番※前置き
オメガバース設定で、類司が番です。同棲してます。結婚もしてます。夫婦です。
友達以上恋人未満で、お互い大好きなのにすれ違って行く話、を書こうとして、うだうだしてます。
※やたら面倒くさいタイプのモブ女子が出てきます。
なんでも大丈夫な方、雰囲気で読み流してください(՞ . ̫ .՞)"
ーーー
「それじゃぁ、行ってくるね」
「…行ってらっしゃい」
「無理はしないんだよ? なにかあったら、連絡しておくれ」
「ん…」
小さく頷けば、類が困ったように眉を下げて笑った。
大きな鞄を持って立ち上がる類に、口から出かけた言葉を飲み込む。『どうせ連絡しても来ないくせに』そう言ってしまいたかった。数日分の着替えと必要最低限の工具を持って、どこかのホテルで数日過ごすのだ。オレに会わないために。
背を向けて玄関の扉を開ける類に、口を開きかけて、慌てて閉じる。『行くな』なんて、言えるわけがない。
パタンと閉じた扉を見つめていれば、ゆっくりと鍵がかかった。そのままその場にぺたんと座り込んで、小さく息を吐く。
「………馬鹿…」
空気に溶けたその言葉は、類には届かなかった。
―――
結婚には、二つある。
まず一つは、男女での結婚。お互いに好いた相手と生涯を共にするためのものである。
もう一つが、同性同士でも可能な番としての結婚。この世界は男女の性ともう一つ第二次性と呼ばれるものがある。α、β、Ωという三つの性だ。この三つの性の中で、αとΩに関してのみ、ある条件下で“番”になれる。
番とは、男女の夫婦とよく似ていて、けれどそれ以上に強い繋がりのようなものだ。一度番になると解消出来ないので、番関係を結ぶ相手は慎重に選ばねばならん。そして、それだけ強い繋がりなら夫婦と変わらない、という事で、一般的に番関係を結ぶと殆どがその時点で籍を入れ夫婦となる。番がいるのに籍を入れていないと、娼婦や何かと疑われる事になる。過ちで番関係を結んでしまっても、Ωの特性で誤解されやすいからだ。
(まぁ、オレと類もそんな感じだったのだから、仕方あるまい…)
脱衣所に向かって、洗濯物のカゴを覗き込む。綺麗に洋服の無くなっている類の籠に溜息を一つ吐いて、脱衣所を後にした。用意しておいた大きなタオルケットを頭から被り、体を覆う。そのまま類の部屋の扉の前に立ち、深く息を吸い込んだ。そっと扉を開けば、ぶわりと甘い匂いがして、自然と喉が音を鳴らす。入口から顔を覗かせるように中を見渡して、手近な場所に置いてある類の上着を掴んだ。鼻を近付けて軽く吸うと、類の匂いに混じって他人の匂いがする。それに顔を顰め、上着を元の場所に戻した。
(…ハンカチでいいから、一つくらい残してくれればいいものを……)
簡単に持ち出せそうな物が見当たらない事に、段々と焦ってしまう。あまり長時間類の部屋には居られない。オレの匂いが残っては困るんだ。部屋の奥にあるベッドの上に置かれた枕が目に入り、無意識に手に力が入る。間違いなく、類の匂いが残っているだろう。だが、それを持ち出して、万が一オレの匂いが付いてしまっては困る。困るが、今は類の匂いが傍にないと落ち着かないのだ。
(………治まったら新しいものを…いや、勝手に類の私物を買い換えるのは……だが、…)
ぐるぐると頭の中で文字が回り出す。
匂いがつくなら、新しく買い直せばいい。けれど、勝手に新しいものに替えて類がどう思うか。だが、それ以外で類の匂いを手に入れる方法が思い付かない。前回の時は捨ててもいい程着た洋服を勝手に拝借して、新しいシャツを代わりに贈った。その前はカーテンを替えようと提案して入手した。そう何度も買い替えるのは…。
洗剤の匂いのするタオルケットを強く握り締めて、そっと部屋の中に踏み込む。そろ、そろ、とベッドに近付いて、白いカバーのついた枕を掴んだ。手早くカバーを外して鼻先に寄せると、ぶわりと類の匂いがする。
「っ………」
ゾクゾクゾクッ、と腰が甘く痺れて、その場にへたり込んだ。体の中心から熱が広がる様な感覚に、タオルケットの端を強く握りしめる。ダメだ。早く出なければ。そう思うのに、部屋の至る所から類の匂いがして、頭の奥がふわふわとしてしまう。こんなに強く類の匂いを感じるのは、久しぶりだ。
