ジャスト・キッズ 青宗がココに連れられて初めて柴の家を訪れたとき、その豪邸ぶりに驚いたものだった。セキュリティと監視カメラで警護された家で、金属製の柵付きの車庫には青宗のバイクとは桁の違う高級車がズラリと並んでいた。
新しいボスは今までのボスとは全然違う。堅牢な門を通りながらそう思うと同時に、青宗は自分の望む黒龍復活に、なぜ大寿が乗り出したのか不思議に感じたことを覚えていた。
青宗は今日、その家に一人で用事に来ていた。多忙を極めるココに対し、青宗は柚葉と八戒に対する言伝を買って出たのだった。
用事の済んだ後、柚葉が新しいフレーバーティーがあるから飲んでいくようにと青宗に言った。
八戒がさっそく文句をつけていた。「えぇー、オレ、ファンタがいい」
「ウルっさいな。準備するのはアタシなんだから文句言わないの」
「砂糖は二個つけて欲しいし、お菓子も欲しいなぁ」
柚葉がキッチンから八戒に「ちょっとアンタ、こっちに来て手伝いなさい」と呼びかけた。
リビングのソファにいた八戒は青宗に、「花の匂いのするものなんて飲んで、何が楽しいんだろうな?」と言い、目玉をぐるっと回してみせた。
青宗も同意見だったがキッチンに視線を向けて少し口角を上げるのに留めておいた。早く行ってやれよ、怒られるぞ。
八戒がキッチンで「何か美味しいのはないの?」「オレ、昔使った青い模様のカップがいい」とか言う度に、柚葉は「買ってないのにあるわけなくない?」「アンタそこ探してみてよ」と応え、八戒はそれに「エー」と楽しそうに文句を言っていた。
知らず知らずのうちに、青宗は柚葉と八戒がしゃべっている姿に見入っていた。
過去の記憶がよみがえっていた。
同じようにワガママを言った子どもの青宗と、青宗に微笑みかけた姉とが、一緒にそこに立っていた。
一瞬のような永遠のようなその光景。心の引き寄せられるような。
何気なかったはずの情景。
あの頃、姉が自分に優しいのは当たり前だと思っていた。
家族が一緒に暮らすことに、疑問の持ちようはなかった。
青宗は、柚葉と八戒が見つけ出した細くて折れそうな持ち手のカップで、花の香りのするお茶を飲んだ。
八戒は早々に飲み終えると、スウェットの格好でダラダラしていた。「買い物にでも行こうかな」
青宗が「バイクで送ってやるよ」と八戒に申し出ると、八戒は「やった、着がえてくる」とソファからはね起きてリビングを出て行った。
青宗は再度キッチンを見た。
誰もいなくても、そこには幻影の残り香があった。青宗はため息のように呟いていた。
家があって、兄弟がいて。一緒に暮らせていいな…。
***
柚葉は乾の言葉を聞いて少しだけ警戒した。
柚葉には家に連れて来て一緒に遊んだ子から陰口を言われた経験があった。すごい家だけど、どうのこうの。そのとき感じた苦い気持ち。
でも今、乾が羨ましがっているのは、大きな家についてではないようだった。
柚葉は乾が柚葉と八戒とのやり取りを見ていることがあるのに気づいていた。羨ましいのはそれなのかもしれなかった。だから尋ねた。
「乾って兄弟はいるの?」
応えるつもりがないのかと思うくらいの間、乾は黙り込んでいた。
それからようやく「家族はもういないんだ」と小さな声で言った。「バラバラなんだ」
柚葉が乾から家族の話を聞くのは、これが初めてだった。
気に入らない人間を半眼でにらみ上げ、そうしなくなった人に対してもそっけない態度を取り、九井以外の者とはほとんどしゃべらないのが乾だった。
だからこうやって乾が私的な話をしていることに、柚葉は少し驚いていた。向かい合っている乾は八戒よりも素直といっていいくらいだった。
「九井との付き合いは長いんでしょ」
乾はうなずいた。
「アタシにはそういう友達はいない。っていうか友達自体、あんまりいない」
柚葉は眉間にシワを寄せた。
「あんまりっていうか、全然っていうか。いいんだけど、別に。八戒がいるし。八戒と遊んだ方が楽しいもん」
唇が自然にへの字の形になった。「なんかイエのことって、隠していても分かるみたいで」
「うん」
「ウチはフツーじゃないって言われる。それもわざわざみんなの前で言うんだ。友達だと思ってた子があばき立てるみたいに。そう言われたくないから隠してるのに」
そのときを思い出して柚葉はちょっと怒った。「そもそもフツーの家って何?そうじゃないなら資格がないっていうの?だったら友達なんていらない」
自分で言った言葉にも関わらず柚葉は悲しくなった。
「だって普通なんて分かんないよ」と、そう言ってうつむいた。
みんな、自分と違うヤツは分かるみたいだな。
乾はそう言うと窓の方を向いてしばらく黙っていた。一見すると、ただ窓の外の景色を眺めているかのように見えた。だがそうではなく、何かを考えているようだった。
ようやく乾は口を開いた。
「オレも昔は友達もいたはずだし、知り合った人たちもいたんだけど、今はもう皆いなくなってる」
乾は景色から目を離すと言った。
「だからオレにはココしかいないんだ。ココはオレの全部だよ」
乾は呟いた。
「ココだけが当たり前みたいにオレと一緒にいてくれる。家族ですら、当たり前のものなんかじゃないのにな」
***
九井は学校の帰りに柴の家に寄っていた。データ分析のための基礎的な数学を説明するためだった。八戒は数字に根を上げて早々に自分の部屋へ逃げており、柚葉だけが勉強を続けていた。
コーヒーブレイクの雑談の中で、柚葉が九井に質問した。「乾って兄弟はいないの?」
九井は怪訝な表情をした。「イヌピーから何か聞いたのか?」
柚葉が応えた。
「家族はもういないって。バラバラだって言ってた」
九井は柚葉から顔を背けるようにしてうつむいた。
「イヌピーには姉さんがいたんだよ。でも………」
柚葉が「九井?」と声をかけた。
九井は凍りついたように固まったままだった。
しばらくしてから九井は「ゴメン、帰るわ。用事があるのを忘れてた」と言って立ち上がった。
何事もなかったかのように。平然とした顔を保って。
道を歩く途中で、こらえられないものが出てきた。
美術館の前にバスが来ていたので行き先を見ずに乗り、つり革につかまって立った。バスは右に曲がり、トンネルを抜けて山手通りを走った。そのうち人が降りて車内が空いてきたので後方の座席に一人で座った。
コントロールできない涙が九井の頬を流れていた。
他人には間が抜けて見えることだろうな。すでに凪いだ感情の中で、九井はそう思った。
九井は自分のこの反応と感情について考えてみたことがあった。
悲しいわけではなかった。
じゃあ自分をあわれんでいるのかといえば、そういう訳でもなかった。
それでもこういう時、必ずこうなってしまうのだった。
窓の外の景色がにじんで見えたので九井は窓ガラスにもたれかかり、うつむいて目を閉じた。
九井は自分が冷静ではなくなるときを知っていた。
それは常に、事実が心を突き刺すときだった。
好きな人が死んだこと。
その人にしてあげられたはずのことがあったこと。
実際はその人のために何一つできなかったこと。
のぞみは叶わないこと。
死者は帰ってこないこと。
自分が間に合わなかったこと。
それらのことについて、九井一が無力であるという事実。