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    下町小劇場・芳流

    @xX0sKRLEfErjY0r

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    POIPOI 41

    大昔の俺屍小説。
    続きです。
    一部、放送禁止用語な酷い表現があったので、改めました。

    #俺の屍を越えてゆけ
    goBeyondMyCorpse.

    「鬼鏡」 疫神3
     交神月は、一族は暇になる。
     天界からの申しつけで、交神月は一族全員に殺生が禁じられていた。この時代、人々は死の穢れを最も嫌う。死者の出た家は、昇殿することもかなわないくらいだ。普段は戦いの渦中にある一族も、生命を授かるときには穢れから遠ざかるようにということなのかもしれない。
     そのため、いかに何人が屋敷に残されていようとも、討伐に出ることは許されなかった。おかげで、一族は思い思いの時間を過ごすことを許されていた。忙しいのは、交神を行う当の本人と、御所に仕えなければならない当主くらいである。
     さて今月は、吹雪の交神である。
     ご多分に漏れず、明梨も暇であった。特にすることもなく、彼女はのんびりと縁側で庭先を眺めていた。そろそろ、日向にいると汗ばむ季節が訪れていた。彼女にとって、二度目の夏だった。
     庭では、踊り屋の風子と、拳法家の剛が、初夏の日差しにひるむこともなく転げ回っている。本人たちは、実践訓練のつもりだ。訓練期間も終わり、いよいよ初陣かと待ち構えていた双子は、いささか拍子抜けしたようで、若い体力を庭先で余らせていた。
     しかし、風子は女の子。夏の日中に、汗だくになって鍛錬しているのは耐え難い。せっかく時間ができたのなら、外へだって遊びに行ってみたいのだ。風子は、双子の弟の手を逃れ、縁側に這い上がった。
    「もぉーやあー。後は剛一人でやってなさいよー。 こぉーんなに汗かいちゃって・・・。顔とかべったべたじゃない。」
     風子は、不満げに軽く顔を拭った。朝はちゃんと結ったはずの髪も乱れている。唇を尖らせつつ、風子は髪を解いた。明梨と同じ、緑の髪がふわりと自由になった。
    「あっ、逃げんのか、風子。じゃ、俺の勝ちな。」
     唐突な勝利宣言に、風子は唇を尖らせた。
    「なんでそうなんのよ!」
    「俺が怖いってことだろ。そりゃあ、俺の方が強いもんな。」
     いったいその自信はどこから来るのか、剛はうんうんと肯きながら勝ち誇った笑みを浮かべた。
    「ばぁーか。あんたなんか、『浪花ハリ扇』で真ッ二つよ。つきあってらんない。」
     風子は、髪を結びながら、ぷいっと横を向いた。使いやすいが最弱武器である『浪花ハリ扇』を持ち出してくるあたり、風子の皮肉が窺える。
     子供らしい応酬に、明梨は吹きだした。初陣もまだの幼子が、どっちが強いか言い合っているのだ。明梨から見れば、どっちもまだまだひよっ子なのに。
     明梨は、立ち上がり、庭に下りた。
    「暇そうだな、剛。俺が相手してやろうか?」
     しかし、剛は生意気げに眉を寄せ、不満で答えた。
    「えー?明梨さん、槍使いでしょ?俺、拳法家だぜ。」
    「だから、お前に合わせてこいつでやってやろうってのさ。どうだ?」
     明梨は右手で拳を作り、左手を叩いた。ぱんっと、引き締まった、力強い音がした。
     しかし剛は相変わらず、馬鹿にしたように顎を上げて明梨を見上げた。さすがまだ二ヶ月、つまり十一歳相当。生意気盛りである。
    「知らないよ、怪我しても。」
    「おう。手加減しないでいいからな。」
     明梨はいつもと同じ、明るい笑顔を浮かべた。
     剛はまだ知らないのだ。『千手の鉾』を自在に操る、明梨の本当の実力を。武器が彼女を強くしているのではない。
     のちに、剛は一人で全ての拳法家の奥義を創作することになる。それは、この日があったためではないかと、語り草になったという。


     時雨は、玄関を上がると、幼い少女の嬌声を耳にした。どうも、縁側の方から聞こえてくるらしい。不思議に思い、彼は声のするもとへ足を運んだ。
     縁側では、のんびりと明梨が腰を下ろしている。その隣りでは、何故か風子が腹を抱えて笑い転げていた。
    「あはははは、おっかしー。ぜんぜんかなわないんだから。」
     少女は笑いながら、目に涙を浮かべていた。
     明梨のほうは居心地よさげにくつろいでいる。彼女はふと時雨に気付き、顔を上げた。
    「おッ、お帰り、時雨。」
    「ああ・・・。」
     時雨は曖昧に言葉を返した。彼の目は、庭を彷徨(さまよ)っている。ふとその片隅にうずくまる影を見つけた。
     しかし、明梨は時雨が視線を泳がせているのにかまわず、言葉を続けた。
    「今日はどっち行ったンだ?川?寺?」
    「ああ・・・東寺の説法に・・・。」
