陶酔 黒川イザナは目の前でベロンベロンに酔っぱらった青年を冷静に見下ろしていた。
否、外面上、冷静そうにしているだけでその実、全く冷静ではない。古今東西、酒というのは人を開放的な気分にさせる。
それは、初めて飲酒を行った者であれば加減を知らないのであるから猶更だ。
「いざらくんっ!なんでおしゃえとるんれすか!!」
取り上げた缶のサワーを黒川は喉奥へ流し込んで行く。縋りついてむずがる花垣の髪を撫で梳かしながら、しっとりと柔らかい髪に指を通して弄んだ。
余裕さなど皆無。数多の障害をどうにか押しのけて晴れてやっと恋人になった黒川は、存外に四歳年下の花垣を大切にしていた。初めて身体を重ねようとした際も「痛いのには慣れてるんで!」と勇猛さを発揮していた花垣を軽くはたいて、丹念に準備を施している段階で。甘い雰囲気は残念ながら未だ無く。病院で診察をするような気持ちになっている。
更に付け加えるならば、黒川にはその準備すら上手く行っているのか判別がつかない現状であった。それもこれも、花垣武道という人間が痛みに強いからである。どうしても苦痛を我慢してしまっているのではないかと勘繰ってしまうのだ。
小さな頃から〝やんちゃ〟をし過ぎていた結果、恋人は花垣が初めての黒川。実は経験豊富な相手に全てをまかせるという形で数回経験があるだけで、それも片手の指が余る程だ。真の快楽というものは終ぞ知り得ない。相手はその全てが異性相手であれば、花垣との行為は未知の領域なのだ。大切にしたい年下の、同性の、初めての恋人。今までの経験など何の足しになろうか。
キスも初めてで柄にもなく緊張してしまったのだ。最初から全てを完璧にできる者などこの世の何処にも居ない。唇を喰む覚束なさを隠せずに拙い口付けを交わすその慣れていない様子を受けて、嬉しそうに頬を染めた花垣の、重ね合わせた熱は今も忘れられないのだ。
「くそ……」
思い出すのではなかった、と小さくを悪態を吐いてみせる。
誕生日の今夜、実は一線を越えようと示し合わせていたのだ。二人は緊張を解す意味も込めて、ほんの少しだけアルコールを入れることにしたのである。丁度、彼は二十歳の誕生日。飲酒を解禁できる年齢だ。黒川は飲み慣れているからこそ、ペースを制御してやればいい、と軽く考えていた。
飲み過ぎるのはいけないが多少ならば問題ないだろうと踏んでいた。
まさかこんなに酒に弱いとは思いも寄らなかったのである。度数のかなり低い酒を選んだのだが、三分一でこれである。不良でありながらも、そこは流石東京卍會所属。妙に品行方正なのだ。それに倣うように花垣も酒を呑んだことがなかったらしい。
世間的には当たり前だが、黒川に世間の常識を当てはめてはいけない。
只管に素数を数えていた。理性を保つに際してこういう時は大抵、円周率を数えるのであろうが、残念なことに黒川は円周率をそこまで長く覚えていない。その為、早々に素数に切り替えたのである。思考を全て数字に集約させて、明後日の方向に思考を追い遣る。そうでもしなければ、この可愛らしい酔っぱらいに己が何を仕出かしてしまうか分からないからだ。
誕生日に段階を進めようというのは、お預けであろう。最後の一滴まで飲み干すと、缶をローテーブルに置いた。
「武道、今日はもう寝ろ」
縋りつきながらサファイアの瞳を潤ませる花垣。いつもは彼自身が自重している身体接触の少なさは嘘のようだ。黒川としては普段からもっと傍近くに身体を寄せていたいと思うのだが、花垣の方が照れてしまって離れてしまうのだ。それに物足りなさを感じていたのだが、その突然の甘える様は一切の容赦がない。
「ひろいれす!おさけっ……」
ポロポロと涙を零しながら、手を伸ばす花垣。少し体勢を寝かせる恋人の顔を覗き込み、頬をやんわりと撫でてやる。
「これ以上酒飲んだらぶっ倒れるぞ」
初っ端から飛ばして急性アルコール中毒になんかなれば目も当てられない。緊張を解す目的とはいえ、自身が酒を勧めてしまった事を恨むだろう。
確かにぐずぐずに蕩けている様子は実に愛らしい。筆舌に尽くし難い程に。
横抱きにして寝かしつけようとベッドルームへ運ぶ。短い廊下をいつも以上にゆっくりと進み、しかしすぐに辿り着いてしまった寝室のノブに手をかける。己だって本心ではまだ花垣を寝かせたくなどないのだ。
腕の中で微睡む青年に視線を落として、大きな溜息を一つ。黒川は当初の予定が覆ってしまった事実に気分を下降させた。
黒川は今からおよそ六年前、正確に言えば五年半程前、死の際を彷徨った。抗争で拳銃が持ち出され、それはあろう事か同じ天竺所属の鶴蝶に向けられたのだ。身体が動いて庇った黒川は銃弾に倒れ、危険な状況であった。