「………………す、きだ、…るぃ…」
くるん、とその場に丸まって、類の枕カバーに顔を押し付ける。体の奥からじわじわと高まる熱に、ぼろぼろと涙が滲む。この場にいない自分の番に、今まで一度も言ったことの無い想いを、小さく零した。
―――
類と番になったのは、高校を卒業する頃だった。
周りにも認められる程、誰よりも類と仲が良かった自覚もある。お互いの第二次性に関しても、知っていた。知っていたが、あの日オレは急に校舎の中で発情期を起こしてしまい、たまたま傍にいた類を巻き込んだ。近くにあった空き教室へ二人で入って、抑制剤を飲ませてくれた類の顔を自分の項に抱き寄せ、『噛んでほしい』と強請った。発情期のΩのフェロモンで抵抗が弱まっている類に甘えて、浅ましく強請って、無理矢理番になったんだ。
類は優しいから、オレの体裁を気にして籍も入れてくれた。事実上の夫婦になって、高校を卒業と同時に急遽同棲が始まった。元々類が好きだったオレとしては、願ってもない事だった。
幸せだった。だが、それは、オレの一方的な想いだ。
『無理に僕を番だと思わなくていいよ』
そう悲しそうに笑う類の顔を、今でも覚えている。
『書類上は“夫婦”だけれど、僕は君を“仲間”だと信じているから』
類の言葉で、目の前にはっきりと線が引かれた。
世間体を気にして籍を入れた“偽物夫婦”。項に刻まれた噛み跡も、類にとっては“呪い”に等しいのだろう。いつもと変わらない雰囲気を装って、類はへらりと笑う。その笑顔に、胸の奥がずたずたに切り裂かれるかのようだった。
(このまま番として隣に居続ければ、いつか情を持ってもらえるだろうか…)
多少で構わない。夫婦とまではなれなくても、大切な人として、オレが類の一番になれたら嬉しい。そう期待をするだけなら、許されるだろうか。
そんな風に自分に言い聞かせ、精一杯類の“番”を演じた。朝は類を起こして、ご飯は三食作って、掃除も洗濯も頑張って…。大学は同じ所に入学が決まっていたから、殆ど一緒にいられた。といっても、選択授業だけはお互いに受けたいものが違い、別々に受けることとなったが。それでも、類と一緒に居られる時間が少しでも長ければ長いほど嬉しかった。
精一杯、友人の枠を脱したくて、類に尽くすと決めた。それは確かに楽しかった。きっと、オレだけではなく、類も。そう信じていた。
大学卒業後、オレと類は別々の劇団に入団し、家の外では殆ど顔を合わせなくなった。
―――
(類side)
「…ただいま」
そっと玄関の扉を開くと、ふわりと甘い匂いに包まれる。それにほんの少し安堵して、中へ足を踏み入れた。
玄関に靴は置いてある。至る所からする甘い匂いは少し薄れてしまっている様だけれど、確かに自分の番の物だ。
(………いない…)
リビングの扉を開けてみても、誰もいない。一人分の食事が用意されているだけだ。それを横目に自室の扉に手をかける。ゆっくりと開けると、一瞬家の中の甘い匂いと同じ匂いがした気がした。けれど、それは本当に一瞬で、すぐ別の匂いに上書きされてしまう。
出ていった時と殆ど何も変わらない室内の様子に、小さく息を吐いた。
「……“今回”も、使ってはくれなかったのかな…」
部屋の真ん中まで行けば、別の匂いが強くなる。彼が用意しただろう市販の消臭剤の匂い。Ωのフェロモンの匂いすら消してしまう、効力の強いもの。この匂いは、あまり好きではない。
出掛けた時と何ら変わりのない室内を見回して、荷物を床に置く。もう一度零れた溜息が、やけに大きく聞こえた。
「……番なのに、全く必要とされないのは、寂しいかな…」
ころん、とベッドの上に転がって、匂いが全く付いていないことに落胆する。
αの僕には、Ωの番がいる。高校の時からずっと片想いをしてきた、大切な番が。過ちで僕のモノにしてしまった、大事な仲間が。
(…抑制剤が効いて、もう発情期は治まったはずだから、今は部屋で休んでいるのかな……)
