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    のなか

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    のなか

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    幹部軸に至るココイヌの黒龍時代。2005年12月25日から2006年1月4日の10日間の出来事。ココイヌが柴大寿の喪に服す話です。

    #ココイヌ
    cocoInu
    #柴大寿
    chaiDaishou

    ブラック・フォーマル一 宇田川キリスト教会 12月25日

     柴大寿が祭壇の前に立ち、吼えながら獲物に襲いかかるのを、乾青宗は見ていた。柴大寿は、グリズリーのような巨大な拳を柴八戒の薄い腹にねじり入れ、膝で顎を蹴り上げ、血の滲みはじめた顔面を殴り、片手で襟首を掴み上げ、怒鳴りながら体を揺さぶり、憤怒をぶつけるかのように投げた。
     信者席の列を乱しながら倒れた八戒は、細い肢体を嬰児のように丸め、泣き出した。離れた場所から眺めていても分かるほどの怯えようだった。
     大寿は、その様子にも怒りを煽られたようだった。
     どうして俺の弟はこんなにも弱虫なんだ?
     怒声と、少年の泣きながら謝罪するかすかな声が、教会の高い天井に響いていた。

    「たいした讃美歌だな」
     九井一が冷めた目で言った。
    「これはお前のプライベートで黒龍の仕事じゃない。俺たちは帰るからな」
     ボスである大寿は九井の発言を完璧に無視していたが、それを見越すように九井は扉に向かって歩き始めていた。
     教会の外に出て正面階段を降りる幼馴染に対して、青宗は尋ねた。
    「いいのか?ボスはいいって言っていない」
     扉の向こう側を振り返れば、大寿はまだ八戒に対して何か怒鳴っているようだった。
    「いいんだよ。アイツの説教は牧師の説教の代わりにならないし、アイツも家族水いらずで過ごしたいだろ」
     九井は皮肉っぽく言い、すでに教会の中の出来事に興味を失っているようだった。
    「コンビニでケーキ買っていこうぜ」
     雪は降り続けており、ナナハンキラーは薄っすらと白いヴェールをまとっていた。青宗は後部座席の雪を丁寧に払い落とし、前部座席の雪を雑に払って跨ると九井を振り返る。
    「アジトの近くのコンビニでいいか」
    「もちろん。チキンもあるしな」
     二人はバイクで小道をすり抜け、公園通りに出た。夜の渋谷の街は雪の照り返しでいつもより明るい。
     青宗は思った。この灯りの一つ一つに人がいて、その一人一人にはみんな家族がいるはずだ。でも誰もが今日を楽しく過ごしているわけじゃない。
     飾り付けられたツリー、サンタクロースの魔法、あげた歓声、両親と姉の優しいまなざし。かつてあった喜び。RZ350のギアをハイにチェンジする。幸福の幻影は風と共に背後に流れ去る。乾青宗は更にスピードを上げて、九井一と共に、黒々とした闇に突っ込んでいく。


    二 アジト 12月26日

     柴大寿の訃報がアジトにもたらされたとき、すでに学校は冬休みに入っていた。
     九井が先物市場のテクニカル分析について本を読むそばで、青宗は午睡をむさぼって過ごしていたが、保護者の名義で九井が高等部に届け出ていたメールアドレスのもとにシステムからの緊急配信メールが届いたことで、弛緩した空気は終わりを遂げた。
    「大寿が死んだらしい」
    「死んだ?一体どういうことだ」
    「このメールじゃ何も分からない。聞きに行った方が早いな。俺が戻るまで誰から連絡が来ても会うなよ」
     痛ましい出来事を悲しむ同級生の態で学校に確認しに行った九井は、首尾よく情報を手に入れて、アジトで青宗に伝えた。

     柴大寿が死んだという連絡は12月26日昼頃に入った。
     葬儀の日はまだ決まっていない。

    「火葬場が開いているのに葬式を出せないのは、遺体がないからだ。大寿の遺体はまだ警察から帰ってきていないんだろう」
     九井は青宗に説明する。
    「刑事訴訟法では、死んだ人間に変死の疑いがあるときは検死をすると決められている。つまり大寿は変死して、解剖に回されてるはずだ」
    「解剖だって?」
     青宗は、携帯で指示を飛ばす九井を見つめた。
    「ボスはなぜ死んだんだ」
     九井は思案気に目を細めた。
    「なぜ死んだかは分からない。どう死んだかはそのうち分かる。今解剖しているからな。イヌピー、ここを出れるか?」
     頷いた青宗の目を見て、九井が静かに言った。
    「冷静に聞いてほしいんだけど、大寿が変死したとなると、事故に遭ったか、殺された可能性がある。俺たちは大寿と立場が近い。黒龍がらみのトラブルであれば用心する必要がある。ここはセキュリティが甘い。安全だと分かるまでマンションに移動しよう」
     ソファから立ち上がりテーブルに置いたバタフライナイフとバイクの鍵をつかむと、青宗は特攻服をまとった。部屋の隅に立てかけてあった鉄パイプを手に取る。「移動中はナイフじゃ応戦できない。襲われた場合はこれを使う必要がある」
    「イヌピーは運転してるから、俺の仕事だな。バイクで使う場合を確認させてくれ」
     九井はナナハンキラーの後部座席に座り、青宗から鉄パイプを受け取ると、それぞれ左右の手で、二、三度振った。
    「要領は分かった。利き手じゃないと振り抜けないし、移動中はより動きが制限される。防戦用と考えた方がよさそうだ」
    「相手がバイクで極端な接近をしてきた場合に、振り回せば距離を取れる」
    「リーチになるわけか。使い方のコツとかあるか」
    「中が空洞だから意外に曲がりやすい。だから人間を殴っても、多分、死なない。使う場合は躊躇するな。ぶっ叩け」
     九井が片眉を吊り上げて言った。「なるほど?」

