真夏の証言 蒸し暑い夜のことです。じめじめと籠る熱気にすっかり参ってしまった私は、冷気と、ついでに少しの楽しみを求めて夜の散歩へ出かけることにしました。
慣れぬ外出にふらつく身体をひとり、ふたり、子供が追い抜いていきます。おやこんな時間に、なんて無用心なんだろう。くすくす、けらけら、きゃはは……声のあとをついていけば、なんとまあ賑やかなこと。私もようくお世話になっている小さなお寺、そのの周りをぐるりと赤い灯りが囲んでいます。どうやら年に二三度あるお祭りだったようです。灯りに気をとられているうちに子供達は何処へと消えてしまい、私はそれじゃあと夜店を回ることにしました。
眩しいところを避けつつ歩いていけば、何やら誰も彼がひそひそと話していることに気付きます。隣の客も同様で、二人で同じ方向を何度も向いては興奮した様子で頷きあうのを見るところよっぽどの物がそこにあるのでしょう。このくらいの年齢ではお囃子や屋台にはこうはなりません。
やれ、これほど彼らを釘付けにする物とは一体何であろう。若者のそれを真似るのは、私くらいの年には大変勇気のいることではありますがどうしても興味を堪えきれず、私は横目でちらりと彼らと同じ方向を盗み見ました。そうして、そのあまりの光景に、次は身体ごと向けて彼らを見たのです。
浴衣姿の男が二人。どちらもすらりと背が高く人目を引きますが誰の目もいち早く奪ったのは左側の男でしょう。上背のある身体におおぶりな柄が大変洒落っぽく似合っている男は、独特な雰囲気を纏い道の中央を闊歩して行きます。前方の客が皆、逃げるように脇に逸れるので、賑やかな祭りだと言うのに男の前は常に開いておりました。私もそれなりに長いことこの地で暮らしておりますが背格好も何もこれほどに整った男は初めて見るでしょう。横の肩に回された右腕の、袖が落ち剥き出しになったたくましさときたら。
後ろ姿だけで解るほどの美しさは、だからこそ残念でなりません。彼の傍らを通り抜ける人々も皆おそらく同様の気持ちなのでしょう、すれ違う瞬間恨めしそうにその顔を睨んでいきます。正確には、さぞや美しかろう顔面全てをすっぽりと覆い隠した夜店の面を。
しかしこの美丈夫を体現したかのような男は、真に私の心をとらえたわけではありませんでした。というのも男の周囲に満ちた自信は、どうにも私のような生き物とは相容れないのです。
彼のような男の連れなど私なら耐えらないなと他人事で見続けていると、男の腕からするりともう一人が抜け出し、夜店に歩きだしました。あれほど驚きに目を開いたのは久しぶりでした。男と同年代だろうと思っていた彼はまだ年若い少年だったのです。
気がつくと私は少年を食い入るようにみつめていました。提灯の明かりにきらめく銀色の髪、薄色の浴衣に劣ることのない白さ。腕に隠されていた顔は横に並ぶりんご飴よりも赤く艶めいて。一切を鮮明に覚えています。
りんご飴を手に男の元へ戻っていくその足、桜貝の並ぶ爪先が小石に躓くところも私は見ていました。崩れかけた少年も、彼をひょいと支える男の早業も。
何事も無かったかのように飴を差し出す男と、受けとる少年。なんとも心洗われる美しい光景に、周囲から溜め息が漏れました。
再び歩きだした二人でしたが、数歩もしないうちに男が何やら少年に囁き、少年が頷くと、夜店の続く道から逸れてどこかへと去って行きました。当然ちらちらと此処に居る誰もがその動向を気にしていましたが、着いていく者は居ませんでした。当然のことです。彼らと共に行ける者などこの場に存在するでしょうか。小市民たる我らは彼らを一夜の夢として祭りのざわめきと共に思い出にするしかない、そう全員わかっていたのです。
同じくわかっていながら、私は彼らが行った道を辿ることにしました。ええ、愚かでした。私をそこまで愚かにさせた原因は浴衣の裾から覗いた足。恐ろしいほどまっさらな足首がほんのり腫れていることに気づいてふらりふらりと進む身体を頭は引き留めもしませんでした。欲を選んだのでしょう。
祭りから離れれば当然人はめっきり減りました。
実のところ私は二人の姿を早々に見失っていました。おそらく男のほうが後をつける私に気づいたのでしょう、巧妙に撒かれてしまったようです。けれどなんとなく。ええ、なんとなく。私は二人がどこに向かうのか解っていましたから、気にせず脇道から脇道へ歩いて行きました。