ぼんやりとそんな事を考えながら、目を瞑った。脳裏に浮かぶのは、数年前に見てからずっと忘れられない司くんの笑顔だ。
―――
『好きなやつなら、いるぞ』
そう言った司くんの顔は、どこか恥ずかしそうで、けれどとても嬉しそうな顔をしていた。えむくんが目をキラキラさせて更に深く聞こうとしていて、僕もつい耳を傾けてしまった。高校二年生も終わろうとしている頃の話だ。
結局、司くんは相手を言わなかったけれど、あの時、一瞬彼と目が合った気がした。不思議と、彼が僕を想ってくれているのではと、思ってしまった。司くんの一番近くにいる自覚もあった。だから、その後もできる限り彼の隣に居続けた。
そんな風に過ごして、あっという間に一年が経ち、あの日 過ちを犯した。
『……るぃ、…かんで……はやく…』
酔ってしまいそうな程強い甘い匂いと、触れたいとずっと思ってきた白い項。床に落ちた黒いチョーカーも、ほんの少し汗ばんだ肌も、肩口にかかる荒い吐息も、全て夢の中の様に現実味がなかった。噛みやすい様に僕を抱き締めて自身の一番大切な所を差し出す司くんに、ごくん、と喉が大きく音を鳴らす。飲み込んでも、飲み込んでも、飲み込んでも、すぐに唾液が口の中に溜まっていく。
(…………ここを噛んでしまえば、…彼は、一生僕のモノに…)
自分の呼吸の音が、段々と早くなっていく。
ずっと、司くんを想ってきたんだ。こんな風にその身を差し出されて、理性が保つはずも無い。けれど、まだ僕の想いを打ち明けていないのに、こんな状態の彼の言葉を鵜呑みにして良いのだろうか。
ぐっ、と奥歯を噛んで必死に理性を繋ぐ僕に焦れた司くんが、一層強く僕を抱き締めた。すり、と首元に額が押し付けられ、甘える様な声音で『るい』と名前を呼ばれる。すん、すん、と鼻を鳴らす音がすぐ近くから聞こえて、ぶわりと体の奥から熱が広がっていくのがわかった。
『…るいのにおい…すきだ……』
『っ……』
『…………かんでくれ…、るいに、かんでほしい…』
その瞬間、ぷつりと何かが切れる音がした。
大きく口を開けて、目の前に晒された白い肌に思いっきり歯を立てる。びくっ、と肩を跳ねさせた司くんが背を丸くさせて声にならない声を上げるのを感じながら、僕より少し小さい体を抱き締めた。血が滲むほど強く噛んだ項に、“僕の所有印”が残る。
それを見た瞬間、今までにない程 胸の奥が満たされた。
(……あぁ、これで、…司くんは一生僕のモノだ…)
ぐったりとする司くんを抱きしめたまま、目を瞑る。嬉しくて、堪らなかった。ずっと欲しいと思っていた彼が、僕のモノになったのだ。彼の周りには、他にもαが集まってくる。いつか、誰かに取られるのではと不安だった。だから常に傍にいたんだ。その不安ももう、必要無くなる。誰が寄ってこようと、司くんが他人のモノになる事は一生ない。
それがどうしようもなく嬉しくて、ただただ幸せだった。
『…大好きだよ、司くん』
番の契約は、Ω側が心に強い衝撃を受けると聞いた事がある。特定のαの番として、体内で変動が起きるからだ。それなら、もう暫く目を覚まさないかもしれない。今のうちに彼を保健室に運ばなければ。ついでに、荷物もまとめて、帰りにこの先の話もしよう。
それから、ずっと抱いてきたこの想いも、彼に打ち明けよう。
(……喜んでくれるだろうか…)
想いが返ってきてくれたら、嬉しい。絶対に幸せにするという自信だけはある。司くんを笑顔にするのは、得意だ。だから、早く目を覚ましておくれ。
そう願いながら、急いで司くんを保健室に運んだ。
教室に荷物を取りに行って彼の待つ保健室に戻ると、司くんは目を覚ましていて、呆然と項を手で押さえていた。ぼろぼろと涙を零してシーツを見つめる彼を見た瞬間、僕は言葉を失い、自分が犯した過ちの重大さを痛感した。
僕に気付くと、彼はすぐに目元を拭い笑ってくれた。僕の前では気丈に振る舞う司くんに、『好き』という身勝手な言葉は言えなくなってしまって、ただ、『ごめんね』と謝る事しか出来なかった。
謝らなくていい、そう笑ってくれた司くんに、僕はぎこちない笑顔で返した。
―――
「あぁ、帰っていたんだな。おかえり、類」
