みゆりょ「ただいま〜……」
と、なんとなく、ひっそりと、シェアハウスの暗い廊下に声を投げかけてみた。予想はしてたけど、返事はない。夜も更けてるし、流石にみんな寝てるか。それか、那由多か賢汰は起きてるかな? 俺に気づかないだけで。礼音くんは、たぶん寝てる。体内時計がそこそこ規則正しいタイプだから。涼ちんは……よくわからない。自分の部屋ですやすや寝てる時もあれば、早朝に近い時間にガラクタを持って満足気な顔で帰宅する時もある。宇宙人だから仕方ないのかもだけど、あいつは一番行動パターンが読めない。
慣れない闇に向かって目を凝らしてみる。リビングの電気は点いていないみたいだ。じゃ、やっぱりみんな寝てるかな。よいしょ、と呟きながら靴を脱いで、足音に気をつけながらひたひた廊下を歩く。パチンとリビングの電気を点けると、案の定誰もいなかった(いや、強いて言えば、にゃんこたろうがキャットタワーのてっぺんでで丸まり眠っていた)。誰も見ていないとわかると余計に気が抜けてしまって、固くなった肩を手で揉みながらキッチンに入った。お客さんに酒類を山ほど提供したけど、俺自身は特段水分補給をしていないことに気づいたから。自覚するともう喉がカラカラで仕方がなくて、ごくんと喉を鳴らして唾を飲み込む。食器棚から適当に取ったコップに浄水を注いで、一気に飲み干した。ちょっと冷たくて、歯がじんと滲むように痛んで、思わず顔をしかめてしまった。
指で口元を拭って、流し台にコップを無造作に置いた。
(……明日、洗うか)
俺がやらなくても賢汰先生か誰かがやってくれてるかもしれないけどね。
そう思ってうんうんと頷きコップから指を離しかけた時、ある思いが脳裡をよぎってうーんと唸った。那由多や賢汰はともかくとして、寝ぼけた礼音くんや涼ちんが触っちゃったらおおごとだ。ちょっと面倒だけど、自分のことは自分でやりますか。
バイトでも散々やったのにまた食器洗いかぁと思わなくもないけど、仕方のないことだと割り切って立てかけられていたスポンジを取る。しっとりしているけど、濡れてはいなかった。そーいや、今日はみんな晩ごはんどうしたんだろうな。俺は講義の後すぐにバイトだったから、気にしてる余裕なかったけど。このキッチンの様子だと、各自で済ませたのかもしれないな。もうしばらくは続く共同生活、同じバンドで活動していることだし、プライベートでも……せめて食事くらいはメンバー全員で摂ってもいいと思うんだけど。今度、さりげなく話を振ってみるかな。那由多に納得してもらえるような理由づけをしないといけないのがネックだけど、まぁ、それも燃えるよね。
洗い物を終えると、ちょっと頭が痛いなぁと思った。
そういえば、最近はトレーニングにドラムの練習、バイト、勉強と短期間に予定がひっ詰められた状態で、あまり熟睡できていなかったかも。常に緊張状態というか。自覚すると目の奥がズキズキと痛くなってきて、あーこりゃダメだわ、と呟いた。眉間を揉んでも特に効果がないばかりか梨の礫、とりあえず横になろうと思って揺らぐ視界で足を引き摺った。そうしてリビングの中央に配置されているソファーに横たわると、そのまま泥に沈んでいくように眠ってしまった。
眠る時とは対照的に寝覚めははっきりとしていた。俺は外から漏れ聞こえてくるすずめの声に意識をこじ開けられて、ハッと息をのんだ。鼻から入ってくる冷たい空気、窓から覗く白んだ空……間違いない、もう朝だ。未だもやがかかっている頭でちょっとだけ自己嫌悪に陥る。洗顔も髪のケアもしてないじゃん。スキンケアも筋トレも一日サボると三日戻ると言われてるもんだから、一秒だって無駄にできないってのに。憂鬱なあまりお腹がずんと重くなる。今、何時だ? 起きなきゃ、朝のトレーニングの時間が過ぎていたらまずい、とぐるぐる考えた。
