にょつ。6(類side)
「という事で、寧々っ! 練習に付き合っておくれ!」
「え、嫌だ」
うわ、と顔を顰めた寧々に、頭を下げる。今回ばかりは失敗が出来ない。その為にも練習がいる。
手に持っていた封筒を寧々の方へ差し出せば、彼女は顔を顰めたままそれを受け取ってくれた。
「……なんでわたしが、類のダンスの練習に付き合わなきゃいけないのよ」
「僕からダンスを申込んでおいて、上手くエスコート出来なかなったら呆れられるじゃないか」
「毎回毎回わたしを巻き込まないでよ、相手にちゃんと説明すればいいじゃん」
「天馬くんより完璧でないと相手にしてもらえないんだよ…!」
「………は…? なんでそこに皇太子殿下が出てくるのよ…」
紅茶のカップを片手に、寧々が変な顔をする。訝しむようなその顔に、きゅ、と唇を引き結んだ。
天馬くんの事を、寧々は知らない。説明も出来ない。彼女の事は、機密事項だ。それなら、そこを端折って、説明するしかない、かな。
「彼より劣っている人は相手にしないと、初恋の人に言われてしまってね」
「……はぁ、それで練習ってわけ? 最近真面目に授業を受けるようになったのも、急に成績が上がったのも、実技テストで皇太子殿下を負かしたのも、全部それが理由?」
「まぁ、そうです……」
「…………振り回され過ぎでしょ…」
溜息を吐く寧々に、返す言葉もない。
初恋の人を探す為に他のことを疎かにしてきた。と言っても、多少なりとも身についていたからこそ、手を抜いていたのだけど。それを、やっと見付けた天馬くんに指摘され、僕を見てほしいからと手を抜く事を止めた。結果、手を抜いていた事を不満に思われてしまったのだけれど…。
そんな彼女に、ドレスを贈ってダンスの申込みをしたのが二週間程前の事だ。何度もお誘いしてその度に断られてきた。僕を避ける天馬くんに話を聞いてもらおうと、毎日諦めずに頼み込んで、昨日漸く『わかった』と了承を貰えたんだ。
しつこく誘い過ぎた結果、『あぁ、もう、わかったから付き纏うなっ…!!』と怒らせてしまっただけだけれど。
(今日なんて、話しかけようとしただけで彼女に距離を取られてしまって、全然近付けないし…)
泣きたい。目が合うと『こっちに来るな』と言わんばかりに睨まれて、警戒する猫のように後退るのだ。距離を詰めようとすれば逃げられるので、今日はまだ話しかけられていない。席も、隣に座れないよう混んでいる場所を選んで座られてしまうので、本当に近付けない。そこまで徹底的に避けなくてもいいだろうに。嫌われているのはわかるけれど、ここまでされてしまうとやっぱり傷付くね。
「…あんたなら、女性とダンスなんてお手の物でしょ」
「他の御令嬢が相手なら気負わずに出来るけど、今回は難しいんだよ。彼女は特別だからね」
「それ、わたしも練習相手にならないんじゃないの?」
「イメージトレーニングは大事でしょ」
「面倒くさ」
はぁ、と溜息をもう一度吐かれ、寧々が紅茶のカップをソーサーに置く。
僕が渡した舞踏会の招待状を ちら、と見て、肩を落とされた。「報酬は高くつくからね」と呟いた寧々に、安堵した。どうやら、引き受けてくれるようだ。
「夜会の食事には寧々の好きな物を用意させるよ」
「はいはい」
ガタ、と椅子を立ち上がる寧々が、制服の裾を軽く直す。僕も椅子を立ち上がると、側に控えていた使用人が片付けを始めた。それを横目に、寧々の方へ腕を差し出す。うわ、と顔を顰めた寧々に苦笑すれば、彼女は小さく溜息を吐いた。白い手が、するりと僕の腕に添えられる。
「そういう女性慣れしてるとこ、好感下がるんじゃないの…?」
「これも大事な練習でしょ?」
「……………練習、いらないんじゃない?」
不服そうな顔をする寧々に、首を傾げる。女性をエスコートするのは、マナーのようなものだ。それくらいで天馬くんも目くじらを立てたりはしないと思う。彼女も男性としての教育を受けていると思うからね。
寧々に歩調を合わせ、予め使用許可を得ていた空き教室へ足を向ける。今日は、寧々を天馬くんだと思って接しなければ。せっかく了承を得たのに、彼女を失望させるわけにはいかない。