「…ただいま、司くん」
部屋を出ると、司くんが丁度お風呂から上がったところだった。どうやら、自室ではなく浴室にいたようだ。乾かしたばかりの髪を軽く手で整える司くんが、へらりと笑う。
「ご飯は適当に食べてくれ。オレはまだ、食欲がもどらなくてな…」
「……そう。それならお言葉に甘えて、頂くね」
「あぁ。片付けをしなければならんから、また明日な」
「うん。お休みなさい」
逃げる様に部屋に入っていく司くんに、ゆっくりと息を吐き出す。
どうやら、彼の発情期は完全に落ち着いたようだ。まぁ、それを見計らって帰ってきたのだから、当たり前なのだけど…。
(番が発情期の時にそばに居ないなんて、最低だね…)
Ωは定期的に発情期を発症する。番のいないΩは、αだけでなくβすら惑わすフェロモンを発し、理性が薄れて ただ自分を護ってくれる番を求める様になる。番のいるΩは、発情期の間だけ一時的に子どもを作る為の身体になり、番のαだけを自分のフェロモンで誘い始める。発情期中のΩの妊娠率はとても高く、ほぼ確実に身篭ると聞いた。
司くんも、定期的に発情期を起こす。頻度は五ヶ月に一度と、一般的なΩの周期に比べて少ない方だ。発情期を発症する時期は、番のフェロモンが急に強くなる事と、自分のΩを無性に甘やかしたくなるαの本能的なもので、そろそろだろうと予測出来る。
もう少しだと感じたら、すぐに家を出る準備を始め、司くんの発情期の期間に合わせてお互いに離れるのが、彼と籍を入れてから当たり前になっていた。
(……発情期後なのに、家の中の彼の匂いが薄いのは、どこかに出かけていたからなのかな…)
ぼんやりと浮かんだその考えに、ぞわりと背が粟立つ。
一度だけ、発情期を起こした司くんに誘われた事がある。『抱いてほしい』と強請る姿に、理性が揺らいで必死に繋ぎとめた。その瞳に映った自分の顔は、なんとも情けない顔だったと思う。他の誰かを想っている彼が、初めてその時、『類が好きだ』と口にした。泣いてしまいそうな程嬉しいと思う反面、そんな偽りの愛が欲しいわけではないと悲しくなった。だから、半ば強制的に抑制剤を飲ませて、彼から距離をとった。
それ以来、司くんが発情期を発症する期間は、家を出るようにしている。彼がまた本能に飲まれて理性を失うのが怖くて…。そんな彼を、僕の手でまためちゃくちゃにしてしまうのが怖くて…。
「……………最低だ…」
そう小さく呟きながら、手で額を覆った。
―――
(司side)
『正直、Ωの匂いが昔から苦手だったんだ』
職員室からの帰り道でたまたま聞いたその言葉に、背筋がゾッとする程冷たくなった。
類を好きになったばかりの頃の話だ。類と一緒にショーをすると決めた時に、類がほんの少し変な顔をしていたのを思い出す。丁度その時、類に自分の第二次性について話したはずだ。類と一緒にいる以上、隠しておけない話だから。
幸い、Ωに対しての差別意識は昔に比べて殆どないので、生活はしやすい。発情期は面倒だが、処方される抑制剤さえ用量を守って服用していれば、生活に支障はなかった。バース性による事故はまだまだ多いが、身近で起こっている状況はまだ見た事もない。だから、類と一緒にショーをやる事に対して、懸念事項はそれほど無かった。むしろ、類のそばに居るのは、居心地良く感じてさえいた程だ。
だから、類のその一言を聞いて、自分がどれ程現状に対し楽観視していたのかを知った。
(……そうか…、だからあの時、類は変な顔をしていたのか…)
オレがΩだと打ち明けた日の顔は、何となく覚えている。驚いた様な、けれど顔を顰めるかのような、そんな顔だ。きっと、Ωであるオレと組んだのを、後悔していたのかもしれない。自分の匂いなんて、自分では分からない。だが、類の傍にいるのはどうしたって幸せで、離れ難いと思ってしまうんだ。
そんな風に感じるという事は、きっと、Ωのフェロモンも強く発しているのかもしれない。
(…類の傍にいる時は、極力匂いを抑えられる様に対策しなければならんな……)
ぼんやりとそんなことを考えながら、オレは二人に合わないよう廊下を迂回した。
