最後のピースがぱちりとはまり ボードが止まると一斉に人が近づいてきた。さりげなく肩を叩かれたり「やったな」「おめでとう」と次々明るい言葉が贈られる。
そっか。俺が勝ったのか。
隣で肩を上下させる対戦相手に手を差し出した。彼とは今日初めて会った、でもきっとこれから仲間になれる。
「楽しかった。また滑ってくれる?」
無言だったが頷いてくれた、握手も。嬉しい。
「ランガ!」
あ、暦だ。後ろのほうに居る。
モニターで見るって言ってたのに。きっと我慢できなくて駆けつけてくれたんだ、これも嬉しい。
早速相棒の元に走ろうとして――踏み出した一歩目が着地した瞬間世界がねじ曲がる。
「――わ、」
くらりと後ろへ倒れる身体。けれどいつまでたっても冷たい床にはあたらない、どこからか出てきた二本の腕が背中を支えてくれている。
「……駄目だよ、もう」
「……あ」
結果として見上げることになった視界いっぱいに白熱灯に照らされた青い髪がうつる。主張するそれを持つ人の名前を俺は知っている。
「愛抱夢」
「やあランガくん」
雲にでもぶつかったように、ふわりと両足が地面に戻された。
「あちらに行こうか。あまり人の来ない落ち着けるところがある」
心配そうな暦に大丈夫だよと軽く手を振って歩き出す。
背中の手に誘導されるまま進むうちにだんだんと冷静になってきた。テンションが上がりすぎて軽く混乱していたらしい。人もなんか今日は多かったもんな。でも愛抱夢の言う通りこっちは大分空いてるしこのままぼんやりしてれば平気だと思う。
「見ていたよ、さっきのビーフ……素晴らしかった」
「ありがとう」
「楽しかったろう? わかるよ。君の興奮が映像越しでもよく伝わってきた。それはもう僕の身体があてられてしまう程の強さで、激しく……!」
「うん。楽しかった」
出た。この話の回転の早さ、何度されても追い付ける気がしない。ただこれ全部無理に受け答えする必要も無いらしいので、初めの質問っぽいのだけ答えておく。
「彼は新顔かな、なかなか良い走りをする」
「すごいプレーヤーだった。また滑ってくれるって」
「ふーん……」
ところで彼の手はいつまで俺の背中を支えたままなんだろう。もう治まったのに、何だか悪い。
「手、ありがとう。もういいよ」
「……」
背中から離れた手が脇を回り前へ。そして俺の身体をぎゅっと抱きしめる。
「……愛抱夢?」
「少し情熱的すぎたね」
ぽふりと頭に乗った重みから、いつもよりほんの少し落ち着いた声が響いた。
「君はトーナメント優勝者として、これからもSトップの名を背負って戦わなくてはいけない。まさか強敵と滑るたびそんな状態になるつもり?」
「……」
愛抱夢の言葉は正しいかもしれないけど、俺は自分がSを背負ってるなんてふうには思えない。ただ誰かと楽しく滑りたくてここに居る。熱いスケートのせいで今みたいになるなら後悔もない。
「……ごめん。でも――」
そう言おうと振り返って、でも愛抱夢の顔を見たら言えなくなってしまった。
不思議な顔だ。怒ってるような、悲しんでるような。俺の脳内にある言葉では表せそうにない。近そうなのは――心配とか。どうだろう。させてしまったのだろうか、心配。
「……俺は背負うとかはわからないし、こうなったとしても滑りたい。……でも大丈夫じゃないかな」
上半身に回る腕の力強さ。遠くから人を掻き分け近づいてくる焦り声。駄目だと思うけど、どちらもすごく嬉しい。
「あなたがいる。暦も、皆も」
俺のこと見ててくれて無茶するなって言ってくれる人がいるなら、なんでも大丈夫な気がするんだ。
まあそれはそうと。
「心配かけてごめん、愛抱夢」
「……心配?」
きょとんと愛抱夢が首をひねる。あれ、違うのか。
「じゃあ怒ってる? 悲しんでる?」
「別にどっちも……ああ、そんな顔してるのか。嫌だな」
