苦い果実 今、とても後悔をしている。
鏡に映る自分を目の当たりにし、マァムはそう思わざるを得なかった。
祝賀会用のドレスは、レオナが用意いてくれると言っていたので、すっかり任せていたのだ。
祝賀会への出席はいいとして、自分では、ドレスコードに合った適切なドレスを用意できないと思っていたマァムは、レオナの申し出を快く受け、そして、まさに当日のこのときまで、任せっぱなしにしていた。
いや、その表現は適切ではなかった。
マァムが、レオナに仔細を訪ねようとしても、当日のお楽しみと言って、レオナがマァムのために、どんなドレスやアクセサリーを用意してくれているのか、教えてくれなかったのだ。
そして、数時間後に祝賀会が迫ったまさにこの日、マァムは、レオナに用意されたドレスに身を包み、鏡の前に立って驚愕した。
マァムの後では、レオナが満足そうな笑みを浮かべていた。
「どう!?よく似合うでしょう?パプニカの絹で作ったのよ!健康的な色っぽさと上品さを兼ね備えるようにって、仕立て師によく言っておいたんだから!」
鏡越しに目が合うレオナは、実に饒舌にそう語った。
マァムは、おずおずと、レオナに尋ねた。
「あ、あの・・・レオナ・・・?」
「なに?」
「これ、羽織るものはないの?」
「ないわよ。
当たり前じゃない!
イブニングドレスなんだから、肩を出してロンググローブなのが正式な形よ。」
「そ、そうなの・・・?」
「そうよ。マァムだって、イブニングドレスくらい着たことあるでしょう?」
「あ、あるけど・・・で、でも・・・。」
レオナの迫力に押されながらも、マァムは、小さく異を唱えた。
いつもは快活な彼女は、頬を染めてうつむいていた。
「・・・これ、胸、開きすぎじゃない?」
マァムは、か細い声でレオナに申し立てた。
マァムがこのとき、身にまとっていたのは、胸元の大きく開いたロングドレス。肩からデコルテにかけてはすっきりと出し、ウエストまでは大きく絞られている。対照的に、指先からひじの上までは、清楚な白のロンググローブ。レオナの言葉どおり、色気と上品さをうまく調和させた上質のドレスだった。
レオナは、マァムの言葉に、すぐさま反論した。
「ぜーんぜん!このくらい当り前よ!
デコルテは大きく開けた方が、胸がきれいに見えるのよ!」
「その胸なんだけど・・・。
寄せすぎてない?」
さらに、マァムが異を唱える。
だがそれも、レオナは即座に反論した。
「どうして?」
「だ、だって・・・。」
「ぎゅっと寄せた方が、谷間がきれいに出るのよ。」
「それが恥ずかしいの!」
マァムは、真っ赤になって反論した。
マァムの豊満な胸がドレスの生地で包まれ、くっきりと深い谷間を作っていた。ただでさえ、彼女のコンプレックスでもある豊満な胸元が、大きく強調される形になっていて、マァムは恥ずかしくて仕方がなかった。
うつむいたマァムに向かって、レオナは大げさにため息を吐いた。
「マァムはせっかく胸も大きくてきれいなんだから、ちゃんと綺麗に見せないと!
ほら、ちゃんと胸張って!
堂々としてた方が恥ずかしくないって!」
「恥ずかしいわよ!
