その本丸では実休光忠の教育係は福島光忠が任されていた。といっても人間的な生活に興味津々な実休は本丸に直ぐ馴染み、教育係の手を煩わせるようなことは殆どない。強いてあげるならば毎日同室の福島にその日あった出来事を聞かせてくることだろうか。
今夜は任務の合間に薬研藤四郎と一緒に薬草を摘んだのだと手製の絵日記を座卓に広げて語っている。福島は隣に座って実休の話を聞いていた。
「薬研くんはすごいんだ。僕も知らない薬草を知っててね」
「へぇ。それはすごいな」
「あとは彼の話もしたよ」
「彼? ああ、織田信長公か」
「うん。薬研くんも話したかったみたい。こんな僕をね、待っててくれたんだって」
絵日記に視線を落として実休がうっとりと微笑む。福島が眉間に皺を寄せていることには気づかない。
「……そういえばさ、そろそろひとり部屋にしないか」
「急にどうしたの?」
実休が顔を上げる。目の前にはいつも通りにこやかな福島がいた。
「急じゃないよ。最初から実休がこの生活に慣れてきたら部屋を分けようと考えてたから」
「そう……でも僕、もう少し福島と一緒が良いな」
「ははっ。大丈夫。心細いのは最初だけだって。きっとすぐに気にならなくなるよ」
子どもをあやすように実休の頭を撫でてから、福島は徐に立ち上がる。実休は咄嗟に福島の袖を掴んだ。
「どこ行くの」
「野暮用。ちょっと遅くなるから先に寝てな」
「僕も行く」
「だーめ。明日も朝から出陣予定だろ?」
やんわりと実休の手を外して福島は部屋を出ていってしまう。実休には閉められた襖が福島と自分の間にある壁のように思えた。優しく振り払われた手のひらを握り締める。
「心細いのは、僕だけなのかな、福島」
届かないと知りつつ、実休はひとり、そっと呟いた。
福島の提案は直ぐに実行された。実休が出陣から戻ると部屋から福島の私物が無くなっていた。慌てて本丸の中を探せば、元の部屋から少し離れた空き部屋に見慣れた箱が積んであるのを見つけた。だが肝心の福島がいない。
呆然と実休が部屋の前で立ち尽くしていると通り掛かった日本号に声を掛けられる。
「あいつなら出掛けたぜ」
「日本号くん……どこに行ったか知ってるかい?」
「さあな」
「君にも言わないの?」
「言ってこねえよ。何を遠慮してんだか知らないがな」
日本号の話は行き先のことだけではない、と実休にも分かった。そして驚く。時折福島が日本号の気配をまとって部屋に戻ってくることがあったので、日本号は自分よりも福島と距離が近いのだと実休は思っていた。だが、今の話を聞く限りそんな深い仲では無いようだ。
「そうか……どこにいるんだろうね」
「まあ、大体いつも夕餉の前には戻って来る。燭台切が厨当番なら特にな」
「ありがとう。あ、あと少しいいかな?」
「なんだ?」
「この荷物、部屋に戻すの手伝ってくれると嬉しいんだけど」
「……聞かなかったことにするから、俺を兄弟喧嘩に巻き込むな」
「あはは。ごめん、そうだよね」
喧嘩すらさせて貰えないけれど、と実休は思ったが言わないでおいた。日本号とはそこで別れ、あとはせっせと福島の荷物を元の部屋に運び戻すことにする。
福島が本丸に帰って来たのは、荷物を運び終えた実休がちょうど部屋で一息ついている頃だった。バタバタと廊下を駆ける足音が聞こえ、勢いよく襖が開く。
「実休! 俺の荷物、勝手に持ってくなよ」
「逆だよ。勝手に持ち出したのは福島の方だ」
「だからそれは……」
「ねえ、お願い。もう少し待ってよ」
部屋の入り口で仁王立ちする福島の指先を握る。実休が懇願を込めて見上げれば、福島はため息と共に隣に膝をつく。
「もう少しって?」
「次の出陣が終わるまで」
「今日も明日も変わらないだろ」
「ううん。次は天正10年の本能寺に行って来るから」