     マンションに到着すると九井はPCの前に直行し、情報収集をしらみ潰しに行っているようだった。
     青宗は九井を横目にキッチンに向かい冷蔵庫を開けた。卵を四つ取り出し鍋で茹でるかたわらで、パンを解凍した。茹であがった卵を刻み、ボウルにマヨネーズを絞り出してあえる。
     九井の手元にコーヒーと共にサンドイッチの皿を置くと、九井はモニターから目を離さずに手でつかみ無言で食べていた。
     青宗は自分の分を食べ終えるとソファに寝転がり、眠ろうとした。ココが作業しているときに自分に出来ることは無い。必要なら起こすだろう。

     青宗が目を覚ましたのは、九井がシャワーを浴びて出てきた音でだった。
     九井が青宗が起きたことに気づき、「イヌピーもシャワー浴びたら。服とかはいつもみたいに適当に使って」と言った。
     青宗はソファから起き上がり、洗面所で歯を磨いた。
     脱衣所で服を脱ぎ、ドラム式洗濯機に入れてスイッチを押し、手短にシャワーを浴びた。そのまま風呂場を軽く洗った。二人の共有のようになっている服を着て髪を乾かすと、洗面所の床に落ちた髪の毛をハンディタイプの掃除機で吸い取り、洗濯物を干した。
     ルーチンワークをこなしてベッドの九井の横に寝そべると、携帯を操作しながら、九井が左手で青宗の髪を撫でた。
    「また石鹸で髪を洗っただろ」
    「うん」
     九井は携帯を閉じると、灯りを消すからと青宗に一言かけ、ベッドサイドのランプを消した。
     暗がりの中、九井は考え事をしているようだった。
     青宗は小声でささやく。
    「ボスは殺されたんだろうか」
     応えが返ってくる。
    「かもな」
    「誰に殺されたと思う」
    「イヌピーは誰だと思う」
    「……分かんねぇ」
     九井が呟く。
    「八戒いるだろ、大寿の弟の」
    「うん」
    「殺された人間と最後に一緒にいた人間が犯人だよ。普通に考えれば。でも学校ではそういう話は出ていなかった」
    「うん」
    「俺たちは事情聴取されてもおかしくないのに、警察から連絡は来ていないだろう」
    「うん」
     沈黙が続き、寝たのかと思った時に、九井のささやき声が聞こえた。
    「多分、すぐに分かる」

     翌日、テレビを見ていると、柴大寿殺害の容疑者が渋谷警察署に出頭したというニュースが流れた。
    『暴走族同士の抗争』。
     見知らぬ暴走族の名前と共に表示されたテロップを、青宗は額にシワを寄せて眺めた。
     アナウンサーは預かり知らない話を既成事実として読み上げ続けている。青宗は独り言をつぶやいた。
    「ワケが分かんねぇ」
     コーヒーを飲みながらメールを確認していた九井が、青宗に携帯を振って見せた。
    「柴柚葉から連絡だ。会って話したいとさ。明日の朝九時をご指定だ。イヌピー、起きれるか?」


    三 渋谷駅 12月28日

     渋谷駅、若者が時間を潰すのに紛れて二人は街路樹の下に立ち、人を待っていた。
     年末の特別番組の広告が掲げられた広場は季節相応に冷え込んでおり、長く待つのは遠慮したい寒さだったが、待ち人は約束の時間通りにやってきた。
     青宗はあきれた。なんでコイツ、この寒空にこんな格好なんだ。
     青宗と柴柚葉の互いに一言の挨拶も交わさない刺々しい空気を読まずに、九井が言った。
    「賭けは俺の勝ちだな、イヌピー。柚葉は制服で来ると言ったろ」
    「ウッセー」
    「悪いな。でも約束だから」
     自分を無視して話をする九井と青宗に、柚葉が思わずといった様子で言った。
    「アンタも制服じゃないの」
     質の良いカシミヤのコートの下に私立高校の制服を規定の通りに着用し髪を整えた九井は、これから鉄緑会で東大受験のために冬季講習を受けると言い出してもおかしくないほど優等生然して見えた。
    「イヌピーはブルックス・ブラザーズだ。トラッドな装いもよく似合ってるよな」
    「ココの服だ」
    「だからこれから、イヌピーの為に買い物をする」
     機嫌が良さそうに青宗に笑いかけると、九井は楽し気に言った。
    「俺たちはこのままトラディショナルなデートに行きたいんだけど、その前にオマエに呼び出されちゃったからさ」
     すぐそばの交番を指差す。
    「それにこの格好なら、そこのお巡りさんに俺たちが話をしに行ったとしても、真剣に聞いてもらえると思うんだ」
     柚葉は、そばの渋谷駅前交番に視線をやった。交番の前に体格の優れた警官が一人立ち、周囲を警戒しているのを見て九井を睨みつけた。
    「何が言いたいの」
    「へぇ?オマエが、俺たちに話があるんじゃなかったのか」
     九井のかたわらで青宗があくびをした。「帰ろうぜ」
     柚葉はうつむいた。
    「ここじゃ話せない」
    「お前は話すしかない」
     九井が厳しい口調で言った。「お前が銀貨三十枚を受け取る代わりに何をやったのか、俺たちに何もかも話すんだ」

