苦手なもの特になし「涼ちんってさ。苦手なものはないの?」
出窓を開けて外を見下ろす涼の背中にたずねた。同じ景観に、変わり映えのしない人々の日常。毎日見ててよく飽きないものだなと思う。涼は毎日、楽しいらしいが。
「んー?」棒付き飴を咥えながら、生返事をする涼。「苦手……」そしてぎこちなく反芻して、渋い顔をしてうーんと天を仰いで唸る。
「あ、ごめんごめん。ないならいいよ。今日これから出かけるだろ? 食事も一緒に摂るだろうし、苦手なものあったら先に聞いとこうかなって思っただけ」
腕を天井に向かってうんと、筋肉を伸ばしてから、窓に張り付いている涼の肩を抱き、なんとなく一緒に外を覗き込んでみる。肌を撫ぜる生暖かい空気と白くてやわらかな光が視界と身体を包み込む。朝特有の清々しいにおいがした。目を細めて注視すると、大都会新宿の道路は乗用車と通勤通学途中の人間が忙しなく混ざり合っていた。
「まあ、通勤通学ラッシュは混んでるよね。もうちょっと後から出よっか」
「うん、わかった」すぐ傍で涼が頷く。まだ固形のままの飴がカツカツと歯に当たる音がした。「苦手なもの、……ないかも」
一瞬、話の脈絡が掴めず「え?」と眉を顰めてしまった。だが、すぐに合点がいく。
「ああ、さっきの話?」
「そうだよー」頷く涼。深幸は鼻で息を吐いた。未だに、彼の独特の間には慣れない。
「そっか。じゃ、腹減ったらテキトーに美味しそうなところ入る?」
「うん。楽しみだね」
涼はそう言ってフフ、と葉が擦れるような笑い方をした。
「深幸くんは……苦手なものがあるの?」
少し間を置いて、涼が口を開いた。飴の甘いにおいが鼻腔をくすぐる。そこで目と鼻の先に互いの顔面があることに気がつき、慌てて少し距離を取った。
「ううん。強いて言えば、炭水化物かな」
「どうして?」
「俺さ、吸収しやすい体質なんだよね。すぐ肥えるっつーか……だから、なるべく避けるようにしてる。味とかが嫌いってわけじゃないよ」
「でも、礼音とはよくお蕎麦食べに行ってるよね」
「礼音くんは蕎麦好きじゃん?」
「礼音がお蕎麦好きだから、食べに行ってるってこと?」
「まあ、そういうことになるかな。あいつ普段から結構溜め込んでるし、食事時くらい好きなもの頬張っとかないとね」
「そっか」涼は何故か満足げな表情で頷く。「深幸くんは優しいね」
「え? なんでそーなんの」
「人のために、我慢できるから。それで、幸せだって思えるから。地球人にとっては、当たり前のようで、あんまりそうでもないよね。オレ、いつも見てるからわかるよ」
破顔する涼に向かって、へえ、と口元をひくつかせた。涼の発言からは、たまに薄ら冷たいものを感じる。誤魔化せないほどに。
「ま、まあ……涼ちんは涼ちんで、苦手なものはないって珍しいな。本当に大丈夫なわけ?」
「うん。大丈夫だと思うよ」
「すげえな。昔は手のかからない子どもだったんじゃない?」
しぱ、と睫毛が上下するのを見た。
「星がね」
「ん、星?」
「昔、星が言ってたんだ。自分の苦手なものは、誰かの好きで、その逆も当たり前、なんだよね。それがわかる人にならないと、地球人を幸せにできないよ、って。だから、オレ、一度苦手なものを探そうとしたんだ」
「そしたら?」
「わからなかった」涼はわかりやすく眉を垂れた。「これも罪なのかもしれない……」
また予想外のタイミングで落ち込みはじめたなあ、と思いながら肩に回していた手をそのまま涼の頭に乗せて、わしゃわしゃと撫でた。
「苦手なものなんてさ、ないほうが幸せでしょ」
「うーん。でも……」
「なんでも手放しで楽しめるってことだろ?」
「うん。オレ、地球人が好きなもの、みんな好きだなって、思っちゃって」
「そう、そう! 涼ちんはそれでいいと思うぜ。みんな好きで幸せってことだろ? 最高じゃん。それに、幸せじゃないヤツは誰も幸せにできねーって思うけどな」
涼はゆっくり瞬きした。
「そっか。そうだね。オレが幸せじゃないと、幸せな気持ちなんて、わからないよね」涼は少しだけ明るくなった声でそう言って、ニコリと笑う。「元気出たよ。ありがとう、深幸くん」
いやいや大したことしてねーって。と、背中を叩いた。涼の沈んだ気持ちを引き揚げるために言ったことは確かだが、全て本心だ。何にも左右されることなく生活を楽しめるなんて、それは素敵なことだし、羨ましい。
「しっかし、いいよな。苦手なものがない、全部好きって言える涼ちんが、特に好きなものってさ。幸せ者じゃん。その飴ちゃんとか」
ツン、と涼が咥えている飴の棒を指さすと、ン? と首を傾げる涼。
「幸せかな」
「だと思うぜ」
「そしたら……深幸くんも幸せ者だね。これで、オレが星に帰れる日も近づいたかな」
「え? それどういう意味」
「ん〜?」
涼は曖昧に笑って、窓の外へ目を逸らした。あ、ワンコだ〜。と言って飼い主の女性と散歩中のシーズーらしき白い犬に向けてにこやかに手を振る彼を見て、深幸は肩を竦めた。