開ききっていない瞼を何回かゆっくりとしばたたかせて、あれ? と眉毛が動いた。なんとなく違和感があることに気がつく。違和感、というより……気配。瞼を半開きにしたまま眼球を上に向けた。誰かがしゃがんでじっと俺のことを眺めている。
カラカラと何かが歯に当たる音とそれとない圧迫感で、すぐにその誰かが涼ちんだっていうことがわかった。たぶん飴でも舐めてるんだろうな、と思った。涼ちんは四六時中お菓子を食ってるけど、虫歯にならないのかな。今度抜き打ちチェックでもしようかな、などと考える。起きてもよかったんだけど、なぜか金縛りにあったかのような淡い緊張感が全身に走って、動けなかった。
(……別に、普通にすればいいんだろうけどさ)
涼ちんも無視するなり起こすなりすればいいのに、何もせずじーっと眺めてくるから、こっちも妙に身構えてしまうんだよな。
しばしの膠着状態の後、涼ちんの腕がのっそりと動く。そして、意味もなく息を止める俺。
「……。つん、つん……」
頬にふわ、ふわ、と何かがめり込む感触がした。指でつつかれてるんだ、と気づくのに五秒くらいかかった。
目を開けるのを躊躇っていると、ずる、と衣擦れの音がすぐ傍で鳴った。ふう、と耳に息がかかって、思わずうっと呻いてしまった。
「深幸くん……起きてるでしょ」
そう耳元で囁かれて、全部お見通しであることに気がついた俺はふはっと吹き出して素直に瞼を開いた。
「ごめんって。おはよう」
「ん。おはよう」
頭を撫でると、涼ちんはふわっと笑って目を細めた。
「さっさと起こしてくれてよかったのに」
「チューしたら目が覚めるかなって……考えてた。オレ、知ってるよ。地球には、そういうお話があるんだよね」
「お、眠り姫かな。地球の文化に詳しいね」
「勉強した」
「えらい、えらい」褒めた流れでいたずら心が働いて、撫でていた頭をそのままぐっと引き寄せて唇を押しつけた。涼ちんは一瞬驚いたように目を見開くと、すぐ前のめりになって俺に覆い被さる。口内にぬるっと舌をねじ込まれて、反射でごくんと唾を飲み込んだ。食べかけの飴を持ったままの手でぐっとソファーに押さえつけられて、ちゅっと音を立てながら口内を蹂躙されていく。だんだん息が詰まって、頭が使い過ぎたコンピューター機器みたいに熱を持ってきたところで俺はほのかな危機感を覚えて、首を振って「涼ちん」と口を動かした。
「んー?」
と瞼を開いた涼ちんは、物足りなさそうに口周りに付着した唾液を舐めてから解放してくれた。
「あ、朝から熱烈だねぇ。殺されるかと思った」
「目、覚めた?」
「覚めた、覚めた」
「よかった」
そう言って微笑む涼ちんは、すごく自然な所作で俺の顔周りの毛を退けて額に口づけをする。空気感がまるで事後のピロートークみたいだな、と思って身震いした。
「……。涼ちんは、朝帰りなの?」
「うん。故郷の星と交信してて、昔話に花を咲かせてたら……朝になっちゃった」
「あー、そう」昔話って、何をそんなに話すことがあるんだろう。と思いながら聞き流した。
「それでね。帰ってきたら深幸くんに会えたから。オレ、今幸せだよ」
「そっか」破顔する涼ちんを見上げて、俺はほっと息を吐いた。「なんか、俺も……お前と話してたら、疲れが取れちゃったかも」
お前が話してることはあんまりわかんないのにな、とは敢えて言わなかった。