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    yuduru_1957

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    yuduru_1957

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    7月新刊のサンプルです。
    類司🎈🌟 死ネタありです。

    #類司
    Ruikasa
    #死ネタ
    newsOfADeath

    Automatos agape prologue
     
     ——早いもので、類と出会ってからもう五年が経った。
     
     目覚まし時計の音に起こされ、寝ぼけ眼で画面に表示されているデジタル表記の日付けを見て、ふとそんなことを思い出した。
     遮光カーテンに覆われた窓の向こうでは、穏やかな秋晴れの青空にいわし雲が気持ち良さそうに泳いでいる、そんな爽やかな朝だった。朝特有の肌寒さは感じるものの、パジャマの上からカーディガンを一枚羽織れば気にならない。
     今日は日曜で大学の授業もバイトもない。演劇部の練習も休みだ。せっかくなので、今日は類と今まで過ごした日々を思い返すことにしよう。
     伸びをしながらベッドの上で起き上がる。ぱきり、と固まった関節が悲鳴を上げ、最近ストレッチをサボり気味だったと思い出す。
     紫色のスリッパと黄色のスリッパがキングサイズのベッド脇に並べられていて、迷わず黄色のスリッパに足を入れる。オレの足では紫色のスリッパはサイズが大きすぎてすぐに脱げてしまうのだ。
     パジャマにカーディガンを羽織ったまま、キッチンに立って類がよく好んで飲んでいた少し濃いめのコーヒーと、オレが好きな甘いバームクーヘンを準備する。ケトルに水を注いで火にかけている間に冷蔵庫から出して切り分けたバームクーヘンを皿に乗せておく。ついでにフォークとティースプーンもトレーに乗せた。
     しゅんしゅんとケトルの先から湯気が沸いて、慌てて火を止めた。
     コーヒーはちゃんと豆から挽いたものを使ってドリップする。数年前はミルの使い方なんてさっぱりだったが、類に何度も教えてもらい、今ではちゃんと使いこなせるようになった。
     本当は挽き立ての豆の方が美味しい、とは類の言葉だったが、オレはそこまで味の違いが分からないので挽いた豆を密閉できる容器に入れてある。ペーパーフィルターに粉状のコーヒーをスプーンでひと掬い。舞うように匂うコーヒーの香りに眠気が覚めていく。熱い湯を注ぐと、じゅわりと音を立てて水気を含んだコーヒーの粉が膨れ上がる。一滴、二滴とマグカップに黒い液体が溜まっていく。八分目まで湯を注いだところでペーパーフィルターをゴミ箱に捨てた。
     黒々とした液体はそのままでは飲むに耐えない。「司くんはまだまだ子どもだね」と、揶揄うような類の声が聞こえてきそうだ。そこに角砂糖をふたつとたっぷりのミルクを入れて、やっとオレにとって飲み物に昇格できるのだ。揶揄いながらも類がコーヒーを淹れてくれた時は、何も言わずとも角砂糖とミルクが入った状態で出してくれたんだ。
     初めこそ、甘いものを食べるならバームクーヘンよりラムネが良いと言われたが、ひと口食べると気に入ったのかふた口目に伸びる手は早かった。それ以来、うちにはこのバームクーヘンが常備されるようになったんだ。
     二人で住むようになって、一日に何度も使われていたダイニングテーブルに腰かける。このテーブルとの付き合いもすでに四年目だ。細かい傷がいくつも入っていて愛着が湧き、何となく胸が熱くて切ない。
     湯気の立つベージュ色のコーヒーをひと口。砂糖とミルクで誤魔化しきれない苦味と酸味に眉を顰め、フォークで小さくカットしたバームクーヘンを口に運んだ。うむ、ちょうど良い甘さだ。
     類と出会った頃やそれ以前はコーヒーよりも紅茶を好んで飲んでいたと思い出す。趣味嗜好が作り変えられて、改めてオレの人生における類の影響力を自覚する。だが、それはオレだけではなく、類もだった。でなければ「そろそろなくなりそうだったから」とお馴染みの店のロゴが入ったバームクーヘンを学校の帰りに買ってこないだろう。
     今、オレは卒業論文と就職活動に追われる大学四年生だ。だが、休学明けの身なので、恐らく来年も大学に世話になるだろう。ああ、断じて体調が悪かったとか、大きな怪我を負ったというわけではない。ただ今年の四月から半年間、諸事情で大学の講義を休んでいただけだ。
     
     さて、オレと類の思い出を語るには、高校二年の時から遡らねばならない。高校二年の時がオレの人生におけるターニングポイントだったと言っても過言ではないだろう。
     
     高校二年生の春、オレは類と出会った。楽しそうにフェニックスワンダーランドで、類が自ら作ったロボットとショーをしていたのを昨日のことのように思い出せる。当時の彼は別の高校から転校してきたばかりで、見事な演出を付ける類がまさか同じ学校に通う生徒だとは微塵も思っていなかったのだが。
     それから類をショーに誘い、喧嘩もしたが、フェニックスワンダーランドでワンダーランズ×ショウタイムを結成し、たくさんのショーをして高校を卒業した。実はアメリカに行った経験もあるんだ。ショーキャストのバイトに落ちたオレに声をかけてくれたえむと、傷付けたにも関わらずまた一緒にショーをしたいと言ってくれた寧々にも感謝の言葉は尽きない。
     高校の二年間はあっという間で、毎日を全力で走り抜けているといつの間にかオレ達は受験、つまり高校を卒業した後の進路について考えなくてはいけなくなった。漠然と演技に関する勉強ができればと考えていた。だが、どの大学を受験するか、とか専門学校にして早く実際の舞台で経験を積むか、とかそう言ったことは具体的に考えてはいなかった。
     数年後の先の見えない未来よりも、類達と共にショーをする方がオレにとってはいつの間にか重要になっていた。
     でも、スターになることを諦めたわけじゃない。
     類達とまた共に、そして今度はプロとしてショーをするため、オレは演劇を学べるK大学に入学を決めた。成績がさほど良くなかったオレが推薦入試を受けられるはずもなく、K大学との偏差値の差を埋めるためオレは受験勉強を本格的に始めなければならなかった。
     勉強ができなかったオレにとっては、フェニックスワンダーランドの宣伝大使と受験勉強の両立はかなり厳しいものだったが、類が自分からオレの受験勉強の面倒を見ると言ってくれたのだった。類が昼休みや放課後、分からないところをひとつずつ丁寧に教えてくれたおかげで、赤点をぎりぎり回避する程度のテストの点数がみるみる内に平均点を超え、どの教科も八〇点以上が当たり前になっていく。
     自分でもこんな点数が取れたのか、と嬉しく思う反面、類の影の努力を思い知った。
     頭のどこかで類の頭の良さは天才的なものだと思っていた。だが、それでは勉強のできないオレに合わせることはできないんだ。凡人に天才の考えていることが分からないように、天才も凡人の考えが分からない。ニュアンスが伝わるか微妙なところだが〝分からないことが分からない〟と言うやつだ。
     だが、類はオレが躓いた所を噛み砕いて教えてくれる。その説明は勉強が苦手なオレでも理解できるほどとても分かりやすく、オレがめきめき成績を上げることができた。勉強を楽しい、と思えるようになったのは類のおかげだった。
     おまけに類はオレの扱い方を熟知しており「この分野はショーのこういう所に活かせるんだよ」とひと言添えられればやる気も出ると言うものだ。