この町には先程の寺の他、ひとつ小さな神社があります。昔はそれなりに参拝客も居ましたがこの頃は賽銭泥棒すら寄り付かない朽ちるのを待つだけのさびれた所です。周囲をぐるりと囲む林もいけませんでした。姿を隠すのに打ってつけだからと子供が遊びで入っては、迷子になるのです。ひどい時は数日帰って来ず、ここが騒がしくなるのはそうした迷子の捜索の時のみでした。
それ以外のときの林はひたすら陰気臭い厄介者で、けれど私はその陰気臭さこそを気に入っていました。じめじめと暗い彼らは私の姿を見えなくしてくれますから。
祭りの音などとんと聞こえぬ御社殿裏手。低い低い、人が座るのにおあつらえ向きの石段。そこで私は彼らを待つことにしました。
伸びっぱなしの草を踏みしめ石段が見える位置に潜んでいるとざわざわと風が揺らぎました。来訪者です。続けて現れた二人組はやはり彼らでした。男に誘導されるまま石段に座る少年は先程より幾分か頬の赤みが薄らいで見えました。煌めいていた瞳を半分ほど伏せ手を握る男に身の一切を任せるさまは心臓を持たぬ人形のようで、男が少年の浴衣を整えるさまは、大切な人形を御披露目するかのようです。
「一人で座れる?」
「……うん……」
「ああ、顔色が大分落ち着いたね。良かった……」
二人の声は恐ろしいほどよく響きました。
先程は聞き取れなかった男の声。面越しで掠れたそれのなんと艶かしいことでしょうか。人を魅了する怪物だろうとここまでの声音は使いません。
対する少年の声は小さく短いものでしたが、それでもその涼やかな音色は隠しきれていませんでした。
少年を座らせたまま石段を降りた男は何をするのかと思えば身を沈め、次にはその手に少年の足を持っていました。
足首には赤。欲がどくどくと主張を始めました。
男の手がうやうやしく少年の下駄を脱がしていきます。いつの間にか私は、その手と自分の真っ暗なそれを重ね合わせ、涎を垂らさんばかりに彼らの一挙一動足を見つめていました。
欲が泣きます。あれが私の手であれば。あれが私の物であれば。
「……血が出ている。すまない、僕がついていながら」
男の言葉に少年はゆっくりと首を横に振ります。
「少しだけ待てるかな」
少年が頷くと、男が立ち上がりました。
「休んでいて。……もうすぐ花火があるそうだ。きっとここでも見られるよ」
「……」
その時うっすらと少年の浮かべた微笑みを私は何と表現すれば良いのかわかりませんでした。今も変わらず、ただこの世のものとは思えぬ表情であったと――そうとしか言えません。
男が浴衣でよくもと思う速さで走っていきます。敷地内にある神主の家に行き救急箱でも借りてくるつもりなら、それは何より正しい判断でした。ここの神主ときたら子供の頃から世話好きでその癖一人を好む変な奴ですから、きっとあれもこれもと親切にするに違いありません。突然の来訪者は歓待を受けることでしょう。
そうして男の帰りが少しでも遅くなるのなら、ええ、とても、とても有り難いことです。
風がひとつ吹きました。強いそれは草だけでなく木々も揺らし、林全体をざわざわと騒がせ私の足音をかき消してくれました。そのおかげで私はとても容易くやや放心した少年のすぐ傍まで近づくことができました。
どうしても消せない砂利の音に、少年がわずかに顔をあげます。気付いていないのでしょうか。ぼうっとこちらを見る彼は驚く素振りすら見せません。戸惑うように首を傾げる仕草のまあ幼いこと。子供という生き物が皆持つそういった可愛らしさを私はことさら愛していました。
「なに……?」
ああけれど悲しいことに、訝しげな表情はとても好意的ではありません。仕方なく手を掲げ、額に触れれば
「……、――――」
少々経って、力の抜けた身体がとさりと石段に崩れ落ちました。
ようやく少年の造形をはっきりとこの目がとらえました。
改めて見れば見るほど美しい顔立ちです。どこの異国から来たのでしょう。まつ毛の一本まで淡く光る人間なんて噂にも聞いたことがありません。赤みがすっかりひいた頬は青白く作り物めいています。
こうして眠らせてしまえば少年は人形そのものでした。
――もしかしたら、本当に人形なのかもしれません。
それなら良いのではないでしょうか。人形ならば。
酷いことなどしません。ただ愛でるだけです。他の子らにそうしたように、慈しんで何がいけないのでしょう。数日、数週間、いえ、もっと。こんな美しい人形ならばそれこそ永劫にだって飾っておきたいものです。自身に迫る未来を感じ取った少年のまぶたがひくりと動きました。足りなかったのかもしれません、もう一度触れてあげましょう。怖がらなくても大丈夫。帰る頃には何も覚えていないのだから――。