―――
「………………やってしまった…」
もぞもぞと布団の中に潜り込んで、頭を抱える。
予定より早く帰宅した類に驚いて、逃げる様に部屋に駆け込んでしまった。きっと、オレの態度は悪かっただろう。類は優しいから、これくらいでは怒らないと思う。そうは思うが、このままでは夫婦として一向に進展も出来ないだろう。
もぞもぞと布団の中で寝返りをうち、こっそり持ち込んだ枕カバーに顔を埋めた。
(……やはり、類の匂いは落ち着くな…)
結局、耐え切れずに類の枕カバーを盗んでしまった。予備に買っておいたカバーがあって良かった。お陰で、類はカバーが変わった事にも気付かなかっただろう。いつもの様に、オレの匂いは消臭スプレーで消したので、類が困ることも無いはずだ。類と同棲し始めてからずっとしてきた事だから、もう習慣のようになってしまった。
Ωの匂いが苦手だと言った類の為に、ずっと持ち歩くようにしている消臭スプレー。発情期の匂いも薄めてくれるので、かなり重宝している。
体裁を気にしてオレと籍を入れてくれた類に、オレが出来る恩返しの一つだ。
「…類が、帰ってきてくれて、…良かった…」
発情期の度にホテルに泊まる類を見送るのは、毎回不安で堪らなくなる。もしこのまま帰ってこなかったら、と、嫌な方向に思考が傾いてしまうんだ。帰ってきてくれると、知っているはずなのにな。
番同士になると、Ωのフェロモンもαのフェロモンも、番相手にしか感じ取れなくなる。だから、オレは類以外のαの匂いはもう分からない。類も、オレ以外のΩの匂いは、もう分からないはずだ。それが、“番になる”という事。番になる最大のメリットであり、お互いだけという証。
同時に、オレにとっては一生消えない“呪い”の様なものだ。
「…今度、…類と観劇に行きたいな…」
高校生の頃は、あんなにも毎日類と顔を合わせていたのだが、今は一日に一度顔を合わせれば良い方にまでなってしまった。同じ屋根の下で暮らしているはずなのに、何故こうも寂しくなるのだろうか。
あの頃のように、休みを合わせて類と出掛けたい。一緒に観たいと思っていたショーに、類を誘いたい。出来ることなら類と手を繋いで、二人きりで…。
「………そういえば、…最後に類に触れたのは…いつだったろうか…」
ふと抱いた疑問に、ざわ、と胸の奥に嫌なものが広がっていく。
それを振り払うように首を左右に振ると、机の上のスマホが大きく音を鳴らした。
―――
(類side)
「…司くんの声…?」
ふと聞こえた声に顔を上げる。時刻は夜の九時を回った辺りだ。部屋の片付けをすると言って部屋に入っていった彼は、どうやら誰かと話をしているらしい。その楽しそうな声に、ほんの少し胸の奥が ぎゅ、と苦しくなる。
(……そういえば、彼が笑っている声を聞くのは、久しぶりかもしれない…)
発情期で家を空けていたのもあるけれど、ここ数年は、あまり顔を合わせて話をした記憶がほとんど無い。必要最低限の会話で、さっさとお互いの自室に篭ってしまっている。お互いに、どこか引け目を感じているからかもしれない。
なんだか集中出来なくて、読み掛けの本を閉じた。そのままソファーを立ち上がり、彼の部屋の前に立つ。聞こえてくる声は、やっぱり僕と話す時よりも楽しそうだ。何となく耳を傾けていれば、彼が昔から仲のいい後輩くんの名前が聞こえてくる。αである彼の知り合いの名に、ぞわりと背が粟立った。
「良いのか? それなら、明日、そちらにお邪魔させてもらおう!」
どうやら明日の約束をしているようだ。確か、明日は早朝からの稽古だったはずだ。
ちら、とリビングの壁に掛けられたカレンダーを見て、ほんの少し眉を顰める。仕事上がりに、会いに行くのだろうか。そんな嬉しそうな声で話すなんて、ずるいなぁ。行かないで、なんて止めたら、司くんはきっと悲しそうに笑って頷くのだろうね。それとも、断られるだろうか。会いに行くだけだと、不機嫌そうな顔をされるのかな。それは、嫌だなぁ。
(………けれど、いくら僕と番になったからといって、他のαに会いに行くのは、どうなのか…)