    「あー、わかった。それ以上はいい。時雨も俺よか若いんだから、街中とか行けばいいのに。出かけるとこっていったら川か寺で、やることっていったら、釣りか読経ってどうだよ。」
    「そうは言うがな明梨、今日のように高僧のご高話がお伺いできるなど、余りない機会なのだぞ。明梨もどうだ。」
    「・・・聞いただけでじんましんが出そうだ。」
    「ときに、明梨、あれは剛か?」
     時雨は、庭の片隅を指差した。後ろから見ても間違いようのない個性的な髪型は、少年拳法家のもので間違いない。しかし、いつも生意気そうに自信満々の彼は、どういうことか隅っこでうずくまっていた。
    「そうだよ。」
     明梨は、しれっと何事もなかったかのように答えた。しかし、泥まみれの剛の後姿が、何があったか窺わせる。
     時雨はまじまじと縁側に腰を下ろす明梨を見下ろし、声を落とした。
    「・・・本気でやったのか?」
    「さてねえ。」
    「・・・剛も気の毒に。」
    「俺がいじめたみたいに言うなよ。」
    「子供相手に本気を出すな、大人気ない。」
    「高い鼻は今のうちに折っといたほうがいいンだよ。実戦でなめたら、生きて帰って来らんないからな。」
    「・・・そういうことか。」
     ようやく、時雨の面にも笑みが上った。一方的に叩きのめしたように見えるが、どうやら、それも少年を慮(おもんばか)ってのことのようだ。
     明梨は隣の風子の頭を軽く叩いた。
    「ほら、風子、笑ってないでさ。剛、連れてきてやれよ。」
    「ええ、やぁー。ほっとけば、そのうち戻ってくるよ。あたし、顔洗ってこないと。じゃあねー、明梨さん。」
    「あ、風子!」
     ひらひらと片手を振って、そのまま風子は身を翻した。風に舞う花びらのようだ。しかし彼女は、一瞬だけ足を止めて振り返った。
    「あのね、桂花様が帰ってきたら、お化粧してもらうの!明梨さんも、桂花様みたいにちゃんとしないとー。いい年なんだからさぁ。」
    「大きなお世話だ!」
     笑い声と憎まれ口を残し、風子は瞬く間に屋敷の奥へ消えていった。
    「ったく、あいつ・・・。生意気だよな、風子も剛も。よく似てるよ。」
     そうは言いつつも、明梨の口元はほころんでいた。荒っぽいが、明梨は年下の面倒見はいい。
     時雨の面にも、自然、笑みが上った。
     時雨は明梨の隣りに佇んだまま、彼女に尋ねた。
    「桂花様・・・そういえば、桂花様は今日はどちらに?」
    「ん?御所だよ。出仕。」
    「ではしばらく戻られないな。なら・・・明梨に話しておいた方がいいのか。」
    「何だよ。」
     時雨の声が、急に低さを増した。言いにくいことでもあるのか、口の中で言葉が淀んでいる。逡巡しつつ、ようやく時雨は重い唇を開けた。
    「いや・・・実は・・・春日のことだ。」
     上げられた名に、明梨もぴくりと身を震わせた。春日の名が出るときは、たいてい何か問題が起きたときだ。それを、明梨はよく知っている。
    「・・・兄貴・・・どうかしたのか?」
    「今日は、春日は見かけたか?」
    「知らない。朝からいなかった。」
    「では、真(まこと)か。」
    「だからどうしたンだよ。兄貴がまた何かしたのか?」
     一向に本題に切り出さない時雨に痺れを切らし、明梨は語調を強めた。不安な気配だけが漂うこの空気が、明梨は嫌いだった。悪いことがあるのなら、いっそ早く言ってもらいたい。
    「実は・・・東寺の前で米屋の若女将(おかみ)に会ってな。・・・鳥辺野へ向かう、春日らしい男を見かけたというのだ。」
    「・・・うん。」
    「その男は、大筒を持っていたようで・・・後をつけてみるとな、その大筒で鳥辺野の鬼を・・・撃ち落していたというのだ・・・。」
    「・・・なんだって・・・!?」
     明梨は顔色を変えた。
     今月は、交神月。殺生の禁じられるとき。だからこそ、討伐にも出られないというのに。
     わざわざ京(みやこ)外れの鳥辺野まで出向き、掟を破っているというのか。
    「何考えてんだ、馬鹿兄貴!!吹雪が今天界(うえ)にいるんだぞ。何だって、そんな上の神経逆なでするようなことするンだ!」
     そのまま飛び出して行きそうになる明梨を、時雨の手が止めた。
    「待て、明梨!まだ春日かどうかはっきりしてない!」
    「いーや、兄貴だよ。兄貴しかいるはずないじゃないか!大筒なんか持って、他に誰が鳥辺野に行くってンだ!」
     明梨は、時雨の手を振り解いた。振り返らず、彼女は廊下を駆け抜けた。


     いつの頃からか、京では、生者と死者の住まうところが大きく隔てられるようになっていた。
     京人(みやこびと)は、死を嫌う。穢れが移ると、遠ざける。
     笑わせる。どんなに遠くに置こうとも、その影は間違いなく万人を覆うのに。
     それに気付きもしないのか、目を背けているのか。
     いずれにせよ、それは四十年余りも生きられる、普通の京人たちならではの余裕のように思えた。
