忘羨ワンドロワンライ【霜降】 藍忘機は、隣で眠っていた魏無羨が突然布団を剥いで起き上がる気配を感じて目を開けた。宵っ張りで朝が弱い道侶の常と違う行動に、僅かに胸騒ぎがする。
「魏嬰、どうした?」
呆然と牀の上で座り込んでいる魏無羨の頬に涙が落ちたのを見て、藍忘機は慌ててその肩を抱く。
「魏嬰?」
「思い出した。――何で忘れてたんだ? いや、そもそも蘇る前の、しかも童の頃のことなんて、何で今頃になって思い出したんだ?」
どうやら忘れていた記憶を取り戻したようだと魏無羨は言う。
「俺の五歳の冬だ。帰って来ない両親を待つのをやめて、蓮の花が咲き乱れる場所に父親の家があるという言葉を頼りに彷徨い歩いた最初の冬だ。――何で今頃」
藍忘機は朝の冷気に冷え始めた道侶の薄い肩に、そっと傍の掛布をかけてやる。
「君がまだ幼い頃、虞夫人が君の記憶を封じたと聞いた。それが解けたのだろう」
「封じた? 虞夫人が? 誰から聞いたんだ?」
「江殿から。昔、射日の征戦の後、君がなかなか目覚めず、毎日琴を弾きに行っていた時に」
ポカンと魏無羨は口を開けて、恥じるように僅かに目を伏せた藍忘機を眺めた。
「藍湛、お前、俺が寝ている横で、師姉から俺の話を聞いてたのか?」
コクンと小さく藍忘機は頷いた。
射日の征戦で陰虎符を使い酷く消耗した魏無羨は、藍忘機に抱き抱えられて江厭離の元へと戻ってきた。強い陰気に晒されたためか霊力の回復が遅く、一向に目覚める気配がない。心配で気が気でない様子の江厭離に、藍忘機は自ら琴を弾くことを申し出た。魏無羨の乱れた気を鎮めるための琴の音は、傍でその様子見守っていた江厭離の心も優しく慰撫した。
江厭離が、琴の音の終わりを見計らって煎れた茶を差し出すと、藍忘機は深く頭を下げ、そっと茶に口をつける。
「藍二公子、ありがとうございます。本当にこの子はいつも心配ばかりかけて」
藍忘機は、魏無羨の行方が分からなかった頃の憔悴しきった江厭離の姿を覚えている。今にも倒れそうな顔色のまま、彼女は必死に負傷者の世話をし、仙師たちのために家人に混って厨に立っていた。今回も抱き抱えられて戻った魏無羨を見た時には顔を強張らせたが、倒れたのは強い陰気に当たったためで、目立った大きな傷はないと伝えられ、なにより藍忘機が傍についていることで、少し安心したようだ。
「目覚めるまで何度でも琴を弾きに来ます。そうすれば回復も早いでしょう」
藍忘機の申し出に江厭離の顔が明るくなる。
「藍二公子、なんとお礼を申し上げたら良いか」
深く頭を下げる江厭離に、藍忘機は小さく会釈を返す。
「そういえば――」
藍忘機は気になっていた事を問いかけた。
「魏嬰は、どうして幼い頃のことを覚えていないのでしょう? もちろん幼い頃の記憶は薄れるものですが、少し度が過ぎているような気がするのですが」
記憶の欠落は大きな病を得た時や大きな心の傷を負った時だけでなく、邪祟に相対した時にも起きる。原因が邪祟のせいであれば、陰気からの回復のための対応が少し変わるのだ。
「阿羨の記憶は母が封じました。その方がこの子のためになるだろうと言って」
聞いていただけますか――と江厭離は藍忘機を仰ぎ見た。
魏無羨が蓮花塢に引き取られたのは、九つになってすぐだ。年のわりに体が小さく、目ばかりキョロリと大きな可愛らしい子だった。
いつもはにかんだように少し笑っていて、何を言われても何をされても逆らうことがなかった。その子供らしくない様子に、魏無羨はまだ心を開くことが出来ないのだと、世話を任された江厭離は心を痛めた。
魏無羨はいつもニコニコと可愛らしく笑って、不平も不満も苦しみも寂しさも口にしない。時々大きな目が、何かを探すように空を見上げた。季節はちょうど霜降、豺乃祭獣の頃で、ヒヤリとするような冷たい風が頭上高く飛ぶ渡鳥の鳴き声を微かに運んで来ていた。
江厭離はとにかく必死になって魏無羨に食事をさせた。痩せ細った体が痛々しく哀れで、枯れ木のような指をふくよかな子供らしい指にするのだと、ちょうど甘味が乗ってきた蓮根と肉を煮て、その口元にせっせと運んでやった。
そんな時だ、魏無羨は高熱を出した。いつもは娘に世話を任せていた虞紫鳶も、流石に心配して魏無羨の傍についた。そして知ったのだ。
