メインディッシュは俳優さん以外テイクアウト不可能です!× 29(司side)
「落ち着け、えむ…!」
「うぅっ、……、ど、…どうしよぉ…」
「とりあえず、何があったか説明してはくれんか?」
ぐす、ぐす、と泣きじゃくるえむの涙をハンカチで拭って、出来る限り優しく問いかける。
二年以上あの店でバイトをしているが、お客さんはそれなりにいたはずだ。値段はかなり安く設定されてはいるが、あれだけ日々お客さんが来店していて経営難があるとは思えん。従業員不足はよく話題になっていたが、今のところオレやえむが補えている。少し人通りは少ない道に面しているが、リピーターが多いから問題にはならんだろう。
えむのお兄さん達が店を閉める必要が無い。
「さ、最近っ、お兄ちゃんたちが、難しいお話してて…、…」
「そういえば、前からそんな話をしていたな」
少し前にえむがそんな話をしていたのを思い出す。何やら二人が悩んでいるようだ、と。あれは、遊園地のチケットをえむが貰った辺りではなかっただろうか。
ぼんやりとそんな事を思い返していれば、えむが袖で目を強く擦った。
「それでね、あたし昨日、なんのお話してるのって…、そしたら、…お店っ、…なくなっても、いいかって…」
「はぁ…?!」
「っ…、あたし、お兄ちゃんのお店、大好きなのにっ…」
えむの言葉に、胸の奥がツキ、と痛む。
えむが、あの店を好きなのは知っている。大事にしていることも知っている。でなければ、出会ったばかりのオレをバイトに誘ったりはしないだろう。お店の至る所に貼ってある張り紙や、看板の文字、値札の一つひとつが、えむの字で書いてある。メニューだって、鳳家の大切な家庭の味だ。
そんなえむにとっての大切なお店が、なくなる。落ち着いていられるわけがないだろう。
「……えむが話せば、二人も考え直すのではないか?」
「…………今日っ、…お兄ちゃんたち、お話するって…」
「話…?」
「うん…提案、されたって、言ってた…。お返事、しなきゃいけないって…」
「つまり、誰かに持ち掛けられた話という事か」
口元に手を当てて、少しだけ視線を下げる。
えむのお兄さん達は、えむの事をとても大切にしている。えむが言えば、新メニューが増えるくらいだからな。それ程大切にしているえむの願いでも、二人の考えは変わらないのだろうか。
もしかしたら、何か条件があるのかもしれん。資金援助か、期間限定な申し出か、あまり考えたくは無いが脅されて、というのも…。
二人が悩んで決めた事を否定はしたくないが、あの店を閉店する必要はないはずだ。もっと、他にも…。
「…よし、オレと一緒に帰りに聞きに行こう」
「ぇ、でも、…司くん、今日はお休みって…」
「オレのバイト先が無くなるかもしれんのだろう?オレだって、どういう事か話が聞きたいからな」
「………ぅぅ、…ありがとぉお…!」
ぎゅ、と涙でぐしゃぐしゃの顔をオレの胸元に埋めて、えむが抱きついてくる。その頭をぽんぽんと撫でて、小さく息を吐いた。オレが行って、何か変わるとは思えん。だが、えむがこんなにも泣いているのに、ただ待つなんて出来ないからな。二人の話だって聞いておきたい。協力出来ることなら、力になりたいからな。
(…それに、あの店がなくなったら、神代さんだって困ってしまうかもしれんからな)
お店に来てくれる神代さんの顔を思い出して、そっと手を握りしめた。
―――
「そういえば、なるかもしれない、ということ以外は聞いていないのか?」
「…うん。あたしあの時、ガガガーンッ、ギュギューッ、もやもやもやーってしちゃって、お兄ちゃんたちの話、よく覚えてないの」
「よくわからんが、悲しかったということか?」
「うん」