     だが、春日にとっては、そんなことなどどうでもいいことにすぎない。ただ、こうして京外れに鳥辺野という葬送地があること。そしてそこは、昼から鬼どもが徘徊する危険な場所であるということ。彼にとって意味があるのは、それだけだ。
     その手に馴染んだ『火神招来』は、いつでも彼と共に在る。物言わぬ大筒だけが、春日の全てを知っていた。
     初夏の鳥辺野は、墓標の合間を青々とした下草が覆い、緑の絨毯を敷いていた。隠れるところも多くなる季節だ。だが、春日の鷹の目は、僅かな揺らぎも見逃さなかった。
     視界の隅で、かすかに草が揺れる。葉擦れの音が、小さく響く。
     とたんに、『火神招来』が火を噴いた。潰れるような悲鳴を上げ、狐が宙を舞い、そして落ちた。
     火薬と、そして血の匂いが漂う。よく見ると、緑の合間に赤い腹をみせた餓鬼が、黄色い狐が、あちらこちらに伏していた。どれもこれも、温もりの気配すらない。血の抜けきった肢体だった。
     逃げられないと悟ったのか、潜んでいた鬼たちは、一斉に立ち上がった。一面に波のように鬼の頭が連なる。連射のできない大筒では、その数は捌(さば)ききれないはずだった。
     しかし、春日は焦ることなく大筒の弾を込めた。照準を合わせ、引き金を引く。一つ一つの動きに無駄はなく、弾丸は、確実に鬼の体を貫いていた。
     次々と鬼が倒れていく。春日一人に、無数に取り囲む鬼がなすすべもなく屠られてゆく。彼に爪を届かせられるものはなかった。
     だが、一瞬、春日は視界に赤い影を見た。
     さっと目の前を横切ったのは、すばしっこさでは引けをとらない小鬼『赤んちょ』だった。腹の膨れた赤子の姿をした餓鬼だ。
     見ると、赤んちょの長いつめの先が、その腹と同じ紅に染まっていた。
     春日は右頬に、引きつるような痛みを感じた。軽く手をやると、指先がぬるりと濡れた。
     彼の指は、赤く生暖かい液体に染められていた。
     春日の目が、自らの指先を凍りついたように見つめた。引き金を引くことも忘れ、ただ一点を凝視している。
     赤黒く、甘い匂いの漂うそれ。強い紅の色は、その中に潜む何かを隠す。
     彼の瞳は、もう自分の指を映してはいなかった。
     全身を駆け巡る赤い色、その中に、赤にまみれた何かが蠢く。無数の微小な鬼が、ざわざわと僅かな血の中に息づいている。
     血に潜む無数の小鬼だけが、彼の視界を覆っていた。その中に潜む声だけを、彼の耳は捉えていた。
     春日の唇が震えわななき、その面が見る見るうちに青ざめた。
    「・・・ああああッ!!」
     悲鳴を上げ、春日は引き金を引いた。『火神招来』も悲痛に叫ぶ。
     突然の変貌におののき、鬼たちは脱兎のごとく逃げ出した。
     しかし間に合うはずもなく。見る間に鳥辺野は鬼の死骸で埋め尽くされた。
     鬼はもう一匹もいない。動くものもない。葬送地は、そのまま彼岸と化した。
     だが、その中で春日はまだ己の指先を見つめたまま、青ざめた唇を震わせていた。
    「駄目だ・・・まだいる。まだここにいるッ!!」
     春日は自身の血に濡れた己の指先に、大筒の銃口を向けた。
     突きつけられた銃口の向こうで、それでも血の中に潜む鬼は、彼を嘲笑うかのように踊っていた。彼だけに見える無数の鬼が、語りかける。
    ―どうした・・・まだいるぞ。ここにおるぞ。
     春日は忌々しげに唇を噛んだ。
     呪いの源がここにいる。人より早く成長し、死ななければならぬ短命の呪い。子を成すこともできぬ、断種の呪い。彼の体を作り変えた、微小で無数の小鬼ども。全身の血に潜むこの鬼が、わずか一年余りのうちに彼を死へと誘うのだ。
    「・・・くそッ!」
     だが、体中の血を抜くことなどできない。こんな外に出てきたほんの一部の鬼を仕留めたところで、呪いが消えるわけでもない。
     春日は、銃口を下げた。
     また、紅の中から声が聞こえた。
    ―自分の指は撃てぬか。卑怯者が。
    「やかましいッ!!」
     春日は聞こえない声を振り切った。
    「まだ早い。いずれ貴様らも滅ぼしてやる・・・。俺の中に潜む鬼ども、俺の命と引き換えだ。だが・・・。」
     滅びるときは、全てを道ずれに。自分をこんな運命に追い落とした、全ての鬼を黄泉に。
    「俺の死に場所は、全ての鬼の屍の上だッ!!」
     何故こんな運命の下に生まれた。
     俺の体をここまで蝕んだのは誰だ。
     朱点?天界?
     そんなものはどうでもいい。
     ただ・・・憎い。
     俺をこんな運命の中に突き落とした全てのものが。
     俺に牙を剥く、全てのものが。
     ・・・同じ呪いを持つ、全てのものが。
     ただ憎い。
     うつろな瞳が宙を泳いだ。唇が、わななくようにかすかに動いた。
    「・・・憎い・・・。」
     朱点が。鬼が。
    「・・・憎い。」
     俺を生んだ天が。
    「・・・憎い。」
     同じ鬼を身の内に抱える、自分と同じ血を持つものが!