    四 ラウンジ・カフェ


     三人はホテルのラウンジ・カフェに移動し、メニューを広げていた。店はスクランブル交差点を一望に見下ろすロケーションにあったが、時間帯を反映して人はまばらだった。
    「俺たち、ギリギリまで寝てたから朝食食べていなんだよ。イヌピー、何食べたい?」
    「ハンバーグ。それか肉」
    「つけあわせの野菜も一口は食べろよ」
     曖昧に返事する青宗をよそに大量のオーダーを出しながら、九井は柚葉に向かって尋ねた。「コーヒーと紅茶、どちらにする?何か飲んでないと間が持たないから、オマエも好きなの頼んで」
     テーブルに注文の品が揃い、少年達は健啖に食べ始めた。
     少女はポットから紅茶を注ぐこともせずに、白磁のカップを見続けていた。
     九井は付け合わせの人参とブロッコリーを一つずつ青宗に食べさせ、残りを全て胃に収めると、飲み物だけを残したテーブルの上にオリンパス社製のICレコーダーを置いた。
    「じゃあ、話を聞こうか」

    「アタシが大寿を刺した。八戒は関係ない」
     九井が腕を伸ばして、柚葉の目の前のティーポットからカップへと、ダージリンを注ぎ入れた。
    「飲みなよ。温まるぜ」
     柴柚葉はカップを手に取り、ゆっくりと唇に傾けた。
    「俺はコーヒー派なんだ。お前は紅茶派なんだな。じゃあ、朝も紅茶を飲む?そっか。25日は日曜で、起きて、紅茶を飲んだ。それから何をした?ゆっくり思い出して、順番に話してくれればいい」

     柴柚葉は日曜日の昼頃、目を覚ます。リビングの静けさから、父親と兄の大寿はいつものように不在で、弟の八戒は出掛けていることが分かる。シャワーを浴びて髪を乾かす。キッチンで紅茶を入れ、テレビをぼんやりと眺めながら飲む。そのうちにお腹が空く。キッチンに行き、冷蔵庫からコーラを、冷凍庫からアイスを取り出し、ポテトチップスの袋を掴んでテレビの前に戻る。音楽を聴きながら、ソファで一人で食べる。
     そういうふうに過ごしていると、時間はいつもすぐに経つ。陽は陰り、時刻は夕方になっている。柚葉の携帯にメールが入る。知らないアドレス。迷惑メールかと思うが、八戒のことで話があると書かれている。柚葉は真剣にメールを見つめる。行かなきゃならない。
     待ち合わせ場所として指定された京王井の頭線の駅に行くと、若い男が二人待っている。柚葉の心に警戒心が生まれる。名前と、八戒との関係性を問いかける。稀咲鉄太。半間修二。八戒とは友達。

     九井が青宗を見る。青宗は短く応える。
    「東京卍會の幹部だ」

     稀咲鉄太が、柚葉に謝罪する。八戒が実兄から、黒龍に入るよう強要されていることについて、八戒からずっと相談されていたと言う。結局、八戒は東京卍會を辞めてしまい、黒龍に入った。八戒の力になれなかったことを悔いている。
     柚葉は二人を少しだけ信用してもいい気持ちになり、駅から離れた高架下まで着いていく。
     二人は柚葉が兄から殴られていることも知っている。稀咲鉄太は柚葉に同情してみせる。そして八戒が兄からの虐待で、精神的に追い詰められていると言う。八戒は大寿を殺すつもりだ。八戒自身から、はっきりとそう聞いた。稀咲が柚葉にナイフを渡す。八戒を守れるのはお前しかいない。
     それから柚葉は、稀咲と半間と行動を共にする。大寿が一人、油断しているところを、後ろから刺す必要がある。一人になる機会は少ない。12月25日深夜を除いては。
     稀咲の合図で、柚葉は教会に入る。大寿は八戒に対して何かを怒鳴っている。八戒は泣いている。助けられるのは自分しかいないという決意が強くなる。
     柚葉は大寿の後ろ側から歩み寄り、ナイフを握りしめて背中を刺す。大寿が床に膝をつく。八戒が驚愕の表情を浮かべて兄の名前を叫ぶ。稀咲は柚葉によくやったと言い、八戒に対して姉貴を守ってやれと呼びかける。柚葉のもとに八戒が駆け寄り、柚葉の体を支える。
     大寿が再び立ち上がり、背中のナイフを引き抜き、吠え声を上げる。半間がナイフを手に、大寿に襲いかかる。
     交戦の後、大寿が倒れる。仰向けになった大寿の胸が、荒い呼吸と共に激しく上下し、徐々に、しかし確実に弱くなる。稀咲が手のひらを大寿の口元にかざして言う。死んだ。
     柚葉と八戒は自宅まで送り届けられる。稀咲は八戒に言い含める。姉を守れるのはお前しかいない。そして柚葉に向かい、こう言う。
    「柴大寿は抗争で死んだ。お前たちは何も知らない。警察には何も分からないと言え。お前しか八戒を守れない。大丈夫だ、俺を信じろ」
     柚葉は震えながら頷く。
     翌朝、教会の人間が、若い信徒の遺体を発見する。警察から柴家に連絡が入る。柚葉は応える。兄は家を不在がちで、その日も一日外出していました。兄については何も分かりません……


     テーブルの上の飲み物は冷え切っていた。
     青宗は手を挙げると、店員に自分と九井のカップを下げてもらえるように頼み、ココアと九井のためのホットコーヒーを新たに注文した。
     周囲の環境から青宗は、15歳が人を一人殺した場合、五年以上十年未満の量刑になる場合が多いことを知っていた。少年院には殺人を犯した者がおり、族にも年季が明けて出てきた者たちがいた。
     かつていた八代目と九代目の黒龍においては、少年法の年齢に基づく量刑の違いは、常識ですらあった。そして13歳の頃、青宗は年長者達に、様々な意味で便利に活用されていた。
     青宗は思った。コイツらはわざわざ物事をややこしくしている。
     柴柚葉が仮にウソをついており、自分の手で兄を殺していたとしても、ビビるような量刑の長さにはならない。
     そして本当のことを言っているのであれば、なおさら大した年数にはならない。八戒に至っては罪にすら問われないだろう。だから柚葉は八戒を守る必要がない。
     九井は腕組みをして目をつむり、何かを考えている。


