忘羨ワンドロワンライ【すねる】【〇〇を隠す】 辺境まで旅して得た成果を持って雲深不知処へと魏無羨がやって来てから、おおよそ一月が過ぎた。魏無羨はというと、未だ雲深不知処に厄介になっている。
魏無羨が雲深不知処に足を向けたのは旅の顛末を知らせるだけでなく、温情が遺した医書を雲深不知処に保管してもらう算段をつけるためでもあった。遅れて医書を携えてきた鬼将軍から書物を受け取り蔵書閣へと納めた時、藍啓仁はかつての焼き討ちの際に失われた多くの書の事を嘆いた。その中には陣法に関する書も多く、特に陣法に優れている藍啓仁は残念でならなかったようだ。すると魏無羨が陣法の書なら蓮花塢に残っているはずと言い出し、今度はその書を蓮花塢から運び入れ、損傷したものは修復するようにと魏無羨に仕事が与えられた。蓮花塢の陣法の書は全て、かつて魏無羨が学んだものだったからだ。隠され、存在を忘れられていた書物の痛みは激しく、魏無羨は日がな一日蔵書閣に入り浸っては、書の修復に励んでいる。まだ当分のあいだ雲深不知処からは出られそうにない。
そんな折、藍啓仁から閉関中の藍曦臣が少し落ち着いたので、一度挨拶がてら蔵書閣の蔵書について話をしてやってくれと頼まれた。焼き討ちの際に多くの書を失った事を嘆いていたのは、全部は持ち出せなかった藍曦臣も同じであったのだ。
藍忘機と共に藍曦臣へと挨拶に行く日の朝、魏無羨は厨に無理を言って棗や蓮の実を入れた甘味を作らせてもらった。雲深不知処では特別な日にしか甘味を食べないが、麓の彩衣鎮には甘味が多い。そして水運の要である雲夢にはそれ以上の飴菓子や甘味がある。暑い雲夢では、夏は水菓子が、冬は飴菓子や干し棗を入れた甘い汁物を楽しむ。ことに棗や蓮の実を入れた甘い汁物は観音堂があった雲萍城ではよく食べられていた。魏無羨は藍曦臣にその味を教えてやりたかった。
色を廃した寒室は寂しげに見えたが、藍忘機に言わせれば、藍曦臣の顔色は以前より僅かに回復しているらしい。魏無羨と藍忘機に茶を出した藍曦臣は、渡された甘味の器の中の鮮やかな枸杞の赤を、少し悲しげに、そして愛しげに見つめた。
「――というわけで、雲夢から運び込んだ陣法の書と毎日顔を突き合わせている。その殆どが虞夫人が手ずから写本したものだから、懐かしいやら、叱られた事を思い出して肝が冷えるやらで、気持ちが忙しくて仕方がない」
魏無羨の口上は今日も滑らかで、ぎこちなかった寒室の空気もしだいに楽しげな和やかなものに変わってきている。
「虞夫人はそんなに多くの書を写本されていたのか。もしかして原本は蔵書閣に贈られていたのだろうか」
「蔵書閣から借り受けて写本させてもらったものも多かったはずだ。俺はそれで陣を学んだんだ。もちろん、雲夢で新たに買い求めた書もあったけど、写しを手元に残して原本の方を蔵書閣に送っていたみたいだな。雲夢は書の保管には向いていない気候だし、新たな書は藍先生に目を通してもらって、内容についての助言も頂いていた。だから座学にくる前から藍先生の字だけは見慣れたものだったんだ」
なるほど、と藍曦臣は頷いた。それでも、自らが苦心して手に入れた書を他家の蔵書に寄贈することはなかなかできることではない。
「虞夫人の噂は雲深不知処にも色々と届いていたけれど、一番知らされているべき善行が隠されていたなんて。一度祠堂でお礼を伝えねばならないね」
魏無羨はまるで自分が誉められでもしたかのように、僅かにはにかんで首を掻いた。
「蔵書閣は虞夫人の憧れの場所だったんだ。虞氏は元々陣法に明るく、虞夫人はその知識を見込まれて江氏に嫁いできたんだけど、座学の参加した時分、虞夫人だけ特別に蔵書閣で陣法を学ばせて貰ったことがすごく嬉しくて誇らしかったらしい。座学に行く前に、もう耳にタコができるくらい『大人しくしておけ、迷惑をかけるな、恥をかかすな』って言われてさ。結局、座学の喧嘩のことやらなにやらでしこたま怒られたし、祠堂で半日も跪かされたんだ。藍先生がもう仕置きは済んでるって言ってくれたのにさ」
なあ、酷いだろ? ――と大袈裟に両手を広げて同意を求める戯けた仕草を見て、藍曦臣は微笑む。
