ココイヌ/東リ 化粧くさくて息が詰まる部屋には、女がひしめき合っている。薄暗い空気に混ぜるように。ソファにもたれた九井は紫煙を吐いた。
「もうこんなのやだよぉ」
中心で、女がしくしくと泣いている。濃い化粧と露出の高い服のせいで大人びて見えるが、顔を何度も擦るから、徐々に幼い素顔が露わになっていた。
周りを取り巻く女たちの表情はさまざまだ。同情を見せるもの、無関心を貫くもの、自分より不幸な者を見ているときの笑みを見せるもの。
女は大きく鼻を啜った。袖口から、幾筋もの傷跡がついた手首が見える。
「痛いし、臭いし、きもちわるい。もうやめたいのぉ」
「まあ、そう言うなって」
九井は手近にあった灰皿に煙草を押し付けた。立ち上がり、女の肩に手を置く。宥めるように剥き出しのそれをてのひらでまさぐりながら、猫撫で声で告げる。
「おまえ、頑張ってるよ。オレ、期待してるんだぜ」
「だって、だってね」
しゃくり上げ、女は九井のスーツを握りしめる。
「だってあのひと、アソコにタバコ押しつけるんだよ。すごくあつくて痛いの」
ほら、見て。女はスカートを捲った。下着もつけていない剥き出しの局部は赤く腫れあがり、内腿から恥丘にかけてところどころ黒ずんで爛れている。しかし九井は、そんな悲惨な状態を見ても、顔色一つ変えなかった。
人当たりのよい表情を浮かべ、優しい笑みで、べらべらと舌を回す。
「お前のことをそんだけ気にいってんだよ。一回のプレイでこんなに金もらえる客なんて他にいないんだから、ここでやめちゃもったいねえって。お前に頼みたいんだよ」
「でも、でも、ひどいよぉ……」
女は顔を覆って嗚咽を漏らす。九井は彼女の手を取った。手は荒れ、マニキュアは剥げかけている。
「ああ、かわいそうに。綺麗にしてたのに禿げちまったな」
手の甲を丁寧に撫で付け、九井は大げさに肩を竦めた。振り返り、女たちに向かって手を差し出す。その表情は女の機嫌を取る軽薄な笑みではなく、感情のない東京卍會最高幹部の顔をしていた。
「おい、誰かマニキュア貸せ」
取り囲んだ女の中の一人が無言で、同色のものを手渡した。
「ほら、塗り直してやるよ」
一瞬で作り笑いに戻る。九井は慣れた手つきで、女の指にマニキュアを塗り直してやった。綺麗に染められてゆく自身の指を見て、女は徐々に泣き止んでいった。
「ココさんやさしいね……」
最後の小指の爪が塗り終わるころには、彼女は微笑んですらいた。部屋の空気が急に白けたように弛緩してゆく。ギャラリーは、それぞれ鏡に映る自分へと視線を移している。気づいていないのは本人だけだ。
「お前が可愛いからなぁ」
九井は立ち上がり、女の肩に手を回した。力を込めて抱き寄せ、彼女の頭を自分の胸に押し付ける。
「なぁ、あの客いなくなると困るんだよ。オレのためだと思ってさ。もうちょっと我慢してくれよ」
「うん……」
女は頬を染めて頷いた。嬉しそうに目を細めて、九井に身を預ける。
「わかった。がんばるね」
「いい子だ」
九井は女の頭を優しく撫でつけると、部屋を出た。ドアの前に立っていた男に告げる。
「後で一本打ってやれ。それで大人しくなんだろ」
「はい」
男は直立したまま、慇懃に頷いた。片頬を歪めた笑みを残し、九井はその場を後にした。
帰宅したときには、午前をだいぶ回っていた。
「イヌピー、起きてたのか」
てっきりもう眠っていると思っていたが、乾はソファに寝そべり、付けっぱなしのテレビをぼうっと眺めていた。ただ流していただけなのだろう。くだらない深夜番組の喧騒をバックに、乾は眠たげな瞳で九井を見やった。
「香水くせぇ」
「今日はあっちに顔出してたからな」
脱いだ上着を無造作にソファの背にかけ、九井は彼の隣に座る。ますます乾が顔を歪めた。
「嫌なんだよ、この臭い」
「なんだよ、妬いてんのか」
「…………」
九井は先ほどの女にしてやったように乾を抱き寄せた。けれども彼は不機嫌な面持ちでそれを振り払う。今までの人生ほとんどを共に過ごしてきたというのに、いまだにこういう時の彼の扱い方は難しい。ああいう女だったら出会ってほんの数時間で、身体を売らせるのすら容易いというのに。
九井が手を引っ込めるのと同時に、ごとんと固いものが床に当たる音がした。乾がを拾い上げたそれは赤のマ二キュアだ。そういえば、ポケットに入れたまま持って帰ってきてしまった。
「ああ、それ――」
九井の弁解も聞かず、乾は起き上がると足早に部屋を出て行った。九井は思わずため息をつく。
「はーあ、可愛くねえな」
ネクタイを外して床に放り投げ、九井は乾を追いかける。
「待てってイヌピー。オレのこと待ってたんだろ」
*
夜が遅くとも朝は早い。それが九井の習慣だった。
窓から差し込む朝陽から逃れるように寝返りを打ち、隣に誰もいないことに気づく。
「イヌピー……?」
彼が自分より早く起きるなんて珍しいことだった。その驚きで目を覚ます。
部屋には、既に彼の温度も気配も残っていなかった。もしかしたら、夜中の間に出て行ったのかもしれない――昨晩、彼は終始不機嫌そうであったので。
「……あ?」
ベッドから足を下ろして立ち上がり、見慣れない色彩が視界に入って九井は動きを止めた。視線を落として自分のつま先を見やる。そこにはひどく不格好に赤く染まった爪が十本並んでいた。