それでも辛うじて命を繋ぎ止めた黒川には救いが待っていた。
花垣武道である。
同じように銃に撃ち抜かれながらも命が助かった鶴蝶に頼み込まれたらしい彼は、黒川が回復するまで病室に通った。
「カクちゃんのところに来たついでです」などという少し扱いの雑な言葉に、黒川は随分と安堵したものだ。急激に距離を寄せられて構われては、血縁関係のない孤独感を苦しむ己への同情だろうと反発していただろうから。
定期的な見舞いは、黒川が快癒し退院するまで続いた。そして退院後も何かと理由をつけてはアパートまでやって来て、気が付けば「何かあったら大変なので」と手を差し出した彼の掌に、合鍵を渡す事態になっていた。
ここまで来れば、誰であろうと『ついで』ではないと気が付く。
だが如何せん黒川は空っぽになっていたのだ。空いた心の隙間を少しずつ埋めている最中の彼。端的に言えば、自分のことで精一杯であったのだ。鶴蝶という人物は世話焼きであって。初めにその名前を出されてしまっていた黒川は気がつくのが遅れたのだ。気が付いたのは、三天戦争の後。三日に一度は姿を見せていた花垣から連絡すらも来なくなっていた事が切っ掛けである。
この頃になると、花垣が己の家に訪ねることは黒川の日常に組み込まれていたと言っても過言ではない。
命を長らえて、不良を実質的に引退した黒川であったが、三天戦争のきな臭い噂を耳にしていた。道端の不良を捕まえて優しく――黒川にしては、という前置きが入る――問い質す。すると、黒龍最後の継承者が三天戦争の場に居た、というではないか。黒龍最後の継承者など、花垣武道を置いて他に居ない。胸騒ぎがした彼は、フリーで喧嘩屋をしている鶴蝶に彼の安否を尋ねたのである。訪れないという事実は、黒川に花垣の身に何かあったのだろうという思考に至らせたのだ。
数時間置いて齎された報は、花垣が生死の境を彷徨う重傷を負って入院しているという旨。銃で足を撃ち抜かれても平然としていたあの男が、意識不明の重体というだけでも勿論驚くべきことなのだが、何よりも驚いたのは鶴蝶からの疑問であった。
「イザナ、タケミチと仲良かったんだな」
三秒間、たっぷり沈黙した黒川。
聡い彼である。瞬間、全てを察したのである。
頼まれてもいないのに健気にも黒川の下に通い、さも自身の意思ではないかのように装う可愛らしさ。それをおよそ一年半も続けていたのだ。
東京から横浜まで、週に二、三回もバイクで往復した彼を思えば、一気に温かなもので満たされていく。その感覚にどうしようもなく胸が苦しくなり、しゃがみ込む。
顔を埋めて、照れを殺す。
「おい、下僕」
「なんだイザナ?」
「アイツに、俺のこと見舞うように言ったか?」
言葉数の少ない問いも、彼は黒川の言わんとすることを正しく察したらしい。
「あぁ、俺も暫くは動けなかっただろ?だから、その間、代わりに見舞ってくれって頼んだな」
己の王と、幼馴染が仲良くしていた事実が喜ばしいのか、年相応の笑みを浮かべている。軽く足蹴にして、花垣の病室を聞き出した。
それからの顛末は語らなくても想像に難くないだろう。
黒川は嘗て最強と謳われた男だ。関東事変では佐野に負けているが、途中までは対等に渡り合っている。憑き物が落ちた黒川は精神的に成長し、そしてその時、愛というものを知ったのである。
元々天性の喧嘩センスがあるのだ。加えて心も成長し強くなった黒川イザナのどこに負ける要素があるだろうか。そう、そんなものこの世の何処にも存在する筈が無いのだ。
撃たれた黒川が生存した世があれば、龍宮寺が一命を取り留めるような世界があってもおかしくない。
大きな抗争は、大団円を迎えることになる。
指で前髪を掻き分けてやる。
安心したように穏やかな寝顔は、黒川にとっての幸福の象徴。
「……しないの?」
ゆったりと瞳を開かせて。秘めやかな声で囁いた。
「俺、今日で二十歳になりました。」
目を逸らしてぽつりと告げる。もう誰も、何も、愛を交わす二人を咎められるものは無いのだと黒川を誘う。
「イザナ君の中の俺は、まだ十九歳のまま?」
「……ハタチ祝ったろ。俺の中のお前は成人してるよ」
髪に触れる黒川の指を絡め取って、花垣は妖艶に。
「二十歳になった俺のこと、もっと知って」
両腕を伸ばす彼に、いくらでもお前を教えてくれ、と囁いて乞う。
恋人達の夜は長い。やがて朝が来て、また夜を迎える。それを幾千と重ねて、二人は幸福に酔いながらいつまでも身を委ねるのだ。
その酩酊感が、どんな美酒で酔うよりも心地良いと知りながら。
終