この格好でみんなの前に出るって思ったら・・・。」
「注目の的よね。
私も鼻が高いわ。」
「レオナ!」
マァムは、涙目でレオナに抗議をした。レオナにとっては、いつもは頼りがいのある姉弟子であったが、このときばかりは、妹のように感じられ、微笑ましかった。
レオナは、切り札を出した。こう言えば、マァムも納得するだろうと思い、その名を出した。
「心配しなくても、ヒュンケルだって褒めてくれるわよ。マァムにこんなに似合っているんだから!」
しかし、レオナの予想とは反対に、マァムは眉根を寄せた。
「そ、そんなことないわよ。逆に怒られちゃう。」
「え?」
「だって、私、この前も、ヒュンケルに、男を信用しすぎだって言われちゃったばっかりだし・・・。」
「呆れた。何それ。」
マァムの言葉に、レオナは憮然とした声を上げた。
「本当にそんなこと言われたの?ヒュンケルに?」
「う、うん・・・。」
マァムが頷くと、レオナは怒りを爆発させたように叫んだ。
「女が着飾って何が悪いのよ!
ましてや、ちゃんとドレスコードに合わせて、上品にしているのよ。それを色目で見る方がどうかしているんだわ!!」
「レ、レオナ。」
「いい、マァム、ゼッタイに今晩はこれで行くわよ。あの馬鹿兄貴に文句なんか言わせない!
逆に、賞賛を勝ち取ってやるんだから!!」
火のついたレオナの闘争心を収める術もなく、マァムは、ただただこのいもうと弟子に圧倒されていた。
祝賀会の会場では、思い思いに着飾ったパプニカの重鎮たちが集っていた。それだけではなく、この日は、マァムたちアバンの使徒やそれに近しい者たちも、顔をそろえていた。
この会の主催者であるレオナは壇上の人であるため、マァムは、パプニカの家臣に連れられて会場に入った。
馴れない場での心細さに拍車がかかる。
ふと見ると、ヒュンケルがすでに会場におり、アポロたちパプニカの重臣たちと談笑をしていた。
この日は、ヒュンケルも礼装用の軍服に身を包んでいた。
魔界にあっては長く軍団長を務め、戦後も、しばらくの間、一国の騎士団に所属していた彼は、こうした正式な場での立ち振る舞いを心得ていた。礼服に身を包み、パプニカの家臣たちと対等に接している彼を見ると、妙に、その存在が遠いように思えてきた。
マァムは、何故か、ヒュンケルの方に行けなくなり、その場に立ち尽くした。
彼女の視線を感じたのだろうか。
ゆっくりと、ヒュンケルが視線を巡らし、マァムの方に目を向けた。
彼は、一瞬、驚いたような表情を浮かべた。
そして、ふっと笑みを浮かべた。
マァムは、それだけで戸惑った。
いままでも、彼から笑顔を向けられたことは何度もあった。別段、特別なことではない。
だが、マァムは、このとき、ヒュンケルを直視できなくなり、頬を赤らめたまま目を背けた。
「マァム。」
そんな彼女に、ヒュンケルの方が歩み寄ってきた。マァムは、ますます戸惑い、顔を上げることもできなかった。
ヒュンケルは、マァムに声を掛けた。
「支度が終わったのか。」
何と返してよいかわからず、マァムは言い訳のように言葉を口にした。
「あ、あの、ヒュンケル・・・アポロさんたちの方、いいの?」
「ああ。問題ない。
どうした。緊張しているな。」
「う、うん・・・。
あんまり慣れてなくて・・・。」
「そうか。」
マァムが緊張していた理由は、複数あったのだが、その全ては言えなかった。
彼女の言葉を聞き、ヒュンケルは、少し身をかがめて、声を落とした。
「マァム。
今はまだ始まったばかりだから、仕方ないが、疲れたときは、俺を呼んでくれればいい。適当な理由をつけて抜け出そう。」
「えっ・・・。」
マァムは、その言葉に戸惑い、彼を見上げた。ヒュンケルは、いつものとおり、穏やかに彼女を見つめていた。
「無理をすることはない。
抜けたくなったら言ってくれ。