    五 伊勢丹 新宿

     柚葉の去ったカフェで、青宗はココアを飲みながらスクランブル交差点を眺めていた。
     信号の色が変わる。人が歩き始め、波線に似た形が生まれる。往来の波がぶつかり、混ざり合う。
     信号が点滅すると、人の波は引いていく。自動車が行き交う。再び信号が点滅し出す。
     車両用信号が赤に変わった瞬間、一台の自動車が交差点に侵入する。歩行者信号が青になり、人々が動き出す。
     人波に飲み込まれた自動車は、前にも後ろにも動けない。
     電話してくると言ってラウンジから出た九井が、携帯を手に青宗のところに戻って来て言った。行こう。

     二人は渋谷駅から北に向かった。
     タワーレコードの近くまで歩くと、フィンガーロードでタクシーが停車しており、運転手が外で立っていた。九井様ですね。運転手は九井に行き先を確認し、神宮通りを走り出した。
     短い時間で新宿に到着し、二人は伊勢丹の前でタクシーを降りた。九井はエスカレーターを上がると迷いのない足取りで店に入り、名前を告げた。
     初老のスタッフが、出迎えの挨拶を述べた。
    「お待ちしておりました」
     そして一言を添える。
    「この度はご愁傷様でした」
     九井が軽く頷いた。青宗は思わず目を伏せた。スタッフは目に同情の色を浮かべ、二人を店の奥へと案内した。
    「こちらがブラック・フォーマルになります」
     青宗は吊るされた漆黒のスーツを見つめ、そっと襟元に触れた。
     この色を再び着ることを、あのときは想像できなかった。
    「俺たちは大寿に敬意を表す必要がある。あいつは黒龍に対して、きっちり仕事をこなしていた。それに誰も十六歳で死ぬべきじゃない」
     青宗は頷いた。「分かっている、ココ」
     九井は幾つかのスーツを吟味して、青宗に試着をさせた。
    「ココのスーツは選ばなくていいのか」
    「俺は全部フルオーダーであつらえてる。でも葬式に用意周到で臨むのも嫌味だから、本当はこういう場所で、吊るしを買うくらいが丁度いいんだよ」
     九井は青宗のスーツを決めると、次に青宗に足のサイズを確認した。
     スタッフに指図をして靴を用意させると青宗をソファに座らせ、床に片膝をつき、黒いストレート・チップの靴紐をほどいた。
    「イヌピー、背、伸びたよな」
     青宗は首をかしげた。
    「そうか?」
    「前は俺と同じくらいだったけど、今はちょっと違う」
     九井は手ずから青宗の足に靴を履かせ、確認した。
    「この靴のサイズはどう?」
    「ちょうどいいと思う」
    「歩いてみせて」
     青宗は店内を歩いて見せた。九井は青宗の足元を眺め、「もっとエレガントな方がいいな」と言うと、スタッフに指示をした。
    「ジョンロブを見せてくれ。同じサイズで、レベルソ仕上げがいい」
     何足も靴を履き替えさせられた青宗は、ソファに座り不満を漏らした。
    「こういう靴は面倒くさいよ。紐だってすぐにほどける」
    「ああ、イヌピーは紐靴に慣れてないから、そうかも」
     九井が隣りに座り、青宗の足元の靴を示した。
    「紐の結び方にコツがあるんだ。紐をこうやって輪にする。右側の輪を左の輪に通して、左側の輪を右側の輪に通す。それから両方の輪を引っ張る。蝶々結びみたいになるだろ。これならほどけない。これはイアンノットという結び方。覚えておくといい」
     青宗は九井の手の動きを真似ながら、不恰好な結び目を作った。再度紐をほどき、結ぶ。失敗する。
     九井が父親が息子に教えるように熱心に青宗に指導し、青宗は六度目にようやく綺麗な結び目を作れるようになった。
     九井がそばに控えていたスタッフに支払いを告げると、スタッフは腰をかがめて、ソファに座ったままの九井から黒色のカードをうやうやしく受け取った。
    「全て配送してくれ」
    「手配いたします」
     九井は会計明細を確認し、サインをした。スタッフから領収書を受け取り、手ぶらで立ち上がった。
    「イヌピー、何か他に見たいものある?」
    「ない」
    「デパ地下でも見ていこうぜ。正月は美味いものを食って過ごそう。どうせ今、俺たちに出来ることはないしな」


    六 宇田川キリスト教会 1月4日

     1月4日の午後、宇田川キリスト教会で柴大寿の葬儀はとり行われた。
     十日ぶりに教会を訪問した青宗が、九井と共に受付で記帳を済ませ、入り口を通ると、正面の祭壇の前に大寿の柩が安置されているのが見えた。
     柩の左手へと並べられた椅子に、柴家の人間が着席していた。手前側から柚葉、八戒、そして一番奥の男性が喪主である三兄弟の父親と分かった。
     九井は後方左側の席に着席し、青宗もそれに続いた。参列者が全員着席すると、やがて荘厳なオルガンの音楽が始まった。
     牧師が教壇に立ち、語り出した。
     若者が生前どんなに素晴らしい人間だったか、立派な人柄であったか、周囲の者たちを愛し、愛されていたか、熱心なクリスチャンであったか。
     牧師の言葉に、大寿の父親が嗚咽を漏らし、涙を流し始めると、参列者達はもらい泣きを始めた。
     牧師が聖書を手に朗読を始める。