なんとしても、天馬くんにかっこいいところを魅せたい。
(……卒業までに天馬くんとの仲を深めないと、彼女に婚約すら申し込めなくなるからね…)
父さんと約束した期日までに、なんとしても天馬くんと距離を縮めなければならない。でなければ、別の人と婚約させられてしまう。せっかく見付けた初恋の人を、諦めたくない。
ゆっくりと息を吐いて、もう一度気合いを入れ直した。
―――
(司side)
『気軽な会だから、パートナーを見つける、なんてことしなくていいから』
ずいっ、と顔を寄せられると、戸惑ってしまう。
『むしろ、僕にエスコートさせてほしい。完璧にエスコートしてみせるよ』
そんな風に類に女性を相手にするような扱いをされると、複雑だ。
『ファーストダンスは、出来れば、僕と踊ってほしい。ダンスはあまり踊らないのだけど、天馬くんとなら踊りたい』
期待させるような事を言うのも、止めてくれ。勘違いしてしまいそうになる。
『本当? 僕と踊ってくれるの?! ありがとう、楽しみにしているね!』
適当に返した返事でそんなに嬉しそうにされたら、今更なしにも出来ないだろう。なんなんだ。何故、そんなに嬉しそうにするんだ。
ずっと、オレを避けていたくせに。
「……期待、してしまいたくなる…」
はぁ、と大きく息を吐いて、席を立つ。そのまま帰り支度を済ませて教室を出た。廊下を歩きながら周りを確認するも、類の姿はない。
あれだけしつこく誘ってきていた類は、舞踏会の誘いに一度頷いてしまってから、ぱったりと顔を見せなくなった。返事が聞ければ良いのか。はたまた準備に力を入れているのか…。どちらにしても、散々付きまとっていた相手が急に大人しくなると、なんとも落ち着かない。
類を前にすると困惑するし、落ち着かないし、振り回されて困る事ばかりではあるが、構われるのは素直に嬉しいんだ。これが惚れた弱みとやらなのだろう。はぁ、ともう一度溜息を吐く。
「む……」
ふと聞こえてきたダンスの音楽に、足が自然と止まる。
レッスン室の方だろう。許可さえ取ればダンスの練習に使っていいはずだ。ということは、誰かが練習しているのだろうか。
ふむ、と口元に手を当てて、足をそちらへ向ける。
(多少なら、オレも教えられるからな。一人で練習しているのなら、相手役を買ってでよう)
これでも、王族として教育を受けてきたのだ。女性パートは勿論の事、男性パートも余裕でこなせる。女性が相手なら、問題なく相手役として付き合おう。練習はいくらやっても困らんしな。
ひょこ、と扉についたガラス窓から中を覗き込めば、どうやら二人組で練習をしているようだった。長身の男性が、上手く女性をリードしている。
要らぬ世話だったか、と顔を上げた瞬間、藤色の髪が視界に映った。
「………は…?」
制服のスカートを翻してくるりと回る若草色の髪の少女の前で踊る長身の男性の顔に、思わず低い声が出る。楽しそうに女性をリードしているのは、類だった。指先まで綺麗な所作で踊る類から、視線が逸らせなくなる。ステップの踏み方も、視線の向け方も、女性への気の遣い方も上手い。ダンスの講師の見本を見ているかのようだ。呆然と見つめていれば、一曲が終わってしまったようで、二人が足を止めた。
ぜぇ、ぜぇ、と肩で息をする女性に飲み物を手渡す類は、疲れた様子がない。椅子に座った女性は確か、草薙家の御令嬢だったか。類が良く一緒にいる女性だ。
「っ、はぁ…踊れるじゃん…、練習、いらないでしょ…」
「女性をリードするのは、マナーだからね。それなりに練習もしてきたよ」
「…ほんと、それでなんで練習する必要があるのよ」
二人の会話を聞きながら、その場にしゃがみ込む。
会話から察するに、“類から”ダンスの練習に誘ったということだろう。何のために? あれ程綺麗に踊れるならば、練習など要らないだろう。オレよりも、綺麗だった。幼い頃からずっと練習してきて、それなりに自信がある。最近は、類から舞踏会の話を聞いて、女性パートを中心に練習していたが、それでも、同年代の男性には負けないと思っていたのに。
そんな類が、態々放課後に練習をするのか? 何のために?
(……オレでは、駄目だったのか…?)
