夷陵の森の奥、黒い狐が花に埋もれるように眠っている。
近隣の村に流れていた噂では、悪い狐が罪のない人々へ災厄をもたらそうと、邪気を含んだ花を際限なく生み出しているという話だった。
その花に触れたものは気が狂うと恐れられ、誰も森には近付けない。
元々昼でも暗く雰囲気が不穏だと忌避されていた場所に、得体の知れない狐が棲みついている。
凶事が起きる前にどうにかして欲しいと乞われた藍忘機が見つけたのは、噂とは真逆の存在だった。
「君は何者だ? 何故、こんなことを?」
大木の根元に横たわっている狐に声をかける。
魏無羡と名乗った狐は、目を閉じたまま藍忘機の質問に答えた。
「なんとなくだよ。目的もなくぶらぶらしてて、たまたま辿り着いただけ」
話している間にも、魏無羡の身体からほわりと薄紅色の花が咲く。
可愛らしい花だ。人はどうしてこれを邪気に塗れているなどと言うのだろう。
藍忘機は珍しくも微かな苛立ちを覚えた。
「何故、本当のことを言わない。君は自分がどのように扱棲み付いたわれているか知らないのか」
「知ってるさ。無鉄砲なガキが肝試しでたまに来るからな。静かな場所だから、大声で話してると遠くからでもよく聞こえる。この森を根城にした悪辣な化け狐が毒花を生みだしてるって」
ひどい話だ。
藍忘機の形良い眉が僅かに歪む。
近付けば分かるのに。
狐が毒を生み出しているのではなく、逆に邪気を吸収して体内で浄化してくれているのだと。
生まれてくる花々は、清浄化した気の塊だ。
魏無羡は穢れた森を正しい姿にしようと、ここにとどまっている。
彼にとって何の利益もないというのに。
「君は、契った相手がいるのか」
「いたら、ひとりでこんなところにいやしない」
「では私の血を飲むといい」
「なんでそうなるんだ龍の若君」
「身じろぎもせず臥せているのは、動くだけの力がないからだろう。私は花食みだ。微量でも栄養になるはずだ」
「お気遣いありがとう。だが結構。返せる当てのない借りを作るのは苦手でね。忘れられなくて、気になるから嫌なんだ」
気にせずとも良いと、藍忘機は告げようとした。
しかし言葉にできなかった。
ようやく目蓋を持ち上げた魏無羡の、輝く紅い瞳に射抜かれたからだ。
「……っ」
これまで見てきたどんな輝石よりも美しく、目が離せない。
ずっと見ていたい。
彼が必要としなくても、彼の力になりたい。
「おーい、突然固まってどうした、龍の若君」
訝る声を聞き流すと、藍忘機はふらりと魏無羡に近寄った。
動くのも億劫なほどに弱った狐の唇は、意外にもふっくらとして甘かった。