    「……わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない……」

     柚葉は顔面蒼白になり、八戒は恐怖で顔を歪めて石のように固まっていた。
    『大寿は、たとえ死んでも、生きていて、そしていつまでも死なない』
     九井は、残虐な兄が死んでも物語は幸せには終わらないことに気がついた姉弟の様子を、冷たく見つめた。
     偽善の光で輝く十字架の下で、児童虐待を見過ごし、永遠の生命について語る牧師。タワゴトを真に受けて、すすり泣く参列者。動揺する子どもの様子に気づかずに、その隣りで、ただ涙を流すだけの大人の男の姿。
     虚構の積み上がった光景を、九井は、冷ややかに眺め続けていた。

     再びオルガンの演奏が始まり、讃美歌が始まった。青宗は勝手が分からずに周りを見回した。参列者の手に紙があり、歌詞が記載されているのが見えた。それが受付で配られたものだと気づく。青宗はメロディに合わせて、不器用に歌い出した。
     青宗は大寿を思った。青宗にとって、大寿は悪いボスではなかった。
     それどころか、十代目黒龍は、青宗が所属した唯一の規律あるチームといえた。
     黒龍の八代目や九代目では、総長になった者が、好き嫌いやその時の気分で物事を決めていた。この日はそうだったのに、次の日にはもう違っているというカオス。下の者達は常に判断を迷い、右往左往し、喧嘩になることが日常茶飯事だった。
     大寿は、暴力に振り回されていた先代達とは違い、暴力を明確に管理して取り扱っていた。処罰の際を除いて、内部で暴力が発生する余地は無かった。大寿が号令した指示はチームの末端まで即座に届き、逸脱者はルールに照らして容赦なく処罰される。規律と統率。
     トラブルの未然防止とエラーの排除というシステムが組み込まれた組織は円滑に運用され、組織人員の品質を上げた。大寿でなければ暴力を商品化することなど、出来なかっただろう。
     こういうところに通う人間は、ちゃんとしているんだろうな。
     青宗は、目の前の人々を観察する。上品で真面目そうな人々。
     左隣の九井に、視線をやる。九井は歌詞に目を落とし、人々の歌う歌声に、柔らかなテノールの歌声で調和している。

    七 マクドナルド 渋谷センター街


     教会を出ると、時刻は四時近くになっていた。
    「腹が減ったからマックに行こうぜ」と九井が言い、二人はブラック・フォーマル姿のまま、店に入り列に並んだ。
     青宗はビッグマックのセットを注文し、ポテトとコーラをLサイズに変更した。九井はビッグマックのセットに、チーズバーガー、ナゲット、アップルパイを単品で追加していた。
     騒がしい店内を縫ってようやく席を見つけ、汚れたテーブルを片付けてトレイを置いた。コートとジャケットを椅子の背にかけて座ると、ビッグマックの包み紙を剥いてかぶりついた。
    「イヌピー、これからどうする?」
    「黒龍のことか」
    「そう」
     青宗はしばらく無言で食べ続けた。脳裏には先ほどの光景がよぎっていた。
     九井は葬儀が終わった後、制服を着た高等部の学生に話しかけられていた。
     柴とはクラスが違うのに来てたんだな。意外がる若者の言葉に、九井は「まあな」と答えて、そのまま談笑していた。裕福な両親を持ち、私立高校に通う、若者同士の会話。その姿を、青宗は九井から離れて見ていた。
     青宗が今まで付き合ってきた人間たちとは、育ちから違う人々。
     目を伏せて讃美歌を歌う、九井の横顔。
     柴大寿の死。
    「……潮時なのかもしれねぇ」
    「どうしてそう思う?」 
    「これ以上、ココを俺に付き合わせられない」
    「そんなこと思ってるのか」
     青宗は九井の顔を見た。九井がハンバーガーを手に、青宗の目を見つめて言った。
    「そう思ってるなら、そうでもないぜって言っておく」
     青宗は思った。ココは優しい。でも黒龍は行き止まりだ。
    「死んだヤツの後を継ぎたい人間なんていねぇだろ。ボスの死に東京卍會が噛んでるならなおさらだ」
    「心配なのはそれだけか」
    「ボスのアテはねぇ。ボスがいないなら黒龍は消える。次のボスを立てたとしても、東京卍會は今度こそ黒龍を潰しにかかるだろ。勝てる見込みはねぇ。負けたら黒龍は消える。八方塞がりだ」
     九井がチーズバーガーに取り掛かった。「それじゃあ、イヌピーはゾクを引退して一般人に戻る?」
     青宗は、食べ終えたビッグマックの包み紙を片手で丸めながら考える。
     九井と二人で使っているアジトに、かつてあった光景。
     大人っぽいセンスで統一された内装の店内に、キラキラと輝くバイクがズラリと並んでいる。その奥でバイクを修理する、あの人。
    「バイクいじるのは好きだけど、真一郎君みたいに店をやれるわけじゃねぇしな」
     九井は青宗の呟きが聞こえなかったように、黙ってチーズバーガーを食べている。