練習なら、いくらでも付き合うのに。
一言も練習するなんて聞かなかった。オレにダンスを申し込んだ時の、『ダンスはあまりしない』という言葉は、嘘だったのか。女性が相手なら、誰とでも踊るのではないか。“オレと踊りたい”という言葉も、女性を相手にする時のお世辞か何かか。あの時の嬉しそうな顔も、誰にでも向けるようなものだったのか。
(馬鹿馬鹿しい…)
結局また、類に振り回されるのか。
類の言葉に勝手に期待して、期待した分類に裏切られて傷付いて、自分が情けない。類が女性好きなのは知っていたはずなのに、ここ最近の類がオレのために頑張っているように見えて、絆されてしまった。否、頑張ってもいなかったのだろう。ずっと実力を隠していただけで、騙されていたのだろう。デートに誘われて、少し甘い言葉を言われただけで勘違いをした。類の言葉で一喜一憂するオレは、さぞ扱いやすかったのだろうな。
振り回される自分が情けないのに、それでもまだ類を嫌いになれないのが悔しくて堪らない。
「彼に負けたくないからね」
「…それって、皇太子殿下? あんた、どれだけ敵視してるのよ」
「敵視、とは違うけどね」
「執着みたいなものなら、同じでしょ」
溜息を吐いた御令嬢に、類が苦笑している。
その会話をぼんやりと聞きながら、その場を立ち上がった。来た道を走って戻り、真っ直ぐ昇降口に向かう。靴を履き替えて迎えのいる所まで走った。立ち止まったら、今度こそ動けなくなりそうで、止まらずに走り続ける。
迎えの為に待機していた彰人の姿に安堵して、思いっきり飛び付いた。驚く彰人に構わず、ぎゅぅ、と強くその背に腕を回す。
「ちょっ、…こんな所でなにしてんすか、皇太子殿下っ…?!」
「っ、憂さ晴らしに付き合えっ…! 今日こそお前から一本取ってやるっ!!」
「はぁ?!」
ぼろぼろと零れた涙を彰人の服に擦り付けるようにして拭って、怒鳴るようにそう言いきった。顔を顰めて困惑する彰人の手を掴み、ずんずんと馬車の方へ向かう。中に乗り込めば、いまだに状況がよく分かっていない彰人が渋々扉を閉めた。ぱたん、と扉が閉まると、むすぅ、とした顔が次第にくしゃりと歪む。
一度溢れた涙がそう簡単に止まるはずがなく、ぼろぼろとまた溢れ始めたそれを袖で何度も拭った。
「っ、……もう、ぃやだっ…」
ここ最近、類に振り回されてばかりで疲れた。
女だと知られる前の方がマシだった。類に嫌われていた時の方が、避けられていた時の方が、一方的に追いかけている時の方が、楽だった。期待させられて、現実を突き付けられる方がずっと苦しい。
結局、類にとってオレは“数いる女性の内の一人”なのだ。
「…嫌いになりたいっ…、……」
優しくする所が嫌だ。言葉だけで結局他の女性とも関わりを持つ所が嫌だ。期待させるくせに、その期待に応えてくれない所が嫌なのに、こんなにも振り回されるのに、“嫌いだ”と言いきれないのが嫌だ。
幼い頃に一緒に過ごした時の類の顔が、消えてくれない。何年経っても変わらないその優しい顔が、どんどん増えていくようで、感情がぐちゃぐちゃだ。
「っ、……うぅ、…大好きだ、ばかぁ…」
絶対言えない想いを声に出してしまうと、更に涙がぼろぼろと溢れた。同じ想いが返ってこないのは知っている。けれど、どうしたって、初めて抱いたこの感情だけは簡単に消えてくれないんだ。
城に到着後、嗚咽がもれる程泣いているオレを見た彰人と専属の使用人が驚いて、ちょっとした騒ぎになった。
―――
(類side)
「寧々、すまないけど、少し出るね…!」
「…ぇ、ちょっと、類……?!」
たまたま、曲が止まっていた時だったから聞こえたのかもしれない。走る足音が気になって扉を開ければ、見覚えのある後ろ姿が見えて、慌てて追いかけた。真面目な彼が廊下を走るなんて、普段は無い。責任感もあるからこそ、生徒のお手本になるよう頑張っていた。そんな彼が廊下を走っているのを見てしまっては、何かあったと思う方が自然だろう。
靴を引っ掛けるように履き替えて、昇降口を飛び出す。門の前に止まっている馬車に描かれた王家の紋章に、そちらへ真っ直ぐ走る。もう少しで追い付くという所で、馬車の前に居た護衛に、彼が思いっきり飛び付いた。