「お会いしたことは数回だけれど、美しく毅然とした方だった。噂から苛烈な方だろうと想像はしていたけれど、それは手厳しいな」
魏無羨は何かを思い出したようにクスリと笑った。
「きっと俺の悪戯を怒ってばかりいたのが噂になっちゃったんだろうなぁ。でも、虞夫人はそれだけじゃないんだぞ?」
聞きたいか? 聞きたいだろう? ――とでも言うかのように、魏無羨は大きな目をキラキラと面白そうに輝かせて藍曦臣と藍忘機の顔を見比べる。
「それは、是非とも聞かせてもらいたいな」
魏無羨の話術に乗せられるように、藍曦臣は話の先を促した。
それはまだ魏無羨が十になったばかりの頃だ。魏無羨はその日、師姉が贈ってくれた新しい絵筆で絵を何枚も描いていた。
魏無羨より遅れること小半年、江晩吟も無事に結丹を迎えて、数日後には二人揃って宗主から剣を戴くのだ。結丹してすぐ魏無羨は宗主に連れられて剣を選びに行ったのだが、なかなか手に馴染むものが見つからず、探しているうちに江晩吟の結丹を迎えた。そうするとまるで待っていたかのように手に馴染む剣が見つかったのだ。師姉の筆はその前祝いである。
魏無羨はもちろん最初に大好きな師姉の絵姿を描いた。師弟である江晩吟も描いたし、蓮の花も、美しい蓮花塢の蓮池も描いた。そして次は何を描こうかと思案していたところ、虞夫人がやってきたのだ。
「絵を描いているの?」
虞夫人の声は、大体いつも怒っている。――否、本当は怒っているわけではないのだろうが、滑舌の良い早口の口調は、なんとなく怒っているように思えてしまう。
「師姉に絵筆を貰ったんです」
「そう。よく似ている」
虞夫人は愛娘が優しく微笑む絵を見て、僅かに目尻を緩めた。
「虞夫人も描きましょうか?」
「馬鹿な事を」
短く応えて、虞夫人は蓮池に張り出した四阿に向かった。そして江厭離に茶を持って来させて二人で何かを語らい始めた。
魏無羨は目をパチクリと見開いて、その様子を眺める。いつもなら虞夫人はそんな事はしない。魏無羨が絵を描いているのが分かっているのに、目の前の四阿でわざとらしく長々と座っているなんて、そんなの描いてくれと言っているようなものではないか。
魏無羨は新しい紙を取り出すと、大きな目を楽しげに輝かせて、四阿で蓮池を眺めている虞夫人の横顔を描いた。
「それで、虞夫人はどうされたのだ?」
問いかけたのは藍忘機だった。
「結局、江おじさんが帰ってきて、描いている絵を褒めてくれたんだ。そしたら虞夫人がプリプリ怒っちゃってさ。虞夫人の絵はそのまま江おじさんにあげたんだけど、上手く描けてるからって、なんと表装して部屋に飾るって言い出したんだ。もう、虞夫人はますます怒ってさ」
魏無羨はしょんぼりとしてみせる。
「それでさ、そのせいでその日の晩のおかずがさーー」
まさか罰で減らされたのかと、藍曦臣と藍忘機の顔が曇る。
「その晩のおかず、なんと肉料理が三品も増えたんだ!」
どうだ、虞夫人は可愛いだろう――と魏無羨が笑う。
呆気に取られた藍忘機の向かいで、藍曦臣は思わず口元を押さえて吹き出した。なんと分かりにくく可愛らしい乙女心である事か――
久しぶりの兄の笑い声に藍忘機の瞳が潤む。だが、それも束の間、自らの笑い声に気付くと藍曦臣の顔が途端に強張った。目は甘味の器の中の赤い枸杞に落ちている。
「藍宗主――いや、今は藍大哥と呼ばせてくれ。ずっと貴方に伝えなくちゃと思っていたことがあるんだ。伝えたら、藍大哥だけじゃなく藍湛も悲しませるし傷つけるかもしれない。でも、いい機会だから貴方に伝えたい。俺しか伝えられない事だと思うから」
魏無羨は崩していた足を戻し、綺麗に正座する。
「観音堂で、金光瑶が最後の最後で貴方を突き飛ばし、たった一人で崩れる堂の下敷きになった時、俺にはあいつの声が聞こえた気がした。あの時のあいつは、不夜天で藍湛の腕を振り払った昔の俺と同じだ。もちろん、俺はあいつのやったことを認めることはできないし、許すこともないだろう。同情もしない。でも、あいつが声にできなかった事を、伝えてやることくらいはしてやってもいいかなと思って」