彼はあの変な表情から今度は何だか恥ずかしそうに唇を曲げて、ボソリと一言。
「ずるい」
言うなり俺の顔をぐいっと戻して、再び乗せた顔で頭頂部を好き勝手もすもすぐりぐり押しはじめた。重い上にちょっと痛い。
「最近の僕は観戦ばかりだ」
「そうだね」
「彼と僕が滑ったら間違いなく僕のほうが速いのに」
「……そうかもね。勝敗はわからないけど」
「僕達のほうがもっとずっと愛に溢れたビーフができる」
「……そう?」
確かに愛抱夢とのスケートは特別なワクワクがあるけど、愛は溢れてるかな。
「そうだよ」
今度は顎をつかまれた。無理矢理のけ反らせられた顔は鼻先がふれあうほどのゼロ距離。
目が合う。
「君は僕のなんだから」
「……」
仮面の奥の瞳は赤くて熱い。小さい頃鍋から一匙もらったジャムみたいで舐めたら甘そうだ。
なんだろう。お腹が空いてる気がする。
「……ぷは、やっと抜けたー! 今日マジで人多い……って、お前ら何してんだ」
「あ、暦」
「……来たな」
「来ちゃ悪いのかよ。ランガ、体調平気か」
「元気」
「そっか。おい、こいつ助けてくれてありがとな」
「五月蝿い。君が感謝することじゃないだろ」
「お前なあ……」
顔の位置が戻され、背中をぽんと叩かれた。背後から車のエンジン音がする。
「え、もう帰んのか。一回滑ってけばいいのに」
「元々今夜は彼に会いに来ただけだ。また来るよ」
「……お前暇なの?」
「……違う、逆だ。僕は忙しい」
愛抱夢の靴が踵でガッガッと地面を削る。暦の眉がぐぐっと上がった。
「残念だな……そうでなければ今すぐ君と再戦してあげてもいいんだが……」
「いつでも来やがれ、今度は勝つ!」
二人ともやる気があっていい。俺も混ざりたいけど三人だと消去法で短距離になってしまうのが悩みどころだ。
「……ランガくん」
「おいっ!」
「悪いが本当に時間だ。次会う時こそ楽しもうね」
「そっか。忙しいのに来てくれてありがとう」
「いいんだ。……さっき君に言ったこと、覚えてるかな」
「優勝者として、みたいなやつ?」
「ああ。忘れてほしい」
後部座席に乗り込んだ愛抱夢が手をひらりと振る。
「あれはただの八つ当たりで――嫉妬してただけだから」
車は恐ろしい速さで去っていった。
嫉妬、嫉妬か。
あれは嫉妬の表情だったのか。
「ねえ暦。暦はさ、嫉妬ってしたことある?」
「嫉妬? ……そりゃあ、沢山ある」
「どんな?」
「どんなって…………」
「さっき愛抱夢が言ったんだ。俺の対戦相手に嫉妬したって」
「……あー、そっち系の話か」
下を向いていた暦が安心したように顔をあげる。
「そっち系?」
「何でもねえ。……対戦相手に嫉妬、ね。……お前はあんの?」
「ない」
「……そっか。俺も無いっ!」
暦は明るく夜空に叫んでぐいーっと強く伸びをした。
そうか、暦もないんだ。なら愛抱夢もそうかもしれない。ただ俺とビーフしたいだけで対戦相手に嫉妬したのでは、無いのかも。
「君は僕の……」
誰にも、暦にも聞こえないくらい小さな声で何度も呟いてみる。
「嫉妬……」
彼は俺が誰かと滑ってたら嫉妬するらしい。それはスケーター皆がそうではない。
「君は……僕ので……嫉妬……」
俺は愛抱夢の――何なんだろう。何が入れば俺は納得できるのかな。
わかるようでわからない。あと一歩足りない。あと一歩、何か――。
「えっ! 息子さんが告白!?」
「そうなの、考えてるみたい。でも何だかダメそうで心配……はあ……」
「ええ、どうして?」
「昨日の夜なんだけどね。珍しくドラマなんか見てるなあと思ったら、こう……あるでしょ? 主人公がカッコいい男の子に後ろから抱きしめられて「お前は俺のだから」って言われるベタなシーン。あの子ったらそれ見て……」
「見て?」
「「これだ」って」