彼にとっては、大切な弟の様な存在かもしれない。けれど、向こうはどう想っているかなんて分からないのに。それに、司くんには高校生の時から“想い人”がいる。それはつまり、そういう事なのだろうか。
もやもやとしたものが、胸の奥に広がっていく。番関係は、生涯解消が出来ない。死ぬまで彼は、僕の番のままだ。司くんのフェロモンは僕にしか感じ取れないし、司くんも僕以外のαのフェロモンは分からない。発情期を発症したとしても、司くんが求められるαは僕だけだ。子を成す事が出来るのも、僕とだけ。
あの時、お互いに第二次性に惑わされ、間違って番関係を結んでしまったけれど、もうそれを取り消すことなんて出来ない。
(…それなのに、……事実上は僕のモノなのに、何年経っても、司くんは僕のモノになってくれないままだ…)
彼の方から、僕に近寄ってくれる事が殆どない。笑ってはくれるけれど、どこか寂しそうな顔をしていたり、ぎこちない笑い方ばかりだ。隣に並んで座る事も、しなくなった。彼の甘い匂いを消してしまう、市販の消臭剤の匂いが恨めしい。えむくんや寧々を呼んで四人で出掛ける時くらいしか、彼が楽しそうに笑うのを見なくなった。避けられている気がしてしまって、彼とどう接していいのか分からない。
それなのに、僕以外とはそんな風に楽しそうに会う約束をしてしまうの?
「良ければ、情けないが相談に乗ってもらえると助かる。宜しく頼むぞ、冬弥」
楽しそうな会話が、そこで途切れる。
ゆっくりと自室に足を向けて、扉を開いた。真っ暗な室内に踏み込み、そのまま扉を閉める。物がごちゃごちゃとした床を避けて進み、ベッドに倒れ込むように横になった。
胸の辺りが、ツキツキと痛む気がする。
(…………司くんに、もう一度触れたい…)
最後に触れたのは、いつだっただろうか。そんな事をぼんやりと考えながら、暗闇の中 目を瞑った。
―――
「お兄さん。隣良いですか?」
「……どうぞ…」
何となく帰る気にならなくて、家の近くのバーに立ち寄ってしまった。
司くんは、今頃青柳くんに会っているのだろうか。もやもやとした気持ちのままお酒の入ったグラスを煽ると、高い声が隣から聞こえてくる。ほんの少し胸元をはだけさせた女性が、僕の肩に手を置いた。断るのも面倒で適当に頷けば、彼女はにこにこと隣に座る。お酒を一杯頼む彼女を横目に、グラスの中身を飲み干して席を立ち上がった。
「ごゆっくり」
「えー、良いじゃないですか、少しだけ付き合ってくださいよ」
「……番が居ますので」
首元に見えたチョーカーに、眉を顰める。匂いは全く分からないけれど、彼女はΩだろう。僕の匂いも彼女にはしないはずだから、αを目的としたお誘いでは無さそうだ。僕の腕を抱き締めるように掴む彼女に短く断りを入れると、その目がきょとんと丸くなる。
「お兄さん、番が居るんですね。残念」
「そういう訳だから、一緒には飲めないよ」
「私も番が居るので、安心してください。奥様にバレるのは困るんですよね?」
「分かっているなら、他を当たってほしいのだけど…」
ぐいぐい、と僕の腕を引く彼女は、離す気が無さそうだ。座って、と頼まれて、片手で額を押さえる。胸に腕を押し付けるのも、止めてほしい。司くんにこんな所を見られたら、誤解されてしまうかもしれない。
(……いや、…彼は、僕が誰といても気にしないか…)
昨日の楽しそうな声を思い出してしまって、何故だか急激に離れなければという気持ちがおさまってしまう。
司くんも、僕に内緒で僕以外のαに会いに行っているんだ。そう思うと、胸の奥がまたもやもやとし始める。番のいる彼女が相手なら、Ωの匂いも僕には残らないだろう。まだお店に入って間も無い。今帰っても、司くんは家に居ないはずだ。何時に帰ってくるかなんて、知らないけれど…。
「相談、乗ってくれませんか? 今夜の分は奢りますから」
「……とりあえず、少し離れてくれるかい?」
「お話してくれるなら、離します」
「……………一杯だけ、なら…」
はぁ、と一つ溜息を吐くと、彼女が嬉しそうに笑う。