     そして、高校三年生の冬——。類とは進路が違ったものの、彼のお陰で無事オレはK大学に合格することができた。
     自分の受験番号が合格者欄に書かれていた時の喜びは計り知れない。何よりその喜びを類と共に分かち合えたのが最高だった。合格発表にも受験当日にも類は着いてきてくれて、受験の時は寒空の下、何時間も待っていてくれたのだ。
     試験が終わり、スマホの電源を入れると「K大学の校門前で待っているよ」と類からのメッセージが表示された。慌てて門に向かうと、オレに気付いた類が寒さで鼻の頭を赤く染めながら手を振っていた。
     手の冷たさがずっと外で待っていたと物語っていた。悴んでほとんど感覚がなかったに違いない。氷のような冷たい両手を握っても類が手を握り返すことはなかったからだ。
    「バカ類! せめて温かいところで待っていろ!」
     怒鳴りつけても、類は相変わらず笑っているだけだった。何を笑っているんだ、と更に怒っても類は「君が心配してくれるのが本当に嬉しいんだ」としか言わなかった。
     その笑顔が本当に幸せそうで、あんまりにも綺麗だったからそれ以上怒る気にもなれず、K大学の近くにあるカフェに連れて行き、温かいコーヒーとその店おすすめの甘いバームクーヘンを注文したのだった。
     
     今だから分かる。
     類はもうこの時、自分の身体が病に冒されていると知っていたのだ。
     
     類の告別式が終わって一週間——。
     類が死んだことが未だに信じられず、一人分の温もりしか残らない広すぎるベッドから逃げ出して、こうして類の好きだったコーヒーとバームクーヘンを毎朝食べている。
     涙は出なかった。何だかまだ、類がひょっこり現れて当たり前のように話をするんじゃないかって、思い込みたかったんだ。
     
     ——だから、オレは夢を見ているのかと思った。
     
    「ねえ、司くん。自分だけ食べるなんてズルいよ。僕の分のコーヒーとバームクーヘンは?」
     シャワーを浴びていたのか、濡れた髪をタオルで拭きながら類が記憶と寸分変わらない笑顔で、当たり前のようにオレの向かいのテーブルに座ったのだから。

     一章 手付かずのバームクーヘン

    「ねえ、僕の分は……って司くん、どうしたの。そんなオバケでも見るような顔をして」
     目の前に類がいることが信じられず、ポカンと口を開けて、言葉を失っていると類がずいっと顔を近付けてきた。
     黙ったままのオレを心配する表情。金色の瞳、高校の時よりずいぶん伸びた腰まで届く紫色の髪。ふた房分の空色の髪も相変わらずだった。だが〝オバケでも〟なんて随分笑えない冗談だ。オレの妄想が作り上げた幻覚でなければ——今、目の前にいる類は幽霊かもしれないのに。それとも、本当に類が帰ってきたのだろうか?
    「司くん?」
    「あ、ああ……ちょっと待っていてくれ」
     慌てて類の分のコーヒーとバームクーヘンを用意しにキッチンへ向かう。とにかく、習慣となった行動をして混乱した頭と気持ちを落ち着かせたい。だが、コーヒー豆もバームクーヘンも、オレの分がちょうど最後だったと思い出す。挽いたコーヒーの粉を入れている密閉容器はシンクに置かれて水が溜まっていた。そうだ、今朝の分でなくなるから、また買いに行かなければと、昨夜冷蔵庫のドアに買い物メモを貼り付けていたんだった。
    「類、すまない。コーヒーもバームクーヘンも、オレの分で最後だったんだ……」
     とぼとぼとダイニングテーブルに戻るオレを、類は微笑みながら迎えてくれる。「大丈夫だよ」と項垂れるオレの頭を、優しい大きな手の平が撫でてくれた。
    「謝るのは僕の方だ。黙って一週間も部屋を留守にしてしまってごめんね。
     それじゃあ僕は……司くんが朝食を食べている姿を眺めていようかな」
     自分の分のコーヒーとバームクーヘンがなくても、類は拗ねたり怒ったりしなかった。聞き分けが良すぎるような気もするが、穏やかな微笑みを浮かべ続ける類の姿に鼻の奥が痛む。
     信じられないことだが、類が帰ってきたのだ。ここにいるのが当然と言わんばかりにテーブルに頬杖を突く姿は記憶の中にいる類と全く同じだった。
    「類、コーヒーはないが、麦茶ぐらいならあるぞ。それに、バームクーヘンは二人で半分ずつ食べれば良いだろう」
    「本当かい? じゃあ、ありがたく頂こうかな」
     麦茶とバームクーヘン。実にちぐはぐな組み合わせだが、飲み物がないよりはマシだろう。さすがにバームクーヘンだけでは喉が乾く。
     妙な緊張で手元が震えてピッチャーからグラスに注ぐ際、少しだけ零してしまった。麦茶が白い流し台の上に歪な楕円模様を作る。その茶色が、ぱたぱたと滲んでいく。両目から流れ落ちる透明な液体と麦茶が混ざって、歪な楕円がじわりと広がった。
    「…………司くん?」
     類の心配そうな声にハッと我に返る。
    「あ、ああ、何でもない。また後で買い物に行かねばと思っただけだ」
     冷蔵庫に麦茶の入ったピッチャーを戻し、類に背を向けたタイミングで目尻に溜まった涙をカーディガンの袖で拭った。赤くなった目は誤魔化せないかもしれないが、その時は昨夜映画を観て泣いてしまったのだと言い張ろう。グラスもちゃんと拭いておかなければ、麦茶を零したことがバレてしまう。類にこれ以上、余計な心配はさせたくない。
    「買い物に行くなら僕も連れていって? 重い荷物、持たせてよ」
     ——買い物に行くの? じゃあ、重い物は僕が持つね。
     死んだ筈の類と全く同じ言葉をくれる。やっぱり突如現れた類そっくりの男は、紛れもなく類そのものに見えた。否、そう思いたかったのかもしれない。
     そう言えば、とベッド脇に置かれた紫色のスリッパを思い出す。
    「っ……類、それよりまたスリッパを……使わずに、部屋の中を歩き回っただろう。せっかく揃いのものを用意したんだから、ちゃんと……使ってくれ……」
     麦茶を類の前に置いて再び向かいに座る。チェアの足とフローリングが擦れて不快な音を立てた。心が軋む時も、こんな音を立てるのかもしれない。
    「分かってはいるんだけど……スリッパを履くのが面倒でね。でも、君がこのスリッパを大切にしてくれているのは知っているつもりだよ」
     ああ、こんなことまで同じじゃなくて良い。類と同じところを見つける度、彼はまだ生きているぞ、と言われているような気になるんだ。
     以前から、何度言っても類は「面倒だから」とスリッパを中々履いてくれなかった。こんな時に言うことではないが、類を咎める理由を探して叱りつけていないとまた泣いてしまいそうだったんだ。そうでなくても、嗚咽が込み上げてきて上手く言葉を紡げないというのに。
     類が死んでから一週間。今まで一度も涙は出なかったのに、類が目の前にいるだけでオレは信じられないほど弱くなる。だが、例え類と同じ言動を取れど、オレが認めなくとも類は死んだ、それは覆せない現実だった。彼の最後をオレはこの目で見届けたのだから。
     
