大人になったイルアズが人間界で食べ歩く話(牛丼)冷え冷えとしたアスファルトの道を行く。
コンクリート製の整然とした街並みは、自由な曲線を描く魔界の建物と違って、ひどく無機質に見えた。
生まれた世界を眺めておきたい、と思ったのは本当だけれど、隣を歩んでくれる恋人がーーアズくんがいなかったら、すぐにとって返してしまったかもしれない。
ふわ、と鼻先に香りが届いた。
玉ねぎと、牛肉。甘辛く煮られたそれの、あたたかで、胃をぎゅうっと握るような香りだ。
思わず足を止めると、アズくんが身を屈めて、僕の顔を覗き込む。無彩色の街を背景に、認識阻害グラス越しの紅はきらきらと眩い。大丈夫、アズくんがいれば、僕は大丈夫。
「……あのね、僕。あまり町に行かないようにしてたんだ」
知らない人について行かないようにって言い含められていたのは、今思うと、僕のためじゃなくて、警察や良識ある大人に見咎められないようにってことだったのかもしれないけれど。
「はい」
「ぼろぼろの服ってちょっと浮いちゃうし、それに……こういう匂いを嗅ぐと、お腹空いちゃうでしょ?」
お腹が空くばっかりで、食べられる訳じゃないし。
そう続けると、アズくんの綺麗な眉毛がくしゃりと歪んだ。ああ、優しいアズくん。君を困らせたくなんかないのに、僕はもう大丈夫なのに。
僕はこのお腹が空く匂いだけしか知らない。どんな味がするんだろうと夢見たまま、実際に食べる前に魔界に売り飛ばされてしまった。まあ、その魔界ではたんまりと美味しいご飯を、ゆっくり食べることができるようになったんだけれど。ごはんも、家族も、友達もーー全部、夢に見たこともなかった。
思わずつま先を見つめたら、手持ち無沙汰だった指先を、アズくんがそうっと包んでくれた。いつもわずかにひんやりとした彼の手が、あたたかい。知らない間に、すっかり冷えていたらしい。
「入間様、すべて、体験しましょう」
きらきらと、アズくんの瞳が光っている。
「私は恥ずかしながらーー今の今まで、人間界があなたにとって、魅力のないところであればいいと考えていました。悩むことなく、私たちをーー魔界を選んでいただけるに越したことはないと」
「アズくん」
迷うことなんて、ないよ。僕は魔界に行って、一年も経たないうちに、魔界で生きてやるって決めたんだ。とっくに選んでいるんだよ。アズくんやクララ、おじいちゃんやオペラさんーー魔界で出会ったみんなと天秤に乗るようなものなんて、人間界には一つだってありやしないんだ。
「けれど、それは私のエゴでした。入間様、人間界の、心残りを全部、素晴らしいものを全部、このアズと体験いたしましょう。美食も、娯楽も、技術もーー必ず、どれだけ時間をかけたとしても、超えてご覧に入れます。私一人で成せぬことでも、私たちには優秀な仲間がおります」
ぎゅっと白くしなやかな手に力が籠る。アズくんの体温にあたためられた血が、僕の身体を巡っている。
「必ず、魔界(わたしたち)を選んでいただけるように、努力いたしますーーですから、入間様。この甘辛い香りの正体を、味わってみようではありませんか」
真剣な顔を、パッと微笑みに変えて、アズくんが言う。魔界中を魅了してやまない、当代色頭の笑顔は空腹を忘れさせてくれたけれど、僕は彼の提案に、一も二もなく頷いた。
何もかものスケールが大きい魔界に比べると、人間界のーー日本の建物は、どれもミニチュアじみて見える。それが食券機とカウンター、あとは人間一人がギリギリ通れるだけの通路しかない店舗なら尚更だ。
生まれながらの貴族で、お城のような自宅を持つアズくんは、ガラスの自動ドアをくぐっても視界が広がらないことに、目を瞬かせている。
(入間様、この店はテイクアウト専門なのですか?)