いまだに落ち込んだ様子のえむと並んで学校を出る。放課後は部活に行く生徒や帰る生徒で賑やかだ。遊びに行く相談をしているのも見かけた。それを横目に、通い慣れた道を歩く。えむのバイト先には、何度も行っているからな。
スマホの画面をちら、と見てみると、時刻は三時少し前だ。今日は下校が早い日で、まだ日も高い。
神代さんからは、あの遊園地に行った日から会っていない。連絡は来るが、水曜日も月曜日の朝も会えていない。休日も仕事が忙しいと聞いた。その事にどこか安心してしまっている自分がいるのも確かで…。
(…会いたくないわけでは、ないのだがな……)
割り切ったつもりだったのだが、中々気持ちが切り替わらない。神代さんが、もしかしたらオレを好きなのではないか、と、そう期待してしまえばしまうほど、そうとしか思えなくなってしまう。違うのだと、オレの勘違いなのだと、そう切り替えたいのだが、切り替わらない。神代さんには婚約者がいる。それは分かっているはずなのに、もしかしたら、と、そればかり考えてしまうんだ。
もし今神代さんに会えば、オレはもっと期待してしまうかもしれん。いつものように名前を呼ばれれば嬉しくなって、手や頬に触れられただけで胸が苦しくなるのだろう。好意を持って貰えているのだと、もっと思い込んでしまいそうだ。後戻りができなくなってしまう。この押し込まなければならない気持ちが溢れて、つい声に出してしまうかもしれん。
それだけは、絶対にしてはいけないというのに。
「神代さんが婚約者と一緒に居るところを見れば、きっぱり諦められるかもしれんのだがな…」
「ほぇ…?」
「あ、いや、なんでもない」
無意識に声に出てしまっていたらしい。首を傾げるえむに頭を振って誤魔化し、オレは咳払いを一つした。
今はえむの兄達から話を聞いて、オレも出来る限りえむと一緒に抗議せねば。あの店がなくなるのは、オレも寂しいからな。えむが大好きな、えむの家族の店。二年以上働いたバイト先で、神代さんが良く来てくれる店。
オレにとっても、特別なお弁当屋さんだ。
曲がり角を二人で曲がる。この道を少し行った所に、バイト先がある。まだ時間が少し早いので、えむのお姉さんがカウンターにいるだろう。お客さんはほとんどいない静かな店内で、えむのお姉さんがいつものように笑って挨拶してくれるはずだ。
オレがバイトとしてあの店に入る時の、いつもの様子を思い浮かべれば、えむが首を傾げた。
「あれ、お兄ちゃんだ」
「む…、本当だ。他にも、もう、一人……ぇ…」
えむの言葉に顔を上げると、店先に三人ほど人が立っている。白い服は見覚えがあった。あの店の厨房で、えむのお兄さん達がよく着ている制服だ。そんな二人の前に立っているのは、スーツ姿の男性だった。マスクと帽子を被っていて、眼鏡をかけている。その横顔に既視感を感じて、ほんの少し足が早る。えむも駆け出したのを見て、オレも強く地面を蹴った。
「お兄ちゃん!」
「あぁ、おかえり、えむ」
「ん?お前今日休みじゃなかったか?」
「そうなんですが…」
えむの声に、二人がこちらへ顔を向けた。慶介さんがえむにふわりと笑う横で、晶介さんがオレを見て首を傾げる。確かに今日は受験勉強の為に休みを申請した日だ。だが、えむの話が気になって勉強所では無いからな。えむと一緒に二人の元まで行くと、スーツの男性もオレたちの方へ体を向けた。
そうして、カチャ、と眼鏡を外したその人が、「天馬くん」と、オレの名を呼んだ。
「……か、神代さん…?!」
「最近会えなかったから、なんだか久しぶりに感じるね」
「な、なんで神代さんが…?」
聞き慣れた声に、目を瞬く。眼鏡を胸ポケットにしまい、マスクを外した神代さんがふわりと笑った。えむがすぐ隣で、「あー!類くんだ!」と神代さんの名前を呼んでいる。それに、えむのお兄さん達が驚いているようだ。知り合いなのか、とか、親しいのか、とえむに問う声が聞こえてくる。そんな二人にえむはきょとんと首を傾げているが、今オレはそれに構う余裕が無い。
