忘羨ワンドロワンライ【紅葉】 雲深不知処の秋の深まりは早い。麓に近い山門近くは木々が青々としているが、山の奥まった所にある修行のための岩肌や、穀断ちして修練を行うための裏山の東屋辺りには少しずつ秋の気配が漂い始めている。この山奥に散在する東屋を定期的に手入れするのは比較的年長の内弟子の勤めの一つで、それ自体が修練の一つとして数えられている。周囲の草むしりから屋根や柱の手入れ、井戸の掃除までを二人でこなすのは、なかなか骨が折れる。特に秋の手入れは念入りに行わなくてはならない、そうしないと冬の間に雪で東屋が傷んでしまうのだ。
藍思追は裏山への道を歩きながら、帳面を片手に思案していた。この秋のその勤めを誰に割り振るか――というのが問題だ。今までは藍景儀と二人で修行がてらよく手入れに行っていたのだが、藍忘機が仙督になって以降、藍思追と藍景儀が供につくことが多くなり、なかなかそこまでは手が回らない。
「思追、何を唸ってるんだ?」
突然上から降ってきた明るい声に思わずびくりと体を揺らすと、いつの間に居たのか、数歩先にある大きな木の枝に魏無羨がちょこんと座ってこちらを眺めていた。
「魏先輩!」
かつて藍忘機が着けていた白銀の髪冠を戴いてからというもの、魏無羨は夜狩の際には以前からの黒衣を、日頃は藍忘機が仕立てたさせた深縹や二藍も纏うようになった。そのうちの何枚かは藍忘機が昔着ていた束袖のものを染め直したものである。染め直したものにはそれとわかるように、藍忘機が紅で一筋刺繍を入れさせた。襟を縁取るように一筋の紅が見えるということは、今日着ているものは染め直した一枚だろう。甥の衣装を纏っていると分かると不思議と藍啓仁の機嫌が良いので、纏う頻度も高いのだ。
その木の影からゆったりと白い人影が現れたのを見て、藍思追は顔を綻ばせ、礼の形を取る。
「含光君、魏先輩、お邪魔をしてしまいましたか」
「いや、裏山を眺めながら結界陣の配置を確認していただけだ、よっと」
言いながらポンと魏無羨が飛び降りるのに、すっと藍忘機の手が差し出される。大人しく飛び降りながらその手に掴まり着地すると、魏無羨は藍思追に笑いかけた。
「思追は何を悩んでるんだ?」
「割り振りです」
藍思追は応え、ざっと説明する。すると魏無羨は事もなげに『何組かに担当させて競わせれば良い』と笑った。
「競うのは悪い事じゃない、大事なのは評価の仕方だ。競うとなれば自然と『どうすればより良く整備できるか』を考えることになる。その考える姿勢を評価してやれば良い。優劣を競うのではなく、試行錯誤を怠らなかったその姿勢を褒めるんだ。結果的に皆の試行錯誤が共有できるし、一石二鳥だろう? それに皆がよく考えたのだったら、別に全員を褒めてやっても罰は当たらないだろう?」
もちろん褒めてやるよな? ――と魏無羨が藍忘機に顔を向けると、藍忘機は道侶の無邪気な笑顔を受けて『うん』と小さく頷く。
「競うあまり誰かを蹴落とすようになったらダメだけど、その東屋の整備は、剣や術が苦手だったり、入門が遅くて周囲より修練の進みが遅い者でも、己の心持ち一つで良い成果が出せるものだろう? だったらそういった者にも一部を割り振って、その成果を褒めてやりたいじゃないか」
――ああ、こんな風だからこの人は慕われるのだ。
藍思追は思わず笑顔になり、大きく頷く。
「はい。ではそういう風に考えて割り振ってみます」
うんうん、そうしろ――と魏無羨は嬉しそうに頷く。
「そうか、もう冬の準備に入るんだなぁ、姑蘇は」
見上げる山の肌は繁った木々の葉で青々としているが、上に行くにつれその色は曖昧になりはじめている。雲の陰になった辺りは既に紅葉を始めているのかもしれない。
「――追。思追」
その山の小道から白い衣が駆け降りて来て、木の影になっていた深縹と白の一対を認めると、慌てて足を止めて土埃をたてたまま礼をする。
「含光君、魏先輩、失礼しました」
その姑蘇藍氏らしからぬ動作に魏無羨は声をたてて笑い、髭を撫でつける動作をして見せながら『走るな馬鹿者』と芝居がかった言葉をかけた。