魏無羨は藍忘機を目で促して藍曦臣の隣に並ばせた。真っ直ぐに二人を見て、静かに口を開く。
「不夜天で落ちながら俺が願っていたことは、自分で突き飛ばした藍大哥を一心に見つめてあいつが願っていたことと同じだと、俺は思う」
生きてほしい。
笑っていてほしい。
幸せであって欲しい。
全ての人から見捨てられたような暗闇の中で、変わらず光っていた、たった一つの星が貴方だから。
暗闇の中でも絶望しなかったのは、貴方の光があったからだから。
正しくあり続けて欲しい。
美しく穢れのないままであって欲しい。
そのために自分は貴方を手放すのだから。
藍忘機が思わず魏無羨へと震える手を伸ばしかけたその時、隣から壊れた吹子のようなため息が聞こえた。ため息はすぐに嗚咽となり、藍忘機は生まれて初めて、声を上げて慟哭する兄を見た。
魏無羨はしょんぼりと静室の床に脚を伸ばしていた。
魏無羨へと伸ばした手を引っ込め、慟哭する藍曦臣の背を藍忘機が必死で摩っているのを見て、魏無羨は先に寒室を辞し、藍啓仁に事の次第を報告した。藍啓仁は頭を抱え、静室に帰っておれと魏無羨を追い出してしまった。
正直なところ、魏無羨は自分のやった事を後悔はしていない。むしろ、藍曦臣は恵まれていると思っている。同じ宗主の立場でも江澄は嘆き立ち止まることなどできなかった。たった一人で雲夢江氏を再興した師弟を誇りに思っているからこそ、藍家の宗主たるものが何を腑抜けている――と思ったりもする。
だが、同時に哀れでもある。最後の最後で、江澄の剣先は魏無羨を傷つけることすら出来なかった。自ら義弟と慈しんだ者の胸に突き立てた藍曦臣の剣の重さは、きっと誰にも想像できないだろう。
でも、だからこそ伝えてやりたかったのだ。金光瑶は最後の最後まで一心に藍曦臣を見つめていた。まるで祈るように、藍忘機に抱えられて外へと連れ出される姿を瞬きもせずに見つめていた。そして自ら荒れ狂う怨霊の渦の中に身を投じたのだ。
あの気持ちはきっと自分にしか分からない。尊卑の辛酸を舐め、人の心の闇を知り、恨みの声を間近に聞き、それでも正しく美しいものに憧れ続けた、そんな自分にしか聞き取ることができない声にならない声だった。
魏無羨はため息を吐く。結局、あの甘味が雲萍城でよく食べられていることも伝えられていない。
コトリと小さな音を立てて静室の扉が開く。
「ああ、もう夕餉の時間か。藍先生はまだ怒っていたか?」
藍忘機は手提げの喰籠を持って首を振る。
「叔父上は元々怒ってはいらっしゃらない」
「そうか、なら良かった」
卓の上に喰籠から皿が一つ一つ丁寧に並べられる。いつもと同じ、雲深不知処らしい淡い色の皿ばかりだ。
「藍大哥は――」
「兄上は落ち着かれた。そして、甘味も味わっておられた」
魏無羨はほっとため息を吐く。
「あれは雲夢の甘味で、雲萍城でもよく食べられるんだ」
「知っておられた。だが食べたのは初めてだそうだ」
「そうか」
あれは洒落た店で出るような甘味じゃなく、屋台や民草の厨で作られるような菓子だもんな――干した棗と蓮の実、ちょっと贅沢をしたいなら銀耳や果物も入れて、蜜と水とでゆっくりと煮た甘い汁物。
「叔父上が、作り方を厨の者に教えておくようにと。幼い内弟子は雲深不知処の寒さで病を得ることが多い。その時に出してやればきっと幼い内弟子も喜んで食べ、苦い薬も我慢できるだろうと」
うん――と魏無羨は笑って頷く。そして並べられた皿を見て首を傾げた。
「あ、れ? これ、間違ってないか?」
二人分、それぞれ二つずつのはずの皿の中に、一つだけ異なる蓋付きの皿が紛れている。
「これは、貴方に。叔父上から」
「藍先生から?」
怪訝な顔をしながら恐る恐る蓋を取る。優しげな黄金色の餡がかかったそれは、精進料理が常の雲深不知処では滅多に出て来ないはずの、白身の魚の蒸し物だった。
「藍先生も分かりにくく可愛いなぁ」
へにゃりと笑った魏無羨を藍忘機は抱き締める。背を掻き抱く手が震えているのを感じて、魏無羨はそっと白い背中を抱き返した。
「泣くなよ、藍湛。俺はちゃんとここに居るから」