     病院のベッドは大嫌いだった。昔、入院していた頃の咲希を思い出すから。
     その嫌いなベッドの上で横たわる、沢山の管に繋がれながら緑色の酸素マスクを口許に着けた、大好きな類の弱々しい姿を忘れることなんかできそうにない。
     はぁはぁ、と苦しそうに呼吸をする度、酸素マスクの内側が曇っていた。温かい呼気で曇るということは患者に投与される酸素は冷たいのだと、この時初めて知ったんだ。
     縋るものを求めてさまよう類の手を見て「司くん、類の手を握ってあげて」そう類のご両親に頼まれてためらいがちに手に触れる。きっと二人の方が類の——我が子の手を握りたかっただろうに。だが、遠慮の気持ちは類の手に触れた途端に吹き飛んだ。
     点滴が繋がれていない手を両手で包み込むと、力なく笑った類の目尻から涙がひと筋こぼれ落ちた。
     類の目はもう見えていなかったはずだ。なのに、唇は確かに「つかさくん」とオレの名前をカタチ作る。
     お前はこんな時まで笑うのか。
     心配をかけたくない、と人を思いやれるのか。
     死ぬ間際くらい、自分のことだけ考えていれば良いものを。
     オレがもし、類と同じ状況になったら、果たして笑えるのだろうか。
     碌に言葉をかけてあげられないまま、握り締めた類の手が少しずつ冷たくなっていったのを覚えている。
     呼吸の間隔がゆっくりになるに連れて、ベッド脇のモニターから鳴る、機械音に変換された心臓の拍動もゆっくりになっていった。
     トゲみたいに尖った心電図の緑色の線が、だんだん平坦になり——けたたましいアラーム音が鳴り響く。
     そして、幸せそうな笑みを浮かべたまま、類の指がオレの手からすり抜けていった。
     どうしても類の手を離したくなかった。
     墜落していく類の手を必死に掬い上げて力いっぱい握り締めても、何度、類の名前を叫んでも——二度と握り返されることはない。元より、類の手にはほとんど力が入っていなかったのだが。
     医者と看護師に囲まれて、類の死亡確認が行われる。めくった目蓋の下の開いたままの瞳孔、あらゆる生命活動を停止させた身体。そこにあるのはついさっきまで生きていた、大切な人の死体だった。
     壁の時計をチラリと見た医師によって類の死亡時刻が読み上げられる。無感情に淡々と、事務的に他人の死を告げる彼等を睨みかけて、慌てて頭を振って最低な考えを振り払った。彼等とて人間なのだから、何も感じていないわけではないだろう。ただ、隠すのが上手いのだ。それに、彼等まで取り乱しては遺族の動揺に拍車をかけてしまうのだから。
     悲しいはずなのに、どうしてこんなにオレは冷静なんだろう。どうして周りを観察する余裕があるのだろう。大切な友人が、いや、それ以上の存在が目の前で死を遂げたというのに。
     類の両親がベッドの傍らで泣いている姿が痛々しかった。それでも啜り泣きながら嗚咽混じりに類の名前を呼ぶ声と、丸まった背中がどこか遠くの世界のできことのようで、夢の中にいるようだった。或いは、映画を観ているようなそんな感覚——。
     これほどまでに現実は類が死んだと訴えかけてくるのに、どうしてもオレは泣くことができない。冷たいヤツだと思われたかもしれない。それでも、やっぱりお前がオレの目の前からいなくなることが信じられなかったんだ。
     涙を流す代償に、類の死を認めなくてはならない気がした。
     