     ポテトを食べ終えた青宗に、九井が尋ねた。
    「進学は?」
    「しない」
    「即答かよ」
     九井が苦笑した。
    「つまり、アテはないんだな」
     九井がナゲットの箱の蓋を開け、テーブルの中央に置いた。
    「実は、東卍の稀咲から連絡があった。俺たちと会って話がしたいらしい」
     青宗はナゲットを指でつまみ、食べながら首をかしげた。
    「変じゃねぇか。ゾク同士は仲良く話し合いなんてしねぇ。それに俺たちのクビを取りたいなら襲撃すればいい」
    「それについて考えてみたが、稀咲には俺たちを害する理由がない」
    「じゃあ、なんだ」
    「話があるというのは、俺たちと交渉したいということだ。何を言ってくるかは、大体想像がつく。十中八九、黒龍を東卍に併合するための誘いだろう」
    「アイツらの下につけって話か?冗談でもゴメンだ」
     九井がアップルパイを半分に割って、青宗に手渡した。
    「そこは頭の使いようだ。俺としては、八戒に大寿の後を継がせるのがいいんじゃないかと思ってる。十一代目黒龍ってことで、東卍の隊長にネジ込みやすい。俺たちは稀咲たちと同格になった上で、東卍内で立場を強くしていけばいい」
     青宗はアップルパイを食べながら、大寿に一方的に殴られていた柴八戒の姿を思い返した。
    「あんな弱虫に黒龍の総長が勤まるとは思えねぇな」
     九井が愉快そうに笑った。
    「肝が座ってるのは、どう考えても八戒じゃなくてアネキの方だよな。だから俺たちは、柴柚葉から弟の八戒を説得してもらうことにしよう」


    八 鍋島松濤公園

     道玄坂の緩やかな傾斜の坂の先に、鍋島松濤公園がある。
     閑静な公園には、小規模なアスレチック付きの滑り台が二つとブランコがあったが、時間帯を反映してか人影は無かった。
     青宗は子どものとき以来の遊具にのぼり、少しだけ高くなった視界で公園を見渡した。短い滑り台を滑りおりてみる。またのぼり、滑ることを繰り返した。
     九井は白い息を吐きながら、公園の入り口を見ていた。
     公園の前の歩道から小柄な人影が現れ、用心深く公園内の様子をうかがっていたが、柚葉は青宗と九井の姿を見とめると公園の中に歩いてきた。
     青宗は遊具の上から柚葉の服装を眺め下ろして思った。コイツは、寒さってものを全然感じないのか?
    「来てやったけど、一体何なの」
     九井が形式的な労りの言葉を口にした。「今日はお疲れ様。葬儀後の、八戒の様子はどうだ?」
     柚葉がにべもなく言った。「そんなの、アンタたちに関係ない」
     心の内を吐き捨てるように、強い口調で言った。
    「暴走族とも、アンタたちとも、もう関わりたくない」
    「それなら、オマエは、東卍の人間に関わるべきじゃなかったな」
     言い返せずに黙った柚葉にかまわず、九井は言葉の刃を突きつけた。
    「より正確に言えば、利用される隙を作るべきじゃなかった。八戒が元々東卍の人間だったからといって、稀咲たちが親切心で大寿をヤッたと思ってるのか?オマエと八戒は、これからアイツらに骨までしゃぶられるぞ」
     柚葉は虚を突かれた顔をした。
    「よく考えてみろ。稀咲と半間は、なぜ大寿を殺したんだ?それになぜオマエたちを巻き込んだのか。そしてどうしてありもしない抗争をでっち上げてまで、他のチームの人間を警察に出頭させたのか」
    「考えてるけど分からないんだよ…」
     九井は静かに言った。
    「稀咲と半間が大寿を殺したのは、大寿が邪魔だったからだ。大寿の性格から言って、黒龍が東卍とぶつかるのは時間の問題だった。抗争になれば、どちらも損害が出るのは避けられない。それを効率的に回避する方法が一つあるよな。大寿が死ぬことだ」
     柚葉が、驚愕の表情で九井の顔を見上げた。九井は諭すように言葉を重ねた。
    「普通はガキの遊びで人を殺したりしない。でもアイツらはそれをやった。アイツらにとっては、これはガキの遊びじゃないってことだ」
     柚葉が九井に食い下がった。「どうしてアタシと八戒が巻き込まれなきゃならないんだ」
    「警察に出頭した人間は、黒龍でも東京卍會でもない、別のチームのヤツだ。事実として、ソイツは大寿を殺していない。それでもソイツがやったと警察に言ったのは、稀咲と半間に弱味を握られていて、脅されて出頭を強要されたんだろう。今のオマエたちの状況はどうだ?ちょうどソイツと同じように、稀咲と半間に弱味を握られている。オマエたちが骨までしゃぶられると言うのは、そういう意味だ」
     柚葉が目を潤ませ、震え声で言った。「じゃあ、警察に行って、全部話す。本当はそうするつもりだったんだ」
    「今更オマエが出頭できると思うか?半間の名前を出しても出さなくても、警察に行った時点で、オマエの代わりに八戒が報復を受けることになるぞ。アイツらにとって、これは遊びじゃない。それに警察は、起きてしまった過去のことしか対応しない。オマエたちの人生はこれからも続く。警察がこれからのオマエたちのために、何かをしてくれるわけじゃない」
     耐えかねたように、柚葉は泣き出した。
    「どうしよう。どうすればいい?本当はもうずっと辛いんだ。大寿を愛していたのに、大寿は、もうどこにもいない。大寿に会いたい」
     九井が驚いたように目を見開いた。そしてはじめて見るような目で、柚葉をじっと見つめた。
     少しの沈黙のあと九井は一言一言、ゆっくりと言った。
    「オマエたちはオマエたち自身のために、闘っていくしかないんだ。誰かに助けてもらうことを、期待するな。そして、誰も信用するな。そうすれば誰からも裏切られない。信頼する人間は、この世に一人いればいい。オマエにはまだ八戒がいる」
     柚葉は九井の目を見つめ、やがて頷いた。
    「いいように利用されるのは、オマエたちが弱い人間だからだ。強い力を持てば、誰が相手であっても、対抗できる。だから、力ある人間になることを目指せ。これから俺たちは黒龍と東卍の、併合の話をまとめるつもりだ。八戒を十一代目黒龍総長として立てて、東卍に隊長格のポジションを要求する。それでいいか」
    「八戒と話をしてみる。あの子の考えも聞かなきゃならないから」
     公園から歩み去る柚葉の後ろ姿を、青宗は眺めた。「八戒は話を飲むかな」
    「五分五分というところだろうな。稀咲たちとの約束までは、まだ時間がある。どこか入って待とう」