「……ぇ…」
それを見てしまって、足が自然とその場で止まってしまう。あまり見覚えのないその護衛の顔に、握り締めた手に力が入る。今すぐにでも駆け出して、知らない男を抱き締める彼女の体を彼から引き剥がしたい。誰にも取られないよう、僕の腕の中に押し込んでしまいたい。
下唇を噛んで叫んでしまいたい気持ちを押し込めば、護衛の彼と目が合った。目を丸くさせた彼は、何か思い付いたのか、にまりとその口角を上げる。そのまま天馬くんに手を引かれるまま彼女を馬車に乗せると、彼は扉を閉めてから僕の方へゆっくり近寄ってきた。
「お久しぶりです、神代家の御子息様?」
「…すまないけれど、どなたでしょうか」
「失礼致しました。私は司様の剣の指導を請け負っている者です」
「……ぁ、…もしかして、天馬くんが昔言っていた、剣術の先生って…」
「司様が幼い頃から傍に仕えております」
にこ、と優しげに笑って頭を下げる彼に、拳に込めた力がほんの少し抜けていく。
確か、新しく稽古の始まった剣術を、天馬くんは楽しみにしていた。その稽古の先生がとても強いのだと、悔しそうに話していたっけ。一度だけ挨拶をしたことがあったけれど、すっかり忘れていたようだ。というよりも、彼はよく僕のことを覚えていたね。幼い頃に一度だけ挨拶をしただけなのに。
ちら、と馬車の方を見るけれど、天馬くんが出てくる様子は無い。彼と何を話していたのかも分からない。彼に何があったのかを聞いて、素直に答えてもらえるだろうか。ふむ、と口元に手を当ててどう切り出すか考える僕の目の前で、彼(確か東雲さんだったかな)が、にこりといい笑顔を僕へ向けた。
「先日婚約の話がまとまりまして、本日から司様の送り迎えを直々に頼まれたのです」
「……それは、おめでとう、と言うべきかな…? 婚約、というのは、貴方の…」
「えぇ。自分には勿体ない申し出でしたよ。司様も もう時期御卒業ですから、急いで縁談をまとめる必要があったのかもしれませんね」
「……………ぇ……」
変わらずにこにこと笑顔の東雲さんに、言葉を飲み込む。
話の意図が分からない。というより、それはどういう意味なのだろうか。何故、彼の婚約の話に、天馬くんの名前が出てくるのか。護衛を任された、というのは、司くんからだろうか。それとも、彼の父親である国王様か。それに、“勿体ない申し出”とは。“急いで縁談をまとめる必要があった”というのは、つまり…。
どくん、と心臓が嫌な音をたてる。視線が彼から逸れて、彼女がいるであろう馬車の方へ向いた。
「神代様はお聞きになったと伺いましたよ。司様の事」
「…それは、……」
「私は幼い頃より司様の事を知っておりましたので、適役だったのでしょう。司様は色事に慣れてはおりませんから、こちらが知らぬ内にどこの誰とも分からぬ者に絆されては困りますので」
「………」
口から出かけていた言葉を飲み込んで、彼を睨むように見た。
あからさまに、僕を煽ろうとしてくるのはなんなのだろうか。天馬くんが女性だと昔から知っていた、という事なのだろう。彼には僕が、彼女の優しさにつけ込んで王座を狙う不届き者だと思われているのだろうか。だから、こんな風に挑発紛いなことをしてくるのか。
(……王の地位なんて要らない。僕は、ただ天馬くんの隣にいたいだけだ…)
やっと見つけた初恋の人に、僕自身を見てほしい。
叶う事なら、僕を好いてほしい。この想いが伝わってくれるだけでも十分だ。けれど、彼女が他人の物になると思うと、どうしたって胸の奥が苦しくなるのも事実だ。
目の前でにこ、と笑う彼から目を逸らして、ゆっくりと息を吐く。天馬くんから、婚約者の話はまだ聞いていない。それなら、明日にでも彼女と話をすればいい。
彼女の口から聞くまでは、信じない。
「また明日、と、天馬くんに伝えておくれ」
「お会いにならなくて良いのですか?」
態とらしく問いかける彼に、僕もにこりと笑みを貼り付けて頷いた。
僕が近付かないよう警戒しておいて、よく言うよ。挨拶をしようとすれば、きっと理由をつけて断られるだろう雰囲気を察して、こちらから引こうとしているのに。