     春日の思考は、暗い黄泉の淵へと沈んでいこうとしていた。
     しかし、それを引き止める高い声が響いた。聞きなれた音だ。それはだんだん、大きくなって、彼の耳に届いた。
    「兄貴!」
     声と共に、春日の目に緑の風が飛び込んだ。
     明梨は息を切らし、大きく肩で呼吸していた。喉が悲鳴を上げている。いつもの陽気な彼女らしさはない。その面は、先程の春日に負けないくらい蒼白になっていた。
    「・・・何してた・・・。」
     明梨は春日に詰め寄った。
    「ここで何してたンだ、兄貴ッ!!」
     だが、春日は侮蔑の色を込めた瞳を明梨に返しただけだった。
     彼の身を包むのは、火薬の匂いに血の匂い。彼が鬼撃ちをしていたことなど明らかだった。
     返事のない春日に、明梨は声を荒げた。春日の襟元に掴みかかった。
    「解ってンのか、兄貴!いま、吹雪が上にいるんだぞ、交神してるんだぞ!交神月は、殺生禁止だって言われてるじゃないか!吹雪に何かあったらどうするつもりなんだ!」
     しかし春日は眉一つ動かさず、吐き捨てた。さすがの明梨も耳を疑った。
    「知ったことか。」
    「何だと・・・?」
    「交神月の殺生禁止にどれほどの意味がある。」
    「そんなのわかんないじゃないか!兄貴だって、まだ交神してないんだろ。俺たちにわからない何かがあったらどうするンだ!」
    「・・・ふん、それならそれで好都合だな。」
    「兄貴・・・。」
     怒りの余り、明梨の唇はそれ以上の反論を紡げなかった。ただ引きつった喉が、渇いた音を立てただけだった。
     春日は平然としたまま続けた。
    「またガキを増やしやがって。何の意味がある。『鬼』が一匹増えるだけだ。帰ってこないのなら、いっそそれこそ好都合だ。『鬼』が減る。」
    「ふざけるなぁッ!!」
     骨のきしむ、鈍い音が響いた。
     明梨は怒りに任せ、春日の頬を拳で打った。だが、春日は明梨の渾身の一撃に倒れることもなく、ただ忌々しげに明梨を睨み据えた。
     明梨の瞳は驚愕に見開かれ、水面のように揺れていた。
    「帰ってこなくていいだと・・・?本気で言ってンのか!!吹雪は・・・吹雪だけは兄貴・・・。俺だって、どんだけ吹雪が・・・。」
     怒りで言葉が続かない。悔しさで視界がぼやけてかすむ。明梨は唇を血が出るほどきつく噛み締めた。
    「許さないぞ・・・。今度っていう今度は、もう絶対許さないからなッ!!」
     明梨は乱暴に春日の襟元を掴む手を放した。ようやく解放された彼は、軽く喉に手を当て、襟元を正した。
     しかし明梨は春日に一瞥することもなく、来たときと同じように駆け出した。振り返ることはなかった。
     体が悔しさを涙と共に吐き出そうとしていた。目の奥が、明梨に泣けと訴えかける。しかし、明梨はその頬を濡らすことはなかった。きつく噛まれた唇が、代わりに血を流そうとしていた。
    ―馬鹿だ・・・俺・・・。ちょっとでも、一瞬でも、どうにかなるンじゃないかだなんて、どうして思っちゃったんだ!兄貴が変わるわけない。変わるはずないンだ・・・!
     つい数日前に感じた希望は、硝子(がらす)のように粉々に打ち砕かれた。
     だがこのとき、彼女はまだ気がついていなかった。
    ―『鬼』が減る。
     春日の語った、この言葉の意味に。


     一月ぶりの我が家に降り立ち、吹雪はほっと軽く息をついた。天界と、京では、風の匂いが違う。喉の奥をくすぐる慣れたその味に、緊張した体がすっと和らぐのを感じた。出迎えの桂花の笑顔も懐かしい。
    「お帰りなさい、吹雪。交神お疲れ様。」
    「一月(ひとつき)、面倒をかけたな、桂花殿。おかげでつつがなく過ごせた。」
    「そう、それはよかったわ。」
     桂花の艶(あで)やかな微笑みは、出て行ったときと変わらなかった。しかし、そのとなりに佇む明梨は、今まで見たこともないような心細い表情(かお)を浮かべていた。不審に思う吹雪が唇を開きかけたその時、明梨が堰を切ったように問い質した。その手は、力なく吹雪の袖を掴み、不安げな瞳が、彼女を見上げていた。
    「吹雪・・・大丈夫か?」
    「明梨?どうしたのだ。」
    「どこもなんともないか、体、平気か?」
    「どうしたのだ、明梨。私なら大事無い。大丈夫だ。」
     吹雪はいつも通りの笑みで、明梨に答えた。自分の腕に触れた明梨の手に、鼓舞するように己の手を重ねた。
    「・・・本当だな・・・本当なんだな・・・。よかった・・・。」
     泣き出しそうな瞳のまま、明梨は吹雪の肩に腕を回した。苦しいくらいにきつく、吹雪を抱きしめていた。
    「明梨・・・?」
     呆然と瞳を巡らせる吹雪の目に、複雑な笑みを浮かべた桂花の面が映った。
    「吹雪、明梨の話、聞いてあげてくれる?」
     桂花に言われるまでもなく、幼い頃から明梨の話し相手はいつも吹雪だった。


     初夏の一月は、時の巡りが早い。
     吹雪は、開け放たれた襖から差し込む強い光に、本格的な夏の到来を感じた。
     時の流れない天界と異なり、京には季節の移ろいがある。天へ上る前は、ただ無情としか思えなかったその流れも、何も移ろわないあの天界を目の当たりにしてからは、むしろ愛しいものに思えた。
     夏の庭を眺めながら、吹雪は明梨の言葉に耳を傾けていた。ぽつり、ぽつりと紡ぎだされるそれは、形にならない涙のようにも思えた。
    「そうか・・・春日がな。」
    「うん・・・ごめん、吹雪。」
    「気に病むな。明梨のせいではない。」
    「でもさ、吹雪。赤ちゃん、大丈夫なのか?」
    「大事無い。心配いたすな。」
     吹雪は迷うことなく断言した。微かな笑みを浮かべ、明梨に瞳を返した。