魏無羨は、あてがわれた牀の片隅に睦まじく寄り添う男女の姿を落書きし、そこに頬を寄せて泣き腫らした顔で眠っていた。体を小さく獣のように丸めて、熱に魘されながら延々と泣き続けたのか、既に瞼は目を開けられないくらいに真っ赤に腫れ上がっている。おそらく今までも、誰にも知られないように夜中に一人で泣いていたのだろう。
虞紫鳶は熱で火のように熱くなった額に指を当て、真っ赤に腫れあがった瞼をそっと撫でてやる。小さな口から漏れる譫言の中に何度も母を呼ぶ言葉を聞いて、虞紫鳶は魏無羨の記憶を封じた。
まずこの子はゆっくりと休まなくてはいけない。身体も心もしっかりと休んで、本人が望んだ時に記憶を戻してやればいい。
「阿羨は結局、昔の話を聞きたいと言い出しませんでした。座学の折、藍先生に『母を知っているのか』と訊ねたと聞いて、私はようやく阿羨の本当の気持ちを知ったのです。ですが、その頃の両親はあまりうまくいっていなくて、私は記憶を戻すことを母に言い出せませんでした。そして――」
言い淀んだ江厭離に向かって小さく頷くと、藍忘機は目を伏せた。それ以降の話は聞かなくても分かる。虞夫人は魏無羨が過去を知りたがっているということを知らぬまま、温氏の凶行から子供たちを守る盾となったのだ。
「封じられた記憶は戻るでしょうか」
「記憶の封印は、強固に行うことができません。どんなに巧みに封印してもいつかは解けるものです」
江厭離はほっとしたように笑った。
「では、阿羨は思い出すことができるかもしれないのですね」
魏無羨は語り終えた藍忘機の顔を穴が開くほど見つめた。眠っている間にこっそりと話を聞いてしまっていたことを――そして、それをずっと隠すように黙っていたことを恥じたのか、目を伏せた藍忘機の耳の先がほんのりと赤く染まっている。昨日生けた山茶花のようだ。蕾の時は白に近かった花は、開き始めると花弁の縁が微かに淡い紅に染まった。
「ああ!」
魏無羨はバタバタと牀から降りると、着崩した夜着のまま卓の上の花瓶に手を伸ばした。二日前に裏山で見つけた山茶花の蕾からは甘い香りが漂い始めている。
「これかもしれない」
「これ、とは?」
「記憶が蘇った理由だよ。夢の中でも咲いてたんだ」
五歳の冬、朝晩の冷えで野宿は難しくなり、周囲に霜が降りた木の根元で、魏無羨はひもじさと寒さで小さく体を丸めて震えていた。そんな魏無羨を拾ったのは、若い家人を連れた初老の女性だった。その夫人は、冬の間だけ火鉢の火おこしや風呂の手伝いをする子供を探しているところで、ちょうどいいと言って魏無羨を屋敷に置き、下働きをする代わりに部屋に住まわせてくれた。
魏無羨は冬の間、家人に倣って庭の掃除をし、池の鯉に餌をやり、風呂の火の番をした。春になって魏無羨が別れを告げると、女主人は魏無羨に新しい衣と新しい靴をくれ、『蓮の花が咲き乱れるところに父の家がある』という魏無羨の言葉を聞いて雲夢への道を書いて持たせ、その上、冬の間よく働いた駄賃だと言って銀子まで用意してくれた。その屋敷の庭には多くの花樹があり、冬の間は山茶花が花盛りだったのだ。
幼かった当時は全く気付いていなかったが、今なら『冬の間だけ手伝いを探していた』という言葉が女主人の優しい嘘であることが分かる。魏無羨が屋敷に居やすいように嘘をついてくれたのだ。
生けた咲き初めの山茶花をじっと見つめて、魏無羨は何度か口を開きかけ、結局口を閉じて困ったように藍忘機の顔を見つめた。
「魏嬰、一緒に行こう」
その屋敷に行きたいのだろう? ――と微かに笑った藍忘機に、魏無羨は嬉しそうに笑顔を返した。
記憶を頼りに行き着いたその町は、御剣すればさほど遠くはなかった。だが、そこから童が三年歩いて雲夢へ辿り着いたと考えると、よくぞ歩いたなと思わせる場所にあった。魏無羨が雲夢に居た時分には、何度か夜狩で通り抜けたことがある町だ。大きな街道から枝分かれした細い街道に沿っており、片側に田園地帯が広がっている。
その町の山際にある少し大きめの屋敷が、魏無羨の夢の中に出てきた屋敷だった。門は開け放されており、中から元気の良い子供の声が聞こえる。