仕方なく僕が席に座り直すと、彼女は店主に新しいお酒を注文し始めた。話を聞いて、お酒を飲んだら帰ればいい。これは、浮気では決してないから。僕が好きなのは、司くんだけだ。僕の、一方的な片想いではあるけれど…。
カウンターに置かれたお酒は、先程飲んだものよりも少しアルコールの度数が高いものだった。けれど、多少の罪悪感を消すには、この方がいい。
「番と喧嘩して、少しむしゃくしゃしてたので、嬉しいです」
「………そう…」
「お兄さんが良ければ、奥様のお話、聞かせてほしーな」
「…………」
甘えるような高い声と、作った様な笑顔に、顔を顰める。出されたお酒を一口飲んで、司くんの顔を頭の中に思い浮かべた。僕の前で見せる、少しぎこちないその顔に、ゆっくりと息を吐く。
司くんも、彼女のように僕に笑いかけてくれたら、どれだけ……。
(…いや、彼に作り笑顔を向けられるくらいなら、…それもなくていい…)
グラスを片手に自嘲して、僕は名前を伏せたまま司くんとの事を初対面の彼女に話し始めた。
―――
(司side)
「感謝するぞ、冬弥!」
「こちらこそ、ありがとうございます」
「オレも、丁度 類を誘ってどこかに出掛けたいと思っていた所だったんだ!」
冬弥から受け取った封筒を鞄にしまって、もう一度御礼を言う。
昨日、冬弥から映画のチケットを貰ってくれないか、と連絡を受けた。どうやら、彰人と見に行くはずだった映画に、予定が入って行けなくなったそうだ。丁度類と出掛けたいと悩んでいた時に来た連絡だったので、二つ返事で受けてしまった。類には相談をしていないが、きっと喜んでくれるだろう。
(…映画の上映中は類との距離が近くなって自分の匂いが気になるが、この際致し方あるまい)
Ωの匂いが苦手だと言っていた類の言葉が気になってしまって、無意識に類から距離をとる癖がついてしまった。だが、番なのだから、少しは類と距離を縮めたい。類にも、その話をしなければ…。
「お二人は本当に、仲が良いですね」
「………ぁ、…ぃゃ、…そ、ういう、わけでは…」
「高校の時のお二人は、まだ番同士では無いのに、そう見えましたから」
「……そぅ、か…」
冬弥が優しげに目を細めてオレにそう言った。そんな冬弥の言葉に、上手く言葉が出てこない。あの頃は、確かに誰よりも類の傍にいた。あまり匂いも気にせず、隣で笑っていたと思う。番になってからは、何もかも上手くいかなくて、変にぎくしゃくとしてしまっているが…。
類を好きな気持ちだけは変わらないのに、何故、こんなにも上手くいかなくなってしまったのか。
「…そろそろ、帰らねば。類が心配するかもしれん」
「そうですね。今日はありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとう、冬弥」
ひらひらと手を振って、冬弥に背を向けた。
これ以上、冬弥の前で作り笑いをするのは気が引けたからだ。本当は、類との事を相談したかったのだが、やはり言いづらい。番をその気にさせる為には、どうしたら良いか、など…。そんな破廉恥な事を、いくらαだからと、後輩の冬弥に聞けるはずがない。
(……この映画を機に、自分で類に聞いてみよう)
当たって砕けろ、と言うやつだ。類に聞いて、類の素直な返事を貰えばいい。オレを番として見れないなら、最悪の場合“番関係の解消”も視野に入れて。
うん、と一つ頷いて、オレは早足に類との家へ帰った。
―――
「ただいま」
「…ぁ、…類、おかえりっ…!」
玄関のドアが開く音で、慌ててリビングを飛び出す。いつもの帰宅時間をとうに過ぎていたので心配していたが、類が無事に帰ってきて安心した。
ほんのりと顔の赤くなった類は、オレを見ると不思議そうに目を瞬いた。具合が悪いのだろうか、と目の前まで近寄った所で、ふわりとお酒の匂いが鼻先を掠める。次いで、知らない匂いが類からしてきて、咄嗟に手で口元を覆う。二、三歩後退れば、類がオレからかおをそむけた。
「帰っていたんだね…」
「……………遅くなるなら、連絡をしてくれ…心配するだろ…」
「……次は、そうするよ」
オレの横を通り過ぎた類に、言葉を飲み込んだ。