    「此度(こたび)、私が交神いたしたのは生来の神ではない。光佳(ひよし)殿は、この家の第十二代当主であられた。そなたの四代前の祖父殿だ。」
    「うん。」
     吹雪が交神相手に選んだのは、かつてこの一族に生まれた男だった。華奢な風貌に似合わず、重量級の大筒を構え、誰よりも早く敵陣へ突き進んで行った、天才大筒士光佳。その才を神に愛でられ、肉体の滅びた後に天界へ住まうことを許された、数少ない一人であった。
     彼ならば、他の神々よりも一族の事を考えてくれる。
    「光佳殿であれば、神々が何を思われようと、赤子を守ってくださる。だから心配いたすな。」
     確信を持っての言葉だった。だが、その返事にも、明梨は曖昧な肯(うなず)きを返した。視線は、手元の畳の上に落ちていた。
    「うん・・・。」
     吹雪は庭に瞳を移した。溢れる陽を受け止めるかの地から、この座敷はずいぶん遠いように思えた。
     視線をはずしたまま、吹雪は尋ねた。
    「春日が不安か、明梨。」
    「・・・吹雪、俺、兄貴のこと、どうしたらいいんだろう・・・。」
     明梨の瞳は、同じように畳の上に注がれていた。動いていなかった。
    「ずるいんだよ、兄貴は。戦わなきゃいけないのはみんな同じなのに、一人だけ傷ついたような顔してさ。兄貴がああなのは、昔からなんだよな・・・。」
     明梨は、いまと異なる春日を知らない。運命を憎み、己の身を呪い、誰ひとり認めることをしない。明梨が物心ついたときから、春日はそんな男だった。
    「解ってるんだ、兄貴は変わらない。変わったりしない。もうすぐ俺は当主になるんだから、俺がみんなを守っていかなきゃいけないんだ・・・。だから、兄貴のことはもう・・・諦めなきゃいけないンだ・・・!」
     叫ぶように、明梨は吐き捨てた。
    「だってそうだろ?兄貴さえ・・・兄貴さえいなきゃ、みんな上手く行くのに。俺も・・・吹雪だって、もっと悩まなくていいのに。兄貴が、兄貴一人、いなきゃ・・・!」
     だが、それを絞るように言葉にしなければならないことに、明梨の迷いがあった。吹雪は、ぽつりと呟いた。
    「憎みきれぬのだな、春日を。」
     その言葉は、鋭利な刃物のように突き刺さった。明梨の喉の奥に、苦い何かがこみ上げてきた。いままで認めてこなかった何かが、吐き出されようとしていた。
     しかし、明梨はそれを懸命に否定にかかった。
    「・・・そんなはず・・・あるわけないだろ。こンだけ散々迷惑かけられてんだぞ・・・。」
    「無理に隠すな、明梨。この前の、地獄以来であるな。何があった。」
     明梨は口を噤んだ。しかし、吹雪はかまわず言葉を続けた。
    「いままでも、そなたが春日に何とか関わっていこうとしていたのは、私もよく存じておる。他の誰もが、あ奴を疎ましく思っているというに。ただ、兄妹だからというだけではあるまい。」
     誰にも関心を持たない春日を、誰もが無視しようとも、それは仕方のないことだ。原因は、むしろ春日の方にある。
     その中で、ただひとり明梨だけが、春日に言葉をかける。心配する、苦言を呈する。
     そして、この前の討伐以来、明梨の態度の端々に、かすかな自信が見え隠れしていた。
     明梨は、ようやく首を縦に振った。もっとも、それは間接的な肯きであった。
    「・・・それは、吹雪も同じだろ。」
    「そうだな・・・。」
     明梨の目には、吹雪の方こそ、春日の身を案じているように映った。いつだって、春日が夜中に悲鳴を上げれば真っ先に駆けつけるのは吹雪だ。思えば、最も春日に歳の近い彼女は、誰よりも長く彼を見てきたのであろう。
     その吹雪になら、語ってもいいのかもしれない。一縷の期待を胸に、明梨は重い唇を開いた。
    「・・・吹雪さあ・・・兄貴の笑ってるとこって、見たことあるか?」
    「いや・・・。」
     吹雪は首を横に振った。
     春日はひどく無表情だ。皮肉のような笑みすら浮かべることはない。勝ち誇った笑い方もしない。表情が動くことがあるのかとさえ、疑いたくなる。
    「俺もさあ、見たことなかったんだよ。兄貴ってさ、苦笑も、皮肉っぽい笑い方もしないじゃないか。けど・・・。」
     時を逆に回し、明梨は思考を数ヶ月前に辿らせた。苦痛に満ちた苦い表情は去り、柔らかい微笑が彼女の顔に浮かんでいた。
    「この前の大百足戦、あっただろ。」
    「ああ。そなたと春日で倒したあれだな。」
    「うん。あン時さ、止めさしたのって兄貴なんだけど、致命傷負わせたのって、俺なんだよね。そうしたら、兄貴さぁ・・・。」
    明梨の面が、ほんの少し照れくさそうにはにかんだ。
    「俺のこと、褒めてくれたんだよね・・・。やるじゃねえか、ってさ・・・。だから、俺・・・。」
     あのときの、春日の顔をきっと明梨は忘れない。
     それまで、言葉など掛けてくれたことはなかった。関心を持ってくれたことさえなかった。春日の頭にあるのは、自分自身とそして鬼。それだけなのだと明梨は固く信じていた。
     だが、あのときの春日は違った。かなり皮肉に満ちた笑みではあったが、間違いなく、その瞳は明梨を捉えていたのだ。
    ―ふん、やるじゃねえか。
     一度でも、本気の顔を目の当たりにしたならば、それは深く脳裏に焼きつく。うわべだけのものでないから、忘れることはできない。
     たった一度の本気の顔が、明梨を迷わせるのだ。まだ早い。まだどうにかなるかもしれない、と。
     吹雪は、明梨に手を伸ばした。軽く彼女の髪に触れ、ゆっくりと明梨の頭を撫でた。
     明梨の母親譲りの緑の髪は、いつだって吹雪たちに爽快さを与えてくれた。陽気に笑い、人より早く駆け巡る。それでこそ、明梨だ。
