうと七海が応じる。
「黄泉の食物を食べて地上へ帰れなくなる事を言いますが、この場合は異界の食物を摂取してこの世界に組み込まれるのを遅らせるという意図ですよね?」
「そーそー。極力リスクは減らしとくに限るからね」
「現状までを纏めたこちらの調査の結果を伝えるよ」
そう話を切り出した夏油が続ける。
行方不明者は親しい人を目の前で亡くしてる人が多い。
あの、変異しない寓話あるだろ?あれを読む事が条件の一つではないかと思われる。
寓話を読んで共感するかがトリガーに含まれてるんじゃ無いかと予想している。
死亡者は寓話で言う”世界の道理”に殺されたって事だね。
おそらく寓話に共感した時点で呪術的関係が生まれ、そこで縁が出来て、それを手繰って縛りを結ばれている。
多分鏡はその縛りに反応するんじゃないかな
道になる鏡はあくまでも端末で、呪具か呪物か不明だけど本体の鏡が今のところどこにあるのかは分からない。おそらくは本体は寓話に出てくる鏡なのだろうけど、ね
本当は本体を捜して祓除したいところだけど、時間が足りないから灰原を送り返すことに集中しよう
「そうだね」
五条が六眼で良く”視て”確認をした。
「世界からの認識が完了したら、こちらの世界の通りに灰原も死亡するんじゃないかな」
できるだけ、関係者を減らして認識を遅らせるようにしているのはその為だ。
「そっちの悟が現状を見たのなら確かだね。どういう基準で認識が積み上がるのかも現状不明だから、早めに対処を始めた方が良さそうだ。今回の対応で成功するとも限らないしまずは明日試してみよう」
灰原と同じ立場である七海もおそらくは条件が成り立っている前提で、一度開いた鏡がわかりやすいからと、件の大学の鏡を使うことになった。
七海が単独で鏡に映れば何か反応があるかもしれないし、あわよくば鏡の道が開いたなら灰原も七海を掴んで一緒に突入する予定だ。
開始時間諸々を打ち合わせて明日に備えることになった。
明日決行。
灰原は高専の仮眠室に泊まる。
七海も灰原と話をしたいので一緒に泊まることにした。
「案外、普通に話せるもんだなって自分でも驚いたよ」
「ええ、私も驚いた」
七海も同意する。
「まだビックリしてるだけかもね」
少し現実感が薄い。任務中という認識もあるのかもしれないが。
「…なるほど。あとから来るのかもしれないな」
「ね」
きっとお互い同じような言葉を遺したのだろうな、と思った。
この七海の前で死んでしまった僕も、呪いを掛けたのだろう。わかるようなわからないような、はたまたわかりたくないような。
逝ってしまった七海を恨んでいないと言ったら嘘だけど、同じ立場になったら自分も同じ事をするのだろうなと思えたし、目の前にそれが証明されて存在してるとなおさらに実感が湧く。
そして、目の前の七海も同じように思っていることがわかる。苦いのか塩っぱいのか辛いのか酸っぱいのか形容のできないものを口に入れたような顔で、きっと自分も同じ顔をしているのだろう。
でも、それだけで、しょうがなかったのかと初めて思えた。
多分、ほんの少しの違いだった。攻撃のタイミング、回避の一歩、呼吸一つ。あの時はそれだけ死が近かった。そこが違った結果のここに居る二人だ。お互いたった一人の同期を喪った。
「僕のせいでって、思ってた。僕が代わりになってればって」
そう言うと目の前の七海は怒りの気配を放った。
「ひっぱたきますよ」今度は手は動かなかったけれど。
「僕はぶん殴りたい」
そう返せば同じように思った七海が色の付いたレンズの奥で目を見開いたのがわかった。見にくいなと、変わった形のサングラスに手を伸ばして外す。七海は黙って僕の手を受け入れてくれて、サングラスは僕の手の中に。
ああ、七海の目の色だ。海の色。合言葉の最初。
「私達は鏡ですね」
ぽつりと七海が呟いた。言葉が敬語に切り替わった。でもこれは照れじゃない。なにかを区切ったのだとわかった。
「そうだね」
肯定する。なにしろ鏡の向こうからやってきたし。そうちょっと茶化して考える。
「私も変われれば良かったと、思った事はあります」
「だろうね」
「貴方の…、いや、灰原の言葉を呪いだと思いましたが…」
「うん」
「それに支えられ、背を押されたのも事実です」
「ずっと七海の言葉にすがっていたわけじゃ無いけど、ずっと背骨になっていた気はするよ」
「ええ」
同じ名前でも、目の前の人物とは違う存在に向けてお互いに言葉を送る。
今までは目の前にいない、心の中にしかもう居ないその人へずっと語りかけていたけれど、違う存在だとはいえ、本人が居て話しかけると随分と感情が整理されるものだと思った。
「時間があれば、一緒に呑みたいところだけどね」
極力飲食もするなと五条に釘を刺されている。黄泉竈食みたいに世界に認識される数値が上がる可能性が高いからと。
「まあ、明日酔っ払っている訳にはいきませんしね」