     ——だから、今、目の前にいる類はきっとオレの都合の良い妄想だ。もしくは、まだ眠っていて夢を見ているだけ……。
     
    「司くん、大丈夫。ほら、僕はちゃんとここに居るよ」
     
     沈黙するオレの思考を読んだような、類の言葉。
     テーブルの向こうから伸びた類の右手は、元気な頃と同じくらい、もしくはそれ以上に温かった。頬に類の指先が触れた瞬間、視界が霞んでいく。
    「ああ、泣かないで……君の涙を止める方法を僕は知らないんだ」
     困ったように眉を下げて微笑む類の手を握って、小さく引き寄せた。意図を理解したのか、類はチェアから立ってオレの近くに来てくれる。
    「もう絶対ひとりにしない。約束する」
     抱き締められて、また泣きそうになった。オレを包み込んでくれる大きな身体。結局、大学生になっても類の背を抜くことはできず、そしてこの先二度と追い抜くことはないのだと諦めなければならなかった。その身体に包まれて子どものように泣きじゃくってしまえばどれほど幸せだろう。
     類の鼓動が頭の中で反響している。とくとく、とくとくと一定のスピードで拍動している。もう二度とこの音を聞けないのだと認めたくはなかったが、頭のどこかで分かってはいたんだ。
     類の腕の中は温かくてまた泣きそうになった。カーディガン一枚なんか、比にならないほど類の体温は温かった。
     
     ——この温もりを、ニセモノだと思いたくなかった。
     
    「類……手を、握ってくれ……」
    「もちろん、君の望むままに」
     縋り付くように類のシャツを握り締めていたオレの指を、一本ずつ解いて類が自分の指を絡めた。オレの右手と類の左手の掌が重なって、わずかに空いた隙間を馴染ませるように何度か指を握ったり開いたりを繰り返している。
     ああ、類に手を握ってもらうのはいつぶりだろう。看取る直前まではオレが一方的に手を握っていただけだったから。
    (あれ、そう言えば……)
     ぼやけた視界で類の手を眺めていると、ふと気づく。
    「る、い……火傷の痕はどうしたんだ……?」
     そうだ、類の綺麗な細く長い指。彼の左手の人差し指には、幼い頃にはんだごてで火傷したという痕が残っていたはずだ。
     ——小さいのによく気付いたね。
     以前、傷痕を指摘したら驚いた様子でそう言われたのだ。「今まで誰にも気付かれたことなかったのに」と付け足された言葉が、何故かとても嬉しくて、類のことを一番分かっているのは自分だと妙な独占欲を抱いていたんだ。
     だが、絡められている類の指は、傷痕どころか、シミひとつない綺麗なものだった。
     嫌な予感に、背中に冷たい汗が流れ落ちる。
    「…………司くん」
     ああ、どうしてそんな哀しそうな顔をするんだ。
    「嘘を吐いてごめんね」
     止めろ、それ以上はダメだ。言わないでくれ。
    「一週間、家を留守にしていたなんて嘘だよ。神代類は確かに一週間前に病で死んだ」
     パリン、とガラスが割れる音が頭の中で響く。
    「僕は神代類の最高傑作。彼の思考、思想、行動パターンを全てインプットした自動人形オートマトンだよ」
     ああ、お前の口から類が死んだなんて、聞きたくなかった。こんなことならどうして傷痕が無いんだ、なんて聞くんじゃなかった。
     
     いよいよ、オレの中で類の死が現実になりつつある。
     
     ***
     
     センター試験が終了した翌日。試験を受けた生徒は自己採点の結果を報告するため、登校しなければならなかった。
     確かあの日は、神山町にも雪が降っていて、あまりにも寒くて。試験の結果に自信がなかった訳ではないが、一人で答え合わせをするのが怖いと言う理由で、類を学校の図書室に呼び出した。ひとりは寒くて寒くて——凍え死にそうだったから。
     
    「…………類」
    「採点は終わったかい? 司くん」
     名を呼ぶと、真剣な表情で手に持った資料を読んでいた類が顔を上げた。暖房の効いた図書室でオレがセンター試験の自己採点をしている間、どうやらK大学の受験要項に目を通していたらしい。
    「あと国語だけだ……。じゃなくて、お前はセンター試験を受けなくて良かったのか?」
     質問の意図が分からなかったのか、類は不思議そうな表情を浮かべて首を傾げた。
    「いや……類はいつもオレの勉強を見てくれているから、お前自身の受験に支障が出ていないか心配でな……」
     ああ、と合点がいったように類が視線を一瞬だけ斜め上に移動させる。
    「大丈夫、僕が受ける大学はセンター試験を受けなくて良いんだ。それに、人に教えるのも立派な勉強だよ。誰かに教えるためには、より深く理解しなければならないからね」
     だから気にしないで、と類は微笑み、類は再び手元の資料に視線を落とした。
     会話が途切れてしまい、オレ達と司書の先生しかいない静かな図書室には三色ボールペンが紙と擦れる小さな音がやけにうるさく響いていた。受験勉強を始めてからというもの、赤のインクだけ減りが早く、もうすぐ無くなりそうだったので国語だけ青いインクで採点をすることにする。
     一年前に解いたセンター試験の過去問と比べものにならないくらい丸の数が多い。本を読むのは元々好きだったから現代文、特に小説分野は得意だったが、古典分野はどうにもとっつき辛く、苦手だった。
     そう類に相談すると、毎日寝る前と起きた後に十五分ずつ、僕の好きな古典文学作品を読むと良いよ。とおすすめの本を何冊か貸してくれたんだ。
     類の貸してくれた本はどれも面白くて「読む前にタイマーをちゃんとセットするんだよ」という助言がなければ、夜ふかしや遅刻を何度していたか分からない。中でも、平安時代に作られた歌謡を集めた『梁塵秘抄りょうじんひしょう』という作品が印象に残っている。
     
     舞へ舞へ蝸牛
     舞はぬものならば馬の子や牛の子に蹴ゑさせてむ踏み破らせてむ
     実に美しく舞うたらば
     華の園まで遊ばせむ
     
     舞え舞えかたつむりよ。
     舞わないなら、子馬や子牛に蹴らせてしまおう、踏み割らせてしまおう。
     本当にかわいらしく舞ったなら、
     花の美しく咲く楽園で遊ばせてやろう。
     