魏無羨がそっと門の中を覗うと、何人かの子供が手に箒を持ち、庭に落ちた葉を掃き集めながら『今日は芋を焼くのだ』『いいや今日も栗がいい』『銀杏も焼けるよ』と騒いでいる。家の造りも庭の様子も夢のままで、山茶花はまだ蕾のままだ。
「何かご用事ですか?」
覗き込んでいた魏無羨に気付いた一番年長らしい少年が声をかけてきた。その身なりから魏無羨と藍忘機が仙師らしいと分かるや、少年は飛び上がって屋敷の方に駆け出した。
「旦那さま、旦那さま。お客さまです。仙師さまです」
他の子たちはというと、口々に、仙師さまなの? 仙師さまってああいう風なの? ――と囁き合って門前に現れた二人を眺めている。
「旦那さま、早く早く」
「仙師さまって、うちに仙師さまがご用事なわけがないだろう?」
「でも、間違いなく仙師さまですよ。剣も持ってるし、服もヒラヒラだし。何か調べておいでなのかもしれないじゃないですか」
仙師さまって、色々悪いことや恐ろしいことを解決してくださるんでしょう? ――と続く言葉に、そんなつもりではない魏無羨は思わず頭を掻く。
少年に手を引かれて家から出てきたのは、初老に近いだろうか、優しげな顔をした男性だった。旦那さまという呼ばれ方に少し違和感を覚えるくらい、その身なりは質素だ。
「すまない、何か調べているわけではないんだ。このお屋敷には、三〇年程前に女性が若い家人とお住まいだったと思うんだが」
「ええ、三〇年ほど前は奥さまがお住まいでした。仙師さまは奥さまのお知り合いですか?」
男はそう答え、マジマジと魏無羨の顔を見た。そして何かに気付くと大きく目を見開いた。
「お前、小哥じゃないか? 蓮の花の家を探していた小哥だろう?」
親に呼ばれていた嬰という名を女主人に告げた魏無羨のことを、家人は名ではなく『小哥』と呼び、魏無羨に自分のことは『大哥』と呼ばせていた。
「小哥、仙師さまになったのか。小さいのに賢かったからなぁ。奥さまはずっとずっと、亡くなるまでずっとお前のことを心配してたんだぞ」
ではやはり、この男性は大哥なのだ。
「奥さまに挨拶してくれるか。きっと喜ぶ」
男は魏無羨と藍忘機を手招く。子供たちに掃き清められた庭は昔のままで、魏無羨が毎朝張った氷を割って鯉に餌をあげていた池もそのままだ。そのほとりに掘り出した蓮根が数個積んであるのを見て、魏無羨は思わず首を傾げる。昔は普通に鯉が泳ぐ池だったからだ。
その池に面した広々とした部屋に、まるで池を眺めているかのように、女主人の位牌は置いてあった。
「小哥が出て行って五年ほどして、奥さまは病で寝たきりになられた。この部屋でずっと養生されていたんだ。そのまま、六年ほどはお元気だったかな。奥さまは子供を亡くされてて身寄りが居なかった。だからか最期にこの屋敷も財産も全部を俺に譲ると仰ったんだ。俺は浮浪児だったのを奥さまに拾っていただいて、読み書きも算術も全部を奥さまに教えていただいたから、今度はそのご恩返しをしようと思って、子供たちに同じようにしてやっているんだ。見込まれて良いところのお屋敷で家人として働くようになった子も居るんだよ」
『大哥』は魏無羨に家の仕事を教えていたあの頃と変わらない優しい笑みを浮かべる。
「奥さまは、この池に蓮の花を植えたんだ。『蓮の花が咲く家に帰る』と言っていた子供が、もしも家を見つけられなかったら、ここが代わりの家になればいいと仰って」
箸の持ち方も筆の持ち方もお辞儀の仕方も、躾や立ち居振る舞いには厳しい女主人だった。反面、掃き掃除や厨の仕事などをやり遂げると、褒めて上手に出来た褒美だと菓子をくれる、優しい女主人だった。今朝甦ったばかりの記憶の中でも、女主人は生き生きと笑い、叱り、新しい服を着た魏無羨を優しく見つめていた。
「小哥。奥さまは口癖のように、あの子はちゃんと家に着いたのかねぇ――って仰ってたんだ。小哥、ちゃんと家に辿り着いたかい?」
優しく問いかけられ、位牌に向かって魏無羨は答える。
「うん。あれから三年かけて蓮の花の家に辿り着いたよ」
魏無羨は隣に座って生真面目に位牌を眺めている藍忘機の手を探し、そっと手を繋ぐ。
「そして今は、ここと同じ、山茶花の咲く家に居るんだ」
ちゃんと、家に着いたよ。