脳裏に、この前の観覧車でのことが浮かんで、自然と視線が神代さんの口元に向いてしまう。綺麗に弧を描く唇に、胸の鼓動が早まっていくのが分かり、慌てて視線を逸らした。そんなオレの手に、すり、と何かが触れたかと思えば、優しく絡め取られる。掬い上げるように片手が取られ、軽く引かれて足が一歩前へ出た。
「実は今日、お忍びなんだ。寧々には内緒にしておくれ」
「…っ、……」
「本当は自宅待機を命じられていてね。けれど、どうしても進めたい案件があったから抜け出してきたんだ」
「………わ、分かりましたから、…その、手をっ…」
離してください。そう言いかけた言葉を飲み込む。ぐっ、と腕が強く引かれ、体が傾いた。神代さんに正面から受け止められ、ふわりと甘い匂いに包まれる。ぎゅ、と背に回された大きな両腕に抱き締められて、ぶわわっ、と一気に顔が熱くなった。唇が震えて、言葉が上手く出てこない。そんなオレの耳の縁を、熱い息が掠めた。
「もしかしたら、会えるかもしれないと期待していたんだ。本当に会えるなんて、嬉しいよ」
「っ、…ひ、ぅ…っ……」
「君とは直接話したかったんだ。不安にさせてしまっていたらすまないね」
「……ぁ、の、…ちかぃ、ですっ……!」
血が沸騰しそうな程熱い。心臓がド、ド、ド、と太鼓の音の様に鳴り響いている。腕に力なんか入らなくて、押し返すことも出来ない。距離が近過ぎて思考がぐらぐらする。少し離れてほしいのに、離れてほしくないと矛盾した気持ちがあって、頭の中はぐちゃぐちゃだ。甘い声音が、一層オレの心臓を早らせる。
これではまるで、恋人同士の逢瀬のようだ。
「もう見たのかい?もしかして、拗ねてしまったかな?」
「…な、なんの事か分からんのだがっ、こんな、とこっ…」
「あぁ、恥ずかしいだけかな。天馬くんは可愛いね」
「ひっ、…うぅ……」
神代さんの声が、どこか甘えた様な声をしている気がして、おかしくなりそうだ。何を言われているのか考える余裕すらなくて、必死に声を振り絞る。震える手で神代さんの胸元を押すと、額に柔らかいものが触れた気がした。そっと離れていく神代さんに安堵すると同時に、足から力が抜けていく。腕を支えられていなければ立てなくなったオレに、神代さんが小さく笑った。
恥ずかしさに唇を引き結んで俯くと、耳元へ顔を寄せられる。
「覚えていておくれ。僕のこの想いは、これからもずっと変わらない、と」
「……っ、…」
「不安ならいつでも連絡してくれていいから、信じて待っていてほしいな」
「…、…な、んの………」
そっと囁くように言われた言葉が、よく分からん。神代さんの想いとは、なんの事だろうか。役者としての想いなのか、それとも、前に言っていたやりたいことに対してか…?婚約者への想い、と言うことなのだろうか。
そっと離れてふわりと笑う神代さんに、オレはそれ以上聞けなかった。ドキドキと心臓は煩くて、顔はこれ以上ない程に熱くて仕方がない。支えてくれる神代さんの腕の熱が、じわりとオレに広がっていく様だ。それが一層オレの心臓の鼓動を早めていく。
優しく微笑む神代さんを見ていられなくて、視線が泳ぐ。そんなオレの視界に、桃色の髪がちら、と映った。
「…あ……」
瞬間、ピシ、とオレの体が石になったかのように固まる。視界に映ったえむが、嬉しそうに目の前でにこにこと笑った。そんなえむの隣で、慶介さんは真顔でオレを見ていて、晶介さんが居心地悪そうな顔をしている。ぶわわっ、と身体中が一気に熱くなっていくかのような羞恥に、唇が震えた。今すぐにでもこの場から走って逃げ出したくなる衝動にかられ、足が一歩前へ出る。が、しっかりと神代さんに腕を掴まれているせいで逃げられない。