    「明梨、無理に結論を急がずともよい。あまり思い詰めるな。」
    「だけど吹雪、兄貴のことは俺一人の問題じゃないんだ。」
    「・・・そうであるな・・・。だがな、明梨、憎みきれぬのなら、憎まずともよいのだ。その方がそなたらしいぞ。」
     吹雪は穏やかに微笑んだ。いつも寡黙な彼女が時折見せる微笑は、開いた傷口に沁みるように痛い。強い薬のようだった。意地を捨てて、泣きたくなる。
    「明梨、ここはひとつ頼みがある。春日のこと、しばらく私に任せてはくれぬか?」
     このとき、吹雪が何を考えていたのかは解らない。しかし、彼女にしては強引に、明梨に異を唱えさせることなく、首を縦に振らせたのであった。


     今に始まったことではないが、春日の生活を把握しているものは、同じ一族の中にもほとんどいなかった。
     一つ屋根の下で寝食を共にしているのだから、彼が日頃どのように過ごしているのか、解りそうなものである。しかし、気がつくと、彼の部屋はいつも空になっていた。
     食事時も、居間に現れることはない。いつ寝ているのかも定かではない。
     そんな彼を日中探し出すのは、困難なように思えた。
     しかし、吹雪にとっては大して苦になることではなかった。彼は屋敷にいることは稀であったが、だからといって、街中にいるはずもない。人と交わることは、誰よりも嫌っていた。
     自然、吹雪の足は京(みやこ)外れに向いていた。
     京の周りを取り巻くように点在する葬送地。死の支配するそこは、格好の鬼の棲家となっていた。討伐に行くことなく実戦に出られるともなれば、近場ではそこしかない。
     吹雪は順に、墓標の立ち並ぶ葬送地を巡っていた。
     木幡、あだし野、そして鳥辺野。
     九条一族の墓地でもある鳥辺野の地は、春日にとっても心惹かれるものがあるのだろうか。それとも、ここには特に鬼が集まるというのか。彼は何故か、鳥辺野にいることが多かった。
     夏草が青々と茂る中、遠くの山陰に春日の後姿がよく映える。自然の緑に灯された一点の火のような、鮮やかな緋色の髪。同じ赤い髪を持つ桂花や、その娘の椿ともまた違う、鮮烈な色だった。そう思うのは、彼の気性を思い起こさせるからだろうか。陽の赤とも、花の色ともまた違う、いうなれば業火の紅。それは、春日が持つにこそふさわしい。
     春日は珍しく、鳥辺野の地に腰を下ろし遠くの山々を見つめていた。ところどころ、いつもと同じく鬼の死骸が転がっているものの、鳥辺野に動くものの姿はなかった。撃ち抜くものもなく、春日は仕方なしに体を休めているといった風情だった。背中からも、ひどく不満げな様子が伝わってきた。
     だが、それでも大筒だけは、手放そうとはしていない。いつでも引き金が引けるよう、右腕に抱えたままになっていた。
     吹雪は、すぐには手の届きそうにない後方に佇み、春日に呼びかけた。余り近寄っては、それこそ銃口を向けられかねないことを、吹雪はよく知っていた。
    「春日。」
     だが、返事はなかった。もっとも、それもいつものこと。吹雪はかまわず、屋敷から持ってきた包みを足元に置いた。
    「また何も口にしていないのであろう。握り飯だ。ここに置いておくぞ。気が向いたときに食せ。」
     春日は破壊衝動が際立っている分、他の基本的な欲求は人より極めて乏しかった。放っておけば、それこそ倒れるまで、何も口にしなければ、眠ることもない。夜、屋敷にいないのも、食事時に現れないのも、当然のことだった。
     当面の用向きは、これで終わりと思いきや、吹雪はなおも春日の背後から去ろうとはしなかった。いつまでもひとつところにある気配に、ようやく春日は重い口を開いた。だがその言葉は、吹雪の好意をおせっかいであるといわんばかりのうんざりとした色に染まっていた。
    「・・・また貴様か。よく続くな。」
     交神に行く前も、戻ってきてからも、吹雪がこうして彼の前に姿を現すのは珍しいことではなかった。人の顔などまるで覚えない彼も、さすがに吹雪のことは認識しているようであった。
     春日のつれない返事にも、もはや慣れきっている吹雪は少しも動じることはなかった。
    「そのように申すな。今日は、これだけのために来たのではないのだ。」
    「勝手にしろ。俺は貴様に用などない。」
    「いいから、聞くがよい。」
     吹雪は春日の反論を封じ、言い放った。不穏な気配が、一瞬漂った。
     幾許(いくばく)かの間をおき、吹雪はゆっくりと語り始めた。
    「桂花殿が倒れられた。もう、長いことない。これからは明梨が当主だ。」
     当主の死の宣告にも、春日は何の関心も示さなかった。誰が死のうが生きようが、春日にとっては何の関係もない。
     かまわず、吹雪は続けた。
    「その明梨からの命だ。春日、交神いたせ。」
    「・・・なんだと?」
     ようやく、春日は声を上げた。振り返った赤い瞳には、驚愕と共に、強い憎しみが浮かんでいた。
    「俺にガキを作れだと?馬鹿馬鹿しい。冗談も大概にしろ。」
    「冗談ではない。そなたが類(たぐい)稀(まれ)な腕を持つことは、みな、存じておろう。その血を、絶やすわけにはゆくまい。交神は、我らの義務だ。」
    「ふざけるな。貴様らの都合など知ったことか。」
    「どうしても嫌か。」
    「当然だ。」
     取り付く島もなかった。春日は頑として、首を縦に振ろうとはしない。しかし、吹雪としてもここで折れるわけにはいかない。
    「だが、是が非でも、そなたには受けてもらわねばならんのだ。春日、何が望みだ。申してみよ。聞けることならば、何でも聞こう。」
     吹雪の譲歩にも、春日は口を噤んだ。再び彼女に背を向け、唇を開こうとはしなかった。