「大丈夫です」と一言返して、来た道を引き返す。馬車が動き出す音でそっと振り返れば、彼女の姿は見られないまま、その大きな箱は遠ざかっていった。
―――
(司side)
「……類に、会った…?」
「会いましたね」
「だが、類は確かに御令嬢とダンスをしていて…!」
「姫さんによろしく、と言ってましたよ」
城に着くなり彰人に一目散に自室へ運ばれ、専属の使用人には大急ぎで湯浴みの準備をされてしまった。散々泣き腫らした顔を丁寧にケアされ、気分が落ち着く紅茶と甘いお菓子に、妃教育の日にしか着ないようなふわふわした夜着を用意された。もう何がなんだか全くわからん。分からんが、使用人と彰人が手を尽くしてくれているのを見て、不思議と気持ちが落ち着いてきてしまったのも事実だ。
長い髪を丁寧に編み込む使用人を鏡越しに見ながら、大人しくされるがままになるオレに、彰人は思い出したように『神代家の坊ちゃんに会いましたよ』と言ったのだ。思わず目が点になるオレに、彰人は構わず「あの小さかった坊ちゃんが、随分と大きくなりましたね」とからから笑う。
「な、何故呼ばなかったのだ…?!」
「向こうが会わずに帰ると言いましたので。それに、あの状態で姫さんは会えたんすか?」
「ぅ……、それは、…」
彰人の問いに、言葉が詰まる。
確かに、あの時類が来たと言われても、会えなかっただろう。涙でめちゃくちゃな顔を、類には見せたくない。それでも、類が会いに来たと聞いて、嬉しくならないはずがない。
(泣く程悔しかったというのに、類が会いに来てくれたと聞くだけで、簡単に上塗りされる自分が単純で情けないな…)
じわぁ、と熱くなる頬を手の甲で押さえて、ゆっくりと息を吐く。
嫌いになりたいと思っていたはずなのに、会いたかったと思ってしまっている。もしかしたら、追いかけて来てくれたのでは、と、また勝手に期待してしまう。むぐぅ、と口を引き結んで視線を下げると、使用人がパッ、とオレの髪から手を離した。
「終わりましたよ、司様」
「あ、あぁ、すまんな、穂波」
振り返って礼を言えば、穂波がふわりと笑う。咲希と同い歳の使用人である穂波は、オレの専属侍女だ。オレが女であると知っている数少ない者の一人である。
鏡に映る自分の姿になんだか違和感を覚えてしまう。そわそわとしながら鏡の自分と睨めっこをしていれば、後ろに控えていた彰人がにまりと口角を上げた。
「そうしてると、姫さんもちゃんとお姫様らしくなった感じがしますね」
「喧嘩なら買うが?」
「褒めてるんですよ。その格好で神代の坊ちゃんに会いに行けば、問題も解決しそうですし」
「……やはり、類は女性なら誰でも良いのだろうか…」
からかい半分にそう言った彰人の言葉で、昼間のことを思い出してしまう。女性であれば、類はオレを選んでくれるのだろう。だがそれは、“女性であれば誰でもいい”ということなのではないか。加えて、オレは王族だ。オレの伴侶となれば、この国での絶対的地位を得るのと同義だ。そんな理由で類に選ばれても、嬉しくも何ともない。
嬉しくはないが、類がオレの隣に居てくれるのなら、それでもいいと思えてしまう自分も確かに心の奥にいる。それがまた情けない。どうしても類を他の女性に取られたくないと、そう思ってしまう。オレが差し出せる物ならなんでも与えるから、オレの隣を選んでほしいと、そう考えてしまう。
頭の中がぐちゃぐちゃになって、そのまま頭を前に傾ける。と、ドレッサーの台に額が ごん、と音を立てて落ちた。後ろで慌てる穂波に大丈夫と手をひらひらさせて返し、そのまま目を瞑る。
「もうこの際修道院にでも行くか…」
「国王夫妻が泣きますよ。あと姫さんの妹さんも」
確かに。脳裏を過ぎる両親と咲希の顔を思い浮かべて、溜息を吐く。全力で止められる未来しか見えない。なんなら、理由を聞いて無理矢理にでも類の御両親に婚約の話を持ちかけられそうだ。それは類に申し訳がない。