     当時の子どもがカタツムリと戯れる様を詠んだものだが、何だか無性にこの歌が気になったんだ。無邪気な子どもの笑い声の中に、子ども故の残酷さが滲み出ている。決して、美しく舞うことのできないカタツムリを揶揄したという歌に、背筋がゾッと凍ったのを覚えている。
     そして、類の知識の広さと深さに舌を巻いたのだ。
     歌劇に造詣が深いのは知っていた。だが、日本の古典文学にも明るいとは。類が付ける最高の演出の理由が少しだけ分かった気がした。そう言えば、能や歌舞伎も観たことがあると話していたな。
     物思いに耽りながら採点をしていると、いつの間にか最後の問題まで辿り着いていた。あと、少しで試験の結果が出てしまう。
    「っ……」
     何とか声は飲み込んだが、ペンの動きが止まったのを目敏く捉えた類が顔を上げた。
    「終わったかい?」
    「あ、ああ……もう少しだ! えっと、合計点数は…………どうだ、類!」
     不自然に止まったペンの動きを誤魔化すよう、全教科の点数を埋めた表を得意げに見せると類は満面の笑みを見せてくれた。
    「もしかして……九割り超えかい? すごいじゃないか、司くん!」
    「ハッハッハー、そうだろう、そうだろう! ……と、言いたいところだが、今回もお前のおかげだな、類。お前が勉強を見てくれていなければ、こんな点数は取れなかっただろう」
     類は目を伏せて首をふるふると横に振る。
    「違うよ、試験で良い点数を取れたのは君が頑張ったからだ。この結果は君の努力の成果だよ」
     オレにこんなに良い点を取らせたことを、もっと類は誇って良いはずなんだ。なのに、類はいつもオレのことを褒めてくれる。
     
     君が頑張ったから——
     君のお陰で——
     君が居たから——
     
     二人きりで話している時、いつも類はそんな言葉ばかり使うんだ。
    「類はそう思うのかもしれんが、礼くらい言わせてくれ。
     ありがとう、類。
     お前が頑張って教えてくれたから勉強が楽しいと思えた。
     お前のおかげでオレはここまで成長できた。
     お前が居たから、オレは頑張れたんだ」
     まだまだ言い足りないが、今伝えられのはこのくらいだろう。胸の中で湧き上がる感情に任せると、自然と笑顔になれた。まっすぐ類を見つめていると、一瞬だけ見開かれた金色の瞳がすぐに細められ、潤んで揺れる。
    「……ありがとう。今の司くんの想いを受け取らないのは野暮だね」
    「ああ、素直に受け取っておいてくれ。
     そうだ、類。互いの受験が終わったら、改めて礼をさせてくれないか」
    「そこまでは構わないよ。さすがに貰いすぎかな」
     類は困ったように眉を下げる。だが、貰いすぎだなんてことはないんだ。むしろもっと欲張って良い。
    「新しい演出や機械を試そうとする時の勢いはどうした? オレにできることなら何でもする。だから、何が良いか考えておいてくれ」
    「…………分かった。考えておくよ」
     ようやく、類は頷いてくれた。
    「ああ、ちゃんとワガママを言うんだぞ!」
     類のことだ。「また一緒にショーをしてくれればそれが最高のお礼だよ」と言いかねないから念を押しておくと、図星だったのか類は苦笑いを浮かべる。ほら、やっぱり。オレは類のことなら、大体のことはお見通しなんだぞ。
     だが、浮かれている場合ではなかった。センター試験が終わっても、まだ受験が終わった訳ではない。むしろ、今からが本番だ。K大学の過去問の問題集を開いて、今度はシャーペンに持ち替える。採点結果の報告は、帰りに寄れば良いだろう。
     そして、さらさらとノートの罫線に文字が埋まっていく音だけがしばらくの間、続くのだった。
     
     思えばこの頃——、類はどの大学を受験したのか全く教えてくれなかった。何となく触れられたくないような気がして、オレからは聞けなかったと言うのも話題にならなかった理由のひとつだろう。
     それに、類ならオレと同じ演劇に関する学校に通うと、勝手に思い込んでいたのだ。
     
     類が最先端のロボット工学を学べるT大学を受験し、無事合格していたと知ったのは、オレ達が高校を卒業して随分経ってからのことだった。
     *** 
    「自動人形……だと……?」
    「そうだね」
     類そっくりの、彼の言葉を借りれば自動人形がオレから離れて、ゆっくりと頷く。
    「い、いや……おかしいだろう。だって肌も柔らかかったし、温かいし、心臓の音だって……」
     信じたくない、信じられない。目の前にいる自動人形とやらは、確かに人間と同じ身体を持っていたんだ。実際に触れても違和感は全くなかった。
    「神代類がロボット工学を専行していたのは覚えているかい?」
     ああ、言われなくても知っている。何気なく「今日はどんな演出に関する講義を受けたんだ?」と聞いたら「あれ、言ってなかったっけ? 僕は大学では、演出じゃなくてロボット工学を学んでいるんだよ」とあっけらかんと答えた類の耳元で絶叫する羽目になったのだが、オレは悪くないだろう。
    「ロボットを作るスキルは高校生の時、すでに十二分にあった神代類に足りなかったものは何だったと思う?」
     こいつは、類と同じ穏やかな優しい声で、冷たくて痛い現実を傷口に擦り込んでくる。
     確かに類は高校生の頃からたくさんロボットを作っていた。ショーをするロボット、宣伝のために作ったロボット、そしてネネロボ……。寧々が最初、操縦していたネネロボは普通の人間と同じ、もしくはそれ以上の動きをしていたし、やがて自動で動くようになっていた。だが、見た目は——
    「神代類は人間そっくりのロボット……アンドロイドと言った方が君達にはしっくりくるのかな、を作りたかったんだ。それこそ、人間と並んでも遜色ない、触れてもロボットだと気付かない精巧な自動人形をね」
     目の前の自動人形は「神代類はやたら〝自動人形〟と言う呼び名に拘っていたんだ。ややこしくてごめんね」と淡々と告げた。
     この自動人形の話を信じるなら、類は四年足らずで人間そっくりの自動人形を作ったということになる。少なくとも、高校生の時は持ち合わせていなかった技術に違いない。
    「そうこうして、出来上がったのが僕というわけだ。どうだい、神代類の作品には満足がいった? 君なら好きに触れてくれて構わないよ」
     自動人形は類の行動や思考を完璧にインプットされていると言っていたが、これを類だと言うにはあまりにも——悲しい。
    「そ、その……〝神代類は〟というのを止めてくれないか……」
    「なぜ? 間違っていないと思うけど」
    「そうだな、間違ってはいないし、表現としては正しい。だが……人の関わりには正解と不正解だけじゃないんだ」
     そう、黒と白、正しいか正しくないか。それ以外の価値観を教えてくれたのは他でもない類だったのに。
     自動人形の口から〝神代類〟という名前が現れる度、心が軋んでひび割れていく。さっきまでは、神代類はまだ生きているぞ。と言いたげに類と同じ言動を繰り返し類のフリをしていたのに、急に手の平を返されてはあまりにも辛い。自分の死を認めろと類そっくりの自動人形が告げる——なんという地獄なのか。だが、これは間違いなく現実だ。
     