     吹雪は溜め息をついた。予想したことだが、春日を交神に臨ませるのは、骨の折れることだった。
     仕方なく、吹雪は話の矛先を変えた。
    「春日、私も先月交神をした。お相手は、光佳(ひよし)殿だ。そなたにとっても、高祖父殿にあたられるな。」
     返事はなかった。吹雪は、そのまま語りを続けた。
    「光佳殿からお伺いした。彬也(あきなり)様が、そなたのことを大変心配しておられるとのことだ。そなたの父御前(ごぜ)だ。」
     第十八代当主、大筒士彬也。春日と明梨にとっては、父に当たる。
     術を使わせたなら右に出るものはないと讃えられ、習得は最も困難といわれた大筒士の奥義を遺(のこ)した男。死後、天界に住まうことを許されたことを見ても、その才の程が窺える。
     だが、その腕に反し、彬也はひどく繊細な男だった。思い悩むがゆえに、寿命を縮め、当主就任の僅か一月後に世を去った。
     春日にとっては、顔も知らない父だった。
    「・・・笑わせるな。安全な天界から高みの見物のくせに、何が心配だ。俺を作ったのは貴様だろうが。」
     自分をこんな運命に追い落とした根源であるというのに。いまさら何が心配だというのだ。気に病むくらいなら、生まれさせなければよかったのだ。
     春日の内に、揺らめく何かが沸き起こった。
    「・・・どうしても俺に交神しろというのか。」
    「無論だ。」
     春日はもう一度振り返った。先程よりもなお強い光が、彼の血走った瞳に満ちていた。
    「なら、最高神だ。あの女を連れて来い。他の奴は御免だ。」
     吹雪は、虚を突かれた。何が突然春日の気を変えたのか、解らない。だが、初めて自分から臨もうという交神に水を差すことはできない。
     吹雪は春日に問い質した。
    「最高神・・・太照天昼子殿だな。昼子殿となら、交神致すのだな。」
    「ああ。」
    「・・・承知した。必ずや、昼子殿に応じていただこう。」
     一抹の不安を感じつつ、吹雪は首を縦に振った。


     天界というのは、実は京と余り変わりはないと聞いていた。
     だが、交神のために設けられたというこの空間はどうだ。
     京と天界の狭間に浮くここは、作られた地であるせいか、見事に何もなかった。見渡す限り、上も下も薄桃の雲で覆われている。足が沈まないのが不思議なくらい、曖昧な世界だった。
     一通り辺りを見回し、春日は毒づいた。
    「睦事に、余計なものはいらねえってことか。たいした趣味だな。」
     交神という仰々しい名が付き、相手が神だとて、交わるということは同じ。もったいぶった天へと送られる儀式も、イツ花に無理やり着せられた真新しい礼装も、春日にはひどく無意味なことに思えた。
     着慣れない直衣(のうし)がうっとおしい。さっさと脱いでしまいたかったが、そうもいかない。
     それもこれも、すぐに相手の神が来ないせいだ。最高位にあるから、相手である自分が人間だから、そう簡単には現れないというのか。馬鹿にしている。
     春日の不機嫌も、最高潮に達していた。
     というそのとき、ようやく春日は背後に何者かの気配を感じた。
     びりっと春日の身に、雷(いかずち)が走り抜けた。
     圧倒的な存在感。全身が総毛立つような迫力。最高神の名は伊達ではないということか。噂どおりの力を持った神が舞い降りた。
    「ようやくお出ましと来たか。」
     だが、春日はひるむことなく振り返った。先程まで確かに誰もいなかったそこに、ひとりの乙女が佇んでいた。
     宮中の女房にも引けを取らない、優雅な唐衣装束。豊かな波打つ栗毛。琥珀の瞳が、まっすぐに春日を見つめていた。
    「・・・貴様か。」
    「はい。太照天昼子です。」
     昼子は、にっこりと微笑んだ。残酷な女神との評に程遠い、穏やかな微笑だった。
     春日はいぶかしげに眉を潜めた。
     どこかで見たことがあるような顔だった。最高神に見覚えなどないはずなのに。
     もちろん、この場に明梨や吹雪がいたら、見たことがあるどころではなかっただろう。昼子は、彼女たちのよく知る娘と同じ顔をしていた。一族の世話役、イツ花と。
     だが、人の顔などほとんど覚えない春日の性癖が、このときばかりは幸いした。
     昼子の顔などどうでもよかった。
     昼子は、微笑んだまま言葉を続けた。
    「交神の儀、私を選んでくださってありがとうございます。うふふ、よろしくお願いしますね。」
     気さくに、昼子は語りかけた。警戒心などかけらもない顔だった。それが、余計に春日を苛立たせた。
    「交神だと・・・?俺がただ交神しに来たと思うか。」
     春日の身が、不穏な気配に包まれた。そこらじゅうに隠された闇の色が、春日のもとに集った。
     しかし、それでも昼子は微笑を崩さなかった。
    「あら?それじゃあ何のためです?」
    「最高神、全てを始めた貴様に復讐するためだ!!」
     春日の袖口で、何かが光った。
     匕首だ。
     春日は袖に、匕首を隠し持っていた。
     刃がきらめいた。春日は一瞬のうちに、昼子の胸に匕首を付きたてた。
     捉えた。
     だが、そう思ったのも束の間。
     春日の目前で、昼子の姿は霞のように揺らいで消えた。
     『陽炎』の術だった。
     春日は、再び背後に同じ気配を感じた。
    「チッ、逃げたか。」
     だが、春日の刃は昼子を許さなかった。
     白刃が、再び昼子を狙う。
     今度は、昼子は逃げることなく刃を扇で受け止めた。扇を切り裂くはずの匕首は、何故かその刃をぼろぼろにしていた。
     昼子の唇が、かすかに動いていた。
    「『矛盗み』」