「やめてくださいよ、魏先輩」
駆け降りて来た藍景儀は首をすくめて偽藍啓仁になった魏無羨に文句を言うと、袂から一枚の紅葉を差し出した。
「思追、今年初めての紅葉だ」
軸の近くはまだらに黄色いまま先端が燃えるように赤く色付いた紅葉は、未だ朝露が乾かずしっとりとしている。藍思追は嬉しそうにそれを受け取ると、陽の光に翳した。
「ありがとう、景儀」
その年最初の紅葉を見つけたら藍思追に贈ると、藍景儀は六歳の秋からそう決めている。大人しく几帳面で我慢強い友人が、泣きじゃくった顔と心からの笑顔を初めて見せたのが、この紅葉を贈った時だったからだ。
満六歳の誕生日を迎え、藍景儀は内弟子として雲深不知処の童の宿舎に入った。景儀は藍氏の古い傍流に当たるため元々雲深不知処に家があるのだが、内弟子は一律寄宿生活を送るのが藍氏の決まりである。ただし家柄の差があるため、景儀の部屋は二人部屋となった。本来は童は六人部屋で、二人ほど世話役の年上が配置されるのが決まりである。
初めて通された寄宿棟の部屋で景儀を迎えたのが藍思追だった。思追は景儀より少し体が小さく、見るからに大人しそうだった。身体が少し弱いために夜半に熱を出すことがあり、その際は部屋に一人になってしまうが大丈夫かと世話をする年長の師兄に尋ねられ、景儀は胸を張って『大丈夫』と応えた。
思追は無口だったが優しかった。身の回りの全てのことを自分でやることが寄宿始めの内弟子の勤めだが、衣装を畳むのに四苦八苦しているとすぐに端を持って手伝ってくれ、布団の上げ下げや部屋の整頓なども、さりげなく助けてくれた。手習や行儀作法などの初年に履修するものは既に身につけているようで、手習の手本が別のものであったり、行儀作法では習う方ではなく前に出されて手本を示したりしていたが、景儀は概ね一日中、思追について回っていた。
確かに思追は身体が弱かった。夜半に譫言を言って熱を出しているのに気付いて、大部屋の師兄の元に景儀が知らせに行く事もあった。そういった時、師兄は自分の寝床に景儀を寝かせ、上のものを呼びに行った。
ある夜、譫言に気付いて景儀が目を開けると、ちょうど思追が抱き上げられるところだった。真っ赤に熱を持った顔が痛々しく、小さく譫言をいいながら真っ赤になった手でひしと白い衣を掴んでいた。
ああ、誰かがちゃんと思追を迎えに来てくれたのだと、景儀は安心した。
その大きな影は思追を抱き上げて振り返り、景儀がパチリと目を開けていることに気付くと、そっと枕元に寄り、景儀に一人で大丈夫かと問いかけた。
「大部屋に行くか?」
景儀は首を振った。
「そうか、ではまだ夜明けは遠い、休みなさい。思追は私が薬処に連れて行く」
熱を出すと大抵の童は医務所ではなく薬処に連れていかれる。怪我をした仙師が運び込まれる医務所と違って、薬処は厨にも近く、厨の家人や婆婆たちが童を甘やかしてくれるからだ。
景儀はコクリと頷くと、布団の中で抱かれて去って行く思追を見送った。泣き腫らした目元が赤く哀れで、景儀は起きたら薬処に見舞いに行ってやろうと心に決めた。
朝一番に起きて身の回りを整えて部屋を出たものの、景儀は困っていた。見舞いに行こうと思ったのだが、見舞いのために必要な菓子もなければ花もない。野草をむやみに摘むことは禁じられているし、生けるために育てられている花は未だ幼い景儀の好きにはできない。困っていると、横を流れる小川に真っ赤な紅葉が流れてきた。今年初めて見る紅葉だ。まだ周囲の木々は紅葉にはほど遠いが、山頂では紅葉が進んでいるのだろう。景儀は流れのままに岸辺に一瞬寄ってきた紅葉をさっと掬い取ると水を払う。燃えるように綺麗な赤だ。
「うん、これにしよう。綺麗だ」
景儀は紅葉を太陽に翳して、くるりとその場で回り、そのまま薬処に向かって駆け出した。
――綺麗だ。きっと思追も喜ぶ。
藍景儀は一人しょんぼりと部屋の片隅に座っていた。
薬処で思追はまだ床についていた。もう熱は下がったようだが、一応医務所で診てもらってから部屋に帰るらしい。やって来た景儀を見つけて、思追は嬉しそうに笑った。景儀は見舞いの言葉をかけて、そっと紅葉を差し出した。