     道玄坂のフルーツパーラーで、二人がパフェを食べ終えた頃、柚葉から連絡が入った。
     九井はコーヒーを片手に携帯を確認し、九井の様子を注視する青宗の顔を見て、満足気に微笑んだ。
    「八戒が了承した。これで、稀咲たちと交渉する。ゆくゆくは、俺たちで、東卍を乗っ取ってやろう」
     

    九 カラオケの鉄人 道玄坂

     青宗と九井が「カラオケの鉄人」に入ると、黒い特攻服を着た男二人が個室で待っていた。
     稀咲鉄太と半間修二がソファに座ったまま名前を名乗ると、九井が口先だけで招待への感謝を述べ、対面のソファに座った。青宗は九井の隣りに腰を下ろした。
     稀咲がニコリともせずに言った。「黒龍は、東京卍會の傘下に入る気はあるのか」
     青宗は喉奥で唸った。「ああ?」
     稀咲が淡々と続けた。
    「東卍と黒龍で決闘してやってもいいが、結果は分かりきっている。こちらとしては手間を省いてやってるつもりだ」
     青宗は膝の上で、拳を握りしめた。
    「礼儀がなってねぇな。オマエ、今日、誰の葬式があったか知ってるのか」
     稀咲が青宗と九井の、黒一色の服装を見やった。「柴大寿だろ。それがどうかしたのか」
     青宗は気色ばんで立ち上がった。
    「黒龍を舐めるのも大概にしろよッ」
    「なんで黒龍との話をまとめるのに、東卍から"マイキー"が来てないんだ。総長は佐野万次郎だろ」
     九井がソファに座ったまま、のんびり言うと、稀咲は押し黙った。
     九井が青宗に対し、自分の隣りを指差した。青宗は大人しくソファに座り直した。稀咲と半間の二人を親指で指差して、九井は青宗に尋ねた。
    「コイツらのポジションは何だ?」
    「三番隊隊長と副隊長」
     九井は頷いた。
    「つまりオマエらは総長代理でも無い、単なる東卍の一部隊長と副隊長に過ぎないわけだ。まさか俺たち黒龍がオマエら三番隊の下につくとは、思ってねぇよな。この場にオマエら二人しかいないのは俺たちと交渉の幅を広く持ち、有意義な話し合いにするためという理解でいいか?」
     半間がローテーブルの灰皿を手元に引き寄せ、タバコに火をつけた。漂う煙の中で稀咲が言った。「かまわない」
     九井は口元を歪めて笑みを浮かべた。
    「手始めに東京卍會のシノギを教えてもらおうか」

     喧嘩賭博。週一での開催。一日当たりの平均マッチ数は七、八回。賭博の参加者は一マッチ当たり十人から二十人程度。客単価五百円から千円。その他、カツアゲ、ユスリからのアガリが少々。
     九井が「もういい」と稀咲に対してジェスチャーで示し、ウンザリという様子で天を仰いだ。
    「東卍は、マジで、カネになんねぇ」
     青宗は応えた。「基本は走り屋だからな」
    「シノギをやるのにガキのサイフを収益源にしている時点で、頭が付いてるとは思えねぇな。賭博のマーケットシェアは、ほぼゼロだ。在籍数が関東トップの暴走族なんだろ?ゴキブリでもカネに変えてみせるくらいの知恵を働かせろよ」
     稀咲が九井に短く質問した。
    「黒龍のシノギの金額は?」
    「比較する気にもならねぇな」
    「東卍で同じシノギをやることも出来る」
    「無理だ」
     青宗は一言で提案を切り捨てると、青宗の方を向いた稀咲を半眼で見やった。
    「あのシノギは柴大寿の特別仕様だ。他の人間には出来ない」
     九井が馬鹿にしたように笑った。
    「割引現在価値って考え方、知ってるか?オマエらがどういう将来計画を持っているかは知らねぇが、今のシノギの金額がオマエらの価値だ。オマエらが殺した柴大寿は、オマエらよりもはるかに価値のある人間だったんだよ」
     半間がソファを蹴りローテーブルを踏み越え腕を伸ばして九井の首を絞めようとしたとき、青宗はすでに九井の前に体を割り込ませていた。
     九井は眼前で半間に首を締め上げられる青宗を見て、低く凄んだ。
    「おい。なんだコレは」
    「半間、ヤメろ」
     半間が稀咲の言葉に従い、後ろに下がった。
     手を離された青宗は首を押さえ、剣呑な表情で半間を睨み上げた。
     九井は半間に向かって四本指を見せ、芝居がかったように舌を出してみせた。
    「半間。仮にオマエがこの場に四千万用意できたら、俺はオマエの前に這いつくばって、オマエの靴を舐めてやる。だが用意できないのなら、オマエは無価値で、ゴミ同然だ。甲斐性無しの男として身の程をわきまえな」
     青宗は半間に大声でガナリ立てた。「次ココを狙ったら、地獄まで追いかけてでも、オマエを殺してやる」
     半間がヘラヘラしながら言った。「オマエらの関係って一体何?」
     九井は鼻で笑った。「その質問、意味あるのか?」
    「半間、時間を無駄にするな」稀咲は無表情だった。そして九井に「俺たちの交渉の落とし所は」と言った。
    「シノギの方法は俺の方で考えてやる。その場合はアドバイザリー料として、稼ぎの四割をよこせ。俺が東卍の看板を使ってシノギをする場合は、看板料として俺から三割払う。問題はあるか?」
    「問題無い」
    「当たり前だが黒龍は、他の部隊長の下についたりはしない。それと幹部のポジションは、三つよこせ」
     半間が横から口を挟んだ。「オマエらには二つで十分だろ」
     九井が薄く笑った。
    「あいにく黒龍には総長がいるんでな。十一代目総長の柴八戒だ。"ボス"は今日、"家族"の葬式で、話し合いには不参加だ」
     半間がわずかに頭を動かして、稀咲を見た。稀咲は半間と視線を交らせた。二人の間で、何らかの意思の確認がなされる。
     何事もなかったように装った稀咲が応えた。「それも、問題ない」
    「交渉成立だ。追って連絡する」
     青宗と九井はコートを手に立ち上がった。