「あら……っ」
「思わず「こういうのは付き合ってる相手にする事だからね」って言っちゃったんだけど、ちゃんとわかってくれたかどうか……」
全て解った。
解ったは、いいんだけど。
「避けてる」
「避けてるね」
「めちゃくちゃ避けてるな」
「……俺、避けてる?」
三人が一斉に首を縦に振る。
「そう……」
「別にさあ、いいんだよ。避けても。むしろとうとうこの日が来たんだなーって感じ」
「急すぎねえかとは思ったがな。けどまあ、今までオマエが無反応だったのがおかしかったんだ。アイツだってその内やめんじゃねえか?」
「大人しくそうすりゃいいけど……でもホントにいきなりだったよな。なあランガ、何かあったのか?」
「……」
唇をぐっと結んで黙る。何も言えない、下手に喋ろうとすれば間違いなく「それ」も話してしまうから。
「そうか……」
肩をぽんと優しく叩かれる。
「もういいランガ。何も言わなくていい……」
しまった。これはまずいやつ。
「言えないようなことがあったの? ねえランガ、本当に大丈夫?」
「俺らで話しにくいなら他のヤツ呼ぶか?」
「ち、違う……!」
勘違いから来る優しい対応に罪悪感がずんずん増していく。
「違うんだ。愛抱夢は何もしてなくて、むしろ俺が」
「君が?」
「――ー~~!?」
突然後ろから聞こえた声に思いっきり身体が前につんのめった。頭から地面に激突しかけたところを後ろからさっと抱きとめられる。
「最近こんなことばかりしている気がするよ。ここまで危なっかしい子だったかな、君って」
「――あ、あだ」
「愛抱夢ーッ!?」
「いつから居たわけ!?」
「ずっと見てたし聞いていたとも。君達が気づかなかっただけ」
当たり前だけど声が近い。腕を回されてるから耳のすぐそばに彼の口があって話すと少し息がかかる。そのごくわずかに温かい感じがすごくそわそわして、落ち着かなくて――駄目だ。
「おっと」
愛抱夢の腕を身体から外して、
「ら、ランガ?」
彼の手をしっかりと握りしめて、
「ごめん――二人で話してくる!」
全力で走り出した。
「ちょっと、ランガーっ!?」
「避けてんじゃねえのかよ!?」
本当にごめん。いつか話すから。
あの日愛抱夢と行った場所は変わらず、むしろ前以上に人がいなかった。
これなら二人でちゃんと話ができる。
「ランガくん」
「!」
「君から誘ってくれるなんて嬉しいな」
「……」
ちゃんと話さなければいけない。話して、確かめなければ。解ってるけど。
「どうして後ろに下がるの?」
「………あ」
「ふふ、行き止まりだね」
岩壁に当たってずるりと座ってしまったところで、頭の両側に愛抱夢の手が置かれた。
「もう逃げられないよ。どうする……?」
「……ま、」
「ん?」
「待って……待ってほしい……」
「……」
「その、顔……近すぎるから……ひっ……!」
待ってほしいと頼んだのに顔が更に近づいてきた。あの日と同じくらいに近い。
またあの瞳が見える。いつもは果実みたいにきらきらしてるのに、俺と話す時だけ煮詰まってとろとろになる赤。ほら、今も――。
「……僕のこと避けてたそうじゃないか。傷つくなあ」
「ご、ごめ」
「ほら。目を伏せないで、こっちを見て」
「――っ、」
「……頬が可愛いくらい真っ赤だ……本当にどうしちゃったのかな……」
これだから彼と話したくなかった。
二週間前生まれた疑問が一週間と少し前の夜解消されてから、俺はずっとこうだ。
俺がこの人と「それ」だと思うと彼の一挙一動に心が反応して仕方ない。ピントが合ったみたいに触れられる意味とか言葉の裏側が理解できてしまって、今まで気にもしなかった全てが心臓を跳ねさせる。
ああでもまさか。こんなことって。
「急にそんな、意識してるみたいに……」
「意識するよ……! だって」