適当に理由をつける。」
「あ・・・ありがとう。」
マァムは、ヒュンケルの言葉にどきりとしたが、すぐに思い直した。
きっと、彼は、こういう華やかな場に慣れないいもうと弟子に気を遣ってくれているのだ。マァム一人では、正直に言いすぎてしまい、角が立つようなことになるところを、ヒュンケルがうまく言い訳を作って、マァムが無理をしないようにしてくれるというだけのことなのだ。
マァムは、ヒュンケルの配慮をありがたく思ったが、同時に、胸の奥がちりと痛んだ。
もし、本当に、彼のことばどおり、ふたりで抜け出して、過ごすことができたら。
そう思って、マァムは慌てて胸の中に起こった感情に蓋をした。
せっかくのレオナ主宰の祝賀会。きちんと出席しないでどうするのかとマァムは、心の中で己を叱った。
マァムは、ヒュンケルから外した視線を戻せなかったが、何とか、言葉だけは彼に返した。
「ありがとう。
でも、大丈夫。
抜けたりしたら、レオナに悪いわ。」
「そうか。
だが、無理はしないでくれ。」
ヒュンケルは、マァムの返事に納得をしたのか、それ以上、深くは尋ねなかった。
ヒュンケルは、いったん言葉を区切った。
「それと。」
そして、すぐに言葉を足した。
「・・・よく似合っている。
きれいだ・・・。」
マァムは驚いて彼を見上げた。いつの間にか、彼の方も、マァムから視線を外していた。
不用心だと言われたらどうしようと思っていただけに、彼のことばが嬉しく、また、たまらなく恥ずかしかった。
ありがとう。
そう言おうとした。
そのとき、アポロがヒュンケルを呼ぶ声がした。
ヒュンケルも、彼の方を向く。
マァムは、慌ててヒュンケルに呼びかけた。
「あっ、ヒュンケル、呼ばれているわ。」
「ああ・・・。」
「大丈夫よ、私、ひとりでも。
辛くなったら、ヒュンケルを呼ぶわ。
でも、もうちょっと頑張ってみる。」
「そうか。」
「だから、行ってあげて。アポロさん、待っているわ。」
「マァム、また後でな。」
「うん。」
マァムは、努めて明るく、ヒュンケルを見送った。
マァムの視界の中で、ヒュンケルの背中が遠ざかる。
そして、ヒュンケルは、再びアポロたちの輪の中に戻っていった。どうも、アポロが、その場に来た人たちにヒュンケルを紹介しようと思ったようだった。
ヒュンケルが礼儀正しく挨拶をするさまが目に映った。
アポロの前に来た中年の男性は、娘だろうか、若い女性を伴っており、彼女をもヒュンケルに紹介する様子が見て取れた。
ヒュンケルの立ちふるまいは、アポロたちにも引けを取っておらず、その光景が、ひどく当たり前のもののように思えた。
マァムは、苦しくなって視線を逸らした。
いつからこんな風に思うようになったのだろう。
以前は、彼が、人間社会に馴染むことを、パプニカとの間にわだかまりがなくなることをあれほど望んでいたのに。
ほかの人たちや若い女性と言葉を交わす彼を見るのは、いまのマァムにはとても苦しく感じられた。
マァムの胸に、先ほどのヒュンケルの言葉が蘇った。
―抜けたくなったら、言ってくれ。
そうできたら、どれほどよいだろうか。
パプニカ城の中庭で、ふたりで静かに過ごす情景をマァムは思い浮かべた。
月光だけが降り注ぐ中庭で、誰にも邪魔されずに、ふたりだけの時を過ごせたら。
その手を、自分に向けてくれたら。
そこまで思って、マァムは、感情を振り払うように、かぶりを振った。
でも、そんなことを言ったら、きっと、彼に負担をかけてしまう。
だから言えない。
マァムの胸の内に芽生え始めた恋心は、彼女から無邪気さと素直さを奪っていった。
それまで知らなかった極上の果実は、たとえようもなく甘く、そして苦かった。
マァムは、ぽつりと呟いた。
「・・・本当は、ふたりでいたい・・・。」
小さく零れ落ちたその声は、届かなかった。