はく、はく、と口を開閉させて神代さんへ顔を向けると、とても綺麗な顔でにこりと微笑まれた。
「足りなければ、もう一度するかい?」
さらりとそんな事を言われ、思わず手を振り上げた。
―――
(類side)
「とにかく、あんたは暫く自宅待機。勝手に外に出ないこと!」
「分かっているよ」
「また嵌められたら大変なんだから、絶対に油断しないでよ!」
「すまないね、寧々」
詰め込んでいた仕事を急遽キャンセルして、寧々がバタバタと慌ただしくしている。それをちら、と見てからスマホに目を落とした。天馬くんからは連絡はない。今日も学校だろう。せっかく家にいるのなら、彼の勉強を見てあげたい所だ。まぁ、それをこのマネージャーは許してくれないのだろうけれどね。今天馬くんに会いたいなんて言ったら、『馬鹿な事言ってる暇があるなら対策を考えなさいよ』と怒られてしまうだろう。あっという間にネットで拡散されてしまった誤情報を、寧々と事務所が否定して回ってくれている。態とらしい彼女の演出に、ファンも否定的な人が多いようだ。けれど、雑誌社なんかが面白可笑しく記事にして出すつもりのようで、まだ暫く騒がしくなるのだろうね。寧々の機嫌がどんどん悪くなっていくのを横目に、流したままにしたテレビへ目を向ける。
(誤解させてしまっていないかな…)
真っ先に思い浮かぶのは、やっぱり天馬くんだ。出来ることなら、彼と直接話がしたい。誤解なのだと、自分の言葉で説明がしたい。もし、彼が不安に思ってしまったのなら、甘やかして彼だけが特別なのだと信じてもらえるまで説明するのだけど。
そもそも、彼は不安に思ってくれているだろうか。受験勉強やバイトで忙しくて、知らなかったりするのかな。それならそれで良いけれど、もし知っていて気にしていないようなら、少し傷付くかもしれないな。まぁ、彼に限ってそれはないだろうけれど。
「………はぁ…」
「溜息吐く前に自宅で出来る仕事はしっかりしなさいよ」
「結婚式のドレスは天馬くんと一緒に決めたいかな」
「馬鹿じゃないの」
「ふふ、冗談だよ」
呆れたような顔でじとりと僕を見る寧々に、ニコリと笑って返す。自宅で出来る仕事なんて、自主練習くらいだ。それなら、計画の方を進めた方が早い。
スマホを取りだしてロック画面を解除する。この前の下見で、ある程度やりたいことも確認ができた。あとは、許可を得次第準備に取り掛かるだけなのだけれどね。
ぽちぽちとメールやメッセージの確認と返信をしながら、商談相手を思い浮かべる。まだ色良い返事はもらえてない。悪くは無い反応ではあるけれど、あと一歩を踏み込めない、と言った様子だ。それなら、こちらももう少し条件をたしてもいいかもしれないね。次に会う時、彼らが納得してくれるなにかを提示出来れば良いのだけれど。
「……ん…?」
通知音がスマホから鳴り、メールアイコンに通知が追加される。そのアイコンをタップすると、新着欄に商談相手の名前が表示された。なんともタイミングが良い。件名にはお店の名前が書かれていて、それを開いた。お決まりのビジネス挨拶の後、『提案を受けるにあたって、相談させてほしい』と記述がある。スマホを一度閉じて、ソファーの背もたれへ体を預けた。
(……出来ればこの話は早急に決めてしまいたい)
他の事はすんなりと進んでいる。僕にとってこれは優先したい案件だ。ただ、相手と話をするには僕が出向かなければならない。そうなると…。
ふむ、と一つ思案して、パタパタと忙しない寧々の方へ目を向ける。パソコンとスマホを交互にいじりながら、連絡をとったり調べたりと忙しそうだ。そんな彼女に、僕は首を傾げてみせた。
「この後、事務所に行くのかい?」
