「実は、猛暑に海面水温が影響しているのではないかという説があるのですよ」
雑誌の取材にダンスレッスンにと忙しい一日を終えた夜。大学の課題があるのだと足早に帰っていく想楽を見送ったクリスは、一杯やっていかないかという雨彦の誘いに乗って、小さな居酒屋へやって来ていた。
暖簾で仕切られた隣の卓は、随分と盛り上がっているようだ。ガヤガヤとした喧騒の中で、クリスもいつものように海について熱弁をふるう。向かいの席では雨彦がクリスの話に相槌を打ちながら、ビールを呷っていた。
新鮮な刺身とアルコールが疲れた身体に染みる。お互いすっかり気分が良くなっていて、自然と話が弾んだ。
「海面水温が高い日が続くと、雲の形成が妨げられてしまうのですが……」
こういう時、話しすぎてしまうのはいつだってクリスの方だ。雨彦は聞き上手で、時折興味深そうに質問を投げかけてくれるものだから、更に止まらなくなってしまう。けれど雨彦はそんなクリスの話をいつまでだって聞いてくれるから、ついその優しさに甘えてしまうのだ。
「なら、古論が海水を温かいと思うようになったら、俺は家で大人しく涼んでおくのが良さそうだな」
「体感で予報ができるものか、試してみるのも面白そうですね」
話を続けながらふと顔を上げると、雨彦と目が合った。穏やかな表情の雨彦は、クリスを優しく見つめている。
それはなんてことない一瞬だった。いつもであればきっと、そのまま話を続行していたのだろう。
けれど今日は、海に向けられていたはずのクリスの意識がふと、雨彦に向いた。その表情を視界に捉えて、雨彦はこんな表情で自分の話を聞いていたのか、と考える。
もう一度、雨彦の表情に意識を向けてみた。雨彦はやはり、クリスのことをいつもより柔らかい表情で見つめている。視線が絡んで、雨彦がふ、と笑う。その瞬間、クリスの心臓がどくりと跳ねた。
アルコールが急に回り始めたかのように、体温が上がっていく。ばくばくと鼓動が暴れだすのがわかる。自分の身体の急激な変化を自覚しながら、クリスはいつになく動揺した。
海の話に夢中になると、あまり周囲が見えなくなってしまうのは、クリスの悪い癖だ。だからクリスは、雨彦がクリスをこんなに愛おしそうな表情で見つめていたのだということに、今の今まで気づいていなかったのだ。
その表情に宿る感情の名前も、強さもわからない。けれど感情の機微に疎いクリスでもわかるくらい、そこにはクリスへの好意が含まれている。そのことを初めて自覚して、クリスは今まで自分が何を、どんな風に話していたのかもわからなくなってしまった。
「古論?」
雨彦のことを見つめたまま、ぴたりと話を止めてしまったクリスに、雨彦が不思議そうな顔をする。クリスには、そんな雨彦の呼びかけに言葉を返す余裕もない。
雨彦に好意的に見られているのだとしたら、それはとても嬉しいことだ。雨彦は大切な仲間なのだから、好かれていて嬉しいと感じるのは当然だろう。
けれど仲間からの好意に、こんなにも胸が高鳴るものだろうか。こんな風にその表情に惹きつけられて、目が離せなくなるものだろうか。
これまでに経験したことのない自分の状態に、クリスは戸惑う。
「酔いが回っちまったなら、水でも貰おうか」
気遣うような雨彦の言葉に、かろうじて首を横に振った。雨彦は、クリスのことを静かに待ってくれている。
少し混乱が落ち着くと、自分の中で強く存在を主張する感情の形が認識できるようになってきた。それは多分、今初めて生まれてきたものではない。
雨彦から向けられる感情を通して、ずっと心の奥底にあった自分の気持ちに、やっと気づいたような。
一言で言い表すなら、それは、きっと。
「……すき」
ぽつりと口からこぼれ出た言葉に、クリスは自分で驚いて、それからひどく納得した。
小さなその声は雨彦には届かなかったようで、不思議そうな表情のまま小首を傾げている。一度自覚すると、そんな姿すら愛おしいと感じるのが止められない。まるでブレーキが壊れてしまったかのように、感情が溢れ出てくるのがわかった。
「あなたのことが好きです、雨彦」
「……は」
なんの脈絡もないクリスの告白に、雨彦の目が見開かれる。驚かせているのはわかるが、今この気持ちを伝えずにはいられなかった。
「ああ、どうして今まで気づかなかったのでしょう。いえ、今までも雨彦に対して好意を抱いている自覚はありましたが、そういうわけではなく……」
「古論」
「同じ船に乗る同志に対して親愛の情を抱くのは当然のことですから、雨彦への好意もその一種だと思っていました。ですがどうやら私は、あなたのことを特別に愛しく思っているようです」
「古論」
「あなたにとっては突然のことかと思いますが、そう自覚した今、この想いを伝えずにはいられず……かといってあなたに何かしてほしい、というものでもないのですが……」
「古論、ちょいと待ってくれ」
雨彦に制止されて、クリスは一度口を閉ざした。雨彦はというと、額に手を当てて何とも言えない表情をしている。手で覆われていない部分がほんのり赤みを帯びているのを見るに、照れているようだ。
「お前さんが、俺を好き?」
「はい」
「……それは、仲間としてではなく?」
「ええ、想楽のことももちろん好きですが、あなたに対する好意はもっと特別で強いもののようです」
はっきりとしたクリスの回答に、雨彦は沈黙した。珍しく戸惑った様子の雨彦を、今度はクリスが待つ。
「……古論」
徐に顔を上げた雨彦は大きな手を伸ばして、そっとクリスの頬に触れた。指先から雨彦の熱が伝わってきて、たったそれだけで、少し鎮まったはずの鼓動がまた速くなる。
「嫌か?」
「いいえ」
嫌だなんて、思うはずがない。クリスがそう答えると、雨彦がゆっくりと身を乗り出す。藤色の瞳が、間近に迫ってくる。
唇に柔らかな感触がしたのは一瞬のことで、すぐに雨彦が遠ざかっていく。頬に触れた手が離れていくのを、名残惜しいと感じた。
「……俺は、お前さんにこういうことをしたいと思っているんだ」
その言葉を聞いてようやく、雨彦とキスをしたのだという実感がやってくる。嬉しいような、少し恥ずかしいような感覚に、また体温が上がっていく。
「これは、お前さんの好きと一緒かい?」
「……はい、雨彦。今私は、とても嬉しいです」
自覚したばかりのこの特別な好きの名前なんて、正直まだ見つかっていなかった。けれど雨彦に触れられて感じた喜びは、きっと間違っていないはずだ。
「私はあなたの側にいたい。あなたに、もっと触れてほしいです。だからきっと、この好きに名前をつけるとしたら、それは恋なのだろうと思います」
雨彦に恋をしている。そう自覚するとなんだか幸せで、心がじわりと暖かくなるような感覚がする。
だからこの心の中の想いを、目の前の愛しい人に伝えずにはいられない。
「あなたが好きです、雨彦」
「……ああ。俺も、お前さんのことが好きだ」
そう答える雨彦の瞳は、いつになく真剣だった。気持ちに応えてもらえることが嬉しくて、ふわふわと浮足立つような感覚がする。
雨彦に今、側に来てほしい。先程のように触れてほしい。自覚したばかりの恋心は、随分と我儘なようだ。
「あの、雨彦。さっきの、もう一度してくれますか」
そう頼んでみると、雨彦はまた少し驚いて、照れたように笑う。
雨彦の手が再び頬に触れるのを感じながら、クリスは静かに目を閉じた。