     類はなぜ、こんなことをするのだろう。
     この自動人形は、オレを苦しめるためにここにやってきたのだろうか。
     
     口許に手を当てて自動人形は少しの間、思案しているようだった。類と同じ仕草をしていると気付く度、目を逸らしたくなる。
    「…………ごめん、君の気持ちを考えていなかったね。感情という曖昧な変数を行動パターンに組み込むのは難しいんだけど……ああ、もう! 違う、こういうのもダメなんだね。まったく……彼もその辺り、上手くしてくれれば良かったのに……」
     ブツブツと呟いていた自動人形が胸に手を当てて、ひとつ深呼吸——のような動きをした。
    「司くん、僕は君のために創られた。
     僕が君の悲しみを癒やせるかは分からない。
     僕はただの自動人形だ。僕のここにあるのは心臓ではないし、ただヒーターの温度が上がっているだけかもしれない。鼓動だって偽物だろう。でも、君のために何かしたいと思う度、ここが燃えるように熱くなる。自分にも聞こえるくらいドキドキと脈打つ。それは嘘じゃないんだよ」
     トン、と胸を一度叩いて自動人形は真摯な眼差しをオレに向けた。
    「僕をここに置いて欲しい。君の傍にいることを、どうか許してくれないかな。
     でも……もし、僕を見ているのが辛いなら——破壊してくれて構わないよ。君になら、僕は何をされても構わない」
    「っ……バカ類……」
     オレは弱い人間だ。
     ストレッチをサボっていたのも、
     休学期間が明けているにも関わらず、どうせ来年もいるのだから、と大学に行かずにいるのも、
     告別式が終わってから、他人とまったく話をしていないのも、
     全部、全部、類がいなくなってしまったからだ。
    「もう二度と……オレを置いてどこかに行くな……」
     そんなオレが、類そっくりの自動人形を壊せるわけがない。二度も大事な人の死を、しかもオレの手で迎えさせるなんて、できるはずないだろう。
    「うん、うん……約束する」
     ふわり、と漂うボディソープの香りが混じった体臭は紛れもなく類のものだった。濡れた髪から微かにシャンプーの匂いがする。それは、随分と懐かしく感じるものだった。入院を余儀なくされた一ヶ月間、類の身体からは消毒液と薬の臭いしかしなかったから。
     抱き締めてくれる腕の力が強い。この、絶対に離してくれそうにない鎖のような腕は、相変わらずだった。
    (ああ、この腕が……オレを苦しめるためにある筈が、ない……)
     一ミリでも類を疑ってしまった自分を殴りたくなった。
     類が、自分のコピーのような自動人形を残したのはきっと意味があるはずだ。
     ならば、オレはちゃんとその意味を知らなければならない。それは、四年間も同じ部屋で生活していたのに類の病気に気付けなかったオレが目を背けてはいけない現実だろう。
     
     でも、欲が出してしまうのは、どうか許してくれないか。
     
    「類……」
     
     胸を押すと、類との距離が空いた。
     目を閉じて、一度離れた距離を埋めるために類の顔に自分の顔を近付ける。
     類の唇まで、あと、数センチ——

    「司くん、ダメだよ。約束しただろう?」
     唇に触れたのは類の唇ではなく、火傷の痕がない真っ白な人差し指だった。
    「…………ああ、そんなところも、ちゃんと類と同じなんだな」
    「ごめんね……流されてあげられたら良かったのだけど、君に誓ったことだから。それに、僕はじゃない」
     諦めたように目を伏せると、オレよりも辛そうな顔をして類そっくりの自動人形はふたたび抱き締めてくれた。
     
     生前の類とキスをした回数は数えきれないほど。
     生前の類とセックスをした回数は三桁を超えるだろう。
     
     ——しかし、類は数年間共に過ごしたこの部屋で、一度もオレを抱くことはなかった。
     
     類そっくりの自動人形に抱き締められたまま、時間がただ浪費されていく。コーヒーが冷め、バームクーヘンの生地が乾燥して硬くなるまで、オレ達が離れることはなかった。
     
     ***
     
    「うぅ、緊張する……。ショーの本番ならば全く緊張しないんだがな……」
    「ふふ、弱気な司くんを見られるのは新鮮だね」
     
     ——その日はK大学の合格発表だった。
     
     三月になって少しは暖かい日が増えてきたものの、寒いものは寒い。受験当日みたいに類の手が冷たくならないよう、毛糸の手袋を被せて一緒に大学に向かう。
     受験票を手の平の間に挟んで、合格者の受験番号が張り出されたボードの前に類と立って、祈った。
    「一〇八八、一〇八八……頼む……」
     自分の受験番号を確認せねばならないが、なんだか無性に結果を知るのが怖い。いや、類と共にあんなに勉強したんだ。絶対に大丈夫だ……とは思う。だが、臆病な思いは自分の意志とは関係なく顔を出す。
     