「そう。これが片付いたらすぐ行く。言っとくけど、連れていかないからね」
「分かっているよ」
「間違っても天馬くんに連絡しないでよ。家に呼ぶのも今はダメだからね」
「信用ないね」
釘を刺されてしまい、肩を竦める。寧々はもう一度パソコンに向き直ると、カタカタと忙しなくキーボードを叩き始めた。それを横目に、スマホのロック画面を解除する。メールを開いて、返信を打ち込んだ。
『午後、お伺いします』そう打ち込んで、メールを送信した。寧々が事務所で仕事をするなら、夜までかかるだろう。その間にこっそり抜け出して、話し合いをするだけだ。
(あわよくば、天馬くんに会えたりしないかな…)
家を出るなら、彼に偶然会うことがあるかもしれない。彼がバイトをする姿を見ることも出来るだろうか。いや、彼は最近受験勉強で平日は休みの日も前より多くなっている。今日は会えないかもしれないな。そうぼんやり考えながらスマホを閉じた。
彼に次会う時は、浮気なんてしていないとはっきり伝えないとね。僕には君だけなのだと、誤解がないように伝えないと。こんな事で彼に疑われては困るからね。
(…まぁ、彼に疑われても、その不安を拭うだけの愛で返せば良いのだけどね)
彼が卒業してしまえば、もう遠慮はいらないだろう。
もし時間が余ったら、自宅待機の間に彼へ贈る指輪を考えるのもいいかもしれないね。
そんな事を考えながら、寧々の仕事が終わるのをぼんやりと待った。
―――
(司side)
「俺達は何も見てないからな」
「……………………すみません…」
「司くん、とってもとーってもふわふわ〜、ギュギューンッ、わわわー!だったね!」
「ふふ、天馬くんが喜んでくれたなら良かったよ」
「………」
ぺち、と手加減をして神代さんの背を叩く。えむの言っている事はよく分からん。なのに、神代さんには伝わっている様で少し悔しい。喜んでいたわけではない。恥ずかしいやら緊張やらで訳が分からなくなっていたんだ。ほんの少し、触れてもらえたのが嬉しいと思わなくはなかったが、困っていたんだ。多分。
視線があっちへこっちへと泳ぎ、中々神代さんを見ることが出来ない。何故かぴったり腕がくっつくくらい近い距離で手を繋がられているのだが、まさかまた逃げるかもしれないと思われているのだろうか。うぐぅ、と小さく唸ると、慶介さんがオレ達の方へ顔を向けた。
「さて、まずは二人揃ってどうしたんだ?」
「お兄ちゃんに、聞きたいことがあって……」
「……その様子だと、もう彼にも話したのか…」
「…………ごめんなさい」
しゅん、とするえむは、さっきと違い暗い表情をしている。オレが頷くと、晶介さんが溜息を吐いた。「まぁ、こいつが隠せるわけねぇよな」と呟いた言葉に、慶介さんも頷いている。えむは隠し事が苦手だからな。素直で良い奴だ。感情が表情に出やすくて、分かりやすい。それがえむのいい所だと、オレは思う。そんなえむの横顔を見て、無意識に手に力が入った。握り締めた手が、そっと握り返されて顔を上げる。
隣で、神代さんが優しく笑いかけてくれた。それだけで、自然と気持ちが落ち着いていく。
「えむに話した件だが、先程提案を受け入れた所だ」
「……ぇ…」
「兄貴とも結構話し合って、条件付きでな。かなり譲歩してもらったが、やっぱり少し寂しいな」
「…………そ、…かぁ…」
慶介さんと晶介さんの言葉に、えむの視線が下がっていく。震える手を見て、胸の奥がツキ、と痛んだ。ぱた、と地面に水滴が落ちるのが見えて、唇を噛む。
この様子だと、話し合いはまとまったのだろう。この店が無くなる方向で。理由は分からん。何故その話になったのかも、二人が何故提案に乗ったのかも、オレは知らない。
だが、えむがこの店を大切にしていることだけは、オレだって知っていた。