類以外を伴侶に選びたくはないが、かといって類の気持ちを無視したくは無い。オレを想ってもらえなければ意味がないんだ。王族であるオレから婚約の申込みをするのは、臣下である類にとって断れない申し出になるだろう。だから、オレから類に告白は極力したくない。
「もういっそ気楽な誰かを伴侶に選んで、類を側近にでもするか…」
「いつも前向きな姫さんらしくない発言っすね」
「どうだ彰人、オレの伴侶になれば国王になれるぞ」
「こっちに振らないでくださいよ。絶対嫌です」
予想通りの返答に、はは、と苦笑する。
彰人はオレと歳も少し離れているので、断られるとは思った。オレが幼い頃にはもう騎士団の団長になっていたのだからな。いつまでもオレを子ども扱いするのもそのせいだろう。
紅茶を入れ直してくれた穂波が、ソファーにオレを誘う。ふらふらと椅子を立ち上がってソファーに座り直せば、柔らかい膝掛けを膝にかけられた。袖にフリルがついているのは、なんとも擽ったい。視界の隅に映る自分の長い髪を指先で摘むと、彰人がにこりと笑った。
「それから、数日前にオレも婚約が決まりましたんで」
「……はぁ?!」
「本日付けで騎士団長の座は降りて、正式に姫さんの護衛となりました。今後ともよろしくお願いしますよ」
「………それで今日は学院まで来ていたのか」
ぱちぱちと後ろで拍手する穂波に、彰人がどこか照れた様子で笑う。まさか、こんなさらりと報告を受けるとは思わなかった。確かに彰人は歳も歳だ。そろそろ誰かと結婚しておかねばならんのだろう。いつもの護衛役が居なかったのは、そういう事か。
どこか機嫌の良い彰人の様子を見るに、婚約者は良い相手なのだろう。それは喜ばしい事だ。
「彰人が護衛として傍に仕えてくれるのは心強いな! こちらこそ、よろしく頼むぞ!」
「姫さんより先に神代の坊ちゃんにも今日報告しときましたんで、よろしく言っておいてください」
「む…、類にも言ったのか? だが、類は人の婚約に口出しはしないと思うが……」
彰人の相手が綺麗な女性なら、類が何か聞きに来るかもしれんが、基本他人に無頓着な奴だ。特に男性相手には。オレも女性と知られるまでは、類に何度も逃げられたしな。彰人の婚約の話を聞いて、類がオレの方へ何かを言いには来ないと思うが…。まぁ、彰人がよろしくと言っていた、くらいは伝えておいてやろう。
穂波の入れてくれた紅茶をゆっくりと飲みながら、そんな事をぼんやりと考えるオレの後ろの方で、彰人がからからと笑った。
「もしかしたら、明日は朝から追い回されるかも知れませんよ」
「用もないのに類はそんな事しないぞ」
「どうでしょう。あの坊ちゃん、結構諦めが悪いっつぅか…」
「む……?」
何の話だ? 首を傾げると、彰人は小さく溜息を吐いて、オレから顔を逸らした。どうやら、これ以上話す気はないらしい。ここまで勝手に話しておいて、勝手なやつだ。
紅茶をゆっくりと飲みながら、落ち着いた気持ちに ほぅ、と息を吐く。類よりも、オレの方が諦めは悪いだろう。なにせ、失恋後もずっと類だけを想ってここまで来てしまったのだからな。そう思うと、なんだか変に気恥ずかしくなる。
ぐーっ、と紅茶を一気に飲み干して、ソファーを勢いよく立ち上がった。びくっ、と肩を跳ねさせて驚く彰人の方へ体を向け、真っ直ぐ指を差した。
「よし! 腹ごなしに訓練するぞ! 彰人!」
「面倒なんで嫌ですよ。今日はお姫さんとして休んでください」
「この格好であっても彰人に遅れはとらんぞ!」
「そういう問題じゃないですから。大人しくしないなら、神代さんちの坊ちゃんを呼び出してきますよ」
「なっ…!? そ、それは卑怯ではないか…?!」
穂波がくすくすと笑いながらオレの手元の茶器を片付けてくれる。それを横目に彰人を見やれば、面倒くさいとばかりに背を向けられてしまった。
気持ちが落ち着いたといえど、今類に会うのはやはり気が引ける。どの道明日になれば会うことになるし、類に会うとなれば嬉しくないわけがないのだが、それとこれは違うのだ。
「………ぅううう〜……」
「ま、明日の為に心の準備でもしておくんですね」
ひらひらと手を振って部屋を出ていく彰人を恨めしげに目で見送って、その日はそのまま夕飯までベッドの上を転がって過ごす事になった。