     ——この言いようのない不安は一体なんなのだろう。当時はさほど気にしていなかったが、今になって思えば、虫の知らせというものだったのかもしれない。
     
    「大丈夫だよ」
    「類……?」
     類の優しい眼差しは例え気休めでも、本当に大丈夫だと思わせてくれる。寄りかかっても良いのだと、教えてくれる。
    「君が頑張っていたのを誰よりも近くで見てた僕が大丈夫だって言うんだ。だから、絶対に大丈夫」
     類に背中を押されて、一歩前に進んだ。
    「ずっと僕が後ろにいるからね。さあ、見ておいで」
     受験票を持っているオレを見て、人集りにいる人が少しだけスペースを空けてくれた。周りにいるのは、合格していたのか歓声を上げて喜ぶ者だけではない。当然、不合格となって悲しむ者もいる。
     ここにいる人間の様々な感情が渦巻いて、ひとつの特別な空間を創り上げていた。自分達がショーで創り上げる空間とは全然異なった感情で溢れている。今までずっと、笑顔が溢れる空間や空気が最高だと思っていたが、こういう空気に浸るのも偶には悪くないのかもしれない。
     大きな紙に羅列された数字を、視線を下げて一つずつ確認していく。
    「一〇五〇……一〇六八…………一〇八八……あった‼︎ あったぞ、類!」
     散々止めろと言っていたが、跳び付くえむの気持ちが今は理解できる。込み上げる衝動を何とか抑えて、振り返った一歩後ろにいる類に満面の笑顔を向けた。
    「ありがとう、類! お前のお陰だ!」
    「おめでとう司くん」
     オレの合格を類は疑っていないようだったが、飛び跳ねて喜ぶ勢いのオレを見て、類も満面の笑みを浮かべて合格の報告を祝ってくれたのだった。
     ***
     大学を後にして、二人で神山高校に向かう。合格報告は別に明日でも良いのだが、何となくオレ達のつま先は神山高校の方角に向いていた。
    「……ねぇ、司くん」
    「ああ、なんだ?」
     いつの間にか類を置いて先に進んでいたらしい。めいいっぱい伸ばした類の手に引き留められて立ち止まる。
    「お礼の話、覚えているかい?」
     類の視線は、曲がり角の先を見ていた。このまま真っ直ぐ進めば神山高校に向かうバス停、曲がった先には確か——
    「お願いしたいことが二つあるんだ。ワガママを言い過ぎかもしれないけど……」
    「もちろん構わんぞ! 言ってみろ、類!」
     ほうっと深くため息を吐いて、吐き出した分の息を吸い込むように深呼吸した。
    「受験当日、連れて行ってくれたカフェに行きたいな。できれば、今日この後——」
     ああ、そうだ。この曲がり角の先は、コーヒーとバームクーヘンを食べたカフェがあるんだった。
    「行こう、類! 学校への報告は明日でも良いだろう」
    「ありがとう」
     胸の手の平で押さえて、大袈裟なほど類は安心した様子を見せた。どうやら、オレが合格者の受験番号を確認している時より緊張していたらしい。
    「なんだ、類。散々甘いものを食べるならラムネが良いと言っていたのに、あの店のバームクーヘンがそんなに気に入ったのか?」
     緊張がほぐれるようわざと揶揄うように言ったつもりだった。だが、類は照れたように頬を染め、予想外の反応に思わず驚いてしまう。
    「そうだね、とても美味しかったし、君と食べたものだったから」
     今度はオレが照れる番だった。たまに類はオレの気持ちを知りながら惑わせているのかと邪推するほどストレートに好意を口にする時があった。
    「そ、そうか! だったら、今日もコーヒーとバームクーヘンを頼むぞ!」
     二人の中で、コーヒーとバームクーヘンが特別なものになりつつあった。受験当日、そして合格発表の日。それだけでも記念日のお祝いみたいなのに、二人で食べたという状況が加わってよりいっそう特別なものにしていたのだろう。
     
     ——そう、もうとっくに、オレは類に恋をしていたんだ。
     
     特別を共有できる度、胸の中で蝶が舞うような高揚感を、幸せと名付けて良いだろう。
    「そう言えば、類の受験は終わったのか?」
     いつもオレの面倒を見てくれていたから、ちゃんと受験できているのか心配だった。
    「大丈夫だよ。僕もちゃんと志望校に合格できた」
    「そうだったのか! じゃあ、今日は類の合格祝いも兼ねよう」
    「ふふっ、じゃあバームクーヘンは奮発して二切れずつにするかい?」
    「あの店の二切れはちょうど半分の大きさだからな。丸々ひとつを二人で食べることになるのか」
     高校生二人ががバームクーヘンひとつを食べる、何という贅沢だろうか。でも、こんな日くらい構わないだろう。
    「お腹いっぱいになりそうだね。帰りは、バスを使わずに歩いて帰ろうか」
    「そうだな、ちょうど良い運動になるだろう」
     それに、なんだか今日は類とたくさん話をしたいと思った。せっかく受験が終わったんだ、久しくしていなかったショーの話をまたしたい。
     