     忌々しげに、春日は匕首を投げ捨てた。だが、春日の復讐はそのくらいで終わりを告げなかった。
    「『七天爆』!」
     火術最高の炎が吹き上がった。
     だが、昼子は微動だにせず、自らの名を冠した術を口にした。
    「『太照天』」
     その名の術が、昼子を守る。向けられた炎は、昼子の髪をかすかに焦がしただけだった。
     昼子は、続けざまに術を唱えた。
    「『くらら』」
    「くッ・・・!」
     とたんに、春日の全身の自由が奪われた。強烈な眠気に襲われ、春日はがっくりと膝を突いた。立ち上がれない。
     倒れそうになるそのとき、春日は額に女の指を感じた。再び、先程と同じ声がする。二重に掛けられた術に、抗う術(すべ)はなかった。
     薄桃色の雲の上、春日は仰向けに倒れた。
    「少し弱めに掛けましたから、意識はなくならないと思いますよ。」
     遠くで、昼子の声がしていた。言葉の通り、眠気は少しずつ和らいできていた。だが、それと引き換えに、体の自由は奪い去られていた。指一本すら動かせない。
     昼子は、春日の隣に腰を下ろした。さすがに少し困ったような顔をしていた。
    「交神しに来たんじゃないんですか?」
    「誰がガキなど作るか・・・!」
    「でも、そうしないと、貴方の血はそこで絶えてしまいますよ。それでいいんですか?」
    「恩着せがましい言い方をするな。ガキが必要なのは貴様らだろうが。俺じゃない。」
    「そうですね・・・。」
    「いい気なもんだな。誰が死のうとも、その代わりを作っておこうってんだからな。そのくせ、血を残してやるか。
     ふざけるな!全て貴様らの都合だろうが。」
     動かない体を押し、それでも春日は昼子を睨み据えた。火の恩恵を受けた紅の瞳には、女神への憎しみしかなかった。
    「ガキが欲しけりゃ、貴様の好きにするんだな。俺は交神しない。『鬼』を増やしてどうする。」
    「・・・解りました。」
     昼子の琥珀の瞳が、毅然と前を向いた。憎しみではない、強い何かがそこに宿った。
     春日は、胸元に女の手を感じた。遠かった昼子の顔がすっと近づいた。琥珀の瞳に映る、自分の赤を感じた。
     だがそれも一瞬のこと。
     瞬く間に春日は唇を奪われていた。
    「なッ・・・!」
    「好きにしろと言ったのは貴方ですよ。交神、させていただきます。」
     春日の眉が、見る見るうちに吊り上った。昼子が微笑んだままなのも気に入らない。春日は忌々しげに、あらん限りの侮蔑をこめて吐き捨てた。
    「・・・売春婦か・・・!天界の女王がとんだ女だな!」
    「なんとでも、お好きなように。」
    「交神なんてもんを考えついたのも、貴様が男と睦むためか。天界には、ろくな男がいねえのか。それとも、食い尽くしたか。」
     春日の肌が、外界の空気を感じた。窮屈で仕方がなかった直衣の重みは、すでに感じられなくなっていた。
    「最高神などと崇められていい気になってんじゃねえ。このザマを貴様の配下どもが知ったら何て言うか、見物だな。」
     温かい、女の柔肌の感触が全身を包んだ。しかし、温もりも、親近感も、快楽さえ、春日は何も感じなかった。強烈な拒否感が、彼の全身からあらゆる感覚を奪っていた。いま己の体がどうなっているのか、彼は把握もしていなかった。
    「それとも有名なのか、貴様の男好きは!」
    「お好きなように。どう思ってくださってもかまいませんよ。ただ私は『あの子』を止めます。必ず、止めるんです。手段は気にしていられません。」
     心はどれほど遠くにあろうとも。体は容赦なく二人を近づけた。誰よりも近くに、互いの存在がある。
    「春日殿。憎むのでしたら、いくらでもどうぞ。言い訳はしません。始めたのは私です。恨み言ならいくらでも聞きましょう。どれほど私を憎んで下さってもかまいません。ただ、それでもこれだけは。」
     琥珀の瞳が、まっすぐに春日を見下ろした。何かを訴えかけていた。
    「どうか『私に』子を授けてください。」
     それでも、二人の心が交わることは遂になかった。最初で最後の、肉体の邂逅だった。


     思えば、自分の子を胸に抱くのは初めてだ。
     お輪の生んだ、一族の祖となったあの娘も、近いとはいえ昼子の血を分けた者ではなかった。
     神々は、人間と違い、女神であっても自らの腹で子を育むことはない。ただ、力を分け与え、一時宿った小さな光を人の形へと導くのだ。
     その時は、京(みやこ)の時間にしておよそ一月(ひとつき)。
     ようやく赤子の姿をとった我が子を、昼子はいとおしそうに見つめていた。
     赤子は、彼女の交わったあの男と同じ髪を持っていた。同じ肌をしていた。まだ見ない瞳の色も、彼と同じであることを昼子は知っていた。
    「きっとこの子は強くなるわね・・・。男の子だもんね。」
     そっと唇を寄せ、昼子は赤子の小さな額に口付けをした。
     母親でありながら、昼子はこの子に記憶されることはない。もしかしたら、二度と目にすることすらないかもしれない。
     それでも、過酷な下界へ送り出さなければならないのだ。昼子の望んだ『終わり』を迎えるためには。
     下界からの迎えは、もう訪れていた。昼子と赤子の時は、終わりを告げようとしていた。
     緑の髪の娘が、彼女に手を伸ばした。娘は、赤子を抱きとめた。一瞬だけ、昼子とその手が重なった。
     昼子は祈りの言葉を呟いた。
    「地に、救い主を遣わし給え。」
     昼子は、赤子を抱く手を離していた。
     
     
     
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