――ふと、気付くと。
やや遠く。男が立っていました。いつ頃戻ってきたのでしょうか。棒のように立ちすくむ足元には、救急箱が転がっています。
どうやら私を認識しているらしい男は、何故かちいとも反応を見せません。少年のように戸惑っているのかもしれませんが面で覆われたその表情が見えない限りは如何とも判断しかねました。
面を。
外してくれないだろうか。そう思いました。こんな状況にあってもなお美しい立ち姿に相応しい容貌をしているに違いないそれを、一目だけでも見てみたくなったのです。仲間好みであったなら少年と一緒に連れていくのもいいかもしれません。ともかく外してくれたなら。どうか。
願いが通じたかのように、男の骨ばった指が面へと触れました。そうしてゆっくりとずらしていきます。それはもう緩慢な動作で除けられるそれに私の欲は早鐘を打ち足元には幾つもの黒い靄が落ちて行きました。
細く整った輪郭が見えます。引き締まった口元が。真っ直ぐに伸びた鼻梁が。正確な位置の頬骨が。
固唾を飲んで見ていた私でしたが、いつの間にか男の青髪が光に縁取られていることに気付き、目を向けた彼の背後。闇夜にするすると光が昇っていきます。
一拍起き――散らばる極光。
続けて何処からともなく轟音が。知らぬ内に始まっていたようです。どおんどおんと響く振動に紛れ、面がカランと軽い音をたて地面に落ち、そして。
人間の一番うつくしい部位たる目――例に漏れず、彼の目はたいそうな代物でした。つやつやと赤く、南天を想起させます。
背後の光よりよほど眩しく輝くそれはとてもとてもうつくしく――ゆえに。
男が唇を開きました。
「――――」
声は花火に食い荒らされ残念なことにこちらまでは届かず、しかし私の身はすぐさま震えだしました。絶えず背筋を襲う怖気に欲が怯え泣きわめきます。聞こえずともわかったのです。
男、男は確かに言いました。私の手の内、眠る少年を「かえせ」と私に命じたのでした。
もう一度男の口が開かれます。
「聞こえなかったのか。返せ」
砂利を踏みしめ近づく足音。思わず少年の身に縋る私に、なお鋭い声が刺さりました。
「触れるな」
男が歩を進めます。風に乱れる前髪の向こうからこちらをねめつける目ときたら。どうやら私は勘違いをしていました。どろりと濁るそれは捧げられる赤い実になど決して似ていません。あれは石榴。異国の同胞を連れ去ったという魔性の果実。
「彼はお前の物じゃない」
濁った赤からしたたる毒々しい欲は、私の靄など容易に消し去り。
「――僕のだ」
なんとうつくしく、おそろしい目をするのでしょう。同胞にすらこんな苛烈な独占欲を剥き出しにする男はいません。外に出せるものでこれならば、その身の内にはどれ程の感情が収められていることやら。
この人らしからぬ人に、これ以上近づかれることを身体が拒否しています。残念ですが仕方ありません。名残惜しい身体を地面におろし、私は彼らに背を向けました。
本殿にでも逃げ込むべきだったかもしれませんがつい、先程身を潜めた林に戻ってきてしまいました。呆れることにこうまで手厳しく追い払われても、まだ私は彼らを見ていたかったのです。
伏せる少年に男の手が伸ばされます。弱々しいわけでもない身体を丁寧に、繊細に、まるで少年こそ彼の至宝であるかのように、男は抱き寄せました。優しい手つきで頬についた砂を払えば、少年は小さく身動ぎをして。目を覚ましたのでしょう、まだぼんやりとしているはずの目線が大きな音に自然と上を向き。
「……わあ…………」
次々夜空に咲く花達に感嘆の溜め息を溢します。
「すごい。きれいだ」
自分の身に起きかけた災いも認識しないまま、まあ暢気に花火へ手を伸ばす少年。横でがくりと肩を落とす男の苦労が忍ばれます。
「……くん」
「あ、……。もうお面はいいの?」
「花火を見るのに邪魔だから、今だけね。手当てをしようか」
「ありがとう……でも、もう少し……」
「それなら、花火が終わるまで」
「うん」
二人の名前はどうしても聞き取れませんでした。それでいいのでしょう。きっと聞けば私は彼らを思い出にすらできなくなってしまいますから。暗い社のなかであれが欲しかったなあとめそめそ落ち込む日々など御免です。
蒸し暑い夜は続き、遠くで花火があがります。それを見る彼らのむつまじく寄り添う背は、私などには贅沢な夜の楽しみでありました。ええ、負け惜しみですとも。