     ——どうして気付かなかったのだろう。普段たくさん食べる類がバームクーヘン二切れで腹がいっぱいになるはずがなかったのに。
     
     程なくして、オレ達は目的のカフェにたどり着く。
     カフェのドアノブは外気に冷やされて、掴むと指先がキンと痛む。身震いしながら開けると、取り付けられたベルがカランと鳴いて、余計に寒さを煽った。だが、客足がまばらな店内は温かくて、冷え切った手と足の指先に血が巡り始めて少しだけ痒くなってくる。
     店員に案内されて、店の奥の四人がけのテーブルに案内された。周りの席に客は座っていない。
    「バームクーヘンを二切れずつとホットのブレンドコーヒーを二つお願いします」
     おしぼりとお冷やを持ってきた店員に注文を告げてから、類は手袋を外しその身を軽くしていく。白のロングマフラーと黒いダッフルコート、残ったのは白いハイネックのセーターと黒いスキニーパンツのみ。類は一枚ずつその身から剥いで隣のイスの背もたれにかけた。
    「やっぱり部屋の中は温かいね」
    「ああ、今朝は一段と冷え込んでいたみたいだからな」
     真っ先に二人とも温かいおしぼりに手を伸ばして暖を取る。氷の浮いたお冷やには見向きもしない。
    「司くんの受験以来だから、二週間ぶりくらいかな。何だかもっと前に来たような気がするよ」
    「そうか? オレはあっという間だったが」
    「……まあ、これは僕の気の持ちようでもあるからね」
    「それは……」
     どういう意味だ、と続けようとしたところで注文したバームクーヘンとコーヒーが運ばれてきて、会話は一時的に中断となる。
     カップに注がれたコーヒーからは苦味を伴う香りが漂っていて、少々刺激的に鼻腔をくすぐる。正直にいうとオレはこの匂いが苦手だった。コーヒーの味も苦いと酸っぱいばかりで美味しいとは少しも思わない。
     だが、類はいつもコーヒーに砂糖もミルクも入れない。ブラックコーヒーを涼しい顔で飲み込む類はオレなんかよりもずっと大人で、砂糖とミルクで味の変わったコーヒーを飲むオレはまだまだ子どもなんだろう。
     だから、苦いコーヒーよりも甘いバームクーヘンに先に手が伸びる。早く食べたい、おまけに今日は二切れもあるんだ。ひとつはさっさと食べて、もうひとつはゆっくり味わおう。
    「いただきます」
     早速フォークを掴んでバームクーヘンに突き刺そうとしたその瞬間——類の手の平に阻まれる。
    「待って……食べる前に、僕の話を聞いて欲しいんだ」
     右手首を掴まれて、フォークの動きが止まる。指先に火傷の痕がついた類の人差し指で「気持ちは分かるけど待って」と、宥めるように手の甲を撫でられてゆっくりと右手から力を抜くと、フォークの先がだらりと垂れる。オレの手を撫でるその指使いがひどく優しい。皆を笑顔にする演出を作る手が、オレに触れている。その手に待てと頼まれては、断る理由がなかった。
    「どうしたんだ、類。そんなに改まって」
    「ごめんね、ありがとう」
     掴まれていた手首が解放される。一度うつむいた類は、深く息を吸って——胃の中身を全て吐き出すようにため息を吐いて、意を決したように顔を上げた。
     至極、真剣な表情だった。吸い込まれてしまいそうな金色の瞳に見つめられ、その視線に射抜かれる。ここは揶揄う場面でも、話を逸らす場面でもない。でも、何だかこのまま類の話を聞くのが怖くて、コーヒーに角砂糖二つとたっぷりのミルクを入れてかき混ぜる。ぐるぐると螺旋を描く黒と白が自分の言葉にできない感情みたいだった。混ぜ終えてベージュ色に変化したコーヒーを見ると、ざわめいた心が静まっていく。
     オレの心情を知ってか知らずか、類はコーヒーを混ぜ終えるまで待っていてくれた。
    「今から、突拍子もないことを言う自覚はある。でも、君にお礼を考えて欲しいと言われてからずっと、聞いてもらえたら、叶えてもらえたらって……夢を見ていたんだ。
     バームクーヘンって美味しいよね。優しい甘さで、それに、生地がたくさん重なっていて、切り分けると食べる人に合わせて大きさを変えられる、素敵な食べ物だと思うんだ」
     類は手に持ったフォークを指揮者のタクトのように一度大きく振り、オレの視線をバームクーヘンへ誘導する。類の誘導にまんまと引っかかり、こんな小さなことでも類の演出はやっぱり好きだと改めて思った。
    「類の目の付け方がすごいんじゃないか? 少なくともオレは今まで、バームクーヘンをそういう風に見たことはなさったぞ。せいぜい甘くて美味しい、くらいだ」
     バームクーヘンの話題を振った意図は掴めていないが、本当に類の感性には驚かされる。素直に褒めると「ありがとう」と、類は小さく微笑んでくれた。 
    「その……僕は、君とバームクーヘンみたいになりたいって思ってて……」
     フォークの先でころころと皿の上のバームクーヘンを転がしながら、類は躊躇いがちにそう言った。ぽて、とマヌケな音を立ててバームクーヘンが倒れる。口を閉ざしてしまった類が気になったが、類のタイミングで話して欲しくて黙っていることにした。
    「ほら、バームクーヘンって切り分けられていても並べるとちゃんと元の形に戻るだろう? えっと……つまり何が言いたいかと言うと……」
     フォークの動きがぴたり、と止まった。一度フォークを手離し、ダッフルコートのポケットから取り出した何かを握り締めている。そしてゆっくりと、オレの分のバームクーヘンが乗った皿の前に拳を置いた。
     硬く、硬く握り締められた手だった。筋が張って、指の爪が力を入れすぎて白くなっていた。
    「君と、どろどろに溶けてひとつになりたいってわけじゃないんだ。でも、僕は君がいないとダメで……だから、その……高校を卒業したら……一緒に暮らさないかい?」
     ゆっくりと開かれた類の手の平から現れたのは、ひとつの銀色の鍵だった。
    「僕は君が好きなんだ。有り体に言うと、恋をしている。……ああ、ダメだね。演出ならいくらでも思い付くんだけど、こんな時に気の利いた言葉が出てこないよ。でもね、」
     
     バームクーヘンみたいに君との思い出を重ねて少しずつ大きくできたら、どんなに素敵だろうね。
     
     頬を赤く染めた類が、はにかみながらそう告げる。
     嬉しい、嬉しい、幸せだ。胸の中が温かい気持ちでいっぱいになっていく。話を聞く前はあんなに不安がマーブル模様の螺旋を描いていたのに、今は優しいベージュ色に混ざり合う、苦いだけの味がら甘く変わったコーヒーと同じだった。
    「っ……ああ、もちろんだ。オレも類と一緒に暮らしたい」
     
     ——オレも類に恋をしている。
     
     類の手の平に乗せられた鍵を受け取って、鍵を握ったまま類の手の平に重ねた。新品の鍵はきらきらと照明を反射して光り、眩しいくらいに輝いている。何だかその輝きが、父さんと母さんの左手の薬指にはまっている銀色の指輪みたいで、いやそれよりも眩しいかもしれない。
    「ありがとう、司くん。はぁ………………断られなくて、本当に良かった……」
     空いた手で顔を隠しながら、深く安堵のため息を吐く。確かに、ずっとこんな想いを隠していたら、二週間は随分長いものだったに違いない。
    「類、勇気を出してくれてありがとう」
     手で隠された表情は、今まで見た類のどんな笑顔より素晴らしいもので、その表情を見てオレは今、世界中の誰よりも最高に幸せなんだと思っていた。
     角砂糖二個とたっぷりのミルク、二切れのバームクーヘン。そして、類の笑顔。オレにとっての幸せを目に見える形にしたら、間違いなくこうなるだろう。
     
     ——だが、オレはまだ知らなかった。大好きな類と暮らせば毎日が幸せのピークで、オレにとっての幸せの形が増えていくのだと信じてやまなかったのだ。
     
     そう、オレが最高に幸せだったのは、あの瞬間だったと気付いていなかったんだ。
     もし、今のオレがあの時のオレと話すことができたら、もっとこの時間を噛み締めて大切にしろと、言っていただろう。
     
     そう遠くない内に、神代類は死ぬ——。
     そんな未来が来ると分かっていたら、もっとオレは類のために何かができただろうか。
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    「そうか……俺、ははっ。そっか」
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