『誰の匂いだ?』などと、聞けるはずがない。聞かれたくないかのように低い声であっさり返事を返す類には、余計に聞けないだろう。だが、この匂いは“Ωの匂い”だ。オレ以外の、Ωの匂い。
(…たまたま、仕事先の人と飲んで、その相手がΩだった、とか……)
理由なんていくらでも思いつく。
類は、オレ以外のΩの匂いが分からない。αの番を求める甘いフェロモンの匂いが。同じΩに対して、『この人は自分のモノだ』と誇示する匂いが。オレ以外が発するその匂いが、類は分からない。こんなにも堂々とマーキングされていても、当の本人は気付かないのだろう。
もやもやとした気持ちを胸の奥に押し込んで、類の後を追ってリビングに向かった。
「夕飯はどうするんだ…?」
「……今日はいらない。明日、食べるよ」
「それなら、先に風呂に入るといい。だがその前に、水だけ飲むか…?」
「…………ありがとう、そうするよ」
どうぞ、と水を入れたグラスを類の前に置けば、類はそれを一気に飲み干した。
黙ったまま手に持ったグラスを見つめる類から、ほんの少し距離をとる。他のΩの匂いは、苦手だ。番になったオレがこんなにも類を困らせないようにと気を付けているのに、他のΩの人達は簡単にその匂いを類につけてくる。類にとって、オレ以外のΩのフェロモンはもう“無いもの”と一緒だ。
オレだけが、類の苦手な匂いを纏ったまま。
(……そう考えると、類の苦手な匂いは、オレの匂いという事になるんだな…)
なんとも皮肉な話だ。
類が好きで、誰よりも一番近い席を手に入れたのに、誰よりも遠い場所にいる。そんな強い匂いが付くほど傍に寄れる顔の知らないΩの人が羨ましい。オレにしかもう、この匂いは分からないのだ。匂いの分からない類に、『他人の匂いをつけないでほしい』なんて我儘を言ったところで、伝わるはずもない。
なにせ、類が選んだ劇団にも、類に匂いを纏わせる女性のキャストさんがいるんだ。その匂いの事も、類はいまだに気付いていないのだろう。
(早く、この匂いを消してしまいたい…)
類からしてくる、この甘ったるい匂いが気持ち悪い。類の匂いに混じっていて、まるで類が取られたかの様な気分だ。オレの番なのに、オレより強く他人の匂いをつける類が恨めしい。
類の分の食事を片す事を言い訳に、類に背を向ける。類がお風呂に入ったら、換気と消臭スプレーで匂いを消そう。類の服は洗濯すればいい。
類がお風呂から出た時に、冬弥から貰った映画の話をしよう。そう頭の中でこの後の流れを決め、ぐっ、と握った手に力を入れる。と、いつの間にか近寄ってきていた類が、シンクに飲み終わったグラスを置いた。
「………る、ぃ…?」
ラップで包んだお皿を手で持ったまま、固まる。
シンクにグラスを置いた類が、目の前で じっ、とオレを見詰めていた。ほんのり赤い頬と、ほんの少し皺の寄った眉間、引き結んだ唇と順に視線が向いて、最後は月色の瞳と目が合って逸らせなくなってしまう。じわぁ、と頬が熱くなる気がして、お皿を持つ手に力が入った。
強くなった他人の甘ったるい匂いに、無意識に顔を顰めてしまう。
息を詰めると、目の前で黙ったままの類が、小さく溜息を吐いた。
「…無理に僕の相手をしようとなんて、しなくていいんだよ」
「…………ぇ…」
「………いや、なんでもない」
お風呂、入ってくるね。そう呟くように言って、類がオレに背を向ける。
何を言われたのか分からなくて、その場で立ち尽くした。引き止めるという発想も浮かばず、ただただ類の言葉の意味を考えてしまっていた。
「………無理をしているつもりは、ないのだが…」
そう見える、ということなのだろうか。類の前で、オレはそんなにも嫌そうな顔をしていたのか。それは、かなり類に失礼な事をしていたことになる。確かに、類から他人の匂いがして、顔を顰めてしまったかもしれないが、普通はそういうものなのでは無いだろうか。
オレがおかしいのか…?
「……類の方こそ…、オレから逃げるくせに…」
訳が分からなくなって、その場にぺたん、と座り込む。
結局、その日は類に映画の話を出来ないまま、お互い自室で寝た。