きっと喜ぶ――そう景儀は思っていた。
だが、思追は手渡された紅葉を見つめ、それを胸にひしと抱きしめて声を上げて泣き始めた。『哥哥、哥哥』と合間に呟きながらの悲壮な泣き声に、景儀は思わず泣いている思追に手を伸ばしその肩を摩った。
「ごめん、思追。ごめん、紅葉嫌いだった? ごめんね、お花もお菓子もなかったから。綺麗だと思ったんだけど、ごめんね」
泣き出しそうになった景儀の頭に温かな掌が置かれたのはその時だ。その手は景儀の頭を優しく撫でると、泣きじゃくる思追を抱きしめた。
「見つけて――。哥哥」
ヒクヒクと肩を震わせながら泣く思追を抱きしめて、その大きな人影は優しく語りかける。
「必ず見つける。泣くな」
悲しげなその声に、景儀は思追よりよっぽどその大人の方が泣きそうじゃないかと、そう思った。
思追を抱きしめたままその大人は景儀を振り返り、今にも泣き出しそうな景儀に微かに笑いかけた。
「大丈夫だ。紅葉が嫌いなわけではない」
優しく諭され、景儀は部屋に帰された。
景儀は後悔していた。思追がこの部屋に帰ってこなかったらどうしよう、悲しそうに泣いて、息もできないほどしゃくり上げていた。
ポロリと出てきた涙を景儀は慌てて拭った。自分が泣いてどうするのだ。失敗したらやり直せば良いし、繰り返さなければ良いのだ。しっかり謝って許してもらって、昨日までよりずっと思追を大事にするのだ。景儀はぎゅっと膝を抱えていた腕に力を込める。思追が泣かないように、自分が頑張れば良いのだ。
しばらくして、景儀を慰めてくれた大人に手を引かれて思追は帰ってきた。
「景儀」
まだ目元は腫れていたが、思追は笑っていた。その手には紅葉が握られている。
「紅葉をありがとう、景儀」
すごく、すごく懐かしいような気持ちがして泣いちゃったんだ。でも、とても嬉しかったんだよ――
あの日以来、景儀は紅葉が染まる時期になると頻繁に山に入ってその年最初の紅葉を探す。そしてそれを思追に渡し、思追はそれを栞にする。
「紅葉か。やっぱりもう紅葉してるんだな」
「景儀は毎年、一番最初の紅葉を見つけてくるんですよ」
魏無羨は感心したように藍景儀を見ると、どうやって気付くのかと問いかけた。
「夏の暑さや朝晩の冷え具合で紅葉の時期は分かりますし、その年の風向きや雲の流れでも紅葉が早い場所の見当はつきます。姑蘇の山に限らず、山の形からどの辺が紅葉しやすいかも分かりますし」
うん――と魏無羨は頷く。
「景儀、それは大事な目だ。万事においてそうでなくてはいけない。昔、屠戮玄武を藍湛と倒した時、その場に居た全員が助かったのは紅葉に気が付いたからだった。その時の山の状態、形状から水脈を予想し、水の中の紅葉の状態から脱出口の可能性に気付いた。皆を脱出させ、二人だけだったから倒せた。後ろに守るべき仲間を背負っていたら、そちらに気を取られて倒せなかったかも知れない。残っていたのが藍湛一人だったから、俺は何の心配もせずに無茶をやれたし、俺だったから藍湛は突入の役を任せてくれたんだ」
良い目を養ったな、励め――そう言うと魏無羨は踊るような足取りで道侶の隣に足を進め『なあ、そう思うだろう?』と同意を求める。
藍忘機は嬉しそうに笑いかけてくる魏無羨に柔らかい笑顔を向けると、藍思追の手に握られている紅葉と、思ってもいなかった言葉をかけられポカリと口を開いたままの藍景儀を眺めた。
魏無羨は、紅葉が藍思追に何を思い出させていたかを知らず、藍景儀がどうして紅葉にこだわったのかを知らない。魏無羨と交わるようになってから、藍景儀は紅葉が藍思追にとってどんな意味を持つもので、どんな思いを抱かせていたのか、次第に気付いてきたのだろう。紅葉と魏無羨とを見比べながらゆっくりと口元に浮かんできた笑みは、少し大人びてきた。
「大切にしなさい」
「はい」
姑蘇の次期双璧は図ったように同時に綺麗な礼をする。
袂を揺らす風は秋の気配を孕んで、背筋が伸びるほどに爽やかだった。