(持ち帰りもできるけど、そこの丸い椅子に座って食べるんだよ)
(……人間は皆、随分小柄なのですね)
確かに。アズくんは、魔界では決して大柄じゃないけれど、在学中にもすくすくと伸びて今や一九〇近い長身は、日本なら巨人と言える部類だ。ーーサブノックくんぐらいの体格なら、眼鏡じゃもうどうにもならないだろう。やっぱり、僕の感覚も魔界寄りになってるな。嬉しい。
食券機の前で、壁に貼られたメニューを眺める。「牛丼」しか知らなかったけれど、今は随分いろいろなバリエーションがあるらしい。
「……僕は牛丼の大盛にするけど、アズくんはどれにする?」
「食べておきたいメニューはありますか?」
「大丈夫」
「では、私は同じもののMサイズで」
幾らかのお金と引き換えに出てきた小さな紙片を、店員さんに渡して、席につく。お店の中は、ずっとあの甘辛い匂いが満ちているけれど、あの頃のような切実な欲は僕の中にない。ーーいっそ不思議なくらいだった。
きょろきょろと店内の様子を眺めているうちに、黒いお盆に乗った牛丼セットが供される。
鮮やかな陶のどんぶりと、黒いお椀、漬物。目の前のごはんにきゅう、とお腹が鳴って、ああやっぱりお腹は空いているんだなと思う。空腹がちっとも怖くないなんて。
「いただきます」
「いただきます」
ぽんと手を合わせて、黒いプラスチックの箸を取る。ちらほらとワカメの漂う味噌汁をすすると、なんだか懐かしいような気になった。出汁入りの味噌なんて高級なもの、使ったことない筈なのに。
さて。
奇妙な緊張と共に、どんぶりを手に取って、薄茶色に煮込まれたひらひらの牛肉と玉ねぎ、ごはんを口に運ぶ。
甘辛く、しっかりと味のついたお肉と柔らかな玉ねぎがごはんとふんわり混ざり合ってーー気付いたら、飲み込んでいた。
(ああ、よかった)
美味しい、けど、オペラさんの料理の方が、アズくんとクララのお弁当の方が、魔界のごはんの方が、ずっとずっと美味しい。
知らず知らず詰めていた息を、ほうと吐く。
あの頃の僕なら、感動して、泣いて喜んだだろう。でも、今の僕は、魔牛のとろける脂の味も、愛情のこもった手作りの味も知っている。たとえ同じ材料を使ったって、アズくんが作ってくれた方が美味しいに決まってる。
そう腑に落ちたら、急に食欲が湧いてーーあっという間に、お盆の上は空っぽになっていた。隣ではアズくんが、一口ひと口、行儀良く牛丼を咀嚼している。こくんと口の中を空にしてから、彼が言う。
「入間様、お代わりをなさいますか?」
「ううん。満足したから、大丈夫。アズくんはゆっくり食べて」
「ありがとうございます」
アズくんは、お箸の使い方も綺麗だ。僕は憧れていた筈のお店の中で、もくもくと食事をする恋人ばかりを見ていた。
「美味しゅうございました」
「うん、でもね、僕。魔界で食べたごはんの方がずっと美味しいってわかっちゃった」
「それは……嬉しいです」
「僕も、すごく嬉しい」
あたたかなお店を出て、寒々としたインターロッキングの道を行く。二人並ぶともう道幅はいっぱいだけれど、ぴとりと身を寄せ合うのはやめられなかった。別にもう、寒くはないんだけれど。
「ギュウドンやスープに使われていた調味料は、町中で買えるのでしょうか?」
「普通に売ってると思うけど……気に入ったの?」
「ええ。どれも初めて味わうものだったので……研究がてら、入間様の故郷の味を再現しようかと」
きらきらと目を輝かせ、拳を握るアズくんは学生の頃から変わらない。僕のために何かをしようと考えている顔をしていた。ああ、もう、可愛いんだから。
「う〜ん、せっかくなら、再現よりアズくん風のアレンジがいいなあ」
「よろしいんですか?」
「もちろん! じゃあ、買い物して帰ろうか。魔界に」
「……はい!」
「お砂糖はあるから、醤油と、お味噌と……」
ぎゅっと恋人の手を握って、スーパーに向かうことにした。ああ、予算より先に買いたいものを数えるのだって、ここでは初めてかもしれない。そうだ、お土産だって買わなきゃ。なんだかすっかり楽しくなって、僕はわずかにひんやりとしたアズくんの手をコートのポケットに隠した。