    十 宇田川キリスト教会

     九井がまっすぐ渋谷駅に向かおうとするのを、青宗は引き止めた。
    「ココ、今から教会に行ってみないか」
     九井は少し驚いたような表情をしたが、青宗の提案にすぐに応えた。
    「いいぜ。ここから近いしな」
     二人は暗がりの中に伸びる道を歩いた。街灯がまばらになり辺りは暗闇に塗り潰され、互いの姿も目を凝らさないと見えなくなっていった。
     暗闇の中、地面を蹴る靴の音とそれぞれの呼吸音が、規則正しくリズムを刻んでいた。
     青宗は、暗闇に向かって言った。
     --大寿は死んで、どこに行ったんだろう。
     暗闇の中から、応えが返ってくる。
     --キリスト教ならキリスト教の天国だし、仏教なら極楽だ。イスラム教、ユダヤ教、道教その他はそれぞれの天国。そういうことになってる。
     --それだけ天国が多いなら、到着したら、別の天国だったってこともありそうだよな。交通案内するヤツがいないと、道を間違えそうだ。
     --そうだよな。でも、そういう設定も、多分作られてるはずだ。結局、生きてる人間が全部作ったものだから。
     --じゃあ、死んだら人間は、どこに行くんだ?
     --生きている人間には、知りようもないことだ。そして、死んで、帰って来た者はいない。
     宇田川キリスト教会の門灯が、二人を照らし出した。九井が青宗を見て言った。「だから、大寿が、どこに行ったのかは分からない」
     雪がかすかに降り始めていた。九井が暗い空を見上げて呟く。寒いわけだな。

     時間は深夜に近く、教会には誰もいなかった。二人は教会内を我が物顔で闊歩し、好きなように調度品を眺めまわした。
     青宗は祭壇に歩み寄り、柴大寿が信じたものの形を見て、柴大寿という人間を理解しようとした。
     蝋燭と燭台から、ロウの溶けて流れた様子とススの汚れを見とり、ステンドグラスのガラスが何色あるかを数え、十字架に打ち付けられて不幸そうな表情の男を見上げた。
    「十字架って、そもそも何なんだ?」
     九井が「処刑道具だよ」と答えた。
    「コイツは二千年前に死刑判決を受けた男だ。処刑方法は磔刑、つまりハリツケで、十字の形をした木材に手足を釘で打って死ぬまで野ざらしにする。伝わるところによれば、コイツは処刑場の丘をのぼるときに、自分の処刑道具だった十字架を背負わされて運ばされたらしい」
    「自分が埋められる穴を、自分で掘らされたみたいな話だよな」
    「死ぬ前であっても精神的に拷問したい場合はどうやったらいいのか、二千年後の俺たちとしても学びがいがある話だ」
     青宗は、大寿のタトゥーを思い出していた。
    「大寿が胸とかじゃなくて、背中に十字架を入れていたのも、何か意味があったのか?」
     九井が、最前列の信者席に腰をおろした。
    「意味はあったのかもしれない。ただ大寿に聞かないと分からないことだし、俺は学校では大寿と話さなかった。だから分からない」
     九井が祭壇の前に立つ青宗を見上げ、目を細めて言った。
    「イヌピー、自分に近い人間が死ぬと、体に穴が空いたみたいな感じにならないか」
     青宗は九井を見て黙って耳を傾けた。
    「俺は大寿とは別に仲良くなかったし、むしろ、親しくならないように気をつけてた。それでも、ちょっと穴が空いたような気がする」
     青宗は祭壇の前からおりると、信者席の九井の左隣に座った。九井は青宗を見つめて、静かに言った。
    「失ったのが自分にとって大事な人間であるほど、心臓に近い部分に穴が空くんだ。だから俺は、あのときから、心臓のところに穴が空いていて、ずっと血が流れているような気がしてる」
     青宗は腕を伸ばして、九井の胸の心臓のあたりを、手のひらで押さえた。
     九井が息を飲む。息をゆっくり吐き出し、青宗の手の上に左手を重ねた。
     青宗は九井の左肩に、頭をもたらせた。
    「ココ、俺は自分の体の奥に、空っぽがある気がするんだ。木のウロみたいなヤツ。そこが冷たい風が吹いてるみたいに、スースーする」
     九井は、黙って青宗の話を聞いている。
    「自分でも、なんでこんなにキレやすいのか分からねぇ。さっきもキレちまった。イラッとすると、空っぽが嵐みたいになって、ちょっとしたことで爆発してしまうんだ」
     九井が青宗を慰撫するように、青宗の頭に頬を寄せる。
     信者席で二人は手を繋いだまま寄り添い、もたれあう。
     教会の中は冷え切っており、青宗は、まるで世界に二人だけでいるような気持ちになる。
     外では雪が静かに降り続いている。



       
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