「じゃあ、昨日の計画通り、向こう側と繋がる灰原のスマホを僕が持つ。それで向こう側の傑と繋いで、灰原が帰るべき向こう側と繋がったのか確認をとる。接続先が違った場合は灰原は七海と一緒にこちらに引き返すこと」
「はい」
「それで僕が七海のスマホを借りる、と」
灰原が七海からスマホを受け取る。
「貸すというか、このまま譲渡しますよ。返す宛てないじゃないですか。バックアップはとってありますから問題ない」
「灰原が持って行く七海のスマホから僕へ掛けると、こちら側と、鏡の中と、向こう側が中継できることになる」
「向こう側と繋がった事が確定したら、僕はそのまま向こう側へ出て、七海も外へ出たことを確認したら、同時に鏡を割って道を閉じる、と」
大学の鏡前、七海だけが映るようにすると、七海の口が「はいばら」と動いて鏡へ引き込まれる。その腕をつかんで灰原も共に突入する。
夏油から五条、五条から灰原へ中継して『こちらの鏡も歪んだ!』と繋がったことが確認された。合わせ鏡のように鏡の道が続いている。普通は独りだけを狙っている鏡のことだから、定員オーバーなのかさっさと追い出そうとしているのだろう。グニャグニャと波打ち始めた。
そして双方向から呼び声。
七海を呼ぶ五条の声と、反対側から灰原を呼ぶ夏油の声。
「僕はこっちだね」
「私はあちらだ」
方向をはっきり見定めた後、視線を交わしてフと笑い、お互い自分の居るべき方向へと走り出す。
激しく波打つ道の先、光を目指して灰原は走る。
光へ飛び込んで、急な床質の変化と段差に転がり出て、受け身を取りながら一回転して起き上がる。
灰原が手にしたスマホに注目する。向こうの世界の音声が雑音混じりに聞こえる。
「出た!」「よし」
『オッケ』『来た!』
お互いが鏡の外へ無事出たことを確認できて、灰原はスマホへ向かって声を掛ける。
「じゃあね!七海!」
『灰原…では』
決別の言葉はお互い言わなかった。
「『割れ!」』
双方の五条の掛け声がシンクロし、それに合わせて、作り付けの鏡に呪力を込めて拳を振り下ろした。硝子が割れるよりも不自然に甲高い音を立てて鏡が割れ落ちる。
スマホはザリザリと耳障りな雑音の後『…この電話番号は現在使われて居りません…』とアナウンス音声を繰り返す。
「…切れました」
灰原がアナウンスを繰り返すスマホに目を落として呟く。
「おかえり」
夏油はそんな灰原の肩を軽く叩き声を掛けた。
「七海、元気だった?」
五条はそんな言葉をかける。
「七海、元気でしたよ!僕より背が高くなってて、すごいゴリラでした!!それで久しぶりに引っ叩かれました!」
「七海に引っ叩かれるって何したんだい」
夏油も話に乗ってくる。
「虎杖君にナナミンって呼ばれてたんで、それ言ったら引っ叩かれました」
「悠仁もいたんだ?」確かに呼びそうだよな
「虎杖君、高専通ってましたよ」
「え!?どうやって?…あー、いや、駄目だ面白すぎるからちゃんと戻ってゆっくり聞きたい」
「そうだね、灰原も疲れてるだろうし」
「いえ!それよりも、鏡の元を早く捜さないと」
「…あれば、また七海に会えるかもしれないよ?」
「駄目ですよ夏油さん。自分の居るここで精一杯生きなきゃ、こっちの七海に顔向けできませんから!」
「そっか、そうだね」
「その元凶については俺がちょっと確認してきたんだけど、移動してから話しすっか」
その場の片付けは補助監督や業者が請け負うからと、その場を後にする。
灰原は後ろを振り返り、砕け散った鏡を眺める。キラキラと反射するそれ。
灰原はその光を目の内に閉じ込めるように瞑目して、手元に残った七海のスマホの感触を確かめながら思い返す。
もうどこにも居ない七海の事を覚えていなくてはと思っていた。
だからあの苦しい悪夢であっても、七海の事を覚えている証なのだと安堵した。
今まで七海の事を思い返すとき、最期の言葉と、あの、崖から見上げた微笑みが焼き付いて、まずそれしか浮かばない。他にも楽しかった事もあったはずなのに。
でも、10年ぶりに七海に会って、ああ、七海ってこういう人間だったなと思い出した。変な照れ方して引っ叩いてくる。真面目なように見せかけて影で要領よく立ち回っているような。
久しく会ってなかっただけの友達と再会したみたいに話せたのが。
なんだかそれが、ただ嬉しくて。
ほんの一日、幻のような時間だったけれど、七海は隣に居たし、引っ叩かれたし、名を呼び合った。
かつての日のように。
今度から七海を思い返す時は、あの苦しい最期の日も、あのたった一日の幻のような日も、同じように。
きっと一生忘れない。
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初出:灰七webオンリー2
(そのときも進捗だった…)
これをコピー本にしたい人生だった…。
途中で設定こねくり回しすぎて、訳わかんなくなってフラグ管理破綻して年単位みちみちと触ってましたが、本にするほどの完成度無理じゃないかな←いまここ
書きたいところは全部詰めた。
文章力と集中力とか落ちているので限界地。