「愛抱夢と俺って付き合ってるんだろ……?」
「――ああ。付き合ってるよ」
「やっぱり……!」
「君と僕はもうかなり親密なお付き合いを続けている。具体的に言うと数ヵ月前から」
「そんなに!?」
「気づいてなかったの?」
「……なかった……」
まったく知らなかった。
でも母さんの言う通りだった。俺と愛抱夢が付き合ってたから彼はあんなこと言ったんだ。嫉妬だってスケート関係なくするかもしれない、そういう関係なら。
岩壁に突かれていた両手がするりと頬を挟む。強制的に合わされた顔の、少し上がった口角とか、跳ねた髪から香る不思議な匂いとか、それ全部にぎゅうぎゅう胸が締め付けられて苦しい。
「……ねえ。僕を避けてた理由、当ててあげようか」
頬に触れた手を離してほしい。だってこんなに熱いのが伝わったら。
「そんなふうになっちゃうところを僕に見られるのが恥ずかしかったんだ……?」
「……うん」
はっきり言葉にされると顔から火が出そうだ。
「なんか……恥ずかしい。すごく」
触れるとか、抱きしめられるとか、全然平気だったはずのことを想像するだけでこわいくらい顔がかあっとなって、冷ますために行った洗面所の鏡には信じられないくらい変な顔が映ってた。
「誰にも見られたくなかった。だって初めてなんだ。こんなに変な……」
「変? とんでもない」
愛抱夢がくすりと笑う。
「急に自覚して心が戸惑うのは当たり前のことだよ。緊張、恥ずかしさ、交際なんて皆始めはそんなものさ」
「なら、あなたも?」
「そう。でも僕は特別。付き合い始めた時のまま変わらず君を想っている。僕のハートはずっと君にドキドキしたままだ」
「……普通に見える」
「我慢してるだけかも。試してみればいい」
「試す? ……え、ちょっと」
触れあう程どころか鼻が普通に付いている。これもし俺が少しでも動いたら。
「気づいたみたいだね」
「……」
「ね。試してごらん。大丈夫、僕達は付き合ってるから」
「わ、わかった……」
目をぎゅっと閉じて本当に本当に少しずつ顔を動かしていく。短い距離はすぐに埋まり、唇へ柔らかな感触がふにと当たった。
「――っ」
なんだろうこの感じ。何か来るような――。
ぐぅぅ。
場違いな音を腹が鳴らす。
ビックリして目を開けて愛抱夢の顔が近いことを再認識、反射的に後ろに避けようとした結果、俺の後頭部は自ら岩にぶつかっていった。
「……ッ!……ッッ!」
痛い。すごい痛い。そしてめちゃくちゃ恥ずかしい。
頭を腕で抱えて丸まる。流石に彼を見れない。
「……何も言わないでください……」
思わず敬語にもなる。
「……ふふ……」
「……!」
「……いや、すまない……あまりにも……」
腕を簡単に取られてひょいと立たされた。
「大丈夫だから隠さないで」
愛抱夢はとても楽しそうだけどそれだけだ。俺みたいに騒いだり慌てたりする様子はない。
「……悔しい」
「もう一度する?」
「する。………今度」
「楽しみにしておこう」
くるんと回った愛抱夢が踵をならす。
「戻ろうか。彼らに報告してやろう」
「……そっか。言ってなかったんだ」
彼が言う数ヶ月続いた秘密のお付き合いも今日で終わりになるらしい。皆驚くだろうな。俺も驚いたし。
「ふふん、どんな間抜け面が見れるかな」
「間抜けって……」
つい彼の唇を目が追ってしまう。柔らかなそれといずれまた近づくのかなと思ったとき。
「あ」
「……よく鳴るね。夕食でも抜いてきたの?」
「ううん」
そういえば、二週間前に生まれた疑問は二つあった。ひとつが俺と彼の関係。そしてもうひとつ。
「俺、最近あなたを見てるとお腹が空くんだ。なんでかな」
「……どうやら本当に脈がありそうだ」
愛抱夢がよくわからないことを言う。とろけたままの赤い目がきらりと光って、俺の腹がもう一度きゅうと鳴いた。