「お前らがいなきゃ店が回せない程、人手は足りなかったしな。それに、俺達もずっと考えていたことだ。丁度良かったんだよ」
「……そう、だよね。司くんがいたから、ずっと出来てたんだもんね…」
「彼も受験が始まったし、卒業後まで働いてもらうわけにはいかないからな」
「………っ、…」
確かに、この店で雇われているバイトはオレだけだ。えむは習い事が多くてほとんどいないし、えむのお姉さんだって毎日朝から晩まで働けるわけではない。オレも放課後や休みはほとんどここに来ていた。今後もこのバイトを続けるかと聞かれても、正直どこまで続けられるか分からない。学生の間は続けたいと思っていたが、神代さんの隣に並ぶなら、その先は難しいだろう。
それでも、えむが無理矢理納得しようとしているのを、ただ見ているだけなんて出来ない。
「オレならまだ暫くは続けられますので、決めるのは…」
「天馬くんには、これからはもっと他の事に集中してほしいんだ」
まだ、諦めてほしくない。今からもっと募集に力を入れれば、誰か入ってくれるかもしれない。オレの様な学生のバイトが増えれば、今後も今まで通り続けられるはずだ。
そう提案しようとしたオレの言葉を遮ったのは、慶介さんでも、晶介さんでも、えむでもなかった。
「……か、みしろさん…?」
「大学で学ぶのも大切だけど、君には何よりも実践経験が必要だと思う。その為にも、卒業後は沢山経験を積んでほしいんだ」
「…だ、だが、それではっ……」
ぎゅ、と繋がれた手を強く握りこんで、そこで言葉が途切れた。じっとオレを見る神代さんは、冗談を言っている様子ではない。本気で、オレが役者になる道を応援してくれているのだろう。オレの為に、考えてくれているのだろう。オレが神代さんの隣に立ちたいという目標を話した時、一番喜んでくれたのは、神代さんだと思うからな。確かに、専門学校に通いながらバイトをしていれば、練習時間はほとんど無くなってしまう。経験が大事だというのも分かる。分かるが…、オレだってこの店が大切なんだ。神代さんと出会えた、この店が……。
(………あ、れ…?)
そこで、ふと思ってしまった。
何故、神代さんがここにいるのだろうか、と。何故、何も聞かれないのだろうか。自然と会話に混ざる神代さんに、慶介さんも晶介さんも何も言わなかった。こんな、店の今後を話す場で、従業員でもない神代さんがいるというのに、だ。常連さんだからだろうか?否、二人は、神代さんがお店のお客さんだと知らないはずだ。オレたちが知り合いな事に驚いていたからな。神代さんがお店のお客さんだと知っていれば、面識があるとすぐ分かるだろう。
お店のお客さんとしてではないとしたら、二人と神代さんは、どこで知り合ったのだろうか。店に来る神代さんは、一度も二人に挨拶をしている所を見たことがない。二人からも、神代さんの話題が出たことは無い。つまり、昔からの知り合いとか、そういうのでは無いのだろう。それはつまり、最近知り合ったということだ。オレが神代さんと知り合ってから後に。
「………神代さんは、…知っているんですか…?」
「…それは、このお店のことかい?」
「……」
こく、と小さく頷くと、神代さんが困った様に笑った。眉を下げて、どう答えようかと悩むような表情だった。繋いだ指先が、ゆっくりと冷えていく。胸の奥が急に重たくなって、足が一歩下がった。そんなオレの手を、神代さんは強く握り返す。離れないように。逃げないように。それが、今は少しだけ、嫌だ、と思ってしまった。
「なんで、神代さんが、…」
「……この話を持ちかけたのが、僕だから、かな」
「っ、…………、それ、は…」
「僕は今日、二人の返答を聞きに来たんだ」
はっきりとそう言った神代さんの言葉に、一瞬言葉を失った。